「英知の辞典」
<2> Osho
コミューン COMMUNE
真の社会主義は深い瞑想の中にあるコミューンのかぐわしい香りにほかならない。それは社会構造や経済とは何のかかわりもない。真の社会主義な社会における革命ではないし、それは社会的なものではない。それは個人の意識における革命だ。
内なる革命を経験しつつある多くの人々がともに暮らすとき、そこには必ず新たな質が生まれてくる。それは「社会主義(ソーシャリズム)」と呼んでもいいが、もっとよい名前は「コミューン」から来た「共産主義(コミュニズム)」だ。共産主義を実現できるのはコミューンだけだが、コミューンはごくまれにしか存在しなかった。
仏陀が生きていたとき、彼のまわりにはコミューンが成長した。彼はそれを「サンガ」と呼んだが、それはコミューンの別の名前だ。「サンガ」の意味は、門人たちが自らの自我(エゴ)を落とし、もはや孤島のように機能するのではなく、互いとひとつになっている場所、霊的交感(コミュニオン)が起こっている場所のことだ。コミュニケーションは頭と頭のものだが、霊的交感はハートとハートのあいだに起こる。
いつであれ多くのハートが開き、花々になるとき、すばらしい香りが解き放たれる。そのかぐわしい香りがブッダを取り巻いている。それは「ブッダフィールド(覚者のエネルギー場)」と呼んでもいい。そのエネルギーは全面的に異なっている。そこにはいっさい政治は含まれていない・・・・。
ブッダがいれば、コミューンは起こらざるをえない。それを止めることはできない。それは避けがたい。遠い世界の隅々から、真の探求者たちがブッダを目指して動きはじめる。ちょうど香りのよい花が咲いたとき。、蜜蜂が多い場所から列をなしてやって来るようなものだ。突然、その香りは磁石のような誘引力になる---だがそれは蜜蜂にとってだけで、誰に対してもというわけではない。犬は振り向きもしないで花の傍らを通り過ぎる。それは彼らにとっては存在しない。犬は花に敏感ではない。
ブッダは感受性、知覚力、応じられる用意、開かれた心、探究心を持っている者にしか存在しない。多くのものが仏陀に行き会い、そして彼を見逃した。何百人もの人々が彼に出会ったが、彼を認識できなかった。彼らにとっては、彼もまたもうひとりの学識のある人、もうひとりの聖者にすぎなかった。インドはいつでも聖者たちで満ちあふれている。彼らにとって仏陀はことさら特別視するほどの存在ではなかった。彼らは耳を傾け、わずかばかりの知識をかき集め、そして我が道を行ってしまった。
だが、感受性がある人々、このブッダのたおやかなエネルギー、この繊細な香りとともに踊ることができるハートを持った人たちは、失われ、完全に失われ、分解し、融けあった。これらの融けあった個人たちからコミューンが、ブッダフィールドが、サンガが生まれてきた・・・・。
ブッダのコミューンでは誰もが個性を持っているが、人格を持っている者はいない。誰も利己的ではないが、誰もがユニークな資質を備えている。誰もがその人ならではの仕方でコミューンに寄与する。そして誰もが何であれ他の人のやっていることに敬意を払う。個人に対するこの上もない敬意がある・・・。
有名なよく知られた詩人、画家、多くの本を出版している作家もいるが、彼らは靴をつくっているかもしれないし、大工仕事をしているかもしれないし、畑で肥料をやっているかもしれない。というのも、ひとつのことが完全にはっきりしているからだ-----どんな仕事をしても変わりはないし、あなたの個性はどこに行っても損なわれない。仕事がより高い地位をもたらすわけではないし、それが階級を生みだすこともない。誰もが自分なりのやり方で、全身全霊をこめて働いている・・・・。
ブッダのコミューンでは、最初から独裁というものがない----外部の者の目からは独裁があるように見えるかもしれないが。外部の者は、もしここにやって来たら、これは私の独裁だと思うだろう。だが私は誰にも命令したことはない・・・・私は誰がどこに住んでいるかも知らない・・・・・コミューンのほかの家を訪ねたこともない。私は自分の部屋にいく道しか知らない!
