2006年04月01日
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中村不折
 洋画家中村不折氏の玄関には銅鑼《どら》が吊《つる》してある。案内を頼む客は、主人の画家《ゑかき》の頭を叩く積りで、この銅鑼を鳴らさねばならぬ事になつてゐる。
 ところが、来る客も来る客も誰一人銅鑼を叩かうとする者が無い。皆言ひ合せたやうに玄関に立つて、
 「頼まう。」
とか、または、
 「御免やす。」
とか言つて案内を通じる。
 何事も他《ひと》の云ふ事には聾《つんぼ》で、加之《おまけ》に独断《ひとりぎめ》の好きな不折氏も、これだけは合点が往《ゆ》かなかつた。で、お客の顔さへ見ると、六朝《 りくりてう》文字のやうに肩を変な恰好に歪めて、
 「宅《うち》の玄関には銅鑼が吊《つ》つてありますのに、何故お叩きになりません。まさか君のお目につかなかつた訳でもありますまい。」

 すると、誰も彼もが極《きま》つたやうに、
 「いや、確かに拝見しましたが、あれを叩くのは何だか気が咎《とが》めましてね、恰《ちやう》どお寺にでも詣《まゐ》つたやうな変な音がするもんですから。」
と言ふので、自分を雪舟のやうな画僧に、(残念な事には雪舟は不折氏のやうな聾《つんぼ》では無かつた)自宅《うち》を雲谷寺のやうな山寺と思つてゐる不折氏は、顔の何処かに不満足の色を見せずには置かなかつた。
 だが大抵の客は用談が済んで帰りがけには、玄関まで見送つて出た不折氏の手前、
 「成程結構な銅鑼だ。どれ一寸……」
と言つて極《きま》つたやうに銅鑼の横《よこ》つ面《つら》を厭といふ程|叩《どや》し付ける。銅鑼は急に腹が減つたやうな声をして唸り出す。
 「これはく雅致のある音《ね》が出ますね。」
と客が賞《ま》め立てでもすると、不折氏は顔中を手布《ハンケチ》のやうに皺くちやにして、
 「お気に入りましたか、ははは……」
 台所で皿でも洗つてゐたらしい女中は、銅鑼の音を聴いて、あたふた玄関へ飛ぴ出して来ると、其処《そこ》には帰途《かへりがけ》の客と主人とが衝立《つゝた》つて、今鳴つたばかしの銅鑼の評判をしてゐる。
 「まあ、帰りがけの悪戯《てんがう》なんだわ。」

 神よ、女中をして同じやうな聾《つんぼ》ならしめ給へ。





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最終更新日  2006年05月02日 08時36分39秒
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