Supica's room

Supica's room

2007.11.14
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 僕は壁を眺めている。どこからどこまでも真っ白な壁を。右の腕で頬杖をつき、左手にはペンを持ち、僕はただひたすらに壁を眺めている。暫く眺めた後、僕はペンをくるりと一回転させ、何かを収めるかのようにゆっくりと机に置き、小さな手鏡で髪型を確認し、直るわけのないシャツの皺を軽く手で払い、念入りに準備を整えた。これから僕は推敲の世界に旅立たなければならない。電話の向こうで待ち構える編集者に鞭を打たれるのを避けるために、純粋なる概念や思想の住人達と会話をしなくてはならないのだ。彼らは恐ろしく繊細で敏感で、脆弱性の塊のような生物である。彼らから話を聞きだすのには時間の概念を越えた、「流れ」に乗らなくてはならない。しかし、それ以上に難しいことは、彼らの儚い矜持を失わせずに、ねっとりとした質問を浴びせる事だ。猜疑心の強い彼らに問いかける事は、ある部分の何かを引き合いに出さなければいけないこともある。時にはそれが命であったり、マッチであったり、恋人であったりする。そして、上手く彼らの言葉を掬い上げることが出来た時のみ、僕はこちらの世界へ戻り、それを文章として具体化することが出来るのだ。

 しかし、今日は何かがおかしい。開くべき扉はすぐそこにあるのにも関わらず、僕の意識はその扉のノブにさえ手をかけることを許さない。ならば文字をただひたすらに羅列させて、文章の亜流とも言えるべき塊を仕上げてみようか。いや、それはできない。拙い文章を書くくらいなら、今すぐ此処から立ち上がり、無口な土に向かって思い切り鍬を振り下ろした方が良い。晴耕雨読とも言えるべき生活。それは僕の理想だったはずなのに、耕したいものが耕せなくなってしまった。僕の脳味噌にはもう開拓するような土地は余っていないのだろうか。余生と言う液体に浸りながら、自らの肢体が崩れていくのをぼんやりと見ることしかできないのだろうか。いや、そんなことはない。耕さなければいけないものはまだまだあるのだ。電話を受け取って、電話を降ろす。そんな午後。

 足元に猫がすりよってくるまで、僕は意識をどこかへ閉まったまま、壁を眺めていた。窓の外で、空はオレンジ色に染まり、森が自らの長い影を地面に忍ばせている。僕はしばらく猫で遊び、首元を撫でると、彼はゴロゴロと喉を鳴らした。猫をくるくる回していると、壁の向こうで、玄関のドアが開く音が聞こえ、妻の声が聞こえた。時計にふと目を落とすと既に7時を回っている。僕の部屋のドアが開く。

「お話はすすんだのかしら。」と彼女は言った。
「あいにくこれっぽっちも進んでいないんだ。」と僕は言った。

「夕飯は要らない。」



 夕飯はビーフシチューだった。僕はビーフシチューをきちんと食べつくし、彼女にお礼を言って、再び書斎に篭った。そこに待っていたのは、額に時計を埋め込まれたジョンレ・ノン―僕が彼を見た瞬間に彼は僕に名前を教えてくれた―と言う男で、ノンは僕のマッサージチェアに沈む込むように座っていた。見るからに彼は小さく、身長は130センチあるかないかと言ったところで、何かを主張しているようなぷっくりと出たお腹がズボンのゴムに引っかかっていた。彼は僕のペンをくるくると何回転も回し、僕が話しかけようとしたところでどこかへ放り投げた。不運にもペンはゴミ箱に入っていった。僕はペンを拾ってポケットに入れた。

