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2017.02.11
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カテゴリ: 探訪 [再録]


  [探訪時期:2015年11月]
2015年秋、「京都非公開文化財特別公開」の期間に、泉涌寺山内町にある 「即成院」 (そくじょういん) を訪ねました。それと併せて戒光寺を拝見しています。再録しご紹介します。

即成院は 「光明山」と号する真言宗泉涌寺派の寺院 です。今は東山の泉涌寺山内に所在しますが、寺伝によれば平安時代・正暦3年(992)に惠心僧都が伏見(宇治川北岸)に建立した光明院が起源とされています。関白・藤原頼通の子なのですが、その母が讃岐守橘俊遠に再婚したことから橘氏を姓とした橘俊綱が寬治元年(1087)に伏見桃山に広大な山荘を造営したといいます。その折に、光明院を阿弥陀堂として移設したのです。後に、その山荘を寺院に改めてからは、「伏見寺」または「即成就院」と呼ばれたそうです。 (駒札、資料1,2)

ところが文禄3年(1594)豊臣秀吉による伏見城築城にあたり、深草大亀谷に移転することになります。江戸時代に出版された『都名所図会』に「即成就院は深草の東、大亀谷にあり。本尊は阿弥陀仏の坐像なり。脇壇に二十五菩薩、ともに惠心の作なり。・・・・」から始まる案内が記されています。

併せて、この絵が掲載されています。 (資料3,4)
見開きの右のページのお堂が即成就院です。左のページには、桓武天皇塚(左)、深草瓦師(右)という記載があります。

昭和16年(1941)から「即成院」と呼ばれるようになった そうです。 (資料5,6)

本堂に安置されているのが、 本尊阿弥陀如来と二十五菩薩 です。堂内は撮影禁止でしたので、当日のリーフレットの掲載写真を引用させていただきます。

冒頭写真にあるように、山門の右前に「極楽浄土」の文字幕が張られ、リーフレットに「現世極楽浄土」と記されている意味合いが本堂に入ると感じられます。末法の世の到来と言われた平安時代に、浄土信仰が盛んとなり、藤原頼通の建立による宇治・平等院がその代表例となります。阿弥陀如来と二十五菩薩来迎図という絵が数多く描かれていますが、それが現前にすべて仏像として立体的に並んで出迎えてくださる状態に接した人々は、正に現世で極楽浄土に接したと感動したことでしょう。対面するとまさに壮観です。

「即成院」のホームページには、 「極楽浄土を奏でる仏像のオーケストラ」 というキャプションで具体的に二十五菩薩の名称と説明も加えて、写真で紹介されています。 こちらからご覧ください。

阿弥陀如来の高さは5.5m、二十五菩薩の像高は150cmだそうです。 (資料1)
二十五菩薩像は、平安時代の作が10躰、江戸時代の補作が15躰といわれています。 (資料5)

平安時代・寬治年間以降文禄3年までは、宇治川を挟んで北に伏見寺、南に平等院が併存し、極楽浄土の世界を現出していたということになります。
『都名所図会』には、惠心僧都の霊験譚が記されています。惠心僧都が来迎の相を仏像として刻んだものと言われているのです。比叡山の横川で惠心僧都が説法をされているときに、伏見里に住む老翁が来て斎(とき:仏家における食事)を捧げたいと乞うたことに始まるのです。惠心僧都が伏見に至り、老翁との対話の折に、阿弥陀仏・二十五菩薩が現れたのだとか。そして、その老翁は維摩居士の化現なのだと答えたという伝承です。維摩居士が出てくるのは興味深いところです。 (資料3)


 本堂傍の部屋に展示されていたのがこれら菩薩面です。


これらの面は間近で撮らせていただけました。
これは 毎年10月の第3日曜日に行われる行事「二十五菩薩お練り法要」の時に使用される面

これがそのシーン。リーフレットからのご紹介です。

本堂(極楽浄土)と地蔵堂(現世)との間に、高さ2m、長さ50mの来迎橋が渡され、その間を菩薩面と金襴の装束を着けた稚児が僧侶とともに、また数多くの稚児たちも伴い、往還する練り歩きが現出されるのです。テレビのニュースでは何度か見ていますが、その面と装束の一例を見るのは初めてでした。この写真の先頭に写っているのは大地蔵菩薩です。大地蔵菩薩は阿弥陀如来の化身とされています。