だが、外から来た者なら誰でも、私が独裁者だと思うだろう。それはまったく違う。人々はここで自らの愛ゆえに働いており、誰ひとり命令されてはいない。彼らが私に尋ね、私が何かを言ったとしても、それはつねに提案であり、けっして命令ではない。それを受け容れるか否かは彼らの自由だ。彼がいつも受け容れるとしたら、その名誉は彼らのものであり、私とは何のかかわりもない。それを受け容れないとしても、彼らにはそう振舞うべき完全な自由がある。
真のコミューンでは、私のヴィジョンによるコミューンでは、至高の人が中心になる・・・・・。
ブッダを通じて、<光明>の人を通じて、神が流れはじめる。真のコミューンをつくるのは最高の人、至高の人だ・・・・・。
ブッダに明け渡すことは、あなた自身の決断であり、あなた自身の自由だ。明け渡すように強いられるわけではない。そして多くの人がブッダに明け渡すとき、彼らはほんとうは自分自身の未来、自らの究極の可能性に明け渡している。ブッダはたんに彼らに何が起こりうるかを象徴しているに過ぎない。彼はただ彼らの究極の開花の写し鏡だ。
ブッダに明け渡すとき、あなたはほんとうは自らの低い現実(リアリティ)をより高い現実に明け渡している。ブッダは口実にすぎない。こうした真のコミューンが存在するようになる。それは愛から、瞑想から、祈りから生まれてくる・・・・。
人間は進歩し、成熟した。とりわけ今日において。そういった何千ものコミューンが世界中に噴出し、爆発することができる時代が到来した。それこそ私が意図していることであり、何千ものサニヤシンをつくりだし、彼らを母国に送り返すことで、私は何千ものコミューが働きはじめるよう願っている。
私は世界中にコミューンの連鎖をつくりだしたい。そうすればこのコミューンは広大な砂漠の唯一のオアシスにとどまることなく、多くのコミューンと結びあわされる。このような形の結びつきがなされたことはかつてなかった。それは新しい試みだ。コミューンはつねに存在したが、世界中で多くのコミューンが機能することはこれまで可能ではなかった。今日初めてそれが可能になった。科学がそれを可能にした。世界はいまやごく小さなものに、ほとんど村のように、いわば地球村になってしまった・・・・・。
私がここでやっていることはひとつのバランス現象にほかならない。いまや宗教はこれまであたよりもはるかにたかいレベルで存在することができる。それは科学が正しい下地を整えたからだ。それだけではなく、科学は人類が科学そのものによって滅ぼされてしまいかねないとてつもない恐怖を世界中に生み出した。今や残された唯一の望みは、宗教がそれを救うかもしれないということだ。そして生存がかかっているかぎり、何百万という人たちが必ず瞑想に興味を持つようになる。なぜなら、瞑想だけが彼らを救うことができるからだ。ほかに彼らを救うう事ができるものは無い。人間がいつまでも変わらないのに科学が進歩しつづけたら、その発達した科学そののが人間にとって山のような重荷になってくるだろう・・・・。
それは第三次世界大戦、全面戦争をもたらすかもしれない。なぜなら、生きるか死ぬかの問題だからだ。このような問題がおこったことはかつてない。しゅうきょうが爆発しうる可能の生があり、何百万もの真正な探求者たちがそれを捜し求めている。
私たちはそういったコミューンの連鎖を世界中につくりだすことができる。全世界がブッダフィールドに変容されうる。そうして初めて共産主義(コミュニズム)が愛のなかから、至高の源泉、エベレストから起こってくることができる----プロレタリアートの独裁ではなく、ブッダへの信頼、明け渡しだ。その信頼と明け渡しのなかから、まったく新しい形の共産主義が誕生してくるかもしれない。
その意味では、私は共産主義に賛成だ-----だが、共産主義者は私に猛反対することだろう。なぜなら、もし私流の共産主義が成功するなら、彼ら流の共産主義は失敗せざるをえないからだ。
I AM THAT
p228~233
<3>につづく
究極の旅 <1> 2008.04.29
一休道歌 <5> 2008.04.29
OSHO ZEN TAROT <2> 2008.04.27
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