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しかしそれより何より、渡辺さん自身が、かけがえのない思想史研究者であった。読売文学賞を受賞した『バテレンの世紀』を読んだ時には、石牟礼道子『春の城』の土台がこの『バテレンの世紀』にあることがわかった。和辻哲郎文化賞を受賞した『逝きし世の面影』は、紛れもなく名作である。私はこの本をゼミでずいぶん使った。渡辺さんは本書で江戸時代を「江戸文明」と言い切った。そこに浮上したのは、知的好奇心に溢(あふ)れ、笑いを絶やさない日本人の姿、「笑顔」の群像だった。そしてそれを生み出した時代の価値観であった。
大佛(おさらぎ)次郎賞を受賞した『黒船前夜』は、日本がアメリカによって「目覚めさせられた」という開国観が誤りであることを、見事に描いた。 ロシア、北海道アイヌ、朝鮮、琉球との外交関係こそ、江戸時代日本の世界のなかでの立ち位置であり、開国とは「目覚め」なのではなく、軍事力によってアメリカが日本に強いた市場開放だったのである。 以上の3冊は江戸時代の初期から最後までを書いた江戸時代論として、今後も読み継がれる重要な著書である。
東日本大震災が起こった11年3月11日の翌々日、渡辺さんによる大佛次郎賞受賞講演会が横浜で開催された。私は講演会に列席したのち、対談をすることになっていた。講演は素晴らしかった。大佛がユダヤ人の冤罪(えんざい)事件を扱った1930年刊の『ドレフュス事件』は、議会政治こそが理性、進歩、ヒューマニズムを代表していることを書いたのだと、36年刊の『ブゥランジェ将軍の悲劇』は当時の日本の軍事政権を比喩的に書いたのだということを語られた。 大佛の作品を挙げながら、渡辺さん自身が、著作というものはその時代の権力や政権への批判なしには成立し得ないものだ、と語った ことになる。深い感銘を受けた。
講演でおっしゃった「人間は土地に結びついている。土地に印をつけて生きている存在である。死んだ人間の想(おも)いとつながっている」という考えを、私はずっと胸に刻んでいる。これは石牟礼さんと渡辺さんが共有している価値観だ。水俣事件は、近代的市民社会の論理によっては説明しきれない前近代的な生活意識を考えに入れることで、はじめてその残酷さが見えてくる。その生活意識の中には「人間的道理」が実在した。水俣事件は単に身体的な被害というだけではなく、土地に結びつき庶民を貫いていた「人間的道理」を、破壊し尽くした事件だったのだ。
18年の対談の中で渡辺さんは、「日本の近代化は人々の生活をもう少し合理的なものにしたい、もう少し豊かなものにしたいと思ってやったものではなかった…… 西洋から学びたかったのは軍事力と産業力、中央集権型の国家構造だけ 」とおっしゃった。今の日本も、そのような「国家構造だけ」を受け継いでいる。戦後日本は大きく変わったと誰もが思っていたが、今の軍拡や改憲志向によって、それは幻想であったかもしれない、と思い始めている。渡辺さんはそのような日本を凝視しつつ亡くなった。
「孤立することを恐れるな」――これは対談の最後に、私たち二人の後輩である法政大学の学生たちに向けておっしゃった言葉である。今必要なことは、同調圧力に屈することなく、一人一人が自分の言葉を伝え続けることだ。
(寄稿)
<たなか・ゆうこ> 1952年生まれ。法政大学前総長。著書に『江戸の想像力』『江戸百夢』『苦海・浄土・日本』など。
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