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「神のご計画の全体24 2017年7月30日 古代ヘブル語の時制概念」 インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2014年5月14日放映「イエスを仰ぎ見なさい(1)」 説教要約 824 永遠に存在する人間 説教要約 825 永遠の霊的な教え「神のご計画の全体24 古代ヘブル語の時制概念」 甲斐慎一郎 イザヤ四九章8節 一、時制について 言語には時制があります。時制は「ヨーロッパ諸言語などで、過去・現在・未来など、時の違いを表す際の動詞を中心に見られる語形変化の組織である」と辞書には記されています(旺文社、詳解国語辞典)。 二、ヨーロッパ諸言語と日本語の時制 日本語の時制には「過去形」と「現在形」はありますが、「未来形」はなく、「現在形」で代用しています。たとえば「明日、学校へ行きます」というのは未来のことですが、現在形で表現しています。英語であるならば、「明日」という未来を表す言葉があれば、必ずWillかShallをつけなければなりません。しかしWillとShallは、助動詞ですから、英語も未来形の動詞は、ないことになります。それでも英語は、「過去形」と「現在形」と「未来形」がはっきりしています。そのために私たちは、時間というものは、「過去」から「現在」そして「未来」に流れているものであると、何の疑いもなく信じています。 三、ヘブル語の時制 ところが「信仰の世界」や「神の世界」また「聖書の世界」は、このような「過去」「現在」「未来」という時制概念が全く通用しません。なぜなら「神にとっては過去や未来というものはなく、すべての事柄は等しく現在である」からです(ジョン・ウェスレー)。人間も、「過去」のことは、過ぎ去って、どうすることもできず、「未来」は、来ないかもしれない不確かなものですから、神の前においては、「過去」や「未来」というものはなく、すべての事柄は等しく「現在」なのです。 ヘブル語には、古代ヘブル語と現代ヘブル語があり、現代ヘブル語は「過去形」と「現在形」と「未来形」がありますが、旧約聖書の原語である古代ヘブル語の時制には「完了形」と「未完了形」しかありません。 古代ヘブル語は、神の選民であるイスラエル人の言語で、旧約聖書は、神の視点から、また神を中心に記されています。それで、それを書き記す古代ヘブル語の時制は、「神にとっては過去や未来というものはなく、すべての事柄は等しく現在である」という神概念を基にしているので、「過去形」や「未来形」がない時制になったものと思われます。 四、古代ヘブル語の時制の特徴 古代ヘブル語の時制には、次のような特徴があります。 1.古代ヘブル語の時制概念はかなり自由です。古代ヘブル語の時制は、「完了形」と「未完了形」しかありませんが、「未完了形」といっても必ずしも未来の行為を表すとは限りません。過去の行為を表すこともできます。 2.特に、神が主語となる場合には、過去と未来が厳密に分けられることがありません。なぜなら、神は常に働いておられますから、過去に行われたことは、未来においても現実となるからです。ですから「未完了形」の動詞が過去の行為を表すと同時に未来の行為をも表すことができるのです。また反対に「完了形」の動詞がまだ起こっていない神の行為に対しても使われます。神が確実に実現されることは、たとえまだその出来事が完了されていなくても、「完了形」で表されることが多いのです。 五、聖書の読み方 私たちは、聖書を読む時、また神のことばを聞く時、「神にとっては過去や未来というものはなく、すべての事柄は等しく現在である」ということを念頭に置き、過去や未来の出来事にとらわれないことが必要です。すなわち、この聖書の記事は、過ぎ去った「過去の出来事」なので、今の自分には関係がないとか、この聖書の記事は、まだ来ていない「未来の出来事」なので、今の自分には関係がないというような捉え方をしてはならないのです。 聖書は、次のように教えています。 「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日にあなたを助けた」(イザヤ四九章8節)。「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です」(第二コリント6章2節)。 甲斐慎一郎の著書→説教集
2017.07.29
