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『きことわ』朝吹真理子(新潮文庫) 「朝吹」さんといえば、やはり、サガンですかね。朝吹登水子さん。フランソワーズ・サガンの『悲しみよこんにちは』を翻訳なさり、ベストセラーになりました。 数年前、本書の著者が芥川賞を受賞なさったとき、あ、と思っのはやはりそのことでした。 でも、そのころはさほど芥川賞に興味がなかったものだから(たぶん私は主に明治大正期あたりの作家を読んでいました)、それ以上チェックもしなかったのですが、今回ちょっとネットで調べてみると(こんな時確かにインターネットは便利ですよねぇ)、おじい様の代からフランス文学者の家系で、朝吹登水子さんはそのおじい様の妹さん、本書筆者にとっては大叔母さんにあたるそうで、なるほど。 ……名家、ですな。 ということで、「名家」に全く縁のない私は、少々ジェラシーの感情を持ちつつ本書を読み始めたのですが、……うーん、なかなか、この本、面白いではありませんか。 どう面白いかといえば、例えばこんな感じで書いてあります。 夢がくりかえされている。あの夏の一日がいまとして流れている。永遠子は眠りの目のうちでさらに瞼をつむる。足先が冷えている。夢をみている永遠子の肉体そのものが冷えているはずなのに、車内の空調がききすぎているせいだと思えていた。このまま夢の中で過ごしつづけることになったとしても永遠子はかまわなかった。これからさきに起こったはずの出来事も、この夏を機に貴子と会わなくなることも、夢のなかの永遠子は知っている。一生覚めず、やがて眠りのなかの永遠子が、外の自分の年を追い越してゆくとしてもかまわなかった。 どうですか。 私は、久しぶりに純文学らしい純文学に出会った感じがしました。 例えば、この路線の最も最高峰あたりにある文学史上の結実としては、たぶん中勘助の『銀の匙』あたりが近い感じがしました。 そこまででなくても(という言い方は少し変ですが)、上記に少し触れた明治大正期の作品でいえば、鈴木三重吉の『千鳥』とか、時代は少し近くなりますが、確か北杜夫の初期の作品群なんかもこんな感じでなかったかと思い出します。 記憶のイメージと文体で読ませる小説ですね。 最近の小説の中では、少ないんではないでしょうか。というか、絶滅危惧種に近いような気もします。 というのも、流行りは物語の復権にあるからですね。私小説の反動といえる気もします。まー、確かに、そっちのほうがずっと面白い気もしますよね。 だから、本書もちょっとしんどいといえばしんどい。ストーリーらしいストーリーはあまりありません。 子供のころ一緒に遊んだ二人の女子が二十五年ぶりに再会する。そのころの遊びの舞台だった別荘が解体されることになったため、後片付けの作業を二人でしながら、そこで様々なイメージが五感のすべてを通して彼女たちに訪れる、という感じの話です。 しかし、それでストーリーがないかといえばないわけではなくて、よみがえる記憶のエピソードがかなりくっきりと描かれているため、いわゆる「出来事」が何にも起こらない類の小説とは読んだ感じがかなり異なります。 この辺は、いかにも才能という感じがしますねー。 そしてそれで一編の作品を押し切ってしまうというのは、構成力の緻密さも感じます。 これも才能、なんかなー。それとも、「名家」。 ただ、本作は、やはり若書きなのかなという気もします。 このトーンで次々と作品を書いていくとすると、もちろんそんな作品群も実際はたくさんあるでしょうが(私はよく知らないのですが、そんな大御所がプルーストとかいう方じゃないんでしょうか)、ちょっと無理っぽい、かな、と。 ここを出発点にしながら、何を発見し、それをいかに表現していくか。 例えば、北杜夫がどくとるマンボウシリーズを超えて『楡家の人々』に到達したように、村上春樹が『ノルウェイの森』を過ぎて『ねじ巻き鳥クロニクル』に辿り着いたように。 しかし、筆者はすでにこれだけの筆力を持っている人でありますから、様々な状況に応じて少々力技的に表現を改めても、十分に対応できると思います。 文体力は、野球の守備力みたいなところがあって、スランプがあまりありません。 そんな意味でも、今後もおおいに楽しみな方でありますね。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2014.11.25
