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今でこそ、ゴルフはサラリーマン必須のスポーツとして大衆化され、プロゴルフの公式戦には多数のギャラリーが詰め掛けるほど人気を博していますが、戦前には特権階級の贅沢として白眼視するひとが多かったのです。たとえば、昭和4年(1929年)にはゴルフ税という課税措置がとられ、昭和14年には10パーセントの入場税をとるようになっています。のんびりゴルフを楽しんでいると国賊呼ばわりされかねない時代でもあったのです。その上、ゴルフは適性用後として、全部日本語化されていました。たとえば、ゴルフは打球、フェアウェーは芝、クラブは打球、ドライバーは木の一番、アイアンは金、ハンディは均等といった具合です。
2004.10.31
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テニスのカウントは、ほかのスポーツとは違う、一種独特の数え方をします。たとえば、0はラブ、1はフィフティーン(15)、2はサーティ(30)、3はフォーティ(40)、です。なぜこうした数え方をするのかは、諸説があってはっきりしませんが、1555年にイタリアのスカノィが書いた最初のテニスの解説書には、トリプルゲームの3、5点制を取り入れて、3×5の15を1ポイントにしたとあります。このほか、占星学説、時計説、貨幣説などありますが、いずれも決め手にかけます。ただ、0をラブと呼ぶのは、卵形の丸をフランス語で卵と呼んでいたのが英語loveになったというせつが一般的なようです。
2004.10.30
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プラスチックの円盤を投げあうスポーツ、フリスビー。この名前は、もともとははパン屋さんの名前だったのです。70年ほど前、エール大学の学生がパイを焼く皿を投げて遊んでいたのがフリスビーの起源です。しかし、金属製のパイ皿では、投げて遊ぶには危険です。なんとかして安全でよく飛ぶ円盤ができないかと考えたのが、フリスビーの生みの親として有名なフレッド・モリソン氏でした。モリソン氏はフラフープを作り出したWHAMIO社にこのアイデアを持ち込み、ともに研究を重ねて、いまのようなプラスチックの円盤を生み出したのです。そのもととなったパイ皿が、フリスビー・ベーカリーというパン屋さんのものだったのです。 余談ですが、バックトゥザ・フィチャー3の映画にも出てき ていましたよね。
2004.10.29
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長いスキー板のどこを着陸点と定めるか、ということです。両足の中間点と決められています。ジャンプ競技では着陸が一番難しいといいます。100メートル近くもすごいスピードで空中を飛ぶのですから、着陸のときは大変なショウゲキを受けます。このショウゲキをやわらげるためにほとんどの選手は、足を前後に開いて斜面なりに着地しますが、着陸点はこの両足の中間点と決められているのです。転倒して、スキーより先に体の一部が着陸した場合には、その体がついた点が着陸点となります。 余談ですが、昨日、ニュースを生中継で見ていましたが、最 初は「家族3人が無事」という報道がありました。しかし、 違いました。この”報道競争”にはとても”問題”があるの ではないでしょうか。 一番速くニュースを報道したいのはわからないことはありま せんが、あきらかに『誤報』ではないかと。 日本の報道行為は少し行き過ぎている気がとてもしていま す。
2004.10.28
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特に人間は左回りのほうが走りやすいという科学的根拠はありません。現に、オリンピックの第一回アテネ大会では、トラックを右回りに走っています。これが左回りに統一されたのは、大正1年(1912年)の国際陸上競技連盟の創立のときです。連盟創立を契機にルールの統一がなされ、トラックは左回りと規定されたので、それ以来このことが世界中に定着したそうです。
2004.10.27
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今回からは、スポーツ関係を書きます。 「あげあしをとる」 これは相撲や柔道の体の型を由来にしているそうです。対戦相手が片足をあげて、蹴ったり、倒したりしようとしたとき、このあげた足を逆にとらえて倒してしまう、という戦法です。相手の油断をみて逆につけこみ、これを攻める、これが「あげ足をとる」です。古川柳にも、”あげた足を取ろう取ろうと姑(しゅうと)ばば”というものがあり、かなり古くからある言葉のようです。
2004.10.26
