「サイコシンセシス」
統合的な人間観と実践のマニュアル <1>
サイコシンセシス叢書4
ロベルト・アサジョーリ /国谷誠朗 1997/06 誠信書房 全集・双書 483p
Vol.2 No.444 ★★★★★
地名や人名は訳者や本において、原典はおなじでも、別表記に翻訳されることがしばしばあるようだ。当ブログでは、わりとルーズにそのまま転記しているが、混在していると検索する時に手間がかかるようである。アサジョーリは、アサジオリとかアサギオリと表現されるときもあるが、当ブログにおいては、今後アサジョーリに統一する。
Oshoはアサジョーリについて、「彼の本は、サニヤシン全員が読むべきものだ」と推奨している( 「私が愛した本」
p208)。
技法のごった煮などと揶揄されるアサジョーリのサイコシンセシスではあるが、残した軌跡の業績は大きい。ただ、当ブログとしては、役割としてのセラピストとは何か、というものがまだ十分理解できていない。深層心理の世界があり、瞑想的技法がある。そこに到達するためのガイド役としてのセラピストや治療者という役割が必要だと、うっすらとは分かったとしても、いまだはっきりと、その立場の存在意義を理解しない。クライエント側からそれを必要とすることがあったとしても、セラピストが自らをセラピストと規定するのはいつからか、という問題意識が湧いてくる。
前者に適した治療法は後者にとっては効果的でないばかりか、確実に有害である場合もあり得ることが明らかです。後者のグループに属する多くの人びとにとって、超意識的機能について理解もなく評価もしていないセラピストや、トランスパーソナル・セルフの実体を否定したり、トランスパーソナル・セルフの自己実現という可能性を無視したり否定したりするセラピストたちに治療を受けることは二重に苦痛なことなのです。 p76
当ブログにおいては、クライエント--セラピスト、という対応は必ずしも必要でもなく、自らをクライエントの立場にも、セラピストの立場にも、即時的にすなおに置くことはしない。精神医療というものと、瞑想の世界やOshoの世界はまた別個な次元であるはずだ。だから、まずは精神医療ありきで始まるアサジョーリの世界は、いまいち入りづらい。
私たちセラピストは現在のありとあらゆる技法を十分に活用しながらも、技法それ自体は本質的に十分なものではない点を常に頭に入れておかなければならないこと、さらにダブの忠告するように「テクニシャンたちは心理学的武器に恋しがちであり、したがってふりまわされる傾向がある」ことをあげておきます。 p90
Oshoトレーニング・コース で私が学んだことは、技法的なことよりも、目撃者でいること、判断しないこと、傷つきやすくあること、など、自らの基本的な心構えであったように思う。
「スピリット」という言葉も、まったく同様のシンボル的な意味をもっている点は興味深いところです。「スピリット」は、もともとラテン語で「息」あるいは「風」を意味する「スピリトゥス」という言葉に由来しています。 p272
チベット密教においても、さまざまな瞑想技法や儀礼があり、その魅力はただごとではないが、常に導師の必要性とイニシエーションの重要性が説かれている。だが、すべての技法を学べるわけでもなく、またすべてを学ぶ必然性もないのだ。チベット密教の密林の中を旅するにあたって、当ブログは原点に返り、自らの羅針盤は、唯一Oshoのイニシエーションにありと規定して、旅を再出発したのだった。
心理療法(サイコセラピー)にはさまざまな技法があるが、ここにおいても、その技法的密林のなかで自らの道を見失う危険性大である。この辺あたりから、Osho的セラピーとは何か、ということも強く意識しながら、旅を続けることの重要性に気づく。
火は破壊や危険を表すシンボルでもあります。そして最後に、最も純粋なかたちとまでは言えないかもしれないが、それに近いかたちで、スピリットを表すシンボルのひとつです。スピリットとは宇宙のスピリットへと上昇していく人間のなかにあるスピリット、さらに「天から下る火」としてのスピリットの両方を意味します。 p284
アサジョーリは最初フロイトの精神分析に傾斜したと言われるが、またその限界にも早く気付いて、自らの精神統合(サイコシンセシス)という世界を築きあげた。だから、フロイトなどが軽く切り落としてしまった部分を、限りなく拾い上げようとする努力をさまざまな角度から行っている。
最初の問題点は、「スピリチュアル」(トランスパーソナル)と呼ばれているものの意味を明瞭化するということであります。この言葉は、これまでしばしばかなりあいまいな意味で、あるいは不特定のやり方で用いられておりました。そして、それに関連して、混乱と誤解が存在しています。 p293