この後、本堂から一旦出て、外廊伝いに本堂の東にあるお堂を訪れます。
坂道になった外廊の片側に、石仏や石塔が数多く並べて安置されています。
もう一方の本堂の背後辺りは谷間になっていて、坂道(外廊)からは低いところに、井戸が眺められました。

お堂には、 巨大な石造宝塔 が安置されています。「松香石製の一重の多宝塔で、笠石の軒は厚く、鎌倉時代の豪建な作風を示している。塔身基礎は床下に隠れてよくみえないが、大きさの点においては最大のもの」 (資料2) です。高さが3mあるそうで、 寺伝では那須の与一の墓といわれる供養塔 だとか。 (資料1) 提灯に 「願いが的へ」 というのは、那須の与一にあやかってのフレーズでしょう。
『都名所図会』には、こんな記述があります。「また寿永の頃、奈須与一宗高平家追討のため出陣の時、当院に詣で祈誓して曰、今度戦場において誉れを得さしめ給へ、当院を再建すべしと」。那須与一は壇ノ浦で見事に扇の的を射るという名誉を得たのです。そして、「これ本尊の擁護なりとて堂舎を修造し、願望成就の奇特を世に知らしめんとて即成就院とぞなづけける」とか。
伏見にお寺があった時は、この供養塔は堂の前に位置していたと記されています。上掲の絵もそのように描かれています。 (資料3)

山門から境内についても触れておきましょう。
冒頭の写真をご覧戴いたとき、屋根の棟の鳳凰に気づかれましたか?
私は残念ながら、この記録整理をしている時に、初めて再認識した次第です。山門を撮る時には意識していませんでした。次回、訪れたときに意識的に観察してみようと思っています。



門の扉には、鳳凰が透かし彫りで彫刻されています 。鳳凰は瑞鳥文様なのです。


山門を入ると、正面に「地蔵堂」があります。



お堂に近づいて境内から拝見すると、 かなり大きい石造地蔵尊坐像が祀られています
 山門を入った東側の近くにある小祠ですが、不詳。
そして、ここからほぼ一列に境外の参道と平行するように、東方向に様々なものが並んでいます。

「与一の手洗い場」 の木札が掛けられた手洗い場と その西側に石造毘沙門天立像 があります。

手洗い場の東には、六角形の細長い 「霊弓殿」の扁額 が掛けられたお堂が建立されています。前面の扉には 菊の紋章の上に「一」という文字 が見えます。
丸の中に「一」が那須与一の家紋のようですが、「一菊紋」も那須与一家の紋と説明しているサイト記事を見つけました。 (資料7)
いずれにしてもこの霊弓殿は那須与一とのゆかり、弓道との関連で建立されているのでしょう。

弘法大師像


その前に 狛犬に相当する石像 が置かれています。弘法大師を護る山犬というところでしょうか。ちょっとめずらしい組み合わせのように思います。こういうのは見たことがありません。

 顕彰碑が建立された東側に立つ 不動明王立像


本堂側から山門方向の境内の南側の景色

     境内の北側 地蔵堂に隣り合って、東方向に並ぶ建物群
     朱色の大日傘がちょっと風情を添えています。

本堂の西側端に、東の方向に細い坂道 がありましたので、そこを上ってみました。そこは上掲の石仏の並ぶ外廊の外側にあたります。 そのまま歩むと即成院の東に接する「戒光寺」の境内に 繋がっていました。

戒光寺の建物群
写真の 奥側のお堂が本堂 のようです。 本尊は釈迦如来像 なのですが、ビックリするのはその大きさです。玉眼入、極彩色の丈六の立像なのです。 台座から光背まで含めると、約10mの高さになる大仏像 ですので、見応えがあります。やや前かがみな感じです。「手法は写実性に富み、多分に宋風彫刻を帯びている」 (資料2) ともいわれています。
駒札によれば、 運慶・湛慶父子の合作で寄木造の大仏 です。「首から上の病や悪いことの身代わりになって下さる身代わり釈迦」と言われています。 (駒札)
この釈迦如来立像は普段も拝観できます。