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これは、料理となんの関係も無いらしく、料理人の気まぐれなおしゃれごころから生まれたようです。 18世紀も終わりごろのフランスのことです。アントナン・カーレムという当時最高のコックと評判の名コックがいました。 ある晩、彼の料理を食べにきたお客の中に、白くて背の高い帽子をかぶっている人がいたのです。これを見たムッシュー・アントナンは、すっかり気に入り早速調理場で、自分も同じような帽子をかぶったのです。 最高のコックがかぶった帽子は、その後、料理人のシンボルのようになり、腕と年季によって高さが増し、料理長のかぶるものは最高35センチもあります。 このため、フランスでは料理長のことを「グラン・ボネ」(大きな帽子)という愛称で呼んでいます。 コックの中に背の低い人がいて、背を高く見せる為にかぶった、という話もあります。・・・・ちなみに、首のまわりに巻いた白いスカーフは、もともと料理長だけが身につけることができたものです。 それはなぜかといいますと、昔は料理長だけしか冷蔵庫へ入ることが許されなかったため、寒さよけという実用的な意味があったそうです。
2004.10.25
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新潟方面の地震は大丈夫でしょうか? 阪神淡路大震災を思い出して怖いです。 チョコレート、ガム、クッキーと、現代の人の間食は、ほとんど西欧かしてしまいました。 この間食のはじまりは、2食しか食べなかった昔の人々が、食事と食事の間に食べた果実や木の実。 文字で見ると、「菓」も「果」も、果物のことで、「子」はタネ(堅果)という意味なのです。 このようにしてはじまった間食菓子は、奈良時代になって穀類のデンプンを加工してつくる間食がさかんになるにつれ、果実には水菓子や干菓子の名があてられるようになりました。 水菓子はカキ、ナシ、ウメ、モモ、ビワ、ウリ、タチバナ、クリ、クルミ、ナツメなどで、干菓子は水菓子類を干したものです。
2004.10.24
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あんぱんだからあんがあるわけですが、もともとのパンを考えると、これは、とても奇妙なものです。 パンが日本へ渡ってきたのは、約430年前。江戸時代の「和漢三才図会」には、「パンとは蒸餅、すなはちマンジュウのあんなきものなり。オランダ人つねに1個を用ひて1食分となす」とあります。 どうも、このあたりにパンにあんが入った理由がありそうです。「マンジュウのあんなきもの」とは、いかにも不満たっぷりといわんばかりではありませんか。 日本最初のパン屋は明治3年(1870年)、芝に開店した木村安兵衛の店。このパン屋は明治7年に銀座に進出し、やがてパンにあんを入れたものを売り出しました。これがあんぱんのはじまりです。 あんのないマンジュウであったパンにあんがはいったのですから、長い間の課題だった日本人の気分も、たぶんすっきりしたことでしょう。あんぱんは銀座名物といわれるぐらい評判になったそうです。 僕もあんぱんは大好きです。しかし、おいしいものはねだん が高い!1つ140円ぐらいするものがあり、ためらうこと が多いです。もっと安く、おいしいものを作ってください。
2004.10.23
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今日は、すごく寒いです。 当たり前といえば当たり前ですが。風邪をひきそうです。 人間が最初にに口にした甘いものは、おそらく木の実や果実だったでしょう。 今から1万年以上も前のスペインの石器時代の洞窟には、女性が蜂蜜を集めている壁面が残っています。 保存もきく蜂蜜はたぶん甘味料として、最高のものだったと思われます。健康にもよく、傷にも効く蜂蜜を求めて、蜜蜂の飼育は、かなり昔からはじまりました。 古代ローマやギリシャでも行われ、アレキサンダー大王が東洋遠征でインドの砂糖キビを持ち込むまでは、ヨーロッパで唯一の甘味料でした。 3000年以上前の古代エジプトのピラミッドから発掘された壷入りの蜂蜜は、腐りもせず保存されていて、人々を驚かせました。 日本では、皇極天皇の時代(642~645年)に養蜂を試みたという記録が残っています。 日本の古代の甘味料として残っている名は7つぐらいあります。「イロリ」は大豆の煮汁で現在もアメと称する少し甘いものです。 「アマズラ」は、山に生えるツタ植物の一種の汁を煮つめたもので、砂糖が利用されるまでは、最も大切な甘味料でした。「アメ」は、甘味料としては最も古く、「日本書紀」に出てきます。「無水造飴」という字が出てきますが、穀類デンプンを米芽の糖化酵素で作ったもので、つくり方は現在のものと同じです。 「アマザケ」、これはいわゆる甘酒で、甘味料としても飲料としても愛好されました。
2004.10.22
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お茶を飲むのは、日本人だけではありません。周知のごとく世界各地でそれぞれ喫茶の風習があります。 たとえば、4000年も前からお茶を味会わうことを知っていたといわれる、いわば元祖ともいえるのが中国人です。 そしてこの中国から製造法も飲み方も教わって、独自においしい日本茶をつくり出したのが日本人です。 また、ヨーロッパでは300年ほど前に、茶を発見しています。特にイギリス人は、1800年代にインド東部のアッサム地方で発見された現在のアッサム茶を知ってからというもの、「5時のお茶」という優雅な習慣を生み出したほど、紅茶好きで有名です。 さて、こうした中国茶、日本茶、紅茶も、もともとは同じ茶の木からつまれた葉が原料です。 ただ、その製造法の違いによって、こうした種類に分かれたのです。 その製造法の違いとは、葉の中にある酵素を十分に発酵させるかさせないかによって決まります。 