2006年04月01日
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竹越《たけごし》夫人
 「阿母《おつか》さん、お金を下さい。」
 竹越三|叉《さ》氏の、中学へ行つて居る息子さんは、上《あが》り端《はな》に編上げ靴の紐を解《ほど》くと、直ぐに追はれる様に駈け上つた。阿母《おつか》さんの竹代夫人は、その声にこの頃凝つて居る座禅を止《や》めて、パツチリと眼をあけた。
 「お帰り、いくらです。突然に、何にするの。」
 「え\、十円。」
 十円11中学へ行く子の要求としては少し多過ぎた。つい、この頃まで、物の値段も知らなかつたその子が何にするのか。兎も角何か目論《もくろ》んで、その費用を要求するといふ事は、子供の次第に一人前の人間になつて行く事を裏書する様なもので、一方には言はう様のない頼もしさがあつた。
 「十円、何を買ふの。」
 「えゝ、万年筆を買ふんです。」
 「ちと高過ぎはしなくて。」

 「ね、二円七八十銭からも有るにはあるけれど駄目なんです。友達は誰一人そんな安いの持つてないんですもの。」
 賢明を誇る阿母《おつか》さんは、手も無く十円の万年筆を買はされた。然《しか》し腹の底では、その学校の当局者が、そんな賛沢な万年筆を、学生|風情《ふぜい》に持たせてゐるといふ行《や》り方が気に喰《く》はなかつた。
 「宅《うち》の人の二千五百年史なんか、二銭五厘の水筆《すいひつ》で書き上げたんぢやないか、真実《ほんと》に賛沢な学校だよ。」
 で、ある時竹代夫人は、何かの用事で学校に出掛けて、校長に会つた時、それとなく皮肉を言つた。校長は眼を円くして聞いてゐた。(それに無理もない。校長は万年筆が欲しい/\と思ひながら、十年|以来《このかた》鉛筆で辛抱してゐたのだ。)夫人の帰るのを待つて、生徒の誰彼は呼ぴ出されたが誰一人万年筆は持つて居なか
つた。そして最後にたつた一人あつた。その名は竹越某。





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最終更新日  2006年05月02日 08時39分20秒
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