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「神のご計画の全体22 2017年7月23日 真理のキリスト教」インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2014年5月6日放映「三つのさばき」 説教要約 858 キリスト教は証しの宗教、その1説教要約 859 キリスト教は証しの宗教、その2説教要約 860 キリスト教は証しの宗教、その3「神のご計画の全体22 真理のキリスト教」 甲斐慎一郎 ヨハネの福音書14章6節 一、方便のキリスト教 日本に新教が入ってから160年が経ちましたが、聖書は浸透したでしょうか。亀井勝一郎氏は「どうして日本には、キリスト教の思想が育たなかったのか、その原因は、キリスト教の西洋文化が入ってきた時、その西洋文化の神髄を知ることなく、ただ表面的なものに終始したからである」と述べています。 守部喜雅氏は、「キリスト教の思想が育つためには、新島襄が述べているように『キリスト教の真理を真理として受け取る』ことが必要であり、『キリスト教を単なる方便として利用する』なら、キリスト教の思想は、育たないのである」と述べています。 「方便のキリスト教」とは、キリスト教を信じると、生きていく上で、いろいろと都合が良い宗教であるというもので、言い換えるなら、人間の生き方において御利益(神仏を信じる人々に神仏が与える恩恵)があるから信じるというものです。 二、真理のキリスト教 聖書の三大教理は「神」と「罪」と「救い」ですが、これらに関して、人間は、誤ってとらえていると聖書は教えています。このことについて三つの「等しい」という言葉からそのことを学んでみたいと思います。 1.神についての誤った考え 聖書が教えている真の神は「『霊』であり、『唯一(三位一体)』であり、『人格』を持っておられ(神の性質)、すべての被造物の中におられる『内在神』であるとともに、すべての被造物を越えて存在される『超越神』であり、『全知・全能・永遠・遍在』という自然的な属性と、『聖・愛・義・憐れみ・真実』という道徳的な属性を持っています」(R・A・トーレー)。 このような「人知をはるかに越えた」神は(エペソ3章19節)、無知無能な人間には、到底、信じることはできないので、人間は、自分が理解できる神にまで引き下ろしてしまいました。これが偶像です。アサフは「わたし(神)がおまえ(人間)と等しい者だと、おまえ(人間)は、思っていたのだ」と述べています(詩篇50篇21節)。 私たちは、人知をはるかに越えた神を信じているでしょうか。それとも自分が理解できる神(偶像)を信じているでしょうか。 2.罪についての誤った考え 聖書は、人は「自分では知者であると言いながら、愚かな者となり」と教え(ローマ1章22節)、さらに「主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである」と記し(箴言9章10節)、「人はその栄華の中にあっても、悟り(神を知る知識)がなければ、滅び失せる獣に等しい」と教えています(詩篇49篇20節)。 私たちは、「悟り(神を知る知識)がな」ければ、「滅びうせる獣に等しい」と思っているでしょうか。それとも「自分では知者であると言」っているでしょうか。 3.救いについての誤った考え 聖書は、人は「自分では知者であると言」って(ローマ1章22節)、自分で自分の「いのちを救おうと思」っていると教えています(マタイ16章25節)。しかしキリストは、「わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです」と言われました(マタイ16章25節)。 またパウロは「もしわたしたちが、彼(キリスト)に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼(キリスト)の復活の様にもひとしくなる」と述べています(ローマ6章5節、口語訳)。これこそ神が与えてくださる罪からの救いです。 「罪からの救い」とは、私たちが罪を悔い改めてキリストの十字架の贖いを信じるなら、「義と認められ」(ローマ3章22節)、「新しく生まれ」(第一ペテロ1章3節)、「神の子どもとされる」(ヨハネ1章12節)とともに、「うちに住む罪」(ローマ7章12、20節)がキリストとともに十字架につけられるなら(ガラテヤ2章20節)、罪がきよめられて聖霊に満たされることなのです。 甲斐慎一郎の著書→説教集
2017.07.22