本尊の丈六釈迦如来像はこちらのページをご覧ください。  (「戒光寺」ホームページ)

鎌倉時代の安貞2年(1228)に宋国より帰国した曇照律師が後白河天皇の勅を得て東寺の近くに戒律の道場を開いたのが起こりのようです。応仁の乱に罹災し、たびたび寺地を変えているそうです。現在でも、東寺の北東方向、八条猪熊通のところに、戒光寺町、その東に西九条戒光寺町という地名が残っています。このあたりに、寺地があった名残なのでしょう。

境内の南側に、 弁財天 が祀られています。朱色の鳥居が立っていますが、建物はお堂です。 大弁財天と墨書した提灯が掛けられています。


泉涌寺では、「泉山七福神めぐり」が新春恒例の行事として行われているのです。
泉涌寺山内の「 即成院に福禄寿、戒光寺に弁財天、観音寺に恵比寿神、来迎院に布袋尊、雲龍院に大黒天、悲田院に毘沙門天、法音院に寿老人 がそれぞれ祀られている」ようです。即成院の福禄寿というのは気づかなかったのですが、非公開寺院の公開として今回拝見した雲龍院では、大黒天を拝見しました。 (資料8)

この戒光寺の弁財天も新春早々、七福神めぐりで賑わったことでしょう。

弁財天堂の屋根の獅子口の足元がすごい装飾です。



拡大したのがこれです。龍が少し異なるデザインで装飾されているのです。
軒丸瓦は法輪の意匠のようです。

お堂の向拝の頭貫の木鼻もかなり凝った彫刻が施されています。これほどの彫りのものもそうそう見かけるものではありません。私にはちょっとめずらしいと感じるものです。

もう一つ、戒光寺で付言しておきたいことは、 伊藤甲子太郎に関連する事柄 です。新撰組に加わっていた伊藤甲子太郎とその一党が、近藤勇と袂を分かつにあたって、泉涌寺の戒光寺長老湛然の斡旋で 禁裏御陵衛士 を拝命して、 高台寺の月真院を屯所にした という経緯です。この戒光寺の墓地に、伊藤甲子太郎以下4名の墓所 「禁裏御陵衛士の墓所」 があることです。現在は、墓参申し込みをしておかないと参拝できませんので、別の機会にと断念しました。

ご一読ありがとうございます。

参照資料
1) 「京の古刹 現世極楽浄土 即成院」 拝観時にいただいたリーフレット
2) 『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂 p72-75
3) 『都名所図会 下巻』 竹村俊則校注 角川文庫
4) 都名所図会. 巻之1-6 / 秋里湘夕 選 ; 竹原春朝斎 画 :「古典籍総合データベース」
       第5冊 前朱雀 30コマ目です。        早稲田大学図書館
5) 即成院   :ウィキペディア
6) 即成院  泉涌寺 山内寺院の紹介 :「御寺 泉涌寺」
7) 太田神社   :「伝承と伝統の民族文化遺産」
8) 泉山七福神   :「御寺 泉涌寺」

【 付記 】 
「遊心六中記」としてブログを開設した「イオ ブログ(eo blog)」の閉鎖告知を受けました。探訪記録を中心に折々に作成当時の内容でこちらに再録していきたいと思います。ある日、ある場所を訪れたときの記録です。私の記憶の引き出しを兼ねてのご紹介です。少しはお役に立つかも・・・・・。ご関心があれば、ご一読いただけるとうれしいです。

補遺
即成院  ホームページ
那須与一   :ウィキペディア
大田原市 那須与一の墓   :「ツトムさん家の写真日記」
京都・即成院二十五菩薩お練り供養  :YouTube
京都・泉涌寺の塔頭・即成院で「二十五菩薩お練り供養」 :YouTube
泉涌寺の七福神   :「京都観光旅行のあれこれ」
泉山七福神巡り   :ウィキペディア
戒光寺  ホームページ
禁裏御陵衛士の墓所

   ネットに情報を掲載された皆様に感謝!


その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)


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Last updated  2017.02.15 22:01:30
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