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『晴子情歌・上下』高村薫(新潮文庫) ……うーん。………うーん、……。 …と、えーっと、ときどきというか、けっこう唸り声で報告を始めるわたくしではありますがー、しかし今回の唸り声始まりにつきましては、既に本書をお読みの方はきっと、あー、さもありなん、とご納得いただけるのではないでしょうか。 何と言いますかー、唸らずにはいられないような本書であります。 なぜ唸らずにはいられないのかと申しますと、例えばわたくしの読書人生において、まぁ確かに、やや貧弱な読書人生ではありますが、それでも虚仮の一念で、アラウンド40年になんなんとする読書人生の中で、たぶん本書は一番読み終えるのに時間がかかった小説ではなかったかと思います。(大体同じくらいの長さの小説を比べて、つまり例えば円地文子現代語訳『源氏物語』なんかは比較対象とせずということですが。) 本書は新潮文庫上下2冊で合計840ページほどですが、これくらいの長さの小説は、おそらく私も今までけっこういろいろ読んでいると思いますが、今ざっと思い出すもので、例えば、北杜夫『楡家の人々・上下』、水村水苗『本格小説・上下』、司馬遼太郎『空海の風景・上下』、あ、司馬遼太郎はこれ以外にも一杯ありますね、一杯あるといえば、村上春樹の長編小説群なども……と、挙げていけばキリがないかもしれませんが、そんな中で一番時間が掛かかりました。 なぜ本書の読破はそれほど時間が掛かったのかの分析は後にして、逆に例えば上記に挙げた本などはなぜさほど読み終えるのに時間が掛からなかったのかといいますと、これはまぁ、簡単ですか。 面白かったからですね。一気呵成。一瀉千里。 村上春樹の小説なんて、「ワン・シッティング」って言いますものね。一度腰掛て読み始めたら最後まであれよあれよと読んでしまうというほどです。 そして、もう一つ、これは表に出てこないケースですが、実は読み始めたもののしかし読み淀んで読み淀んで、とうとう読みそこなってしまう読書がいくつかあって、これは結局読破に時間が掛かった小説の中に含まれないからであります。 これはいわゆるところの「けつ割り」ですね。 私の、むかーしに「けつ割り」していまだに忘れられない小説は、ハーマン・メルヴィル『白鯨・上下』新潮文庫です。上巻を何とか読み終えてそのまま「けつ割り」しました。(後日思いがけなくも、『白鯨』が大学英文科の卒論だったという男に出会いまして、「せっかく上巻が終わったのにもったいない。あの小説は下巻から俄然面白くなるのに」と言われ、切歯扼腕したことを思い出します。) さて何をお前は書こうとしているのかと問われそうでありますが、冒頭の唸り声の原因、本書の読書感想でありますが、それは結局上記2点の逆感想という事ですね。 つまり、集中して読み進めるにはあまりに面白くなさすぎ、しかしほっぽりだすには、妙に未練が残った、というのが正直な私の感想トーンでありました。 (本書をご存知の方はもちろんこのこともご存じでしょうが、本小説は3部作で、本書だけでは実は三分の一を読んだに過ぎないという事であります。) そしてほっぽりだすには未練が残るという私の感想は、一種「やけくそ」のようにも感じる筆者のこれでもかこれでもかという書き込みについての疑問でもありました。 かりにもかなりベテランの小説家である筆者ですから、自分の書こうとしている小説がふさわしい長さなのか、その時々に面白い展開を読者に提供しているのかについては、きっと自認していると思います。 で、そのうえでの本作の「異常」な長さと面白なさは、いったい何なのかという問いが、私はかなり気になったという事ですが、終盤にこんな表現を発見しました。 百万の言葉を習っても人ひとりの骨の音は実際に聞かねば分からねえ。それが言葉というものの正体だ。いくら積み重ねても言葉は言葉だ。戦前もそうだったし、戦後の安保も三池もそうだった。右にも左にも、あるのは過剰な言葉だけだ。戦前は戦地への兵隊を送り出した言葉。戦後は労働者に米の代わりに配給された言葉、言葉、言葉だ。希望の言葉。社会正義の言葉。人間の言葉! 私は、この言葉への不信感が、この膨大な言葉の群れを作者に意図させたのではないかと感じました。そして更にもう少し終盤に進むと、今度はこんな風に書いてありました。 ここは、本作の過半の部分を占める、母・晴子が漁船に乗っている息子・彰之に宛てて書いた三百日分もの手紙を読み続けた彰之が、1年ぶりに母のもとに帰って来て、そして母に対する距離感がつかめないと感じるところです。 (略)あるいは初めから、距離さえも定まらないほど母と自分の間は不確かでかたちもなかったということなのか。あれだけの量の手紙を読んだ末にやって来た渾然であることから判断するに、答えが後者であるのは間違いなかったが、この期に及んでその不確かな距離をいまはさらに手さぐりしている自分に彰之は驚き続け、その驚きもまた緩やかに上がったり下がったりする波のようだった。実に、どこがどうと特定出来ない身体のかすかな変調の感覚のようであったり、もっとあいまいな予感の一揺れのようであったりする母。何かの波動のように彰之を押し包み、宇宙の膜のように呼吸する母。その母の巨大は質量が周囲の時空をひそやかに曲げており、輪郭は見えずとも、その重力が膜を震わせてひたひたと押し寄せてくる感じだった。 ……800ページ以上もある小説を、わずか数行に代表させることはとてもできる事ではありませんが、その力を信じ切ることの難しい言葉を、しかし膨大な「質量」になるくらい費やすことで、それはやはり現実的な何らかの力を発揮するのではないかという思いが、ひょっとすれば読み取れるのかもしれません。 もっとも、そんな私のちっぽけな「謎解き」とは無縁のところで、本書の持つ強烈な言語空間は、改めて私が指摘するまでもありませんが、現代日本の小説の中で、頭一つ飛びぬけた「力技」であることは間違いありません。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2018.04.29
