つまりは、イタリアがバチカンを守護するかわりに、バチカンはイタリアに祝福を与えているように、中国共産党はチベットを守護し、チベットは中国国民を祝福するという図式が作れないのか、という提案である(あるいは長いことそのような歴史もあった)。また、今、チベット国民をまとめることができるのは、ダライ・ラマしかいないのだから、ダライ・ラマを擁護することによって、チベット国民が全体的なまとまりを失うことを避けて、より安寧な社会を築くことを手伝うべきだ、という論旨なのであろうか。
「パジャマを着たままパソコンの前に座るブログ・ジャーナリスト」でしかない当ブログの編集長である私には、世の中の情報をひとつひとつ正確に拾い上げて、的確なコメントを加えるなんてことは、望んだとしても、とてもできるものではない。しかし、ここでペマ・ギャルポが言っていることに違和感を感じるとすれば、それは、次のような感慨に基づく。
つまり、今回の暴虐を、中国共産党VSチベット王国、あるいは、中国共産党VS自由社会、という図式でみるなら、それは、ちょっと違うのではないか、ということだ。中国共産党=チベット王国=USA=ロシア=日本(国家としての)=・・・・・これらは、ネグリのいうところの<帝国>としてひとくくりで見てしまうのが一番ただしいのではないか、ということだ。
そして、それに対峙することができる存在としては、ネグリのいうところの、ひとりひとりが多様性を維持したままのネットワーク=マルチチュードだ、という仮説は、私には一番的確であると思う。
チベットの人々やラマ僧たちが、どのような境遇に落としこめられ、暴虐の最中でどのような仕打ちを受けているのか、心が痛まないではいられない。しかし、冷静になって、考えてみると(瞑想していると、といいなおしておこうか)、21世紀の今日、<国家>VSマルチチュードの図式はより明瞭になってきているように感じる。
なぜに、中国共産党は、なぜに、アメリカは、なぜに、日本は、と、想いをめぐらすと、根底には「恐怖」がある。自らの内部に抱えている「恐怖」がゆえに、他者を落とし込み、国家や<帝国>づくりに邁進してしまっている、という図式がある。ここに対峙するには、ひとりひとりがリラックスし、創造的な人生を歩み始めるしかないのだ。これしかない。そして、その波動の広がりをすこしづつ大きくしていくしかないのだ。それを何となづけようとかまわないが、今は、ネグリいうところのマルチチュードという仮説に想いを重ねていてもいいのではないか。
OshoがいうところのZenは必ずしも、中国や日本の独占物ではない。もはや 地球市民 のスピリチュアリティのなにものでもない。 鈴木大拙 が欧米に日本や中国の禅を紹介したとしても、その遺産を相続するのは、日本人や中国人に限られているとはいえない。むしろ、その遺産は、地球市民=地球人たちにこそ受け継がれるべきだ。
それと同じように、もし、チベット・エリアで培われた文化を、仮にTANTRAと仮称しておくとして、そして、それをまずは現代の国際社会に伝えた存在のひとりを、仮に チョギャム・トゥルンパ だとするなら、それを正当に引き継ぐのは、チベット・エリアに生活圏を持つ人々に限られるものではないはずだ。それは、新たなる地球人たちのスピリチュアリティとしての、もっともオーソドックスなセンスであるべきだ。
このような捉えかたをしないと、今回のチベット暴虐の真の解決策を見つけることはできないのではないか。国家VS国家の戦争としてはならない。ましてや、中国共産党内での内紛などではない。ましてや、共産主義VS自由主義でもない。恐怖VSリラックス、だ。人々が自らのなかにリラックスするメソッドとしてこそ、チベット文化=TANTRAはある。ここを国際社会が真に理解することこそ、今回の暴虐から離れていけるヒントがあるはずだ。
そういえば、本日は、順調にいけば、 アントニオ・ネグリが来日し講演
するはずだった日だ。私の中では、この来日中止とチベット暴虐のニュースが、どこかでつながっているようだ。

かけがえのない人間 2008.05.22
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