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山内善吉家跡に来ました。32.56675, 131.6439山内善吉家跡: 8月2日朝桝屋を発し、三須より大瀬川を渡り大貫西ノ園の当時戸長役場だった山内善吉家に入った。山内家に8泊9日間宿陣の後8月10日山内家を出て一路城山を指して進みその夜は原時行邸(旧税務署跡)に宿営した。
2021.02.16
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「荒尾の城址」で講演をやることになったので、その資料を準備しています。「荒尾の城址」というタイトルで図書館に置かせて貰っている資料が基本です。資料の表紙です。「A 219.4 アラ」が図書館の整理番号です。このNOで資料の置かれている棚を探して下さい。荒尾市の地図に、城址を配置しました。18城があります。城のリストです。別名、所在地、城主を示します。城の位置です。マップ緯度経度:緯度経度を示し、この値をGマップに示せば位置が分かります。 マップコード:カーナビに使われている位置コードで、カーナビの目的地に入力します。 駐車場緯度経度と駐車マップコード:駐車場が離れている場合、駐車場を示します。 登口:登り口がある場合に示します。ぜひ自分で訪問してみて下さい。
2026.06.01
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前頁の説明と、Gマイマップの紹介です。Gマイマップは、QRコードから見ることが出来ます。Gマップにマークをたてていますので、城址位置を拡大して見る事が出来ます。また、Gマップの現在地表示を使えば、城址に対して現在地を知ることが出来ます。さらに、ルート検索でカーナビとしても使えます。自分で城址に行く時にご活用下さい。小代氏の系図と城趾の関係です。荒尾の城址は、小代氏の居城です。小代氏が、1275年に鎌倉幕府の指示により野原荘へ下向し、府本に住み、兄弟・家臣に領地を与え城(居館)を築かせたのが始まりです。その後、加藤清正が肥後に入城するまで荒尾を領します。 系図の左が、領主で、梅尾城が平城で筒ケ岳城が山城です。(黄色が山城ペアです) 重泰の弟の政平には、増永(マスナガ)に領地を与えてますが、城址位置が判っていません。 三男の泰経には、本村を与え、本村館と尾形山城を建てています。 その他、分家・家臣にも城(居館・砦)を建てさせています。小代氏の城の配置としては、海に向かって配置されています。幕府からの命が元寇に備える為だった為か。ここで、古い時代の荒尾の海岸線を見てみましょう。作蔵先生が、現在の地図に昔の海岸線を入れられたマップです。長洲は、海で、現在の文化センターまで海でした。桜山小学校の下まで海でした。菰屋(コモヤ)野原近くまで海でした。蔵満城から野原さんへ行くには、船で山浦へ渡ってから行くことになっていました。
2026.06.02
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片山家の城・韮塚城(にらづか) 片山勝九郎・弥十郎父子は蔵満城の西側に城を構えたと伝えられる。そこは、韮塚または六郎丸と呼ばれる土地であるので、城の名も韮塚城または六郎丸城と呼ばれた。 明治の頃までは堀切の跡が見えていたといわれているが、現在は全て田畑に変わり、勝九郎の墓といわれる古い石塔が残っているにすぎない。奥の林が石塔のあるところで、ここには市の木となっている「ちしゃのき」がある。この写真の頃は、このお宅の横を通って上がれたが、今は個人の駐車場となって入れない様だ。(参考に)ちしゃの木とは、チシャノキ(萵苣の木、学名:Ehretia acuminata)は、ムラサキ科チシャノキ属の落葉高木。和名は、若葉の味がチシャに似ていることから付けられたが、樹皮や葉がカキノキに似ていることからカキノキダマシともいわれる。なお、チシャとはレタスに似た菊科の一年草または二年草。石塔とちしゃの木の立杭杭の横の、この大木がちしゃのきかな? まつのきどん、は不明。なお、警察署と湿地センターとの道路の角にも案内杭がある。32.962863, 130.439371以前「この案内と現地の間が離れており行けない」と市に訴えたが、「県のものなので県に言って」とあしらわれた、この入口表示との間に市で案内を追加すれば良いのに?と思ったが。
2026.06.04