つまり、全発酵させたものが紅茶です。 これは、つんだ葉を棚に広げてしおらせ、ローラーにかけて汁をしぼりだしてから、広げてぬれた布でおおいます。すると葉の酵素が働いて発酵し、黒っぽい色にかわるのです。そこでこの葉の色から西洋では紅茶のことを「ブラック・ティー」(黒茶)とよんでいます。 紅茶と認めるには、中国と日本だけで、紅茶は決して万国共通の名称ではないのです。 また、中国茶は半発酵させたもので、発酵度合いによっていろいろな種類が作られています。発酵が部分的なので、その色は緑茶ではないけれども、真っ黒でもありません。 日本茶は、この発酵がまつたくありません。それは、美しい緑色に仕上げる為に、製造の第一段階で酵素の働きを止めてしまったためです。 このように、同じ茶の木からつくられているにもかかわらず、まったく違う色になってしまうのです。 また、その成分も、人体におよぼす影響もすっかり違い、たとえば、紅茶に含まれるカフェインの量はかなりのものであって、飲みすぎると不眠になったり、心臓の動悸を早めたりすることがあり、危険です。
2004.10.21
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今日は、休みの為10時まで寝てました。 体がだるいです。 「越すに越されぬ大井川」と歌われ、江戸時代の要所となった大井川。 この大井川が「越すに越されぬ」と歌われたゆえんは、徳川幕府が江戸防衛の為、街道筋の大きな川には橋をかけなかったところからきています。 享保年間(1716年~1736年)も記録を見ると、大井川は川幅が800間(約1454メートル)で、両側の金谷宿と島田宿には、川会所があり、川越えに従事するものは川越人足、雑役夫合わせて800人ほどいたと書かれています。 十返舎一九の「東海道中膝栗毛」にも書かれているとうり、大井川では川越え人足のわきの下よりも水深が深くなると、川止めとされる、川の水がひくまでどちらかの宿でまたなくてはなりませんでした。 このことは旅をする人間にとってはまことに難儀なことであり、また川越え人足の中にはタチのよくないものもおり、この川越えは江戸時代の泣き所でした。 この大井川の川越え制度も明治の新時代になると、その前近代性が改められ、明治4年には人足による川越えが廃止され、渡し舟が登場します。お 大井川に渡し船が使われると、当然、失業するのは800人におよぶ川越え人足たちです。が、この人たちは皆茶の栽培に転業しました。 ここに静岡県のお茶産業の基が出来上がったわけです。川越え制度の転換が別の産業を促す。なにやら「風が吹けば桶や儲かる」を地でいったようでおかしい話です。
2004.10.20
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大阪は、朝から雨です。 また台風らしいです。気候は、おかしいですよね。 お茶といえば、茶道などの日本的文化もあって、日本古来のもののように思われますが、日本がお茶が輸入されたのは、奈良時代のことでした。 遺唐僧などが中国から持ってきたもので、当時のお茶の葉を臼で粉にして練り固めた団子状のもの。「団茶」と呼ばれるものです。 中国南西の山岳地帯を原産とするお茶は、もともとは薬として用いられました。 遺唐僧がもたらした団茶のころには、薬としてよりも、修行僧などの目覚ましに使う清涼剤としての役割が強くなっていたようです。お茶のカフェインが大脳を刺激し、頭をスッキリさせて、疲労感や倦怠感を吹き飛ばしてくれたからでしょう。 しかし、日本に入ってきた当時は、薬としての価値として見られたのか、時代が下がって、京都に平安朝を開いた桓武天皇は、茶園を典薬寮という現代でいえば厚生省の薬品の役所に管理されています。 現代と同じ抹茶が入ってきたのは、鎌倉時代初め、これも中国の宋代(960~1279年)に行われていたもので、持ってきたのは禅の研究に中国に行っていた栄西上人という人です これによって、日本の飲茶や茶道が発展することになるのですが、栄西上人は茶について『喫茶養生記』なる書物を出しました。 この中には、脚気、食欲不振、肝臓病、中風、便秘、眠気、渇きなどの諸病に効き目があるということが書かれています。 お茶のもとは、やはり栄西が持ち帰った江南種の茶の実で、方々に植えられました。
2004.10.19
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ヤンキースの松井選手は、すばらしいですね。もちろんイチ ローはすごいが松井選手もすごい。 日本人の誇りですね。 昔から「酒は百薬の長」といいますが、それもせいぜいホロ 酔いかげんまで。健康に差し障りのない酒の量は、日本酒なら1合弱までといいますが、これは肝臓のアルコール処理能力から出された数字で、お酒の強い弱いにはほとんど関係がないそうです。 酒に強いといって、毎晩深酒していたのでは、確実に肝硬変やアルコール中毒になるそうですから、やはり飲むのもほどほどに、ということでしょう。 さて、ひどく酔っ払らってしまうことを「泥酔」といいますが、この由来がちょっと面白いので紹介します。 この「泥」とは、実は空想上の虫の名前なのです。この虫は南の海にすんでいますが、骨がなく、水の中では生き生きとしていますが、水がなくなると酔ったようにフニャフニャになって、泥のように積み重なるのだそうです。 この虫の水を失った時の様子に、人間が酔いつぶれた姿が似ているからで「泥酔」という言葉ができたようです。つまり、虫のように酔うという意味です。
