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「聖書の中の科学(1)」 2015年4月27日インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2014年5月14日放映「イエスを仰ぎ見なさい(1)」 「聖書の中の科学(1)」 甲斐慎一郎 聖書は、人の探究ではわからない神と神に関する究極の真理を、神のほうから私たちに明らかに教え示しています。これが「神の啓示」です。聖書に「神の啓示」が記されていることは、今から二千年も三千年も前に記された聖書の言葉が、二千年後、三千年後にやっと解明された科学的な事実が記されていることによって証明することができます。 「聖書は科学的に正確ですが、それは聖書が神の意思(神学的には霊感という)を受けて特別に書かれた書物であることの証拠のひとつであって、非常に驚かされることです。 何千年もの間、聖書に記されていながら、近年、初めて正しく評価されるようになった科学的事実がたくさんあります。それらの記述は、もちろん現代科学の専門用語で表現されてはいませんが、それにもかかわらず、的確ですばらしい描写がなされています。 一、天文学 多くの天文学者たちが星の数を数えました。プトレマイオスは、1,056個を数え、ティコ・ブラーエは、777個の星を一覧表に表し、ヨハネス・ケプラーは1,005個を数えました。地球上のあらゆる地点から肉眼で見える星の総数は、4,000個程度でしょう。 それにもかかわらず、聖書は、「天の万象(天体の数)が数えきれず」(エレミヤ33章22節)と記しています。また「海辺の砂」の数が「空の星」の数に匹敵する(創世記22章17節)ことも伝えています。望遠鏡が発明されるまでは、これが聖書における重大な科学的誤りと見なされてきたことでしょう。しかし今では、それは超自然的な科学的洞察であったと認めないわけにはいきません。今日、天文学者は少なくとも10の26乗(百×一億×一億×一億)個の星があると推定しますが、これは地球上の砂粒の数に匹敵します。 また、聖書には「個々の星によって栄光が違います」(第一コリント15章41節)とあります。この記述も、かつては誤りと思われていたことでしょう。それは望遠鏡を通してでさえ、太陽を除くすべての星はまるでただの光の点にしか見えなかったからです。今ではもちろん、さまざまな種類の星があり、全く同じ星など存在しないことがわかっています。 二、地球物理学 科学者や教師たちがみな、地球は平坦であると信じていた時代から、まだ数世紀しか経っていません。聖書は、地球は球形だと述べているので、当時の知識人にしてみれば聖書がまるで非科学的に見えたでしょう。イザヤは神について「主は地の円(the circle of the earth)の上に住まわれる」(40章22節)と述べています。ここで「円」と訳された言葉はヘブル語の「khug(フッグ)」で、より厳密な意味は「丸」です。この言葉は箴言8章27節では「深淵の面に円を描かれ」とも訳されており、神が海を創造されたとき、海洋の表面(平均海面)を球面にされたことに言及しています。 またヨブ記26章7節には、「神は……地を何もない上に掛けられる」とあります。これは聖書と20世紀科学の成果が一致した、もう一つの例です。地球が太陽と結ばれていることは、重力(引力)とよばれる力で説明されていますが、誰も重力が何であって、なぜ働くのかを知らないので、この結びつきを説明できたとはいえません。このような不可思議な「遠隔作用」が、どのようにして1億5千万キロメートルも離れた地球と太陽を結びつけ続けられるのか、その原因は全く未知のことなのです。そして「神は……地を何もない上に掛けられる」という聖書の説明以上によい説明はないのです。 三、水文学 水は人の生活に欠かせないので、水文学(水の科学)は、聖書の言葉と多くの関わりがあります。水文学で最も大切な基本原理は、驚くべき水の循環です。水蒸気は、凝結して雨や雪となって降ります。次いで地下水や川となって海へ流れ込みます。そこで水は蒸発して空に昇り、大気圏の大いなる風の循環によって、再び陸地へ運びもどされるのです。次回は2015年5月4日「聖書の中の科学(2)」です。 甲斐慎一郎の著書→説教集
2015.04.26
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「神の啓示と人の探求」 2015年4月20日 インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2014年5月6日放映「三つのさばき」 「神の啓示と人の探求」 甲斐慎一郎 使徒の働き、17章24~28節 「これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません」(27節)。 私たちは、神と宇宙、また人間と人生等々について自問自答し、真理を探り求めているのではないでしょうか。1.神は、ほんとうに存在するのか?2.天地は、どのようにして造られたのか?3.人間は、どのようにして生まれたのか?4.人は、どのように生きるべきなのか?5.人間は、死後どうなるのか? これらの質問を一つにまとめるなら、「真理とは何か」ということになるでしょう。この真理を知る方法については、全く正反対の二つの考え方があります。 一、人が真理を探究することについて 人が生きるためには、いわゆる「衣食住」が必要です。しかし、もし人が衣食住のためだけに生きているならば、他の動物と少しも変わりません。