「茶の本」
岡倉覚三 /村岡博 2007/4 岩波書店 文庫 106p 初版1929(昭和4)年
No.942 ★★★★★
い くつかの廻り道をして、ようやくこの本にたどり着いたというべきか。解説本や、物語風伝記を何冊か読んだあとでは、かなりな先入観が出来上がっていたが、それでもなお、わずか100ページに満たないこの本を紐解いてみなければわからないこともあった。
インドのディアナが、中国で禅那になり、日本において禅になったことも、インドのチャイが、中国でテ(だったかな)になり、日本においてチャになったというこのも、すでに、Oshoの本、たとえば「草はひとりでに生える」などで知っていた。しかし、日本に来たことのないOshoが日本の禅や茶の文化にそれほど詳しいのは、きっと、天心(覚三)の本を読んでいたからではないか、とさえ思う。
禅
はインドで生まれ、中国で育ち、そして日本で開花した。この道程全体がまったくめずらしい。
なぜ、それがインドで生まれることになったのか、しかし、なぜそこにでは育つことができず、ちがった土壌をさがし求めなければならなかったのか・・・?
それは中国で大きな樹に成長したが、そこでは花を咲かすことができなかった。またしてもそれは、新しい風土、別の気候をさがし求めなければならなかった・・・・。
そして、日本で、それはまさに桜のように、あふれんばかりの花をつけて開花した。
Osho「草はひとりでに生える」p12
1862年に生まれ1913に没した天心と、1931年~1990年の間に地球を訪れていたOshoの間に、時代的な接触はまったくない。その間には世代的には2つも3つもの隔たりがある。天心が放った直感的なアジア観は、さて、Oshoの時代においては、どのようなものであっただろうか。
日
本に禅を求めて行くものがあるとしたら、空っぽの手でまた戻って来るしかない。今では禅はここ(インド)にある。日本からは禅は消えてしまった。あの国は花を咲かせるのには役立ちはしたが、今では花たちは消え、土の上に散り落ちた。そこにはもう何も残っていない・・・・。
Osho(同上)p30
天心にしてもOshoにしても、その言葉を、なにかもっと別なものを料理するための方便として、パブリシティのように使うところがある。Oshoのこの言葉をそのようなマヌーバーと見たとしても、さて、あの世で天心は、これをなんと聞くであろうか。100年の歳月の間には、あまりに多くの水がガンジス川を流れ去った、ことを感じずにはいられない。
人 生七十 力囲希咄 吾が這の宝剣 祖仏共に殺す
秀吉に自害を命ぜられた利休の辞世のこの句を持って「茶の本」は終わっている。 「七十年も生きた もうどうということもない 汝、永遠の剣よ 私と共に、達磨も釈迦も貫くのだ」 ある人は、この句をそのように訳している。 ドラマはドラマとして、雑事、俗事もそのままとして、人生の真実とは何か、最後の最後まで、一期一会の人生だった利休。51年の天心の人生、そして58年のOshoの人生は、長かったのか短かったのか。それを問うのは、彼らに対してではなく、我が身、我が命に対してであるべきであろう。
かけがえのない人間 2008.05.22
生きる意味 2008.05.21
「生きる力」としての仏教 2008.05.21
PR
Freepage List
Category
Comments