2004.10.18
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昨日の、日本シリーズ「中日ドラゴンズ VS 西武ライオ ンズ」の判定の協議は長すぎましたね。あそこまで時間をか けなくてもと思いました。 清酒のアルコール含有量は、約17%が普通で、高くとも20%ぐらいまでが限界です。酵母の力には限界があるからです。 そこでより強い酒を望むとすれば、発酵してできた酒を蒸留して濃縮することが必要です。つまり、焼酎とはこの蒸留酒のことなのです。 焼酎は、清酒かすを用いてもつくりますが、それ以外に、米・粟・トウモロコシ・サツマイモ・ジャガイモなどでつくったこうじを発酵させたものを蒸留してつくることもあります。 焼酎はもともと、モンゴル人がつくりはじめた酒といわれています。 わが国へは慶長年間(1596年~1615年)に来日したポルトガル人によって伝えられました。そのころ書かれた『犬枕』という書物には「頭の痛き物」の一つに「焼酎飲みたるとき」があげられています。アルコール度の高い焼酎だけに、当時の人々の困惑ぶりがわかるようです。 また、焼酎の一種で、沖縄の特産物として知られている酒に泡盛があります。これは、粟または砕け米を使ってつくられたものです。中には100年以上も貯蔵し熟成したものあります。
2004.10.17
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「しょうゆの本」によれば、しょうゆの起源は、中国古代の”ひしお”にさかのぼり、これが現在の日本のしょうゆに発展していったといわれています。醤(ひしお)は、塩漬けにした肉や魚。穀類などが発酵したもので、調味料ではなく、そのものを食したようです。 その中の大豆を原料とした豆醤が日本に伝わり、やがて日本の風土にあったしょうゆができあがったということです。 一般にしょうゆは、鎌倉時代の禅寺で、みそ上澄み液を調味料として使ったことが始まりとされています。地方によっては近年まで、しょうゆとみその区別が明確ではなく、みその上澄みをしょうゆといっており、両者の名称が混然としているところもあったようです。 しかしながら、室町中期には、液体調味料としてのしょうゆの製法が確立し、みその副産物ではなくなって、現在のものに近くなってきました。 さて、濃い口しょうゆと薄口しょうゆですが、現在製造されているしょうゆの8割は濃い口です。 濃い口しょうゆは、大豆と小麦の割合がはぼ半々で、充分に発酵熟成させて作られています。 そのため色が濃く、香りとコクのある味が特徴です。 また、関西を中心として使われている薄口しょうゆは、料理の素材を生かすため、江戸時代になって考案されたものです。 発酵熟成をおさえて、色と香りを控えめにしたものですが、食塩で熟成をおさえているので塩分は濃い口しょうゆより1割ほど多くなっています。 その他のしょうゆには、たまり、減塩しょうゆ、しろしょうゆなどがあります。
2004.10.16
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やはり朝、晩は本当に寒くなってきましたね。油断をすれば すぐ風邪をひきそうです。 寒い季節になんといっても鍋料理がいちばん。熱い鍋を家族全員で囲んで、ふうふういいながらいただく楽しさは格別です。 この鍋料理、ことに、ちり鍋や湯豆腐に欠かせないないのがポン酢。おいしさをいっそう引き立たせてくれます。 ポン酢といえば、柑橘類の酸味が味のベースになっています。柑橘類には、ポンカンとかサボンなどがあって、ポン酢の「ポン」と語源が近いので、日本語のように思いがちです。でも、これはいがいなことに、語源はオランダ語なのです。 オランダでは、ポン酢のことをpons(ポンス)といいます。これはビターオレンジ、日本でいえばダイダイの絞り汁です。これにお酒や砂糖を加えて、温めて飲むものです。このponsが日本語の酢を連想させるので、酢の字をあて、「ポン酢」と呼ぶようになりました。 オランダ語から日本語に転じとことはばたくさんありますが、ポン酢もそのひとつです。
2004.10.15
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サッカー日本代表勝ってよかった!! カレーライスにジャガイモが入っていないと、なんとなく物たりないというひとは多いと思います。 ご存知のように、カレーはインドを故郷にする食べ物です。それが18~19世紀ごろのイギリスを経て、やがて日本にも渡ってきたものです。明治初年のことです。 ただし、庶民に普及したのは、明治20年代後半のことです。 それも当初は、「文明開化の食べ物」として、ファッションのように受け止められただけで、日本人の味覚にピッタリ合ったというわけでは有りません。 それに、中に入れるものも、玉ねぎではなく日本ネギでした。玉ねぎは、明治になってから渡来したもので、まだ普及の段階には至っていなかったのです。 ジャガイモも量産段階になかったこともあり、用いられませんでした。 その後、玉ねぎやジャガイモが普及するとともに、カレーライスにも入れられるようになりました。 それでは、カレーライスにジャガイモを入れるとどんな効果があるのでしょう。 人間の味覚は、だれしもおなじではありません。すごく辛いのが好きな人もいれば少しの辛さにもお手上げの人もいます。辛すぎると思った人は、まずライスとカレーを混ぜて調整します。そして、それでもまだ辛いと思ったならば、ジャガイモをつぶせばいいのです。つぶしたジャガイモをカレーに混ぜてれば、辛さが弱まります。 「カレーライスのジャガイモは形が残ったほうがよい」というのは、このためです。(でも、ジャガイモを入れない方、なくなるまで煮込むという かたは参考にしてください。)
