「ボーディダルマ」
<2>
Osho
ふと気がついてみれば、 「Take IT Easy」
を和尚が講話していた時にそこにいたように、この「ボーディダルマ」の講話の時も、私はそこにいたのだった。偶然といえば偶然だが、気がついてみれば、本当に不思議なものだ。 「TAKE IT EASY」
と「ボーディダルマ」、どちらを先に読むか、とちょっと考えたが、いま、一緒に読み進み始めているのは、実はそういう縁があったということになる。
しかしまぁ、よく考えてみると、私はその講話を聞いているはずなのに、聞いていた、という記憶があまりなく、その後、こうして出版された翻訳本も、かならずしも飛びついて読んだ、という記憶がない。いや、むしろ、できれば長いこと遠ざかっていたい気分のほうが強かったのではないだろうか。ましてやこの「ボーディダルマ」は途中まで読んで放り投げてしまった記憶がある。なぜだろう。
私がインドにいったのは、OshoがZenを講話していたからではない。それを聞きにいったなんてことはなにもない。私がOshoのもとにいったのは、私自身の問題がほとんどで、私の個人的理由ゆえにその場にいたのだった。だから、Oshoが何を話していたか、なんてホントはどうでもよかった。タントラだろうがウパニシャッドだろうが、スーフィーだろうが、ヨガだろうが、あるいはヒンディーレクチャーだろうが、もうそれは二の次、三の次。
だけど私はそこにいたかった。そんな私は、Oshoの講話を聞いていたのだろうか。英語のヒヤリングもともかくとして、ただただそこにいただけで、ホントにOshoを聞いていたことになるのだろうか。
Oshoの講話は、どこかの大学やセミナーのように、その話に目的があるわけではない。そうそう、お茶は、単に口実だ。その口実を使って、マスターとともにそこにある。もし、そういう理解が正しいなら、Oshoがナニを話そうが、自分が「聞いた」ものが、そのとき「話された」こと、ということになる。
私は、Oshoのもとに行って、Oshoの話をまるで聞いていなかったのか。あるいは、こうして本となっている講話は、そこでナニがおきていたのか、本当は伝えきれていない、ということになるのか。私は正直言って、この二冊の本と、その講話が話されたときの、自分が「聞いた」ものを比較すると、微妙にずれている。いや、圧倒的にはずれている。別ものだ。だから、私は私の体験をそのまま、スのまま残している。
そのスの部分と、本になってしまった部分が、どうもズレている。そのズレはあって当然のものでもあろうが、一致しない、ということでもなさそうだ。どうズレているのか、どっちがどうズレているのか、そのズレはあっていいものか、今後一致するのか、あるいは・・・・。
まぁ、なにはともあれ、この二冊、読み進めれば、ナニかが分かってくるかも。
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