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「神のご計画の全体21 2017年7月16日 目に見えないものを知る方法」インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2014年4月1日放映「三つの現実」説教要約 940 聖書の中の科学(1) 説教要約 941 聖書の中の科学(2) 説教要約 942 聖書の中の科学(3) 「神のご計画の全体21 目に見えないものを知る方法」 甲斐慎一郎 ローマ人への手紙、1章20節 一、目に見えないものを知る方法 人の「たましい」は、知性・感情・意志から成り立っていますが、目に見えないものを知り、とらえるには、どれが有効でしょうか。 感情が物をとらえるための媒介は、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚ですから、目に見えないものは五感でとらえことはできません。 主は「だれでも神のみこころを行おうと願うなら、その人には……この教えが……わかります」と、仰せられました(ヨハネ7章17節)。意志は「知ろう」という動機付けのために有効ですが、意志だけで目に見えないものを知り、とらえることはできません。 「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は……被造物によって知られ、はっきりと認められる」とあるので(20節)、 目に見えないものを知るものは知性です。 知性で目に見えないものを知り、とらえる方法が論理的思考です。論理的思考は、自然の法則・原理・原則を学び、その法則や法に従って物事を考え、その法や法則を駆使して、証拠を見出し、真理や真相を発見するのです。 現代科学は目に見えないもの、すなわち五感で知ることができない実在の質や量を扱い、論理的思考で真理や真相を発見しているので、「神を知る方法」と同じです。 二、真の信仰の三要素 真の信仰は「知性的に承認し、意志的に承諾し、信頼し、拠り頼むことである」(H・オートン・ワイレー)。 1.神を知性的に理解し、承認する 人間に知性や理性がある以上、何だか分からないものを、ただ信じることはできず、信じる対象を知り、理解するとともに、それが確かな事実であり真理であることを納得しなければなりません。聖書は、知性を持った人間が十分に信頼できる「数多くの確かな証拠」(使徒1章3節)に満ちた神のことばです。 2.神を意志的に受け入れ、承諾する 意志を持っている人間が意志を持っておられる神を知るには、証拠を確かめて承認するだけでは不十分であり、意志的に受け入れ、承諾することが必要です(ヨハネ1章12節)。 「科学的な真理」は、それを受け入れる人の道徳性には関係がないので、悪い心や生活を悔い改める意志がなくても、その科学的な真理を知性的に承認すれば、その人のものになります。しかし「宗教的な真理」は、神のきよい性質上、道徳性が含まれているので、悪い心や生活を悔い改めて信じたいという意志がなければ、その真理(神の救い)は、その人のものにはならないのです。 3.神を信頼し、拠り頼む 人は、神を「知性的に理解し、納得し」、また「意志的に受け入れ、承諾」するなら、神を「信頼し、拠り頼む」ことができ、そして信じた通りに「歩み」出すなら(コロサイ2章6節)、信仰は実を結んで「信じきること」(ルカ1章45節)、すなわち「確信」になるのです(第二テモテ1章12節)。 三、目に見えない神を知る方法 「知には工学に代表されるような理屈で整理できる『目に見える知』と、神学のような見えない世界の論理を突き詰める『目に見えない知』があり、日本では……『目に見えない知』つまり超越した世界について考えてこなかった」(佐藤優『あぶない一神教』)。 「宗教のない科学は凶器であり、科学のない宗教は狂信(または迷信)である」(アインシュタイン)。 「理性を放棄することは、とりもなおさず信仰を放棄することであり、信仰と理性とは手をたずさえて行くものであって、すべての非理性的宗教は誤った宗教である」(J・ウェスレーの書簡『ルサフォース博士宛』)。 「信仰は……目に見えないものを確信させるものです」(ヘブル11章1節)。目に見えないものを知り、とらえるために有効なのは「知性」や「知識」ですから、目に見えない神を知り、とらえるのは、「神のみこころに関する真の知識」また「神を知る知識」なのです(コロサイ1章9、10節)。 甲斐慎一郎の著書→説教集
2017.07.15