2004.10.14
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現代人からすればナンセンスな話ですが、昔の人はナマズが地震を起こすのだと考えていたようです。 室町時代に描かれた「瓢鮎図(ひょうねんず)」は、男が手に持ったヒョウタンでナマズをおさえて、地震が起こらないよう念じている図ですし、安政の大地震のとき出た諷刺画(ふうしが)には、大ナマズが暴れて大地震になったところが描かれています。 とにかくほとんどの人が本気でこれを信じていたようです。本当にナマズと地震は関係あるのでしょうか。 「安政見聞録」には、安政2年の江戸の大地震に関する、次のような記事があります。「本所永倉町の篠崎某という人は、常に魚を好み、10月2日夜も数珠子というものにてうなぎをとらえんと河筋所々をあさるにナマズしきりにさわぎうなぎ一つも得ず、ただナマズ3尾を得たり。さてつらつら思うに、かくナマズの騒ぐ時は必ず地震ありという、若しさることもやあらんと、漁をやめ家に帰り庭に莚(むしろ)をしき家財道具を取り出して異変に備えなせり。その妻はいぶかりて、ひそかに笑いけるに、その夜地震あり」 これは昔の人がナマズと地震の関係を、かなり科学的に観察している記録で、「ナマズの騒ぐときは必ず地震ありという」と記されているところからみると、以前からいい伝えられていたのでしょう。 ところで、大正12年(1923年)の関東大震災の前に、ナマズが騒いだ例がいくつか記録されています。 科学的に追求した例では、地震の頻度とナマズの敏感度との間に、深い関係があることを、1932年に、畑井博士と小久保博士が実験によって確かめています。 しかし、はたしてナマズが騒いで本当に地震はくるのでしょうか。 魚の研究者である方は、「ナマズは地震の前駆現象?に対しては、一応敏感といえそうだが、地震だけに敏感というわけではなく、天候の変化やその他の自然現象の変化に対しても敏感のようだから、ナマズが騒いでも、必ずしも地震がくるとはいえないわけだ」といっています。
2004.10.13
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昔から「地震、雷、火事、オヤジ」といわれ、地震は怖いものの筆頭でした。 地震の恐ろしさは、なんといつくるかわからないところにありますが、最近では地震予知の研究が進み、大規模地震ならかなりの確率で事前に察知できるという人もいます。 もっともせっかく地震を予知できても、適切な防災対策がとれなくてはなんにもなりませんが・・・。 さて、地震があると、すぐにテレビニュースの速報で、震度が知らされます。震度は0から7まで分けられ、地震のゆれ方の度合いを示す数値であることはご存知でしょうか。 この震度は、長らく観測官の感覚のみに頼ってきましたが、平成2年に気象庁が震度計を開発しました。 翌年より導入されはじめ、現在気象庁が発表する震度は、すべてこの震度計による計測値となっています。 もともと震度とは、地震ニュースの大きさを示すマグニチュードとは異なり、人間が実際に感じる揺れの度合いを示したものです。これは地盤のよし悪しや震源地からの距離、震源の深さなどによって大きく左右されます。 また、同じ震度でも、大きくゆっくりしたゆれと、小刻みに激しくゆれる場合とでは、人間の感じかたも微妙に変わってきます。 気象庁では、そうしたゆれ方の実感や被害状況とそうズレないような数値を出すように努めています。 おおざっぱ言って、花瓶が倒れたり、棚の上の物が落ちてきたりする程度が震度4、ブロック塀がくずれたり、一部の家がこわれたりする程度が震度5、関東大震災のような大きな被害が出る激しい地震が震度6と考えていいでしょう。阪神・淡路大震災は震度7でした。
2004.10.12
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「女心と秋の空」というと、現代女性には「いえ、男心と秋の空よ」と反発をくらいそうですが、いずれにせよ、朝のうちは澄み渡るような秋晴れだったのに、数時間もたたないうちにどんよりとした曇り空に変わってしまう秋の空、男女の心情の移り変わりによくたとえられます。 たしかに、秋の空は1年中を通して、最も変化が速く、コロコロとめまぐるしくかわります。 これはいわゆる天気がよい移動性高気圧と、天気悪い前線とが、交互に、しかもかなり速いスピードで日本の上を通過するからです。 春の天気もよく似ているのですが、秋の場合には一時的に冬型の西高東低の気圧配置になり、シベリア高気圧が北日本に張り出してくると、西からきた前線が、日本の南岸に停滞していわゆる秋雨前線ができて、関西から西の太平洋沿岸では北東の冷たい風が吹いて、長雨を降らせたりします。 その上、秋には台風がやってきて、この前線に接近でもしてくれば、大雨になったりするので、ますます天気の変化はめまぐるしくなるというわけです。 さらに、気温のほうも下がってきて、朝夕めっきり涼しく感じるようになると、午前中はポカポカ日だまりで気分よくすごせたのに、突然どんよりと日がかげって寒くなってしまうと、心情的にも秋の空の変わりやすさが、身にこたえるものです。
