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(大杉はるか)
◆宮内庁へ国内団体が初の要望
その石碑は「鴻臚井(こうろせい)碑」といい、皇居・吹上御苑の一角にある。横3メートル、高さ1・8メートルの巨石だ。
中国からの収奪文化財返還を求める市民団体「中国文化財返還運動を進める会」は先月末、宮内庁に、碑の歴史的意義についての認識などを求める要望書を手渡した。同会によると、 宮内庁側は「国有財産法に従って管理しており、外国との関係について申し上げる立場にない」と回答 するにとどめた。同席した立憲民主党の吉田忠智参院議員は「実際に確認したい」と申し入れたが、「立ち入り禁止区域なので」と断られたという。
同会が発足したのは昨年末。中国では1990年代から、学者らが鴻臚井碑の研究を始め、2001年には北京市の有志が研究会を設立。その後、市民団体が返還を求めるようになった。日中戦争中の重慶爆撃などの原告代理人を務めた一瀬敬一郎弁護士が18年、研究会のメンバーらと会ったことが、会発足につながった。共同代表で「村山首相談話の会」理事長を務める藤田高景氏は「戦後77年がたったが、日本人が宮内庁に正式に申し入れたのは初めてだ」と話す。同会は碑のほかに、日清戦争(1894~95年)時に日本に運び込まれた石獅子の返還も求めている。
それにしても、鴻臚井碑とはどういうものなのか。
碑はもともと、今は軍港になっている遼東半島の旅順にあった。 「渤海国とは何か」(吉川弘文館) の著者で、金沢大の古畑徹教授(東洋史)によると、 唐(618~907年)の皇帝玄宗が、東側にあった渤海(698~026年)の王・大祚栄(だいそえい)のもとへ使者を派遣し「渤海郡王」という地位を与え、外交関係を結んだ。 その使者が714年、帰路に両国関係の発展を祈って井戸を掘り、それを記念して建てたのがこの石碑という。
古畑氏は、両国が手を結んだ意味について「東アジアの国際関係が大きく変わる契機になった」と話す。
「唐は当時、周辺の遊牧勢力の台頭を受け守勢に回っていたが、玄宗は攻勢に出る一手として、渤海を味方につけようとした。 これを機に唐は全盛期、渤海は安定期へ向かった といえる」
ではなぜ1300年前の歴史的碑が、皇居にあるのか。鴻臆井碑に関する記述は、1908年に斎藤実海軍大臣が日露戦争(04~05年)の戦利品を宮中に引き渡す際の書類に出てくる。古畑氏は 「日露戦争の激戦地だった旅順にあった碑を、その勝利と関連づけて持ってきた」 とみる。経緯を調べた故・酒寄雅志氏の論文には「遼東半島を日露講和で取り戻した日本は、満州侵略の歩みを進めるが『鴻臚井の碑』はその手はじめでもあった」とある。
皇居内には、日清戦争以降、戦利品や戦没者の名簿などを納めた「御府(ぎょふ)」が5つ建設された。宮内庁によると、鴻臚井碑は、このうち日露戦争関係の御府「建安府」の前にある。同庁担当者は「47年の新憲法施行に伴い、国有財産(皇室財産)になった」と説明。だが公開はされていない。「立ち入り禁止区域内であり、セキュリティーと静謐さを保つ必要がある」との理由からだ。
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