2012/06/07
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         741年 - 聖武天皇、国分寺建立の詔。 東ローマ帝国皇帝にコンスタンティノス5世                     が即位
         743年 - 聖武天皇、墾田永年私財法を施行、大仏建立の詔
         744年 - 東突厥滅亡
         745年 - 唐の玄宗が楊太真(楊貴妃)を貴妃とする。 テオドロスがエルサレム総主教                   に就任
         749年 - 聖武天皇譲位し、孝謙天皇即位する

                             ・・・・・・・・ の頃
ゴビの風景



 三者は協調して東突厥を攻撃し、東突厥の烏蘇米施可汗(オズミィシュカカン)を殺した。

 翌々年の744年、回?(ウウグル)部と葛邏禄(カルルク)部は 盟主である頡跌伊施(イルテリシュ)を殺し、代わって回?(ウウグル)部の頡利発(イルテベル:部族長)であった骨力裴羅(クトゥルグ・ボイラ)が

 骨咄禄毘伽闕可汗(クトゥルグ・ビルゲ・キョル・カカン)となり、唐に遣使して懐仁可汗(在位:744年 - 747年)の称号を賜った。

 また、骨力裴羅(クトゥルグ・ボイラ)は 本拠地を南の突厥故地(漠南)から烏徳?山(ウテュケン山)・昆河(オルホン川)の間に移した。


 天宝4載(745年)、骨力裴羅は東突厥の白眉可汗(ハクビカカン、烏蘇米施可汗の弟、東突厥の最後のカカン)を攻め殺し、

 骨力裴羅=骨咄禄毘伽闕可汗(クトゥルグ・ビルゲ・キョル・カカン)が 頓啜羅(トンチョラ)を唐に遣わして白眉可汗の首を献上させると、 唐によって左驍衛員外大将軍に拝されている。

 骨力裴羅はさらに領土を広げ、東は室韋、西は金山(アルタイ山脈)、南は大漠(ゴビ砂漠)と接するまでとなり、古の匈奴の地を手に入れることとなった。

 骨力裴羅が死ぬと、子の磨延啜(モユン・チョル)が立ち、葛勒可汗(カツロクカカン)と第二代・カガンを号した。
オルホン川

 ウイグルはもともと歴代遊牧国家同様、天や太陽のほか狼や鳥を信仰しており、主要な24氏族のトーテムは、4氏族が隼、4氏族が鷲、12氏族が鷹(鷹4・白鷹4・青鷹4)、その他は狼・豹えあった。

 第3代の牟羽可汗(ボウウカカン、在位:759年-779年)の時に初めてマニ教を受容し、多くのソグド人官僚を採用した。



 そして 第7代懐信可汗(カイシンカカン、在位:795年-805年)の代に再びマニ教が受け入れられると、多くのマニ教高僧がモンゴル高原に呼び寄せられ、

 名実ともにウイグル可汗国の国教となった。 このようにして、ウイグル可汗国は世界史上唯一、マニ教を国教化した国となり、後年のトルファンでウイグル文化の昇華の大輪が開きます。


 葛勒可汗(カツロクカカン、? - 759年)は、回鶻可汗国の第2代可汗。 懐仁可汗(カイシンカカン)の子。 氏族は薬羅葛(ヤグラカル)氏、 名は磨延啜(モユン・チョル)。 英武威遠毘伽可汗(エイブイエンブルカカン)の称号を唐から授かっている。

 父の懐仁(カイジン)可汗が死去すると、太子であった彼が立って葛勒可汗(カツロクカカンと号し、即位した。

 天宝14載(755年)11月、中国において節度使の 安禄山

 唐・玄宗皇帝は、長い治世の後半には楊貴妃を溺愛して政治への意欲を失い、宰相の李林甫や 貴妃の一族楊国忠の専横を許した。

 楊国忠は、玄宗と楊貴妃に寵愛されていた節度使の安禄山と対立し、危険を感じた安禄山は755年に反乱を起こした。

 【  節度使 は 玄宗の時代の官職で、辺境に駐留する藩師に軍事指揮権と一部の行政権を与える制度、 北方3州の節度使を兼ね大軍を握った安禄山はたちまち華北を席巻し、洛陽を陥落させ 大燕皇帝と称した 】