2004.10.11
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台風というのは、北太平洋西部で発生した熱帯低気圧のことで、この低気圧が発達して、圏内の最大風速が17メートル以上の強い低気圧になったのを「台風」と呼ぶようです。 この発達した熱帯低気圧は、太平洋以外にも発生し、大西洋の熱帯で発生しアメリカを襲うものを「ハリケーン」、インド洋に発生するものを「サイクロン」と呼んでいます。 台風やハリケーン、サイクロンでも、圏内の最大風速が17メートル以下になると「熱帯低気圧」と呼んでいます。 さて、台風はその中心部に向かって、非常に強い風が渦を巻きながら吹き込んでいます。それが中心に近づくにつれて、ますます風が強くなり、そうなると、空気の働く遠心力も非常に強くなって、それ以上中心に入れなくなって、目ができてくるのです。 目のまわりには激しい上昇気流と高い積乱雲の壁がありますが、上空には下降気流があるために、雲が切れてぽっかりと青空がみえます。 そこで、いままで暴風雨が吹き荒れて、すさまじかったのに急におさまって、風も弱くなり、青空がサーッと広がったりすることがあり、ヤレヤレ台風が通過したとホットする間もなくまた荒れ模様になります。 これは、台風の目が通過したいたずらで、実際には、台風は半分しか通過しておらず、台風の目が過ぎ去ると、また暴風雨がやってくることになるからです。 ちなみに、この台風の目は、発生して間もない低緯度の熱帯地方では大きく、中緯度地方にむかって発達するにしたがってだんだん小さくなります。 しかし、今年の台風の上陸数は以上ですね。私は、大阪府に住んでいますが、幸いなことにほとんど被害はありません。テレビを見ているとすごい災害にあっていらっしゃる方が多いのには、びっくりするほかありません。
2004.10.10
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世界で最も高い山脈が、ヒマラヤの峰々です。この高い峰々が、大昔は海底だったというのですから、何か信じられないような気がします。 こんな高い山が海底だったと、なぜわかるのでしょうか。 その推定のポイントは、山脈中で発見される魚や貝殻の化石の地層です。 長い地球の歴史の間には、幾度もの地殻の変動があり、土地が隆起したり陥没したりを繰り返しています。 したがって、世界中のどんな土地もかつては海底であり、海底はまた陸地であった歴史を持っています。 ヒマラヤは、7000万年前のアルプス造山運動で生じました。中世代には、巨大な堆積層を持った、テティス海の底だったと推定されています。 ヒマラヤの険しい山脈は、特に風化侵食が激しいですが、このため山脈の深い部分が露出して、古い時代の地層が現れています。 それらは石灰岩層や、ムリー堆積層、シワリク堆積層と言われるもので、明らかに海水中や海底で生活していた魚や貝殻の化石も見つかっているのです。 どのくらい以前に海だったかを知るには、この化石の見つかった地層を、放射線の測定で調べてみると、正確な年代が明らかになります。 世界中の他の土地と同じように、ヒマラヤも海底だったことが、こうやって推定されています。 (知っている方が多かったかも知れません。)
2004.10.09
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太陽は地球からはるか1億5000万キロメートルのかなたにあります。これこそ天文学的な数字で、どれくらいの距離なのか、見当もつきません。 たとえば、この距離は1秒間に地球を7回り半する光の速さでも太陽まで8分19秒かかるようです。 ところで。この太陽から私たちは巨大なエネルギーを授かっています。 海岸の砂は真夏は80度まで上がり、とてもはだしで散歩などできるものではありません。 こうした熱量は、実際は太陽が出している熱のわずか20億分の1で、そのほとんどは宇宙に放出してしまっています。 これほどの熱量を持った太陽の温度はどれくらいかというと中心部で1500万度C,表面で約6000万度C、黒点が約4000万度Cといわれています。 もちろん、こうした温度を直接はかることは、無理です。 では、どうやって測定したかというと、物質のベクトルによって逆算したものです。 日光をプリズムにあてると、7色に分かれ、色のついた光の帯になります。これがスペクトルと呼ばれるものです。物質のスペクトルはちょうど人間の指の指紋と同じように、その物質独自のものです。 そこで、このスペクトルを調べると、元素の種類や、量、温度がわかるそうです。 こうしたことをもとにして、中の温度がどれだけになっているはずだ、ということが計算されて出てきたわけです。 しかし、太陽が一番熱い中心部から遠く離れた外のほうは、熱源から離れるのでだんだん温度が下がるのが普通ですが、コロナと呼ばれる太陽の外側の大気の部分は、100万度C高温です。 これはなぜかという学説がいろいろあって、まだはっきりしません。というのは。このコロナの部分は皆既月食のときしかその姿を現さないから、十分調べようがないようです。 このように、太陽の仕組みは、なかなか複雑で、しかも調査も十分でないため、この温度にしても、かなりおおざっぱな計算しかできていない、というのが本当のところです。
