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『百年泥』石井遊佳(新潮文庫) 近代日本文学に哄笑できる作品は少ない、というのは、別にわたくしのオリジナルな発言ではありません。多くの方がお考えのことにわたくしも賛同しただけのことであります。 この度の紹介図書は2018年の芥川賞受賞作でありますが、わたくしも何人かの芥川賞受賞作家の、それも、女性の方が主で、いくつかの作品を読んでいますと、なかなかセンスのいい笑いを提供してくれる方が結構いらっしゃることに気が付いています。(一例だけ挙げてみますと『コンビニ人間』村田沙耶香など。) でもその笑いは、哄笑、というのとは少し感じが違う、自虐ネタ、ぽいものではないかとも思います。 で、さて、今回の報告図書であります。 本書は、最初にざっくり書いてしまうと、「ホラ話」であります。(少なくとも前半は。詳細後述) そして「ホラ話」とは、まさに西洋文学の本流であります。 私の貧弱な知識でも、例えば、マーク・トゥエイン、『トリストラムシャンディ』、『ガルガンチュワとパンタグリュエル』など、そうそうたる作家作品が挙げられます。 そんな「ホラ話」の系譜に、舞台がインドというわけで、そこには南米文学的マジックリアリズムがかぶさってきたもの、という感じのする小説であります。(少なくとも前半は。後述) チェンナイ生活三か月半にして、百年に一度の洪水に遭った私は果報者といえるのかもしれない。 この一文で作品は始まります。 豪雨がやんだ後、氾濫したアダイヤール川に掛かっている橋にあふれる「百年泥」の様子が描かれます。 そして、文庫本のページでいえば17ページめ、橋の上を歩く「私」の場面にこう書かれています。 (略)うとうと考えたところへ私の真ん前を歩いていた黄色いサリー姿の四十年配の女性が、いきなり泥の山の中へ勢いよく右手をつっこみ、「ああまったく、こんなところに!」 大声で叫びながらつかみだすと同時にもう一方の手で水たまりの水を乱暴にあびせかけ、首のスカーフでぬぐったのを見ると五歳ぐらいの男の子だった。 ……いきなりのこの描写を読んで、えっ? と戸惑わない読者はいないと思いますが、その戸惑いにめげずに読み進めると、その先は哄笑を伴いつつも迷宮のような「ホラ話」に突入していきます。 また、その書きぶりが極めて真面目で堅実。易しく丁寧な文体と来ていますから、真面目な顔してウソをつく、そのものであります。(新潮文庫カバーに筆者の写真が載っているのですが、真面目そうなお顔の女性があります。まー、得てしてこんな真面目タイプこそ「ウソつき」なのかもしれませんがー。) 泥の中から、いろんな人々や主人公にとって様々な過去を思い出すものが現れてくるのですが、ちょうど中盤あたりで、やはり泥の中からガラスケースの「人魚のミイラ」が出てきます。 ここからが、後半ということができるでしょう。 後半はその「人魚のミイラ」と重なって、イケメンのインド人青年の過去が大きくクローズアップされてきます。 (そのイケメン青年について、いかにイケメンであるかのエピソードが書かれてあって、「顔から血の気がひくほどの美形の男」とか、そのイケメンに上目遣いでじっと睨まれた「私」は一瞬意識が飛んで座り込んでしまい、「手をやると顔の両脇の髪がちりちりに焦げている」などと書かれてあります。よーやるわ。) そして、後半ですが、それが、ざっくりまとめると、自分探しの話になってくるんですね。インドまで旅をしてたどり着いた「私」が、過去を振り返って自分を見つめる、という。 そんな展開自体が悪いとは、私も思いません。 やはり「自分探し」は文学の大きなテーマだと思います。ただ、そこに、やはり少しの既視感がみられ、前半のまれにみる「ホラ話」と比較したとき、少し描かれた空間が縮んだ気がしたというだけであります。 ただ、最終盤、もう一度すべてをご破算にする泥掃除が描かれます。 このエンディングは悪くないと、私などは強く感じるものでありました。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2024.01.27
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『海』小川洋子(新潮文庫) 知人に薦められて本書をネット経由で手に入れました。私は、同筆者の本は今までに何冊か読んでいます。 それはそんなにたくさんとは言わないまでも、短編集なら、芥川賞受賞作の載っている短編集や、刺繍する少女の話の本や、なにか確か瞼を焼くような話だった本や、などを読みました。 長編小説は、例のベストセラーになった記憶障害を持つ数学者の話とか、河馬を飼う話とかを読みました。 また、小川氏は関西にお住まいなので、以前ある大学で行われた氏の講演会にも、わたくし行きましたよ。とても興味深い講演会でした。 ということで、久しぶりという感じは少しありましたが、本書を読み始めました。 七つのお話が収録されています。 適当な順番で三つほど読んだ後、ふと目次に戻って見ていると、あれ、このタイトルの話は以前読まなかったかなという気がしました。