2006年03月20日
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平謝《ひらあやま》り
 東京神田の駿河台に大きな病院を持つてゐる広川|和《わ》一氏といふ医学博士がある。芸者の噂でもすると、顔を真蒼《まつさを》にして怒り出すといふ、名代の堅蔵《かたざう》である。
 広川氏は多くの医者がするやうに独逸へ留学をした。洋行といふものは色々の事を教へて呉れるもので、東大の姉崎〔正治《まさはる》〕博士など、日本に居る頃は芝居を外道《げだう》のやうに言つてゐたが、独逸から帰つて来ると、劇は宗教と同じく神聖なものだと言ひ出して来た。尤も姉崎博士の言ふのは劇の事で、芝居とはまた別の物らしい。
 広川氏は独逸で芝居も見た。ミユンヘンの麦酒《ビ ル》も飲んだ。その上にまた劇場《しばゐ》よりも、居酒屋よりも、もつと面白いところへも往つた。そして大層賢くなつて日本に帰つて来た。
 広川氏は停軍場《ステきシヨン》から一息に駿河台の自宅へ帰つて来た。そして窮届な洋服を襤袖《どてら》に脱ぎかへるなり、二階へ駆《か》け上《あが》つて、肘掛窓から下町辺をずつと見下《みおろ》した。
 「かうしたところは、日本も満更悪くはないて。ーだが伯林《ベルリン》はよかつたなあ。」
と、留学中の総決算をする積りで、腹の中《うち》で彼地《あつち》であつた色々の事を想ひ出してみた。そして烏のやうに独《ひと》りでにやく笑つてゐた。
 すると、だしぬけに二階の階段を、二段づつ一息に駈け上るらしい足音がして、夫人が涙ぐんで其処《そこ》へ現はれた。
 「貴方、これは何《ど》うなすつたの。」

 「謝る/\。もう何も言つて呉れるな。」
 広川氏が平謝りに謝るのを見て、夫人は漸《やつ》と気色を直した。夫人は貞淑な日本婦人である。日木の婦人《をんな》は「貞淑」といふ文字の為には、どんな事をも辛抱《がまん》しなければならないのだ。
 それにしても夫人が蛋の上に投げつけたのは何だらう。仕合せと神様と茶話記者とは其処《そこ》に居合はさなかつたので少しも知らない。





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最終更新日  2006年04月20日 02時13分52秒
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