2004.10.08
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磁石のS極はどこをおいても南の方をさします。ところがすべての方角が北の地点が地球上に一つだけあります。南極です。ここに磁石をおくとどうなるでしょう。 これはちょっと意地悪な質問で、実は南極点は磁石にとって特別な点ではありません。 磁石のさす南とは、南極点の方角ではなく、南磁極という南極点から少しずれた地点の方向なのです。 ですから南極点におかれた磁石のS極は、南磁極の方向をさします。 南磁極は1985年現在で、およそ南緯七十八・三度、東経一〇六・五度。ボストーク基地(ロシア国)の近くにあります。ですから、磁石はだいたい北東の方向をさすわけです。 どうして南極点と南磁極とが違うところにあるのでしょう。南極点は地球から自転軸の南端にあるます。一方、南磁極は地球内部の核の自転軸の南端にあたります。核はどろどろの溶岩のようなものですので、地表面の自転と、核の自転との間にわずかながらずれができているのです。 しかし、南磁極は一定ではなく、たえず移動しています。前に、南磁極の位置を、1985年現在と書いたのはそのためです。 では、南磁極に磁石をもっていくとどうなるでしょう。このときは、S極を下にして磁石は直立します。 現在でも天測は極地旅行には欠かせない技術です。植村直己氏が北極点を目指したとき、第一次南極越冬隊長をつとめた西堀栄三郎氏に天測の指導をうけたという話があります。
2004.10.07
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南極は大陸で海に囲まれています。ところが北極はこの逆で、まわりはを大陸に囲まれた海です。 ご存知のように水は温まりにくく、また冷えにくいものです。ところがこの水に比べて、陸地のほうはずっと温まりやすく冷えやすいそうです。 また、北極には氷山がありますが、その高さはせいぜい数メートルです。これにたいして、南極のほうは大陸ですから、何千メートル級の山があります。 こうした地形を考えあわせると、南極と北極の温度差の違いはおのずからはっきりしてきました。 ちなみに、最も気温が低くなる、太陽が昇らず一日中夜が続く期間に気温をはかると、南極大陸の中心部ではマイナス60度C以下になります。北極ではマイナス30度Cから40度C程度です。 北極でマイナス30度Cというと、その数字を聞いただけでたいへん寒いように思われますが、これが意外と寒くないのです。 なぜかというと、北極では風がたいへん弱いので、吹雪にでもならない限り、寒さはしのぎやすいそうです。 これに対して、南極では、中心部で冷たくなった空気が大陸のまわりに流れだしてくるので、強い風が吹いています。さらにこの風が強くなると、猛吹雪をともなったきわめて温度の低い暴風、いわゆる「ブリザード」と呼ばれる激しい風が吹き荒れます。この風は氷片も含んでいるため、破壊力が強く、木材材も削り取るほどです。 こうした寒風が、斜面を吹き降ろしてくるようなときを「かたば風」と呼んでいます。 つまり、南極と北極では、南極のほうがずっと寒いわけです。
2004.10.06
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1912年4月14日夜、ニューファンドランド沖を航海中の豪華客船タイタニック号は巨大な氷山と衝突し史上最大の海難事故を引き起こしました。北極海の氷山は、ときとして大西洋を南下し、航行中の船舶にとても危険な存在になります。 一方、根室の「流氷まつり」で知られる流氷これも船の航行を妨げるやっかいなものですが、海をうずめつくすした流氷原はどこまでも歩いて渡っていけそうで、なんとなくロマンを感じさせます。 この氷山と流氷は、たんに大きさが違うだけではありません。まったく別の種類のものです。 氷山は、海に浮かんでいても、海水が凍ったものではありません。陸地の氷河が海に押し出され、流れだしたものです。氷河の氷の原料は雪ですから、氷山の氷は溶かしたら真水になります。南極は氷山をアブラの乾燥地帯までひっぱってきて、水資源として使おうという話がありますが、これも氷山の氷が不純物を含まない純粋な氷だから考える計画なのです。 一方、流氷は海水が直接凍ったものです。だから流氷の氷は塩分をたくさんふくんでいます。北極の氷はほとんどがこの海水が直接凍ったものです。 ・・・ちなみに、前記のタイタニック号が衝突した氷山は、カナダ北極圏のエルズメア島の氷河から流れ出したものといわれています。 氷山は、海上に出ている部分の数倍の体積を海中にかくしていますから、当時最大の客船タイタニック号といえども、ひとたまりもなかったのでしょう。 (この間のTV放送は、見ましたか?僕も一度レンタル ビデオで見ましたが、再度、見てしまいました。)
2004.10.05