  瞬く間に 安禄山は首都圏を制圧した。 都の長安を占領され玄宗は蜀に逃亡、その途中で反乱の原因だとされた楊貴妃と楊国忠は誅殺された。

 玄宗皇帝は蜀の地(四川省)へ逃れ、失意の玄宗は、翌年(756年)帝位を太子の李亨(粛宗)に譲り、自らは太上皇となった。

 【 9年に及んだ反乱は、安禄山とその死後乱を主導した配下の史思明の名をとって安史の乱と呼ばれ、 “安史の乱”によって、唐の国威は大きく傷付いた。 以降、唐は次第に傾いていく 】
安史の乱

 至徳元載(756年)7月、粛宗(シュクソウ)は霊武(寧夏・霊武市)で即位すると、李承案を燉煌王に封じ、

 将軍の石定番を回鶻(ウイグル)可汗国に使わして修好を結ばせるとともに、対安禄山の徴兵を依頼させた。

 756年の9月、葛勒可汗は 娘を燉煌王・李承案に娶らせるとともに、首領を粛宗皇帝に遣わして和親を請うた。 

 和睦の為に、回鶻公主を封じ、毘伽(ビルゲ)公主としている。 唐皇帝とウイグル王室は婚姻で結ばれた。

 至徳2載(757年)2月、葛勒可汗(カツロクカカン)は また首領大将軍の多攬(タラン)ら15人に入朝させた。

 同年9月、粛宗は人事を一新し、回鶻公主・ビルゲを妃とした。

 葛勒可汗は太子の 葉護 (ヤブグ)を遣わし 帝徳らの兵馬4千余衆を統領させた上、正嗣・葉護太子に唐の助国討逆を命じた。

 迎待した粛宗は 大いに喜び、盛大な宴を開催して葉護太子を歓待した。 また、元帥の広平王・李俶(後年の代宗)に命じて葉護(ヤブグ)と会見させると、2人は兄弟の契りを結び、葉護は広平王を兄と呼んだ。

 こうして、両国の間で同盟が成立すると、回鶻(ウイグル)からは太子葉護と僕固(ボッコ)が回鶻(ウイグル)軍を指揮して安禄山討伐に進軍した。 

 兵馬4千余の部衆を率いての出兵であり、唐を助け 逆賊の安禄山を討つ為であった。

 粛宗は 討伐軍の元帥に広平王・俶を命じ、直ちに出陣させている。

 葉護太子が進軍途上、唐の将軍・郭子儀(カク・シギ、唐朝に仕えた軍人・政治家。玄宗、粛宗、代宗、徳宗の4代に仕えた)が 

 一行を留めて、3日間の宴を開こうとしたが葉護(ヤブグ)太子は以下のように答えて固辞したと言う。

 『 唐の国家の危難があるために、私は遠方から来てご援助しようとしているのです。どうして宴会をして、暇をつぶしておれましょうか 』

 しかし、郭子儀は固くこれを引きとめた。 宴が終わると葉護太子はすぐに出発した。 

 その軍隊には毎日、羊200頭、牛20頭、米40碩が食料として 郭子儀がてはいし、給与された。 

唐版図

 元帥の広平王は郭子儀らを率いて香積寺の20里の地点に到着すると、西方は豊水に臨んだ。

 賊軍は精鋭の騎兵を唐軍の本陣の東に隠し、唐軍の背後を襲撃しようとした。 朔方左廂兵馬使の僕固懐恩は廻?の葉護太子を招いて唐軍の救援を求めた。

 葉護太子は依頼を受けて賊軍を攻撃し、賊軍の一匹の馬も逃がさなかった。 賊軍は大敗を喫したために西京(長安)を放棄した。

 至徳二載十月、広平王及び副元帥の郭子儀はウイグルの兵馬を率いて賊軍と陝州の西において戦を展開、 

 葉護太子は 将軍・車鼻施吐撥裴羅らを率いて南山に沿って東へ進み、谷の中で賊軍の伏兵を全滅させている。

 郭子儀は新店にいたり、賊軍に遭遇して戦ったが、賊軍の勢いが強く、郭子儀の軍隊は数里退却した。 ウイグル軍団は唐軍が山を越え、嶺上を西方に進み、白い旗をなびかせたのを望見した。

