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(深沢剛)
開戦直後から・アジア太平洋地域の占領地を拡大した旧日本軍は米英やオランダなど連合国兵士16万人を捕虜とした。徴兵による日本国内の労働力不足を補うため、一部が本土へ送られることになったが、輸送船が連合国の攻撃を受け約1万1千人が海に沈んだ。日本に着いた約3万6千人が全国130ヵ所の収容所に送られた。
日本は当時、捕虜の人道的扱いを定めたジュネーブ条約を批准していなかったが、開戦後に条約の「準用」を国際社会に宣言した。しかし、実際には収容所職員による捕虜の暴行や虐待が横行し、赤十字国際委員会からの救援物資も横取りされて十分な食料や医療も与えられず、強制労働により衰弱した。
草の根の研究成果を996ページにまとめた事典には、京浜工業地帯を抱えて全国最多16力所が設置された県内の収容所も詳述。少なくとも2500人以上が収容され、213人が亡くなったとされる。
■大船収容所
横須賀海軍警備隊植木分遣隊(通称・海軍大船捕虜収容所)は唯一の海軍の収容所で1942年に現在の鎌倉市植木に開設。ジュネーブ条約で敵兵を捕虜とした場合は国際赤十字への通報義務があったが、大船収容所は捕虜の存在自体が秘密にされ、禁じられている捕虜への尋問が行われていた。通報されない捕虜は国際法の保護を受けることができなかった。
2週聞から数力月に及ぶ抑留で捕虜たちは尋間官の質問を拒否すれば殴打され、食事を抜くなどの懲罰を受け6人が亡くなった。捕虜の中には撃墜王と呼ばれた米海兵隊少佐や元五輪陸上選手ルイス・ザンベリーニもいた。
■横浜公園球場
東京俘虜収容所第3分所は横浜スタジアム(横浜市中区)の前身となる横浜公園球場のスタンド下を宿舎として利用した。
軍の指示で病人も港湾荷役や工場で強制的に働かされたが、所長の将校は温情のある元僧侶で捕虜からも評判が高く赤十字の救援物資も公平に配られた。ある程度の自由も許され、元捕虜から「(他と比べ)日本一の収容所」と評された。
■三菱ドック
東京俘虜収容所第1派遣所は横浜市神奈川区の倉庫街に開設し、捕虜は現在のみなとみらい21地区にあった三菱重工業横浜造船所のドックで働かされた。
1日10時間、休日は月2日で病気でも重労働を強いられた。捕虜への暴力か横行し、靴が汚れているだけで懲罰を加えられた。54人が栄養失調などで亡くなり、戦後の横浜裁判では「京浜地区ワーストの収容所」として県内の収容所で唯一、所長が絞首刑となった。
■民間人抑留所
太平洋戦争が始まると、軍人でなくても連合国の国籍を持つ在日外国人も抑留された。全国で約1200人が自由を奪われ、そのうち50人が亡くなった。
県内5ヵ所の抑留所のうち、神奈川第1抑留所は43年に旧横浜競馬場(横浜市中区)から旧北足柄村(現在の南足柄市)の山荘に移転。厳冬の中で暖房も食料もなく1割に当たる5人が亡くなった。収容所は戦後、北足柄小学校(現在は廃校)となった。
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