人の人たるゆえんは、「真理とは何か」、「人は、どのように生きるべきなのか」ということを考え、それを探究して生きるところにあるのではないでしょうか。このような人間の営みが、教育や科学であり、また倫理や道徳、そして哲学や宗教(異教)です。これらは、冒頭の図のように現実の世界から究極の真理に向かって限りなく近づく赤い矢印として表すことができます。 この「人が真理を探究する」営みというのは、非常に大切なものですが、「科学の教科書は絶えず書き変えられる」ということばに代表されるように、これは、究極の真理に到達するまでの「部分的な真理」であり、「絶対的な真理」ではないという限界のあるものであることを決して忘れてはならないのです。 二、神が真理を啓示されることについて これに対して聖書は、人の探究ではわからない神と神に関する究極の真理を、神のほうから私たちに明らかに教え示しています。これが「神の啓示」です。これは冒頭の図のように、究極の真理から現実の世界に向かっている青い矢印として表すことができます。 「人は、どのように生きるべきなのか」ということについては、究極の真理に到達するまでの部分的な真理を教える「人の探求」では間に合わず、絶対的な真理を教える「神の啓示」がどうしても必要ではないでしょうか。聖書こそ「神の啓示」の書です。それは、神が「究極の真理」を時間と空間を超越して、一足飛びに私たちに示されたものです。 ですから、天地の創造を初め、永遠の生命や復活また奇蹟等、人間の理性では考えられないような不思議なことが聖書に記されているのも当然ではないでしょうか。なぜなら「人が真理を探究する」という科学の発明でさえも、それが発明される前の人々には、全く不思議で信じられないものだからです。 たとえば、電話やテレビを全く知らない大昔の人々に対して私たちが、電話は地球の反対側に住んでいる人とも話をすることができるもので、テレビは彼らの姿をカラーで動く絵として見ることができるものであると説明しても、彼らは全く信じられないでしょう。 まして21世紀の科学の発明よりも、はるかに高度な「究極の真理」が時空を超越して一足飛びに啓示されるならば、それが信じられないようなことであるのも当然ではないでしょうか。聖書は、創世記の1章から、この「神の啓示」が記されているのです。次回は、2015年4月27日「聖書の中の科学(1)」です。 甲斐慎一郎の著書→説教集
2015.04.19
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「全人的な救い(2)」 2015年4月13日 インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2014年4月1日放映「三つの現実」 「全人的な救い(2)」 甲斐慎一郎 テサロニケ人への手紙、第一、5章23節 三、四つの世界に対する心構えについて 1.「知識」を最優先する考えを持つ「理科系の世界」に対する心構え 「理科系の世界」は「物づくり」ですから、「自然界の法則」を厳守し、その「法則」を駆使しなければ、「物づくり」はできません。もし「法則」に従わなかったり、「法則」を破ったりすれば、物をつくれないだけでなく、事故が起きたり、最悪の場合は、死に至ります。「自然界の法則」は極めて厳格であり、一つのミスも許されないからです。 たとえば自動車の衝突時に乗客を怪我や死から守るための「エア・バック」に不具合があれば、乗客を危険から守るどころか、怪我をしたり、死に至ったりします。これは、そのような法則を知っている人にも、知らない人にも臨むことを知らなければなりません。 2.「感情」を最優先する考えを持つ「文科系の世界」に対する心構え 「理科系の世界」は法則を厳守しなければならないので、「堅苦しく、不自由で」、「味も素っ気もない」ところがあります。それで「つくられた物」を五感(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)で感じた時に感動するような「雰囲気づくり」をするのが「文科系の世界」です。 しかし「分科系の世界」にも「法則」があり、五感で感じた時に感動するためには、「理科系の世界」が教える「知識」と「法則」と「技術」を習得することが必要です。 さらに「文科系の世界」は、基本的に善悪に関係のない世界ですが、雰囲気を盛り上げようとするあまり、「盗んだ水は甘く、こっそり食べる食べ物はうまい」(箴言9章17節)とあるように、不道徳なもので、「雰囲気づくり」をするという誘惑を受けるので、それを退けなければならないのです。 3.「意志」を最優先する考えを持つ「体育系の世界」に対する心構え 意志を最優先する「体育系の世界」は、ともすると、「精神一到何事か成らざらん(精神を集中して行えば、できないことはない)」という「精神論」や「精神主義」また「根性論」の誤りに陥る危険性があります。スポーツにしても、ただ無茶苦茶に練習したり飲食物を摂取したりするなら、体力が減少したり、怪我をしたり、病気になったりするので、科学的な練習方法、すなわち「理科系の世界」が教える「知識」と「法則」と「技術」を習得することが必要です。 「体育系」は「スポーツ系」でもあるので、勝負に勝つことだけを目指すと「勝負の世界」になり、勝負に勝つためには、何でもするという「無法地帯」、すなわち道徳を無視する危険性があります。道徳を無視して勝負に勝つためには何(殺人)でもするという「勝負の世界」の最たるものが戦争です。それで「競技をするときも、規定に従って競技を」することが必要です(第二テモテ2章5節)。 「体育系の世界」は、勝負に勝つための「体力づくり」をする時は、厳格に「規定に従って競技」をすることが求められ、「スポーツ系の世界」にも「理科系の世界」が教える「知識」と「法則」と「技術」を習得することが必要なのです。 