あま野球日記@大学野球

あま野球日記@大学野球

2020.03.29
XML
テーマ: 日本野球史(139)
カテゴリ: 日本野球史
 プロ野球は前年(1950年)2リーグ制となり、球団数は15(セ=8、パ=7)に増えていた。しかし売り上げのパイを、従来の8球団から15球団で競うことになったものだから、どの球団も一様に経営が苦しくなった。特に窮した西日本パイレーツは所属するセ・リーグを脱退を決め、パ・リーグに所属する西鉄クリッパーズと合併するに至った。新球団名は西鉄ライオンズ。この合併の結果、セ・パともに7球団ずつになった。

​​​​​​ 今回ブログは、1950年末から翌51年2月までのことを。

 西日本のセ・リーグ脱退により、旧西日本所属選手の所有権問題が絡み、両リーグ間に激しい引き抜き合戦が展開された。そして、巨人の監督をシベリア帰りの 水原茂 に譲り、実権のない総監督にいた 三原脩 は、51年から西鉄ライオンズ監督就任が決まり、巨人の3番打者・ 青田昇 が三原を追って西鉄へ行こうとしたことで、争奪戦に反撃が加わり一層熾烈な争いとなった。

 それは、その後続く 三原脩 と、球界の盟主を名乗る巨人との対決の第1ラウンドでもあった。​​​​
結果は、巨人の一方的な勝利で終わった。青田を引き戻し、また、西日本パイレーツの攻守の中心だった南村不可止と平井三郎の引き抜きにも成功した。

 このような経緯があって、51年(昭和26年)2月、三原は赴任地・博多に向けて関門海峡を渡った。本来ならば青田を連れて意気軒高に博多を訪れるはずだったが、三原の構想は最初から躓いてしまった。しかし闘争心はまったく萎えなかった。その思いの先には巨人、そして水原がいた。

関門海峡を越えながら、心で叫んだ。
「水原君、必ず君に挑戦する」。
​私は負けはしない。闘志があった。(中略)その想念の底にあるものは、掌(たなごころ)を返した巨人の首脳陣であり、いま順風の水原だった。​ (三原脩『風雲の軌跡』より)



参考:『三原脩と西鉄ライオンズ』(立石泰則著)



野球五十年(増補新版) / 大和球士 【中古】




魔術師 上 三原脩と西鉄ライオンズ(小学館文庫)【電子書籍】[ 立石泰則 ]




魔術師 下 三原脩と西鉄ライオンズ(小学館文庫)【電子書籍】[ 立石泰則 ]




激動の昭和スポーツ史 1 プロ野球 上【中古】





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2020.03.29 16:06:52
コメント(0) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

PR

Keyword Search

▼キーワード検索

Calendar

Archives

2025.11
2025.10
2025.09
2025.08
2025.07
2025.06
2025.05
2025.04
2025.03
2025.02

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: