「宗教人類学入門」
関一敏・大塚和夫・編 2004/12 弘文堂
二
つの概念を繋ぎ合わせて、新しいジャンルを創り出そうという試みは興味深いものではあるけれど、その意に反して、必ずしも画期的な成果を得ることができるとも限らない。単純に隘路に突き進んでしまい、頓挫する、ということも大いにありうる。
中沢新一の「芸術人類学」という本に手を伸ばそうとして、ついこちらのほうに先に手がでた。「入門」と書いてあっただけ、こちらのほうを先に読むべきかと(爆)。○△人類学、という言葉が多く跋扈しているということは、いかにフロイトの心理学というジャンルと同 じくらいに
レヴィ=ストロース
の
衝撃が大きかったかということを意味しているのだろう。だから、まずは、その大元のレヴィ=ストロースから始めなくてはならないのだろうが、今は先送り。
この本、中堅どころ(1949生~1960生)の学者たち15人によるオムニバス。このような雑多な知識はあちこち彷徨しているうちに身に着けるべきもののように思うのだが、この本「入門」とあるかぎり、「彷徨」へ旅立つ前の、更なる旅ガイドという位置づけか。「ヒンドゥー教」の項にこうある。
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世紀後半を生きた超人的行者であり、無分別の境地を体験するラーマクリシュナ然りである。ラーマクリシュナはその後ムハンマドのヴィジョンやキリスト教の見神体験を経て真実は1つとの近代ヒンドゥー普遍主義に到達し、そのミッションは弟子ヴィヴェーカーナンダに託され世界的に展開していくことになる。20世紀世紀前半を生きた聖者ラマナ・マハリシ、神智学協会がメシアとして発見したインドの神秘家クリシュナムルティなども眼を引く。20世紀後半から今日までも神秘家と目される大小さまざまな聖者がインドには輩出している。サイ・ババ、シヴァナンダ、ムクタナンダ、マハラジ、ラジニーシ、アマチなどグローバルな教団を組織するまでになっている。マハリシ総合研究所のTM(超越瞑想)やISK-CON(クリシュナ意識国際教会)といった「世界宗教」的な姿をとって現代の新宗教ないし新霊性運動と合流していくような流れもある。こうして、今日も自称他称を含め無数の「聖者」が生まれて、民衆を引きつけ、時には拐(かどわ)している現実がある。
p45
「学問」的にみた場合、こういう括りは有り得るのだろうが、宗教というものがひとりひとりの人間にあたえようとしている本質を考えてみた場合に、このような括りの有効性に疑問をもつ。「イスラーム」の項ではスーフィーに触れている。
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世紀中頃までにフィールドに赴いた人類学者が、強い関心をもって調査した対象のひとつに、スーフィー教団の実施する祭儀や聖者をめぐる民間信仰があった。
スーフィーとは一般にイスラーム神秘主義者を指し、その思想や活動は英語でスーフィズムと呼ばれる。スーフィーは9世紀頃にイスラーム史に登場し、外面的な行動規範に関わるイスラーム法のならず、神に対する愛や敬虔といった内面的信仰を重視し、ズィクル(神名などを唱えつづけること)などと呼ばれる儀礼を通した独自の修行の実践によって、神の真理に近づこうとした。時にはその行動が極端に走り、「異端者」としてウラマーから糾弾されることもあったが、12世紀頃にはスーフィズムは正統の枠内に入るものと認められるようになった。そして12世紀半ば以降、偉大なスーフィーたちの修行方法に従う民衆が、教団(タリーカ)をいくつも形成するようになった。読み書き能力をもたないため「書かれたイスラーム」になかなか接近しがたかった多くの民衆は、スーフィー指導者の儀礼的な実践に従うことによって、神に近づく道を見いだしたのである。
p46
この部分は、日本語文献としてはスーフィーに触れているものが少ないので、貴重な記述だと思う。「呪う」の項では、丑の時参りについて書いてある。
「
呪
う」行為としてもっともっとよく知られているのは「丑(うし)の時参り」だろう。丑の刻参りともいうこの呪いは、ふつう女性が恋敵(かたき)や心変わりした男を呪うものとされている。そのやり方は、白装束で、顔に白粉、唇に濃い紅、歯に鉄漿(かね)という化粧をして、髪を乱し、頭に鉄輪(かなわ)(三脚の五徳)を逆さに載せ、その三本の脚に火を点(とも)したろうそくをたて、胸に鏡をかけて口に櫛(くし)をくわえる格好で、丑の時(午前2時前後の2時間)に寺社の境内にある杉などの木の幹や鳥居に、呪う相手に見立てたワラ人形を五寸釘で打ち付けるというものである。ワラ人形には、呪いの対象となる者の髪の毛や衣服の切れ端を入れなければならないといわれる。これを人に見られることなく7日間行い、7日目の帰り道に寝そべっている黒い牛を乗り越えて帰ると呪いが成就するという。
p149
ひぇ~、みなさま、気をつけましょう。「抗する」では、こうある。
エ
ステ、ダイエット、ファッション、癒し、とどれを例にとってもはっきりしない。身体の規律化を増長させるみたいだし、それと反対に監視を脱して自分なりの身体を追求しているようにもみえる。でもいずれもが、あるべき自分、本当の自分を実現させる努力のようだ。現代になればなるほど、人々は自分とは何かにこだわり、自分探しに時間と金とエネルギーを注ぎ込む。「セルフ・カルト」(自己信仰)と名づけられても仕方ない。
この現象は理解できなくない。自己に監視の視線を向ければ向けるほど、そして自己を主体として立ち上がらせるようにすればするほど、私たちはその自己がそもそも何なのかわからなくなる。これはある意味で、みえない権力がとことん私たちに入り込んだあかしである。私たちは権力に全身を浸しながら、ああしよう、こうしようと思案し、自分の心身に手を加えることをやめない。権力との共犯作業かもしれないが、やはり抵抗と称する行為なのである。
p221
調子に乗って引用 しすぎた。反省。これら雑多な概念を一まとめにしようという「宗教人類学」とは何か?
「宗教人類学―宗教文化を解読する」
という本もあるようだ。
「魂の螺旋ダンス」
などは、このカテゴリ
として再読すべきなのだろうな、と思う。
<異説>親鸞・浄土真宗ノート 2009.03.15
意識は科学で解き明かせるか 2009.03.14
感じる脳 2007.09.10
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