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本村館跡(ほんむら)です。有明医療センター(旧市民病院)の西北の森になります。 本村には国道208号線から折れ込む市道(セブンイレブンの横道)が通っており、地元で「山の神屋敷」と呼ばれている集落に入ると左へ急カーブとなっており、この付近の字は大門口であり、地元では“じゃもんぐち”と転化されて呼ばれている。この集落には上屋敷という字名も残っている。この大門口を左折して300mほど進むと左側高台に「薬師堂」があり、当時、本村館跡(口述)に近侍していた侍たちの持仏堂であったと思われる・堂内には薬師如来と神像が安置されている。この宮の代々の守役・管理者は弥山家であり、宮の行事の際には自ら太鼓をうって神事を行ったという。また早朝にも毎日太鼓をうっていたというが、諸事情により、現在は行っていないそうである。 この薬師堂全面の小高い所が小代泰経の館(本村館:堀之内)跡である。南側の大牟田荒尾(126号)線側から入ると、荒尾市民病院があり、その左側で一番高い駐車場の奥から郭内に入れる個所がある。主郭(Ⅰ郭)は横幅約40m、縦幅約50mで、周囲には幅約3mm、深さ約2mほどの土塁・空堀がほぼ完全な形で残っている。この北側のⅡ郭は、主郭の広さの約半分で、ここも土塁・空堀で囲まれており、櫓台跡と思われる遺構が観察される。南側のⅢ郭は主郭の半分ほどの面積で北および東側に土塁・空堀が残っている。館の周囲の大堀跡は、南側にも伸びており、山林の端まで続いている。郭の中で大堀の遺構全体が完全に残されている城跡・館跡はこの他には見受けられず、小代氏の館の内、唯一現存し、今後の保存が一層大事である。本村館は、竹林となっている。病院の立替えでも残されて、散歩道として整備される様な話も聞いたが、現在は北の職員駐車場から通路が出来ている。この館跡の西側が城下町だった様だ。南端に、四角い土地があったが、見張り台だった様に聞いた。病院建設で分からなくなった。この土地は、更に西の丘と繋がっており、炭鉱電車のため崩されたそうだ。現県道126号線。案内板も白杭も、何も無い。教育委員会の保存熱を感じない。
2026.06.03
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ちょっと寄り道の情報ですが、荒尾の「未来の遊園地」に行ってきました。32.985141, 130.463364お子様連れで賑わっていました。正面が、お絵かきタウンです。滞在は、2時間を越えていました。子どもが楽しんで、何枚もクラフトを作っていました。案内パンフです。荒尾文化センターの子ども科学館・あらおキッズドームに出来ました。昨年の11月から、4ヶ月目に入っています。常設展示です。チームラボの作品は、「お絵かきタウン」と、「つながる!積み木のまち」と、「お絵かきタウンペーパークラフト」がありました。専用のWEBサイトがあるそうなので、アクセスしてみました。検索で「チームラボ荒尾」で、検索して下さい。「お絵かきタウン」などの遊び方が、動画などで照会されていました。
2020.02.15
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引き続き、名石神社です。御刀媛(みはかしひめ)が入水して石になったという『石』これが在るから、めいし(女石)と呼ばれたのでは無いかと思います。(由来)日向御刀媛(ひむかのみはかしびめ)が景行天皇のあとを追って、長洲に来たものの既に天皇は発った後で、女官と共に海に身を投げて石になってと伝えられる。その石は名石神社(めいしじんじゃ)に祀られている。こちらの石碑は、何なのか知りません。どなたか教えて下さい。これも、何で境内に在るのか?不明です。
2020.05.04
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月田蒙斎の墓に来ました。入り口です。32.97413, 130.43829案内標識がありました。月田蒙斎は1810(文化7)年、野原八幡宮神官を代々勤める荒尾村月田家の長男に生まれた。藩校「時習館」で学んだ儒学者であり、門下生には宮崎八郎などがいる。郷土の人材育成に尽力し、1866(慶応2)年に60歳で亡くなった。墓碑は、坂を上った先の月田家墓地の中にある。ご覧のように草茫々で、この上まで登ってみましたが、下のように更に草茫々であきらめました。多分、あの先の墓のあたりではないかと?