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気象衛星による天気予報も身近なものになりましたが、「東京地方の今日の天気は曇りのち一時雨・・・・」 この天気予報を聞いて、どんな天候を予想するのでしょう。おそらく、どんよりした曇り空を想像し、外出するときは、カバンの中に折りたたみ傘を忍ばせるでしょう。 では、正確には「一時雨」とはどのくらいの雨のことを言うのでしょう。 これは、天気予報の時間帯の四分の一未満を降り続く雨をいっているのです。「今日の天気」なら日中の12時ですから、そのうちの四分の一でしかも一度きり、3時間以降り続く雨のことです。 似たような用語に「ときどき雨」がありますが、これは雨の降る時間が予報時間の四分の一以上二分の一未満、もしくは降ったりやんだりする雨の合計時間が二分の一未満であることを表しています。 この用語法は「雨」に限らず「曇り」や「晴れ」の場合も同じです。 ですから、普通は「一時雨」よりも「ときどき雨」のほうが外出先で雨に出会う確率が多いといえます。・・・ちなみに、「晴れ」と「曇り」の区別ですが、「晴れ」と「曇り」の区別ですが、「晴れ」と「曇り」は雲量によって区別されます。「雲量」とは雲が全天をおおう割合で、10段階で表示されます。雲がまったくないときは雲量0、全天をおおっているときは雲量10、天の7割をおおっているときは雲量7といいます。 雨量0から1までを快晴、雲量2~8までを晴れ、雲量9以上を曇りとしています。 (最近は、天気予報を当てるのも難しくなっているんでしょ うね。)
2004.10.04
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「星はどうしてまたたいているの?」 「地球にウィンクしているのさ。」 こんな親子も会話がありました。星は、なぜまたたくのかを、科学的に説明しましょう。 たき火を通して見ると、向こうの景色はゆらゆらして見えます。かんかん照りも暑い夏にも、同じ現象が見られます。 これらはすべて、空気が動いているからです。空気は、温められることによって、どんどん上昇します。当然、そのことによって、空気は動きます。 空気が動くと光の進み方が乱れて、景色がユラユラゆれるというわけです。 星がまたたくのも、実は同じ理由によるものです。 空気が乱れるために、星はまたたきます。特に、上空の空気は常に激しく動いています。これは、大気の温度分布が一様ではないからです。 そのため、小さな乱気流はいつでも存在し、通る光をあちこちに曲げているのです。 (確か僕たちの見ている星の光は、ずいぶん時間がたって いるひかりですよね。)
2004.10.03
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12月にもなると、各地のスキー場からは雪の便りが次々と届き、スキーヤーたちは愛用のスキーのエッジをみがきながら、白銀の世界には思いをかせるようになります。実際に行ってみると、交通機関の混雑とかリフトの順番待ちとか、結構不愉快なことも多いのですが、シーズンが終わると、楽しい思い出ばかりが残るのがこのスポーツの不思議なところです。 さて、スキー板を裏返してみると、必ず滑走面にタテの溝がほられていますが、この溝の果たす役割を考えたことがありますか。 あの溝ははスキーがまっすぐ滑るための方向維持のためつけてあります。現在のスキーでは、硬い急斜面をスピードを出して滑り降りることが多くなっていますが、そのスキーが左右にブレて直進しなかったら非常に危険です。それで、この溝が滑る方向を正しく維持する働きをしているのです。 特にジャンプ競技では、ジャンプ台をスキーがまっすぐ滑ることが非常に大切です。そこで、ジャンプ用のスキーには溝が何本もほってあります。 逆に、ターンをするときには、スキーを横滑りさせるときの抵抗が強くなりますから、ターンを重視するなら溝は浅いほうがよくなります。 フリースタイルと呼ばれるちょうどスケートのフィギュア競技のような、アクロバティックは技を行うスキーでは、溝のない板を使っているようです。
2004.10.02
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最初に、水中メガネをかけない場合を考えてください。 目をあけたまま水中に潜ったことのあるひとなら、だれしも、底がぼんやりしか見えないことを知っているはずです。 これは、人間の目の屈折率が、水の屈折率とほとんど同じであるためです。このため、水中では、光線の焦点は網膜のずっとうしろになり、ぼんやりと映るだけになります。 それでは、魚たちは水中のものが見えていないのでしょうか。けっしてそうではありません。その秘密は、魚の目の水晶体にあります。 魚の目は、特別につき出ています。しかも球形です。これでわかっていただいたと思いますが、魚の目の屈折率は、多くの生物の目のうちで大きいのです。 本題に入りましょう。 水中メガネをかけると、よく水の中のものが見えるのは、魚の目のような機能をはたしているからではありません。 実際、水中メガネは特に凸レンズということもなく、普通の平面ガラスしかつけてありません。 この場合、一番重要なことは、目が空気の層によって、水と離れているということです。 つまり、光線は、水からガラスを通りぬけ、さらに空気を通って初めて目の中に入るわけです。 もちろん、メガネの内側の空気から目に入るときは屈折をします。この状態は、大気中にいるときと全くおなじです。 水中メガネをかけると、きれいに水の中がみえるのも当然といれば当然です。
2004.10.01
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