で、その話の冒頭を少し読んで、あ、この話は間違いなく読んだことがあると気づきました。 じゃ、一体どの本で読んだのか? だって、ほかの話は初読なのに……。 そこで、書棚の奥をごそごそしてみて、二つも驚いたことがありました。 ひとつは、我が家には小川洋子の文庫本が20冊以上もあったこと。 もう一つは、その中にこの『海』の本もあり、明らかに私が読んだ後が残っていたことでありました。 ……うーん、改めて、我が記憶の信頼できないことが証明されたようで、なんとも、いわく言い難く……。 ということで、我が記憶力の不明を恥じるきっかけとなった短編小説は、「バタフライ和文タイプ事務所」であります。 本短編集の中では最も異色の、というより多分、いわゆる「小川洋子調」諸作品のほとんどとは甚だしく毛色の変わった小説であります。 私は、小川洋子の小説を読んで、これほど声をあげて笑ったことはありません。(以前読んだときはどうだったのか、私の情けない記憶力ではすでに忘却の彼方であります。) ところで本書は興味深い内容になっていまして、七つの短編小説の後ろに、筆者のインタビューが収録されています。そしてそこで、筆者自身が、収録作品の解説めいたことを述べているんですね。 そして、その後ろに、別の方の本来の文庫本らしい解説文がある、と。 たまーに、筆者の前書きや後書きのある文庫本がありますが、その類ですかね。でも、インタビューは珍しく、また、その内容が、各短編のかなり丁寧な「メイキング」になったりしていて、収録作品読解がとてもしやすい、と。 わたくし、上記に触れた小川氏の講演会に行った時も感じたのですが、とても誠実な感じの人だなあ、と。本書の「インタビュー」も、その延長なのかしら、と。 ……えー、ちょっと話が横ずれしました。 「バタフライ和文タイプ事務所」の話でありますが、インタビューによりますと、この短編は官能小説執筆を依頼されて作った、と。 えー、本当かなー、と思いませんか? 小川洋子に官能小説を書かそうなんて、そんなことを、編集者は考えるんでしょうか。 でも、誠実な小川氏は、果敢にそれに挑戦するんですね。この辺が、実に真面目、誠実でありますねー。 で、出来上がった作品を、私なんかは、ぎゃははは、と声を出して笑いながら読むわけです。 でもそれは、私が変なのではなく(たぶん)、小川氏がそれを狙ってこの作品を書き上げたからであって、事実、出色の日本文学には類いまれな上質な喜劇小説になっています。(わたくしが思うに、日本文学の上質な喜劇小説は、初期の漱石、中期の太宰治、そしてその師であった井伏鱒二の何作かの短編、後はすぐには浮かびません。) という、出色異質の短編小説なのですが、それ以外の作品は、打って変わって、「正調」小川節の短編群であります。 残り6作中、2作はきわめて短いスケッチのような作品で、もちろんそこにも「小川節」は読み取れないわけではありませんが、とりあえず、この2作は外して、私の好みで上位2作を選びますと、……えー、こうなるかな、と。 「ガイド」「海」 さっきから「小川洋子調」とか「小川節」とか、少しふざけた感じの表現をしてしまいましたが、私は、小川文学の文学性の高さを保証している属性は、この二つではないかと思っています。 残酷とエレガンス 漢字とカタカナのバランスの悪い取り合わせでありますが、「エレガンス」は辞書の意の通り「優雅・気品」でしょうか。 また「残酷」の方は「奇妙」あるいは物体としての「奇形」でもいい気がします。 残酷(奇妙)さを内に含んだ、あるいは残酷(奇形)であるが故の「優雅・気品」という印象が強く、小川氏の小説が、フランスでよく読まれるというのは、さもありなんと、感じてしまいます。 ただ、本書収録作品は、残酷(奇妙・奇形)はありながらも、より前面に出ているのは、いわゆる様々な社会的弱者への慈しみの感情であり、それが大きな作品の魅力になっています。 加えて、上記に私がその中でも2作品を特に選んだのは、これらの作品には、筆者の虚構に対する信頼と自信めいたものが強く描かれていると感じたからであります。 例えば、それは「ガイド」においては「題名屋」という初老紳士の存在であります。 それは、終盤、少年が紳士にこの一日に題名を付けることを願う場面に集約され、私はこの場面を思わずうなりながら読んでいました。 一方「海」においては、「小さな弟」と「鳴鱗琴」という設定もさることながら、そこに持っていくまでの筋道に、私は戸惑いつつも感心してしまいました。 この大胆すぎる話の展開は、もちろんきわめて独創性の高い筆者の文才の生み出したものではありましょうが、それを描くにあたって、筆者が虚構の力というものを強く信じていることが、ひしひしと感じられるようでありました。 このようにして、作者は、虚構の力を信頼し自信をもって残酷とエレガンスを描き、そこに我々読者は、しっとりと人生の静かな悲しみの感覚を読み取る、これこそが小川文学の大きな魅力だと、私は感じるものであります。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2024.01.13
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