2021.04.28
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隣りにある宮部鼎蔵の墓です。32.81888, 130.72822標柱には、元治元年(1864)六月五日池田屋で、新選組に襲撃され自刃したとある。180514熊本・御船町・鼎春園公園・勤王の志士170321例会・講演・洋式銃開発・南関町・玉名市亀甲
2021.07.09
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阿弥蛇が池板碑を探しました。32.989703, 130.495514この池で間違いないと思い、探しました。フェンス越しで見たところでは有りません。(63)阿弥陀が池板碑(図版11(4))平山字野中(付図2-222) 小岱山の山裾にある陣屋敷の阿弥陀が池の中の島には、凝灰岩製の板碑がある。幅80cm、奥行61cm、厚さ46cmの基礎に、幅65cm、高さ102cm、厚さ17cmの板状碑身を据えたものである。碑身は、上部を花頭状に荘厳し、額縁状に彫り凹め、3段葺きの葺上蓮台上に建つ。阿弥陀如来の来迎の姿を半肉彫りにしたものである。頭光背は背部の碑面に陰刻する。銘文は、額縁の両聯に次の如く彫られてある。「一念彌陀佛、即滅無量罪 現受無比楽 後生清浄土 願主忠吉清俊 明慶五年(1496)丙/辰十月十五日妙戒 右筆弘本」とある。 この碑は明慶5年小代忠吉が、勧進僧妙戒の援助を得て、立塔した逆修供養碑であろう。池の裏に回ってみようとしました。畑の端を進みます。池からは離れて、ほぼ裏手のほうかと思いますが、フェンスがしてあり進めません。
2021.12.29
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谷瀬の吊り橋に来ました。34.10066498260384, 135.76304089964435スリル満天!空中散歩「谷瀬つり橋」(:十津川村観光協会より)日本有数の長さを誇る鉄線のつり橋。上野地と谷瀬を結ぶこの巨大なつり橋は長さ297メートル高さ54メートル。そびえ立つ深い山々に囲まれ、眼下には清澄な十津川(熊野川)が流れまさに絶景!最高のロケーション。歩くたびにゆらゆらと揺れるつり橋はスリル満点!まるで空中を散歩している気分。十津川村NO.1の観光スポットです。今では十津川村を代表する観光名所になった「谷瀬つり橋」はもともとは生活用のためのつり橋としてかけられたんじゃよ。今から約60年も前の昭和29年(1954年)戦後の復興期のことじゃ。谷瀬の人々らは川に丸木橋を架けて行き来しておったんじゃが、洪水のたびに流されとった。そこで谷瀬集落の人々は1戸当たり20~30万円という、大金をだしあい当時としては思い切った800万円もの大つり橋を村の協力を得て完成させたんじゃのら。当時の教員の初任給が7800円で米10キロが765円の時代じゃよ。今のように物が豊かでなかった時代じゃが、谷瀬の吊り橋私財を投じた先人はお互いを助け合いとても心は豊かじゃった。今ではみなに無料で渡ってもろうとるこのつり橋、先人の「まごごろ」がどれほどであったかみなの衆忘れんでおくれよ。めはりばあさんこのつり橋を渡ったカップルはアツアツ仲良しになれるんじゃあよ。ほうら、いつのまにかお互いの手、強く握りあっとるじゃろう。うふふのふ。
2023.01.08
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では、其々の城趾について見てゆきましょう。最初は、梅尾城(うめお)です。 梅尾城は筒ヶ嶽城から西へ派生した尾根の先端頂部、標高149mの山頂に築かれており、山頂から南西の曲輪群と北東尾根の曲輪で構成されている。東にフロン谷(風呂谷)、北にカジヤ谷(鍛冶屋谷)があり、北東の曲輪を「馬かけ馬場」と呼び、周囲には「殿の屋敷」・「土居内」などの地名が残っている。 南西の曲輪群が主郭部とみられ、かなり広大な削平地が南北に拡がっている。北東端が高く、南西下に堀切があり、その先に堀切に面した部分を土塁状に削り残した小段と二条の堀切が続き土橋が架かる。先端の堀切は北側に竪堀となって伸びている。この南西側一帯はシダ類が茂っていて遺構の確認が難しいが、放射線状に竪堀があるようにも見える。南端付近の東側に一部石塁の混じったような土塁が残る。 北東尾根との間には箱堀の堀切で区画される。北東尾根の曲輪は南側はきれいに削平され、東側には石塁の混じった土塁があり虎口になっているが、北側に向かって高くなった斜面はほぼ自然地形で、その先に二重の堀切を設けて尾根を遮断している。ただこの先は北の尾根側が高く、南の曲輪側には特にめぼしい防御施設もなく、あまり意味のない堀切に思える。小代氏の本城です。府本に在ります。小岱窯の、小岱山への登り道の脇から、登り口があります。登り口の、反対側がお花ですので、こちらに居館が在ったのでは無いかと思われます。