4.「霊」を最優先する考えを持つ「信仰の世界(キリスト教)」に対する心構え 「信仰の世界(キリスト教)」は、「神は天地万物を創造されたが、人間は神に背いて堕落したので、神は救い主を遣わし、そのキリストの十字架の死と復活によって罪の贖いを成し遂げ、その救い主を信じる者を罪から救い、世の終わりにご自身のみこころが行われる神の国を建設されるというものです」。 これは「数多くの確かな証拠をもって」(使徒1章3節)証明することができる客観的な事実に基づいたものでなければ、「荒唐無稽な作り話や神話」すなわち「非合理的・非科学的で、根拠のない迷信」になってしまいます(第一コリント15章19節)。「信仰の世界」が「理科系の世界」であるというのは、キリスト教は、数多くの確かな証拠をもって証明することができる客観的な事実に基づいた真の宗教であるという意味です。 甲斐慎一郎の著書→説教集 次回は、2015年4月20日「信仰に成長する五段階」です。
2015.04.12
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「全人的な救い(1)」 2015年4月6日インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2014年3月17日放映「苦難の意味するもの(2)」 「全人的な救い(1)」 甲斐慎一郎 テサロニケ人への手紙、第一、5章23節 「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。……あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように」(23節)。 一、「霊」と「たましい(心)」と「からだ」から生じる四つの世界について 人は、「霊、たましい、からだ」(23節)という三要素から成り立っていますが、「たましい(心)」は、さらに「知識と感情と意志」という三要素から成り立っています。 この三要素の中で、「知識」を最優先する考えが「理科系」で、「感情」を最優先する考えが「文科系」で、「意志」を最優先する考えが「体育系」です。 そして神によって全く聖なるものとされ、霊、たましい、からだが完全に守られるというのが「信仰(キリスト教)」です。 人をこのように分析するなら人の世界には、1.知識については「理科系の世界」2.感情については「文科系の世界」3.意志については「体育系の世界」 4.霊については「信仰(神)の世界」という四つの世界があることがわかります。 二、四つの世界の特徴と役割について この四つの世界には以下のような特徴と役割というものがあります。それは、人間を創造された神が決められたことで、この四つの世界を「つくる」という言葉でまとめるなら 1.知識を最優先する考えを持つ「理科系の世界」は、「物づくり」の世界です 「物」をつくるためには、よく学んで「知識」を得、その「知識」によって「自然界の法則」を守り、その法則を駆使して「技術」を習得し、「真理を見出すこと」が必要です。 物理学、生命科学、化学、生物学、農学、林学、工学、建築学、水産学、医学、海洋学、気象学、地質学など「理科系の世界」は、このようにして「物づくり」をしています。 2.感情を最優先する考えを持つ「分科系の世界」は、「雰囲気づくり」の世界です 「理科系の世界」は、法則を厳守しなければならないので、「堅苦しく、自由なところ」がなく、そればかりしていると心もからだも疲れてしまいます。それで「レクリエーション(直訳すると再創造)」が必要です。レクリエーションは、仕事や勉強などの余暇を利用して「スポーツ・娯楽・趣味」などを楽しみ、心身の疲れをいやすことです。これが「雰囲気づくり(再び創造すること)」です。これは、基本的に善悪に関係のない世界です。 3.意志を最優先する考えを持つ「体育系の世界」は、「体力づくり」の世界です 人間には、からだがあり、飲食物を摂取したり、睡眠をとったり、運動したりして、健康を保たなければ、何も考えられず、知識を得ることも、法則を守ることも、技術を習得することもできず、働くこともできません。これも基本的に善悪に関係のない世界です。 4.霊を最優先する考えを持つ「信仰(神)の世界」は、「人づくり」の世界です 「物づくり」は、どんなに強い意志があっても、意志だけでは不可能で、よく学んで「知識」を得、その「知識」によって「自然界の法則」を守り、それを駆使して「技術」を習得し、「真理を見出して」こそ可能です。 「人づくり」も「物づくり」と同じ原則で、「知識」と「法則」と「技術」を習得し、「真理を発見する」ことが必要です。聖書が教えている「人づくり」は、「罪からの救い」を受けて、罪を犯さず、神の教えを守って、神のみこころにかなった人になることです。 聖書が教えているキリストの十字架の死と復活によって罪を贖う罪からの救いは、神を信じる信仰によって「神を知る知識」(コロサイ1章10節)を得て、神の「律法を確立」するとともに(ローマ3章31節)、「救いを得させる神の力」に満たされることです(同1章16節)。ですから「信仰の世界(キリスト教)」は、「知識」と「法則」と「技術」を習得し、「真理を見出す」という意味において、「分科系の世界」でも「体育系の世界」でもなく、「理科系の世界」なのです。 次回は2015年4月13日「全人的な救い(2)」です。 甲斐慎一郎の著書→説教集
2015.04.05
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