全4件 (4件中 1-4件目)
1
「苦難の意味するもの(1)」 2017年10月29日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。 2015年1月20日放映「信仰の妨げ(3)世への愛着」 説経要約 1010 試練の意味するもの 説教要約 1011 誘惑の意味するもの 「苦難の意味するもの(1)」 甲斐慎一郎 ヨブ記1~42章 不朽の大作「レ・ミゼラブル(ああ無情)」を著したフランスの文豪ビクトル・ユーゴーは、「ヨブ記は、恐らく人類の心の所産の最大傑作である」(ヘンリー・H・ハーレイ『聖書ハンドブック』220頁)と言いました。ヨブの受けた言語に絶する苦しみは、私たちに何を教えているのでしょうか。 一、大きな苦しみを受けたヨブ(1、2章) 神は、ヨブに5つの苦難が来ることを許されましたが、これは苦難の程度の軽いものから重いものに至るまで五つの段階を教えているのではないでしょうか。 1.息子の行状を心配する心の苦しみです。具体的には何も失っていません(1章5節)。 2.財産が失われる苦しみです(1章13~17節)。これには心の苦しみも伴います。 3.愛する7人の息子と3人の娘が失われる苦しみです(1章13~19節)。 この苦しみは想像を絶するものです。しかしヨブは、「主の御名はほむべきかな」と神を賛美しています(1章21節)。 4.自分の健康が失われる苦しみです(2章7節)。重い病ほどその心の苦しみは増すでしょう。しかしこの時ヨブは、「神から……わざわいをも受けなければならない」と言って神の摂理に従っています(2章10節)。 5.言語に絶する苦しみを受けながら、同情もされず、友から激しい非難を浴び、人間の尊厳を損なわれた苦しみです(4~25章)。 二、神のお取扱いを受けたヨブ(3~41章) ヨブの3人の友は、ヨブを慰めに来ましたが、彼のことばを聞いているうちに「ヨブがこのような大きな苦難に会ったのは、大きな罪を犯したからである」と異口同音に彼を非難しました。しかしヨブは「潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた」人ですから(1章1節)、この非難は全く的外れです。ヨブは自分の無実を述べる時、3人の友よりも知識と経験と能力において優っていると言っただけでなく、自分の正しさを主張するあまり、神を非難してしまいました(40章8節)。そのような時、神はヨブに3つの質問をされました(38~41章)。 ◇あなたは……(を)知っているか。ヨブの知識を問う質問です(5回)。◇あなたは……(した)ことがあるのか。ヨブの経験を問う質問です(9回)。◇あなたは……(する)ことができるか。ヨブの能力を問う質問です(25回)。 神がヨブに浴びせた矢継ぎ早の質問には、さすがのヨブも自分の無知と無経験と無能力を認めざるを得ませんでした。 三 神の祝福を受けたヨブ(42章) 神のねんごろなお取扱いを受けたヨブは、「あなたには、すべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は知りました」(1節)と、改めて神の全知全能を心から認め、「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました」(5節)と、新しい神経験をしました。それでヨブは「自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い」改めました(6節)。ヨブが3人の友のために祈った時、主はヨブを元どおりにし、さらにヨブの所有物をすべて2倍に増し、息子7人と娘3人を与えられました(10、13節)。こうしてヨブは神からあふれるばかりの祝福を受けたのです。 「あなたが苦しみに会っても落胆しない……一つの秘訣があります。それは永遠に神を疑わないことです。ただ、あなたが神をとらえていれば、すべてを失ったとしても、実際は何も失っていないのです。というのは、あなたに神がついていてくだされば、すべてのものがあるということなのです。神はあなたが失ったすべてのものを倍にして返そうとしておられます。一番恐るべきことは、すべてのものを持っていて、神をとらえていないことです。神がいないなら、あなたの持つすべてのものも零に等しいのです」(テモテ・ザオ『わざわいをも』21頁)。甲斐慎一郎の著書→説教集
2017.10.28
コメント(0)
「神のご計画の全体17 2017年10月22日 計画に現れる愛」 インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。 2015年1月13日放映「信仰の妨げ(2)物への執着」 説教要約 1033 神の計画と人の計画(1) 説教要約 1034 神の計画と人の計画(2) 「神のご計画の全体17 計画に現れる愛」 甲斐慎一郎 ローマ人への手紙、8章28~30節 「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを私たちは知っています」(28節)。 この有名なみことばから「愛」と「計画」ということについて考えてみましょう。 一、私たちに対する神の愛の現れ 聖書は「神は愛です」と教え(第一ヨハネ4章16節)、キリスト者は、この神の愛によって救われた者です。しかし私たちは、この神の愛をどのようにとらえているでしょうか。 エペソ人への手紙の1章には、「あらかじめ定め」るという言葉が2回(5、11節)、また「ご計画」という言葉が2回記されています(9、11節)。この箇所をよく読むなら、神の「愛」は、「計画」に現れていることがわかります。 