登り口の階段先に、いのしし避けの柵がしてあります。以前は柵を開けて入れたのですが?位置のマップと、拡大図に縄張りを同寸で貼り付けてみました。縄張り図と、付近の写真です。本丸には東屋が在りました。お散歩コースにでもしようかという時期があったのでしょうか?祠と白杭も在りました。(登城口の説明板)梅尾城跡:梅尾城は低山に築かれた山城で、小岱山の西域末端に位置する。遺構は 標高一二〇・六九mから一五一・六二mの尾根筋にみられる。山腹はいず れも急峻で、低山ながら要害の地である。堀切や土塁等の遺構が残っている。 中心部のⅠ郭は標高一四五m。主軸方位は北から南にあり、中途から西 側へ緩やかに弯曲し平場を形成する。Ⅱ郭は北西側の尾根筋にある。主軸方位は北西から南東にあり、直線的 に延びている。端部は小山状をなし、最高所は標高一四八・四二mで、平場部分は標高一四七mである。Ⅲ郭は標高一四三m。主軸方位は北東から南西にあり、Ⅰ郭と同様に中途から西側へ弯曲する。
2026.06.02
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筒ケ嶽城(つつがたけ)です。通常は守備兵がいるだけで、戦の時に梅尾城から登って籠城する城だったようだ。 筒ヶ嶽城は小袋山の最高峰標高501.4mの筒ヶ嶽山頂に築かれている。 筒ヶ嶽城は筒ヶ嶽山頂の主郭を中心として南の曲輪群、北の曲輪群、そしてその東の曲輪群に大別することができる。主郭部から南曲輪群にかけては戦国時代末期に改修されたと思われ、深く長い空堀と西側に巡らせた横堀により防御を固めている。全体的に遺構の状態も良く規模もよい。 主郭部は南北二段で北側の山頂の曲輪の西側面に城内で唯一の石積が残っている。 南の段には財宝を収めた底なし井戸の蓋と伝えられる巨石が残る。南下には横堀が巡らされ直ぐ下に南曲輪と区画する堀切を設けて遮断している。 北下には南北に長い削平地があり、主郭の東下に帯曲輪となって伸びている。北端は小高くなり、北側の堀切に面して土塁を設けている。 西の針の耳に通じる尾根の根元には二重堀切を設けて遮断している。 主郭部の北にある北曲輪群は主郭との間に大堀切を設け、それに面した南西側にやや土塁状の土盛りを残す。北に向かって小段が続き、その先端は西側を竪堀、東側を垂直に削り落として土橋にしている。 東曲輪群に向かう東側には北側に二条の竪堀、南側に一条の短い竪堀が残っている。おそらくは手前は堀切であったと思われるが不明瞭である。現在の小岱山登山ルート地図である。全ルートを踏破しようと、歩いたルートは青ペンで塗っている。小岱山とは、筒ケ岳や観音岳、丸山、長助などの総称であり、筒ケ岳が最高峰である。なお、小岱山の字についても論争があり、小代氏の小代山だろうとの論もある。本ブログで解説している。また、蛇ケ谷からのルートは九州自然歩道に選ばれております。籠城時の物資の搬入は、南関側の登山ルートが使われたらしい。(二の丸の巨石)・巨石:筒ケ岳の巨石:この巨石は、財宝を収めた底なし井戸の蓋石と伝えられており、筒ケ岳城落城の折、大判小判が敵の囲をかすめて隠されたとの伝説が残っています。巨石には、郷土出身の大学者月田蒙斉の「小岱山に登る」の詩が刻んであります。 環境省・熊本県(注) 詩碑は、曽孫月田彬氏が昭和15年に書いたもの。「手に藤花をぬきて次第に登る。無辺の風色眸間(ホウカン)にいる。高瀬川みなぎる長洲の海、雌石(シセキ)の晒松水無(サイショウスイム)の間(文は漢文)」
2026.06.02
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赤司あかし城に来ました。33.35622, 130.60695赤司城跡: 赤司城がいつつくられたか、詳しくはわかっていませんが、(中略) 1601年、田中吉政が筑後領主となり、弟の左馬允清政を赤司城主にしました。清正(政?)は赤司八幡宮の社地に城を移築整備しました。(後略)赤司八幡宮です。
2020.12.02
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新一丁目御門跡 :32.804193, 130.698740: 「清爽園」(せいそうえん) :32.804193, 130.698862: 特別史跡「熊本城」の二の丸の入り口にある池泉回遊式庭園で、かつてここには熊本城の正面登城口であった新一丁目御門があったとされます。弔魂碑 殉難碑 : 明治初期の佐賀の乱、神風連の乱および西南戦争による戦没者の霊を祭るための弔魂碑と、西南戦争における県民の殉難碑が明治12年(1878)に建立された。 正面から見て左側が「佐賀、台湾、熊本、鹿児島四役戦死者弔魂之碑」で、右側が「熊本県人殉難之碑」である。
2021.01.07
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