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『女のいない男たち』村上春樹(文芸春秋社) とりあえず、現段階での村上春樹小説の最新刊であります。 予定通りの短編集であります。 「予定通り」と書いたのは、これは有名な話ですが、村上春樹氏は、「大長編小説→長い目の中編小説→短編小説集」というサイクルを、見事に長期にわたって守り続けて執筆活動をしていらっしゃる方で、ちょうど今回の順番が予定通りの短編小説集であったと、そういうことですね。 しかしつくづく頭の下がる勤勉振りであります。 さて、短編集であります。 以前村上氏はインタビューの中で、短編小説は頭の中に引っかかったいくつかのフレーズをもとに、短時間に、即興的にとりあえず第一稿を書く、といったことをおっしゃっていたように思います。 それによると、そんな短編小説を鑑賞するには、あまり細かい部分について論理的にあげつらうんじゃなくて、そこに表現された言葉や展開そのものの「感覚」に大いに興味を持つべきじゃないかと、まー、私は考えまして、そして、読んだわけです。 もちろん、面白かったですねー。 そして、ある意味、少しヒヤリとしました。 何にヒヤリとしたかといいますと、これも以前よりそういった指摘をなさる方があることは私も知っていた、村上春樹氏の女性蔑視傾向であります。 例えば、本書には珍しく筆者による「まえがき」が付いてあるのですが、そこにこんな風に書いてあります。 僕がこれまでの人生で巡り会ってきた多くのひそやかな柳の木と、しなやかな猫たちと、美しい女性たちに感謝したい。そういう温もりと励ましがなければ、僕はまずこの本を書きあげられなかったはずだ。 どうということもない、いかにも「まえがき」らしいフレーズのようにも思います。 また、「柳の木」「猫」という言葉は、集中の『木野』という短編を踏まえているのだと思います。(ついでながら『木野』という短編は集中いかにも異色かつ破格な短編で、この作品はきっとこの後、次の村上作品の取っ掛かりになるように思える好短編です。) しかし、ここになぜ「美しい女性」が出てくるのでしょうか。 でも、一方でここに「美しい女性」が出てくるのは、いかにも村上春樹的とも思えます。そしてそのような表現をかつて私は、村上春樹のレトリックだと思っていました。 しかし、今回は、少しこの表現がヒヤッとします。 6作収録されている短編の最初から3作が『ドライブ・マイ・カー』『イエスタデイ』『独立器官』となっていますが(実際に筆者が各作品を書きあげた順については、「まえがき」に詳細されています。ただし、村上春樹の場合、そう書かれているからといってそれが本当なのかどうかについては、やや判断を保留するところではありますが)、1作目と3作目に女性の精神の病が、2作目に男性の精神の病(「病」という言い方がもしも不適切であるなら「大きなトラブル」が)描かれています。 そして、私が読んだ印象では、男の病は人間的で、女の病は不気味で陰湿な気がしました。これは私の読み違いでしょうか。 しかしそもそも総題が『女のいない男たち』となった時点で(その時点は、一番早い時に発生したとこれも「まえがき」に書いてあります)、こういった傾向とか、上記のまえがきの表現とかは、当然書かれるべくして書かれた、とも考えられます。 『シェエラザード』という短編中にこんな表現があります。 女を失うというのは結局のところそういうことなのだ。現実の中に組み込まれていながら、それでいて現実を無効化してくれる特殊な時間、それが女たちが提供してくれるものだった。 この短編集に描かれる「女」あるいは「女がいなくなること」とはそういう意味なんだなと分かる引用部ではありますが、さて、この上記の引用部の「女」を「男」に変えても、この文脈は成立しているのでしょうか。 そのようにも思うし、とてもそうは思えないとも感じます。 それが、今回、本短編集を読んで、最後まで私が少しヒヤヒヤし続けた原因であります。 もちろん一方で、村上作品らしい深い喪失感と癒しの感動も味わいながら。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2014.11.09
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