2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
全5件 (5件中 1-5件目)
1
大阪市選挙管理委員会は30日、衆院選の同市西淀川区の投票所で、事務員が比例代表と最高裁裁判官の国民審査の投票用紙を小学生の女児(11)に誤って交付し、投票させるミスがあったと発表した。 女児の投票用紙を特定するのは困難で、公職選挙法上、有効投票になる。女児は身長約1メートル50で、事務員は「大柄で選挙人と思い込んだ」と話しているという。 市選管によると、女児は同日午後2時ごろ、父親(47)と一緒に投票所を訪れた。父親が名簿対照と小選挙区の投票を済ませ、比例代表と国民審査の投票用紙を受け取る際、事務員が女児にも渡してしまった。女児は記載して投票した。 投票所の責任者が直後に「未成年ではないか」と思い、女児らに確認して小学生と判明。父親は気付いていなかった。 市選管は「予想もつかない事態。再発防止策を検討する。深くおわびする」としている。(スポニチ) おもしれぇ。事務員ナイスボケです。人との対応では相手の顔を見るのが基本的なプロトコルであるということを思い知らしめる事件です。これを機に子供を入場させないというバカな選管がないことを望みます。
August 31, 2009
コメント(0)
「TIME」june22,09の記事からJapans' suicide rate ー23.8 per 100,000ーis significantly higher than that of the U.S., for example, where the rate is 11 per 100,000.この数字を信用するならば、アメリカの方が失業率も高いし、公的医療保険もないのに日本の自殺率がアメリカよりはるかに高いのは、なぜかと思ってしまう。いま日本人が来ている「服」-生活スタイル≒資本主義という競争社会-がいよいよ合わなくなってきたのではないか。日本社会では脱落すると、アメリカ社会よりすぐにそして深く孤独になるのではないか。そしてアメリカ人よりもずっと孤独に弱いのではないか。
August 24, 2009
コメント(0)
国民に安心を与えると言ってるが、でも小泉政権以降福祉予算を大幅にカットしてきたしずさんな年金行政が露呈したしこれでもかというほど不安な気持ちにさせてくれたんだよね。ここ10年間の自殺者数が如実に証明してるよね。経済成長というが、派遣法などを大企業に都合よく変えて格差を拡大しただけなんだよね。郵政民営化に係る簡保の宿問題では国有財産が不当に安く処分されそうだったんだよね。世界経済激動の今どの先進国にとっても経済成長は至難のことだよね。だからどの党の経済政策がいいってことはないんだよね。安全保障を自民党の専売特許のように言うがアメリカに従属することが戦略なんだからとても誇らしげに言えることではないんだよね。イラクのことを思えばアメリカの言いなりになることがどういうことか有権者も考えるべきだよね。責任力とというがこれまで書いたことそしてここ3代ー特に今ーの首相の資質からして自民党の執行能力が疑わしいことは支持率を見ても国民が表明しているんだよね。それでも自民党はそんなの関係ないとばかりに、前回のマニフェストの釈明ーすなわち自らの失政の釈明ーすらしないで国民に脅しをかけ続けるんだよね。脅しが効くように解散から選挙までの期間を最大限空けたんだよね。それと大阪の知事と宮崎の知事が言ってることだが、この国がいかに官僚支配下にあるかがわかったよね。党首討論で鳩山党首が官僚支配から脱する必要性を言うと、麻生首相は「官僚をうまく使う必要がある」と言ってましたよね。つまり実質は官僚に任せているーここに莫大な無駄遣いが生じるーのに俺たちが国のかじ取りをしているみたい顔がしたいという本音を露呈してくれましたよね。これでもあなたは今更厚顔無恥自民党のマニフェストを読みますか。
August 19, 2009
コメント(0)
《リンゴ農家にとり、「立派なリンゴを作るためには農薬や肥料は必要不可欠である」というのは常識ですが、わたしはたくさんの失敗を繰りかえしつつ、長い年月をかけて、「その常識は間違っている」という結論を出すことができました。》木村氏の「奇跡のりんご」はNHKの番組で紹介され、書店でもすぐ見つけることができる。この本にも「奇跡のリンゴ」を作るまでの苦労は勿論書かれているが、それに劣らずリンゴ作りを超えて人間の常識を揺るがすーそれは木村氏が無農薬無肥料のリンゴ作りという常識破りを成し遂げた人物ゆえに一定の説得力を持つー内容が多くを占めている。おもしろい1冊といえる。
August 13, 2009
コメント(0)
人生の時間と生活の時間《だらしなく、うす汚れた我々の日常生活にも「しーん」とした何かが入りこんでくる時がある。その時を私は「人生の時」とよびたい。それは「生活の時間」にさしこんできた「人生の時間」なのだ。-中略-しかしこの年齢になって、私は生活の中に「しーん」とした人生の時をもたらすのは幸福や喜びより苦悩のほうが多いことに気がついたようである。 我々が幸せな時には、自分の幸せに酔っていて、他の存在を忘れがちである、しかしむかし病気をして苦しかった時、私はベッドから窓の外に見える一本の橡(トチ)の樹と話したものだ。その話は私が死んでも彼が生き残るだろうとわかった時からはじまった。小鳥の目があんなに哀しいものであることを知った時、今まで重要視しなかった小鳥の存在が私の心に入ってきたが、それも病気の時だった。その頃は樹も鳥も私に話しかけてくれた。私たちの間には幸せだった時にはない交流が成立していた。しかし病気が回復してみると会話は少しずつ消えていった。私は自分以外のこれらの存在を忘れがちになっていったのだ。日常生活のなかに「しーん」とした人生を挿入するのは苦しみである。そういう苦しみを多少でも持っている人間には、その多少に応じて、他の「しーん」としたもの、絵でも踊りでも音楽でもわかるのだろう。なぜならそれらは我々を酔わせるものではなく、再び心を覚醒させるものなのだから》 人生の時間と生活の時間を区別するのは、要するに生活は人生の本質ではなく表層的な部分だということなのだろう。(ただ苦しみが人生の時間ー「しーん」とした時間ーの必要条件みたいのが疑問である。) 偶然にもひろさちや氏の次のような言葉と遭遇しました。生活の危機は人生の危機にあらず。
August 7, 2009
コメント(0)
全5件 (5件中 1-5件目)
1

![]()
![]()