アサジョーリに限らず、この精神医療や心理療法、精神世界などの用語や概念には統一感がない。ここでもまた、当ブログとしては基本をOshoに置くしかないのだが、アサジョーリの展開もきわめて魅力的である。この本は「サイコシンセシス叢書」シリーズの4巻目ということである。当ブログでは間に合わないかも知れないが、個人的には、もっとゆっくりこれらの書に時間をとりたいと思う。
私たちは他の人びとが「超意識」(スーパーコンシャス)と呼んでいるような体験をも排除すべきではないということになります。さまざまな人びとや思想家によって、「スピリチュアル(霊的)」(トランスパーソナル)と呼ばれてきたものは、大部分において体験的には「超意識」(スーパーコンシャス)あるいは「通常の人びとにおいて一般的にいって活動していない」といわれている機能に相当するものだからです。 p294
Oshoにも 「セックスから超意識へ」 という本があるが、この超意識という言葉もまた、実に多くの語り手たちにおいて多様な意味合いで使われている。当ブログにおいては、 ユングの集合的無意識 といういささかネガティブに表現されている世界の、ポジティブな表現への転換、というくらいの意味合いで使用しておく。
超意識(スーパーコンシャス)の探究
集合的無意識を含めて私たちが下位無意識および中位無意識と呼んでいる無意識の部分の他に、非常に広大な領域が存在し、それが私たちの心のなかの一部になっており、その大部分は科学、科学的心理学によって探究をなおざりにされていた、ということです。しかしながら、その本質と、その人間的な価値は非常に高いものがある、ということでもあります。このような、興味をそそるほどの無視の理由自体が一つのおもしろい精神分析を構成するでしょうし、心理学者の心理を大いに明解にするでしょう。この高次の領域は、長い時代の経過を経て、特にこの数十年間、大胆な探究者たちによって、科学的方法による研究が始められたばかりなのです。そして彼らは、フランクフルがまさに、「高次の心理学」と呼ぶものの基礎を作ったのです。
問題の本質が次第に明らかにされつつある。
超意識(スーパーコンシャス)が質的な違いがあるとはいえ無意識全体の他の性質と共通する特性をもつということを忘れないでおくことが必要です。超意識(スーパーコンシャス)は普遍的無意識のほんの一部でしかありません。しかし特殊な性質をあわせもっています。全体として、超意識(スーパーコンシャス)は無意識の性質を幾分かは所有していますし、普遍的無意識は可能な限り無意識と個人の意識との関係づくりに寄与するものです。 p302
じつに興味深い領域に入りつつある。いわゆるアラヤ識の領域と、とアサジョーリがここで説いている領域との関連について知りたいものだ。
性の問題、つまりいかに性的衝動を建設的かつ健全に取り扱うかという問題は、文明が始まって以来、人類の前に立ちはだかってきました。しかし、今日この種の問題はさまざまな理由により、ますますさし迫ってきており、一般の人びとも敏感に気づいてきています。いまふうにいうと、人類は性意識にはっきりと目ざめてきたということなのです。 p399
ここでの問題意識は、チベット密教おっかけの流れと共有することができる。Oshoが、新しい人類はタントラが開く、というニュアンスで語る場面が想起される。
性エネルギーと、人間の他のレベルで活動している創造的エネルギーは、深いところで類似しているように見えます。芸術的創造は、昇華に特に適した経路を与えてくれます。偉大な画家、作家、作曲家の生涯のなかにその多くの例を見出すことができます。 p408
科学、芸術、意識、この三つの世界の統合は各方面で強く意識されている。
他者を心的な高い場所や深みに導こうとするセラピストは誰でも、自分自身がこれらの心的な高みや深さに到達していなくてはなりません。現代のサイコセラピストは、自分自身の心のなかでの上昇と下降の訓練をするところから始めなくてはならないでしょうし、それによって人間のなかの多様な構成要素と、人間の生活の背景にある原動力も体験しなくてはならないでしょう。 p460
ここで語られていることは至極当然のことに思える。
瞑想は、主導的な治療技法の一つとなり得るものです。筆者がよくなじんでいる、新しい体系はいずれも、この方向への発展を求めています。しかし、この発展が起こるかどうかは精神療法の訓練、および精神療法の実践の、根本的な再構成にかかっています。サイコセラピストが瞑想の研究を続けることは非常に大切なことです。私たちは、ただ瞑想が体系的な技法へと発展し続けること、そして人間が最高の心理的可能性を発展させる終着点の方へと進むことを助けることができることを望むだけです。 p466
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