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「神のご計画の全体6 2017年7月9日 論理的思考と神学」インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2014年3月17日放映「苦難の意味するもの(2)」 説教要約 959 見えないものに目を留める(1) 説教要約 960 見えないものに目を留める(2) 説教要約 961 見えないものに目を留める(3) 「神のご計画の全体6 論理的思考と神学」 甲斐慎一郎 ヨハネの福音書7章12節 トルコの「ボスポラス海峡横断地下鉄」と「イズミット湾横断橋」の設計者として「潮流予測システム」を開発した伊藤一教氏は、トルコの技術者たちに「仕事を丸暗記するのではなく、ロジックを学びなさい。ロジックを身につければ、どんな仕事にも応用できる」と教えました。なぜ「ロジックを学び、身につければ、どんな仕事にも応用できる」のでしょうか。それが神学とどのような関係があるのでしょうか。 一、論理的思考について 「ロジック」とは「論理的思考」のことで、「感情論」が「理性を忘れて感情に走った議論」で「自分だけの主観的な考えや思考」であるのに対して、「論理的思考」は、「客観的な事実や真理に基づいた考えや思考」です。 「法令遵守(コンプライアンス)」というのがあります。これは企業において法令、社会規範、倫理を遵守することです。 「法令遵守(コンプライアンス)」は、主に社会の法律の遵守ですが、「論理的思考」は、社会の法律だけでなく、「自然の法則」や「自然の原理・原則」を研究し、学び、その法則や法に従って物事を考えることです。 論理的思考を実行に移すと、自然の法則・原理・原則を守り、さらにその法や法則を駆使して証拠を見出し、真理を発見するのです。 聖書が教えている救いは、律法によってではなく「信仰によって義と認められる」のですが、救われた者は、信仰によって「律法を確立する」(ローマ3章31節)のであり、これは「法令(律法)遵守」にほかなりません。 二、公式について 数学には、計算問題と応用問題があり、数字を丸暗記しても解くことはできません。それを解くには公式をマスターすることが必要です。「公式は、数学で計算における一般法則や原理を表した式」のことで、これをマスターする、すなわち身につけるなら、難しい計算問題も応用問題も解くことができます。 三、神学について 信仰の世界や聖書の真理も、ただ聖書のことばを丸暗記するのではなく、「神学」としてまとめ、それを身につけることが必要です。これが数学における「公式」にあたります。 「神学」は「聖書の教えを体系的にまとめたもの」で、神の思いである四つの法、すなわち「自然の法則と社会の法律と道徳の律法と神の律法」を学び、公式のようにマスターする、言い換えれば身につけることです。神学を身につける秘訣は、信仰によって聖霊を受け、「わたし(神)の律法を彼ら(私たち)の思いの中に入れ、彼ら(私たち)の心にかきつける」ことです(ヘブル8章10節)。 四、人生という応用問題を解く公式 私たちの信仰生活、社会生活、そして人生は、いわば応用問題のようなもので、難解で、簡単に解くことはできません。丸暗記するように、立派な人の行為を模倣しても解決することはできません。いや模倣することなどできないのです。私たちは、数学の「公式」にあたる「神学」を学び、それを身につけることによって信仰生活、社会生活、そして人生という応用問題を解いて、神のみこころにかなった人生を送ることができるのです。 五、神学についてのC・S・ルイスのことば 「これからお話ししようとしていることについて、多くの人たちは、そんなことは話さないほうがよい、とわたしに忠告してくれた。彼らは、こう言うのである。『ふつうの読者は、神学など知りたいと思っていない。だから、分かりやすい実際的な信仰について話したほうがいい』。しかしわたしは、彼らの忠告を取り上げなかった。それは、ふつうの読者がそんなばかだとは、わたしは思わないからである。神学とは、『神に関する学問』という意味であるが、少しでも神について考えてみようとする人ならだれでも、神について得られる限りの最も明白かつ最も正確な知識を得たいと望むにちがいない、とわたしは思うのである」(C・S・ルイス『キリスト教の神髄』より)。 甲斐慎一郎の著書→説教集
2017.07.08