 葉護太子の軍は進んでこれを攻撃し、直ちにその背後に出たので、賊軍は大敗して逃げる。

 賊軍の人馬は重なりあい、互いに踏みにじられて、死者は数えきれぬほどであったという。

 郭子儀と葉護太子の軍は敵の首を十余万も斬り、地上に倒れ伏した屍体は30里も続いたという。

 賊軍の武将の厳荘は馳せて、大敗したことを安慶緒に報告した。 安慶緒はその大敗を聞いてあわてて賊党を率いて、東京(洛陽)を後にして敗走し、黄河を渡った。

 そこで葉護太子は広平王、僕射郭子儀に従い、東京に入城した。 葉護太子は広平王から錦、毛氈、宝、貝を贈り物として与えられたのでそれを受け取ったという。

 至徳二載11月癸酉の日に、粛宗が西京に帰還したので、葉護太子は東京から西京に行った。

 粛宗は百官に勅してこれを長楽駅に出迎えさせた。 粛宗は宣政殿に臨御して宴を開いて葉護太子をねぎらった。 葉護太子は殿に升り、その配下の武将たちは階の下に列を作って並んだ。

 粛宗は錦、薄絹、綾絹、金銀の器皿を葉護太子に贈り物した。 葉護太子が暇乞いして西域に帰るにあたって、粛宗は

 「国家のために大事をなしとげ、義勇をなしたのは卿らの力である」と言った。 葉護は答えて以下のように言ったと言う。

 『 廻?の戦兵は沙苑に駐屯しております。 今はいったんは霊夏に帰り、新たに馬を取って来て、その上で范陽を占領して残賊を討伐するつもりです 』

唐の系譜 1

 至徳二載十一月己丑の日に、粛宗は詔をくだして、以下のように述べた。

 葉護の功績は艱難を救い、その大義は国家を保ってくれた。 葉護の国・回鶻(ウイグル)は唐とは万里も離れたはるか遠い地方ではあるが、本朝(唐)と徳を一にし、心を同じくするものである。

 このような事実は古今に求めようとしても、いまだ聞いたこともないことである。

 回鶻(ウイグル)の葉護は、特別に英姿を天から授かり、人よりぬきんでていて、人知れぬ計略を生んだ。

 その言はかならず忠信であり、その行いは温良をあらわし、その才は万人にも匹敵し、その位は北方諸蕃族の筆頭につらなっている。

 凶悪にして醜いやからが人道を乱したため、中原はまだ不安な状態に陥っている。

 可汗は(唐と)兄弟の約束があることによって、国家のために父子の軍をおこし、その智謀を発揮し、あの凶悪なる逆賊を討伐した。

 ひとたび太鼓を鳴らして勇気をふるい、万里の遠きにわたって敵の鋒をくじいたので、20日間で両京は奪還された。

 その力は山岳を抜くほどに強く、その精神は風や雲を貫くほどにたくましかった。葉護は疲れてもその労を辞すことはなかったし、難事に急いで立ちむかっても、その分際を越えることはなかった。

 もとよりこのことは、日月に懸け、これを子孫に伝えるべきことがらである。 分土に封じたり、封爵の誓いという恩賞のみにどうしてとどめておけようか。

 それ、位の崇高なのは司空があり、名誉の大なるものは封王が最高である。 それゆえ、葉護を司空となし、なお忠義王に封ずべきである。

 唐は葉護に毎年、絹2万匹を送り、これを朔方軍に届けるから、葉護はよろしく使者を派遣してこれを受領せよ。』

 唐・回鶻連合軍は11月までに首都の西京(長安),副都の東京(洛陽)を奪還することに成功する。

・・・・・・ しかし、 ウイグル可汗国の葉護(ヤブク)太子の凱旋帰還後の足跡は 歴史から 忽然と消えている。 殺害されたのか史家の判断は謀殺なのですが・・・・




                                  _____ 続く _____






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Last updated  2012/06/07 07:47:31 PM コメントを書く


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