「やあ、おっさん。」とノンは言った。
「やあ、ノン。何か用かい。」と僕は言った。

「帰ってくれないか。今は君を相手にしている暇は無いんだ。僕だって君とはたくさん話したいけれど、ここじゃできない。」と僕は言った。彼は何かに気付いたようにキョロキョロと目を動かし、再び笑った。
「君はおかしなことを言うね。あちらとこちらでは何が違うって言うんだい。こちらにあって、あちらに無いものがあると思うのかい。あるはずが無いだろう。あちらがこちらのもともとの基盤なんだぞ。まあ、そんなことはどうだっていい。どうだっていいんだよ。」
そう言ってノンはしばらく黙った。彼には何を言っても徒労に終わりそうだったので、僕もしばらく黙っていた。その間、彼の額の時計の針の進む音が雨露が垂れるかのようにこの空間に落とされていた。僕は電話の線を外し、携帯は電源を切ってポケットに入れた。窓の外はすっかり闇に沈み、森が風に当たって呻き、その向こうで星か無邪気にきらきらと輝いていた。
「君の世界に行こう。これ以上ここで二人で黙っていたってどうしようもない。何も進みはしない。」と僕は言った。
「君は、」
「君は君の望むものを全て手に入れたと思うのかい。君の小説を見てみるがいい。君は我々の言葉を理解もせずにただ受け取り、理解をしたという掲示を表しているに過ぎない。まるで明滅する電球のようだ。一体君はどちらに属しているんだい。君は自らの力で物を書いたことなんて一度だって無いはずだ。いや、無いんだ。君のしている事は誤解の山を自慰を繰り返すかのように積み重ねているだけに過ぎない。君は何も解っちゃいない。」とノンは言った。
「解らない。とても、解らないんだ。しかし、曲解とは極めて言えば、本当の理解でもあると僕は思う。」と僕は言った。
 彼は再びキョロキョロと辺りを見回した。そして、ついてくるがいい良い、とだけ言って窓の外へ歩いていった。僕は窓を開けて外に降りた。闇の中で、彼は道を照らす灯火のようにゆらゆらと輝いていた。僕は遅れないように彼のすぐ後ろを歩いた。空には先ほどは見えなかった大きな満月がぽっかりと浮かんでいた。
 僕達は月明かりに照らされた草原をひたすらに歩いた。彼の小さな足はしっかりと機能し、何かを確かめるように地面を踏みしめていた。僕の家の光は次第に小さくなり、ついには闇に溶け込んでいった。僕は道中に彼に幾度か何処へ向かっているのかを尋ねたが、もはや彼は何も語ってはくれなかった。
 しばらく歩くと、薄手のカーディガンでは肌寒くなってきた。季節は既に十月の下旬を迎え、妻は外出する時厚手のコートを羽織っていた。ノンは相変わらずカチカチと音を散らばせて、暗闇の中を進んでいく。妻は今頃何をしているのだろう。食器を洗い、風呂を沸かし、ソファーに座って、コーヒーを片手に坂本龍一の久々のラジオ放送を聴いているのかもしれない。ラジオ放送が始まったのは確か1925年で、白黒テレビが1953年、カラーが1960年だった気がする。その頃といえば、畏れ多くもすばらしい作家が多かった。標本のように貼り付けられた無機質な辞書の言葉を、どのようにしたらあのような煌びやかな文章に飾り付けることが出来るのだろうか。何故、僕にはそれができないのだろう。いや、今の僕は昔の
僕とも全く違う物体になってしまった。昔は書きたいことが無くても、頭の井戸の底から噴出すように文字が出てきて、とりとめも無く文章が書くことが出来たのだ。時間も何かもを置き去りにし、彼らとも今よりは饒舌に話すことも出来た。今では彼らから一つの単語を聞きだすことさえも難しい。


「一体ここで何をするんだい?」と僕は訊いた。
「特別にする事は無いさ。ただ、石を積み穴を掘るだけさ。」とノンは答えた。
 辺りをよく見ると、大小さまざまな石がそこら中に散らばっていた。それらの石は星の光を反射し、白く美しい身体を輝かせていた。どうして僕は今までこの石に気付けなかったのだろうか。石は何かを自らの小さな身体の中に滞在させているようにも思えたが、彼らはひたすらに光を吸い尽くしているだけだった。
「小屋もあるし、小屋の中にはスコップも在る。君は石を積み、穴を掘るんだ。」








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Last updated  2007.11.14 14:00:11


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