すなわち、「神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされ」ただけでなく(4節)、その「みこころの奥義を私たちに知らせてくださ」り(9節)、さらに「時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され」たのです(10節)。 このようなことから神の愛というのは、私たちのためにすばらしいことを計画してくださるだけでなく、すべてのことを働かせて益としてくださる神の摂理によって、その計画を実行に移されることに現れていることが分かります。ブッシュネルは、「どの人の生涯も神の計画による」、「神の心の中には、すべての人のために完成された完全な計画が大切にしまわれている」と述べています(詩篇31篇15節、139篇16節)。 私たちは、神の愛をこのように具体的な計画のあるものとしてとらえているでしょうか。もしそうでなければ、神の愛を何かつかみどころのない漠然とした、抽象的なものとしてしかとらえていないのです。 二、神に対する私たちの愛の現れ 私たちが神を愛するとは、どのようなことかということを述べる前に、その反対である神を愛さないということについて考えてみましょう。それは、一言で言えば、罪です。 聖書は、いわゆる過失致死や過失致傷の罪――計画したのではない罪――以外の罪は、計画性があると教えています(出エジプト21章13節、欄外の訳)。たとえばダビデが犯した姦淫と殺人の罪は、計画的なものであり、様々なことを考え、策略を巡らしながら承知で犯したものです(第二サムエル11章)。言い換えれば、罪は、神のご計画、すなわち神の御旨を受け入れず、自分の計画や自我を押し通すことです(民数記22章32~34節)。 ここでパウロは、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々」と記していますが、この言葉から私たちが神を愛するというのは、愚かで罪深い自分の計画を捨て、私たちのために備えられた遠大な、すばらしい神のご計画を私たちが受け入れ、それに自らを当てはめていくことなのです。 三、人に対する私たちの愛の現れ 私たちは、神がこのような罪深い者をもそのひとり子をお与えになったほどに愛してくださったことを知る時にのみ、真にほかの人を愛することができるようになります(第一ヨハネ3章16節)。その神の愛は、計画に現れる愛です。ですから私たちの隣人への愛もそのようになるのです。 両親は、愛する子どものために様々なことを計画し、準備しないでしょうか。人間は、愛する人のために色々なことを計画し、準備するのです。人間の愛でさえもそうならば、神の愛を与えられたキリスト者は、なおさらそうするのではないでしょうか。 真の愛は、決して気まぐれでなく、行き当たりばったりでもありません。また無為無策でもなければ無責任でもありません。私たち自身が無計画でなく、良い計画をもって相手に接し、またその人の将来や永遠のことを考え、配慮することこそ真の隣人への愛ではないでしょうか。 甲斐慎一郎の著書→説教集
2017.10.21
コメント(0)

「神のご計画の全体32 2017年10月15日 心を見守れ(5)神への信仰と感情」インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。 2015年1月6日放映「信仰の妨げ(1)人への恐れ」 「神のご計画の全体32 心を見守れ(5)神への信仰と感情」 甲斐慎一郎 コリント人への手紙、第二、2章4節 一、感情には四種類がある(シェーラー) 1.感覚的な感情――肉体的な刺激によって起こる快感や苦痛の感情です。これは刺激がなくなると感情も消えてしまいます。 2.生命的な感情――からだの内部から湧き起こってくる充実感や倦怠感また緊張感などの感情です。 3.情緒(情動)――一般に喜怒哀楽と呼ばれている感情です。これは激しい感情なので、断続的です。 4.情操――情緒よりもいっそう高等で、音楽、絵画、芸術などで感じる感情です。これは穏やかな感情なので、持続的です。 感覚的な感情や生命的な感情は、「からだの感知器」として、からだを健康に保つ働きをしています。情緒は、説明を抜きにして感じで分かるという「直感」の働きをし、情操は、推理によらず直接知るという「直観」の働きをしています。 二、感情には四つの目的がある 1.真の人間らしさを与えるためである 感情は、ことばでは表現することのできない微妙な表情をつくり、人に豊かさや深さ、またうるおいやこまやかさを与えるものです。もしこれがなければ、機械に過ぎず、木石のような人間になってしまうでしょう。 2.人の喜怒哀楽を知るためである 私たちが、人の心の喜びや楽しみ、また悲しみや怒り、そして苦しみや痛みを知ることができるのは、自分自身もこのような心を持っているからです。もしこれがなければ、血も涙もない人間になってしまうでしょう。 3.直感や直観を与えるためである 感情は、論理や思考によらない一種の知識です。論理や思考は時間がかかるので、急を要する時や突発的な出来事には間に合いません。神は、私たちに論理や思考による知性とともに、論理や思考を抜きにして一瞬にして知ることができる感情を与えてくださいました。ただし直感や直観は推測で、不正確ですから、知性によってそれが正しいものであるかどうかを確かめることが必要です。 4.意志の決断の正否を教えるためである 知性による観察と判断の前に直感と直観がありますが、知性による観察と判断によって意志の決断をし、意志の決断の結果が行為であり、その行為には感情が伴います。すなわち良いことを語り、良いことをするなら、喜びと平安な感情があり、悪いことを語り、悪いことをするなら、悲しみや苦しみの感情があります。