
「ニューエイジについてのキリスト教的考察」
<2>
こ
p11
さて、このあたりからどうか。なんであれ、ニューエイジといわず、戦後生まれのベビーブーマーたちは、世界的標準として、「思想・信仰の自由」という理想のもとで教育を受けてきたはずだ。「自分は自分の思想を持つ自由があるし、他の人々の信仰の自由を守ることが大切だ」というのが、まずは第一だろう。しかし、この文面からは、中学校の教師が、暴走族に属している生徒に対する教育指導方針を確認しているかのように感じる。それはなぜだろう。
「*
*思想に影響を受ける」ということは、基本的に自由であっていいのではないか。赤に染まるとか、バタ臭くなるとか、いろいろな差別的表現がある。もちろんキリスト教思想の影響を受けること、だって自由であるはずだ。であるのに、この文面では「ニューエイジ」そのものが、すでに「悪」とは言わないまでも「マイナス価値」として評価されているのはなぜだろう。
大体において、「司牧活動を行う人々」とは誰か。彼らが「ニューエイジのスピリチュアリティを理解」することなどあり得るのか。それに「対応」して、なぜに「導か」なければならないのか。「導く」とは「思想的影響をあたえる」ことではないのか。であれば、ある「人」対して、「ニューエイジ」的影響を受けることは「悪」で、カトリック的影響を受けることは「善」なのか?? それは何故か?
O shoの 「十戒(笑)」 の第一 「内部から来るもの以外どんな命令にも従うべからず」 を下敷きにした場合、ニューエイジ思想の影響を受けるより、カトリックの「導き」を受けるほうが、より強い強制力を感じる。むしろそれは命令と言っていいかもしれない。Oshoに言わせれば、その「思想」の内容そのものよりも、「その」強制力には従うな、と聞こえる。お互いに影響しあい、響き合うほうがまだましだ。
もし、ニューエイジ側に意見というものがあるとすれば、この「導き」という方法自体に「×」マークを出しているのではないか。おせっかいすぎる。知ったかぶりすぎる。この辺に、人々はカトリックにまずは拒否感を示し、いわゆる「ニューエイジ」的なスピリチュアリティに誘われていくのではないか。なぜ、人々は 「宗教は信じていないけど、スピリチュアル」
というのか。ここをまずはカトリックは分っていない。
<3>につづく
かけがえのない人間 2008.05.22
生きる意味 2008.05.21
「生きる力」としての仏教 2008.05.21
PR
Freepage List
Category
Comments