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『テロルの決算』沢木耕太郎(文春文庫) なぜ山口二矢を書くのかという問に対する答えとして、筆者はあとがきにこう書いています。 声を持たぬ者の声を聴こうとする。それがノンフィクションの書き手のひとつの役割だとするなら、虐げられた者たち、少数派たらざるをえなかった者たち、歴史に置き去りにされた者たちを描こうとすることは、ある意味で当然のことといえる。しかしなぜ、無差別殺人の犯人や公金横領の犯人、あるいは婦女暴行や幼児誘拐の犯人たちには向けられる《理解しよう》というまなざしが、ひとり右翼のテロリストに及ばないのだろう。私には、そのような硬直したヒューマニズムに対する、ささやかな義憤がないこともなかった……。 このあとがきが書かれたのが昭和57年(1982年)です。このノンフィクションが文藝春秋に掲載されたのが昭和53年(1978年)で、そして本書のテーマの殺人事件が起こったのが、更に遡って昭和35年(1960年)10月12日でした。 約35年前の文章(特にノンフィクションの類の文章)の背後に流れる感覚は、今読むとかなりのズレを感じますが、それがまたある意味新鮮でもあります。(その個所は例えば上記引用文の後半部ですね。) また、「序章」にはこんな風にも書いてあります。 山口二矢は自立したテロリストだったのではあるまいか。 もし、そうでないとしたら、浅沼は文字通り「狂犬」に噛まれて死んだ、ただの運の悪い人というだけの存在になってしまう。 自立したテロリストに命を狙われたという事実にこそ、社会主義者浅沼稲次郎の栄光は存在し、なぜ狙われなければならなかったのかという、まさにその理由にこそ浅沼稲次郎の生涯のドラマが存在したはずなのだ。 この文章が、私にはよく分かりません。 ただ、この文の主旨を私が理解できないのは、35年前の文章であるせいではなくて、この事件に対する筆者の評価(思うにかなり感傷的でこけおどし的でもあるように感じる評価)に個人的に違和感を覚えるせいなのかもしれません。 例えば山口二矢の人柄を説明する際の表現として、「礼儀、言葉遣い、挙措、服装、そのどれをとっても折り目正しいものだった。それは二矢の同年代の少年と比べた時、並はずれていた。」などと書かれ、それは複数名の聞き書きからも一貫して読み取れる彼の人柄のトーンとされているので、一方で下記のように書かれた彼の人格の暴力性が薄れています。 二矢は赤尾の演説の邪魔をする者を決して許さなかった。宣伝カーの上に直立の姿勢で乗っていても、口汚く野次を飛ばす者を見つけると、車を飛び降り猛烈な勢いで殴りかかっていった。 二矢はますます凶暴になっていった。さすがの福田進が、もうそのくらいでやめておけというほどだった。そういうと、二矢は笑いながら、 「もう一人二人、頭をぶち割ってきます」 といって樫の棒を持ち、デモ隊に突撃していった。 二矢は昭和三十四年五月からの半年間に、十回以上も検挙され釈放されまた検挙されるということを繰り返した。 この二つの性格の激しい落差の正体が、たぶん本書のテーマの一つなのでしょう。 しかし事件からすでに六十年ほどが過ぎ、この事件の意味が結局の所「不毛」でしかなかったその後の歴史的推移を付け加えれば、やはりそこに現れているものは、山口二矢の思考の未熟さとしかいいようがないと思います。 一方で本書に、殺されるに至るまでの人生を振り返って描かれているもう一人の主人公、浅沼稲次郎についてはどうでしょうか。 山口が一種「純粋さ」の結晶のように扱われているのに比べ、現実政治の猥雑さの中に埋もれてあがいているごとくに描かれる浅沼ですが、筆者はその心の中にあるものを山口と同じものと捉えています。 徹底した行動主義と精神の純粋さ。 左右陣営に分かれ年齢も社会的立場も全く共通点を持たないように見えながらも、この両名が心の中に抱いている「珠」は同じ色合いであると筆者は述べます。 実は、筆者が述べたかったもう一つのものがこれなのだと思います。 上記に浅沼が殺された「意味」を探った一文を引用しましたが、精神の双生児のような両名に辿り着かせるのが本書のテーマではないかと思います。 ただ、描かれた結果の両名の「魅力」の差には、かなり著しいものがあります。 同じ色合いの心を持ちながらこれほどまでに「魅力」に落差が生まれた原因については、実はこれもあとがきに筆者はさりげなく触れています。 いま思えば、私に『テロルの決算』を書かせた最大の動因は、私自身の、夭折者への「執着」に近いまでの関心にあったような気がする。 ……うーん、どうでしょうか。 自らを客観視して分析しているのでしょうが、私にはこれは何とも不満で、「それを言っちゃぁおしまいよ」と感じたのでありました。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2018.04.15
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