感情は、意志の決断が正しかったかどうかを私たちに教えるものです。 キリスト者も世の人も直感・直観・知性・意志の決断・行為には感情が伴い、その表情に現れる感情は、その人の個性なので、善悪の判断をしてはならないのです。 三、感覚は脳で知識に変換される 感情が物をとらえるための道具(ツール)は、五感(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)ですから、感情で目に見えない神を知り、とらえことはできません。それで人の脳は、五感でとらえたものをすべて信号化して脳に送り、脳は、五感でとらえた情報を知覚そして知識に変換しています。 聖書は、「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによる」と教えています(ローマ10章17節)。 私たちは、まず「神のことばを聞き」(聴覚)、次に「よく考え」て(思考)(第一コリント15章2節)、それが「真理であることを知り」(知覚)、最後にその知った真理を「信仰によって、結びつけ」る(ヘブル4章2節)、すなわち「信じる」なら、「神を知る知識」になります(コロサイ1章9節)。 エバは善悪の知識の木を見た時、「食べるのに良く、目に慕わしく……いかにも好ましかった」ので(創世記3章6節)、取って食べました。彼女は、感情で判断して罪を犯しました。人は、感情ではなく、「取って食べてはならない」(同2章17節)という神のことばに基づいた知性によって判断して、生きなければならないのてす(マタイ4章4節)。 甲斐慎一郎の著書→説教集
2017.10.14
コメント(0)

「神のご計画の全体31 2017年10月8日 心を見守れ(4)神への信仰と意志」インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。 2014年11月26日放映「神が求められること」 説教要約 977 神に近づく道 説教要約 983 創造の六日間 その3 「神のご計画の全体31 心を見守れ(4)神への信仰と意志」 甲斐慎一郎 ヨハネの福音書、7章17節 「だれでも神のみこころを行おうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか……がわかります」(17節)。 聖書は、私たちが正しく神を知り、とらえるために意志が大切であることを教えています。私たちは、神を正しく知り、とらえるために、どうして意志が必要なのでしょうか。三つの面から考えてみたいと思います。 一、神を信じる意志 私たちは、人格を持つ者――すなわち神と人間と天使と悪魔――以外のものを知るためには、証拠があって証明されるなら、その人の意志に関係なく、信じるも信じないもなく、ただ認めればよいのです。 しかし人格を持つ者――すなわち知性と感情と意志を持つ者――を知るためには、ただ認めるだけでは不十分であり、意志を働かせて信じなければなりません。このことを理解するために、次のような例話が分かりやすいのではないでしょうか。 ここに顔も知らない父(または母)と生き別れになった息子(または娘)がいて、何十年か振りに再会したとしましょう。この息子(または娘)は、目の前の人が自分の父(または母)であることは、確かな証拠(DNAの一致など)があって証明されるなら、認めざるを得ないでしょう。しかし彼(または彼女)は、意志を働かせて、その父(または母)を受け入れ(すなわち信じ)なければ、正しい父子(または母子)関係は成り立たず、その父(または母)を知ることはできません。 「神は、知性と感情と意志とを持っておられる霊であり、人間もまた、知性と感情と意志とを持っている霊である」(キャンベル・モルガン)。意志を持っている私たちが、意志を持っておられる神を知るには、証拠を確かめて認めるだけでは不十分であり、意志を働かせて信じなければならないのです。 二、罪を悔い改める意志 使徒パウロは、「彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され……た」と記しています(ローマ1章28節)。 多くの人たちが神を信じないのは、単に知性的に神を認められないからではなく、神を信じるなら、自分の悪い心と生活を悔い改めなければならないという恐れから、意志的に神と信仰を拒んでいるということを知らなければなりません。 神への信仰というものは、神の正しさと聖さという性質上、当然のことですが、道徳性が含まれています。ですから神への信仰は、悪い心や罪深い生活を悔い改めるという意志がなければ、持つことはできません。 私たちは、「真理に逆ら」ったり、「真理から耳をそむけ」たりしているなら、「いつも学んではい」ても、「いつになっても真理を知ること」ができないのです(第二テモテ3章7、8節、4章4節)。 三、救いを信じる意志 人類の始祖が堕落した時、人の意志は堕落し、すべてのことにおいて神を中心とすべき意志が、自分を中心とする意志に変わってしまいました。しかし神は、計り知れない恵みのゆえに、救いを信じることができる意志を与えてくださいました。 キリストが、盲人のバルテマイに「わたしに何をしてほしいのか」と尋ねられた時、彼は「先生。目が見えるようになることです」と答えました。これに対してキリストは「あなたの信仰があなたを救ったのです」と言われました(マルコ10章51、52節)。 受ける資格のない者に、無代価で与えられるものが恵みであり、その恵みを自分の意志で受け取る手が信仰です。私たちは、この信仰によってのみ、罪から救われ、心の目がはっきり見えるようになって、神を知ることができるようになるのです。 甲斐慎一郎の著書→説教集
2017.10.07
コメント(0)
全4件 (4件中 1-4件目)
1