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「神のご計画の全体5 2017年7月2日 神の心である法」インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2014年3月4日放映「苦難の意味するもの(1)」 説教要約 89 心に記される神の律法 説教要約 636 律法問答 説教要約 928 文科系と理科系について 「神のご計画の全体5 神の心である法」 甲斐慎一郎 ヘブル人への手紙、8章10節 「法」とは「法則」や「法律」また「律法」という言葉の総称です。「法」には、基本的に次のような四つのものがあります。 一、自然の法則――自然的なもの これは、自然現象の中に見られる「常に変わらない一定の関係やきまり」のことで、創造主である神によって定められたものです。自然界に住んでいる人間は、この自然の法則を守らなければ、病気になったり、怪我をしたり、果ては死に至ります。 二、社会の法律――社会的なもの これは、「社会生活を維持するために人によって定められた規律」であり、守るべき義務と負うべき責任の伴った強制的なものです。 聖書は「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在してる権威はすべて、神によって立てられたものです」と記し(ローマ13章1節)、「社会の法律」も「神の律法」に準拠していると教えています。 三、道徳の律法――個人的なもの 道徳は、「人として当然行うべき行為や在るべき姿、また歩むべき道に一定の規則やきまりがある」というものです。 聖書は、ユダヤ人はモーセの律法を持っているが、異邦人はモーセの律法を持たなくても「生まれつきの律法」を持っていると教えています(ローマ2章14、15節)。 「律法のないところには違反もありません」が、律法があっても良心がなかったなら、裁決を下すものがないので、罪責を感じることもなければ道徳的な責任もありません。それで神は人に律法と良心の二つを与えられました(ローマ4章15節、2章14、15節)。 「十戒」(出エジプト20章)は、神の律法ですが、神の律法を持たない異邦人にとって「十戒」の第五から第十の戒めは、「道徳の律法」であり、これが基本的なものです。▽あなたの父と母を敬え(同20章12節)▽殺してはならない(同13節)▽姦淫してはならない(同14節) ▽盗んではならない(同15節)▽あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない(同16節) ▽すべてあなたの隣人のものを、欲しがって はならない(同17節) 四、神の律法――神的(絶対的)なもの 「神の律法」は「自然の法則」と「社会の法律」と「道徳の律法」のすべてに及ぶ絶対的な規準であり、聖書は、「自然の法則」と「道徳の律法」は神によって定められ、「社会の法律」も「神の律法」に準拠していると教えています(ローマ13章1~7節)。 神の律法の基本的なものは、出エジプト記の20章の十戒です。第五の戒めから第十の戒めは、道徳の律法のところで記したので、第一の戒めから第四の戒めまで記します。 ▽あなたには、わたしのほかに、ほかの神神があってはならない(同20章3節) ▽あなたは、自分のために偶像を造ってはならない。……それらを拝んではならない……それらに仕えてはならない(同4~6節) ▽あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない(同7節) ▽安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ(同8~11節) 詩篇119篇は各節に「神の律法」を現す「主の教え・主のさとし・主の道・おきて・仰せ・さばき・戒め・さとし・みことば・義のことば」が記され、それをどんなに愛しているかが書かれています。ヨハネは「神を愛するとは、神の命令を守ることです」と述べています(第一ヨハネ5章3節、第二ヨハネ6節)。 J・ウェスレーは「神の律法は……聖なる方の不滅の画像である。……ベールをとられた神の御顔である。……人間に向かって明らかにされた神の心である。……永遠なる心の写し、神の本質の模写である」と述べています(説教「律法の原形・性質・属性・用法」)。 「神の律法」こそ「神の心」にほかならず、神は、聖霊を与えることによって神の「律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつけ」てくださるのです(10節)。 甲斐慎一郎の著書→説教集
2017.07.01
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