2006年03月19日
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納所《なつしよ》花婿
 一|頻《しき》り世間を騒がせた結婚沙汰が取《と》り極《き》められて、愈々《いよ/\》名妓八千代が菅家《すがけ》へ輿入《こしいれ》のその当日、花婿の楯彦《たてひこ》氏は恥かしさうに一寸鏡を見ると、自分の頭髪《あたま》が栗の毬《いが》のやうに伸ぴ過ぎてゐるのに気が注《つ》いた。
 「これではどむならん。何《なん》ぼ画家《ゑかぎ》やかて今日は花婿やよつてな。」
と、楯彦氏は非常な決断で直ぐ理髪床《かみカひどこ》に往《ゆ》く事にきめた。
 楯彦氏はいつも頭をくりくり坊主に剃る事に定《き》めてゐるが、婚礼の宵に納所のやうな頭をして出るのも幾らか興覚《きようざめ》がした。
 「いつそ揉上《もみあげ》を短くして、ハイカラに分けてやらうか知ら。」と楯彦氏は理髪床《かみ ひどこ》へ往《ゆ》く途中、懐手《ふところで》のまゝで考へた。「そやけど、それも気恥かしいし、やつぱり五分刈にしとかう、五分刈やと誰も変に思はんやろからな。」
 楯彦氏は腹のなかでさう決めて理髪床《かみゆひどこ》に入つて往つた。床屋は先客で手が一杯になつてゐた。楯彦氏はそこらの明いてゐた椅子に腰を下して美しい花嫁の笑顔など幻に描いてゐるうち、四辺《あたり》の温気《うんき》でついうと/\と居睡《ゐねむり》を始めた。
 額に八千代の唇が触つたやうな気持がして楯彦氏は吃驚《びつくり》して目を覚ました。鏡を見ると、白い布片《きれ》に捲《くる》まつた毬粟《いがぐり》な自分の額が三|分一《ぶんの》ばかり剃り落されてゐる。
 「あつ。」

 「何《ど》ないしやはりましたんや。」
 理髪床《かみゆひどこ》の爺《おやぢ》は剃刀《かみそり》を持つた手を宙に浮かせた儘、腑に落ちなささうに訊いた。
 楯彦氏は白布《きれ》の下から手を出して、剃落《そりおと》された自分の頭にそつと触つてみた。頭は茶碗のやうに冷かつた。
 「五分刈やがな、お前、今日は……」
と言つた儘、泣き出しさうな顔をした。
 理髪床《かみゆひどこ》の爺《 やぢ》は飛んだ粗忽《そさう》をした。だが、まあ堪忍してやるさ、十日も経てば頭は五分刈の長さに伸びようといふものだ。世の中には三年経つても髪の毛一本生えない頭もあるのだから。





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最終更新日  2006年04月20日 02時12分39秒
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