全8件 (8件中 1-8件目)
1
「昭和の作家」探訪の読書、石川達三『青春の蹉跌』時代背景は1960年代後半どっぷり昭和に漬かった、しかし古びていない題材。いつの世も経済的に不如意な青年が、勉学、容姿に自信あり、上昇志向があるとすると、手っ取り早いのは後ろ盾を見つけること。いわゆる「逆玉の輿」を狙うのもその一つ。法律を学んで国家試験を目指している青年が、学費を援助してもらい、その支援者の娘と結婚の運びの実現となったところで、その道は安易ではなくなった。そのつまずきはこっそり付き合っていた元カノが妊娠「生みたい」と言われ、万策尽きて・・・そしてどんでん返し。斎藤美奈子氏が文学論『妊娠小説』で「妊娠サスペンス」と名付けているほどの緊迫感だ。石川氏はけっこう結婚つまずき小説を書いていて(『薔薇と荊の細道』『僕たちの失敗』など)、石川達三の特徴は堅苦しく理詰めと言うけれど、法律を学んでいる青年が主人公のこの小説では、それがよく発揮されていてなかなか読ませるものである。古いからもう読む人もいないのではと思っていたら、昭和4年5月初版のこの文庫本、令和2年3月に76刷だというから。見つけたわたしもびっくり。たぶんこういう状況はこの超現代にも転がっているだろう、だから読み継がれているのだと。
2021年04月10日
コメント(0)
No3 石川達三 <いしかわ たつぞう>(1905~1985)80歳で歿小説家。秋田県生。早稲田大学中退。昭和10年『蒼氓』で昭和10年度第一回芥川賞受賞、作家として認められる。14年『結婚の生態』、15年『母系家族』、16年『風樹』を発表、戦後も『望みなきに非ず』『風にそよぐ葦』『人間の壁』『四十八歳の抵抗』などを著した。その他の作品『青春の蹉跌』『幸福の限界』『僕たちの失敗』*****「わが小説」(1962年朝日新聞コラム)に『人間の壁』をとりあげている。書いたのは57歳、だから氏がまさに脂が乗りきっている時、だが、 一つの小説を書くという事は、一つの闘いを完成することだ。私は自分の作品の一つ一つに新しい主題を置き、新しい問題を追求する。 外科手術のように、人間生活のなかの幹部を切り開いて、病根を取り出そうと努力する。手術がうまく行くこともあり、何とも手ぎわの悪いこともある。 私の創作態度は人体の美を鑑賞するものではなくて、人体の患部を切開しようとする種類の仕事だ。一見残酷に見えることもある。しかし医家は鬼手仏心という。わたしの残酷さは、人間への愛情、というよりは人間への欲だ。と、何とも堅苦しい理詰めの作家に思われる。しかし面白みばかりが小説ではない。渾身の力を込めて二年半がかりで『人間の壁』を執筆、名も知れぬ大勢の人たちに支えられ、当時の教育問題をえぐった作品になったのであるという。*****当時わたしはやはりちょっとねと敬遠しており、それでも読まなくてはならない作家には思っていて、中年になってから『幸福の限界』という作品を読んでいるが、内容はもうすっかり忘れている。最近『青春の蹉跌』という文庫本が目に飛び込んできたので、先ずはそれを読もうと思った。*****このシリーズ、放置していたのだが自分のために再開。なにしろ50年以上も前の切り抜きだから、根気の長い話だ。
2021年04月07日
コメント(0)
著書は読んでいなかったけど、ご病気が重篤で『死の淵より』などの作品が話題になっていた記憶がある。有名な鎌倉文庫や駒場の近代日本文学館などの文学活動をなさっていた印象も強い。謹厳な堅苦しいような作家、初期のこの作品はぎやかだった戦前の浅草を描いた、通俗小説のようで意外な気がしたが、作品が書かれた時の作家の身辺を知ればわかる気もする。思想的なことや妻に去られたことなどで何もかも行き詰っていて、脱却したいために遊興地浅草でブラブラしていたのだが、それでもなお悶々としていた時代を材料に私小説風な作品。別れた妻への未練、戦争への暗い道の予感、可憐なダンサーに寄せる慕情。時代の背景・風俗がよく書き込んでありおもしろいのはさすが。昭和14年頃の浅草なんてもうこのような本で知るしかない。有名なのは永井荷風の作品。そういう意味では貴重な文芸作品でもある。
2018年12月15日
コメント(0)
No2 高見 順<たかみ じゅん>(1907~1965)58歳で歿「わが小説」には『今ひとたびの』を取り上げて、断絶と分裂時代に「統一的な原理」を求めたこのコラムを書かれたのは55歳の時(昭和37年年)「私の青春は昭和とともに始まった」だから昭和時代を小説に書き残したいそうだ。その青春の昭和時代とは「アメリカニズムがはんらんし、その一方で階級意識が高まった時代で」その分裂した時期に「私の心は後者に傾いていた」「ファシズムのあらしが吹きすさび、日本は戦争に突入した。それは敗戦という悲劇で終わったが、その後の十数年もまた苦難にみちたものだった。」波乱に満ちた時代だから小説になるとおっしゃる。「昭和初期の近代主義と社会主義、ナショナリズムとインタナショナリズム等々、この分裂は今日も尾を引いている。分裂の連続という点でのみ断絶の昭和時代はひとつの連続性を保っている。」これを書かれて3年後になくなった高見順氏には想像できなかっただろうが、その後昭和は四半世紀、63年まで続いたし、そしてそのあと平成も30年が経ち、終わろうとしている今もまた世界は分裂して波乱に満ちていることは同じであるけれども。年表によると高見順氏は戦前、左翼的思想から転向した経験を持つ、しかも疑似転向と思われて終戦まで監視が続いたそうである。インテリ的リベラリスト的左派的だったのか、それは多くのインテリゲンチャの陥ったところ、戦前も戦後も。そんな八方ふさがりも分裂を誘う。このコラムで高見順氏は分裂を埋めるものは「統一的な原理」=「愛情」に求めて『今ひとたび』(昭和21年)という小説を提示した。その小説はモダニズムによる性の解放の荒廃に対する純愛を描ききるというかたちなのであると。他作品『如何なる星の下に』(昭和15年)『わが胸の底のここには』(昭和33年)『死の淵より』(昭和39年)『生命の樹』『激流』(昭和42年)『過程的』(昭和25年)*****話題ひところ盛んにTVを賑わしていたスレンダーな高見恭子さんは高見順さんのお嬢さん。といっても一緒に暮らしたわけでもなく、7歳くらい幼いときに高見さん亡くなってしまわれた。でも、TVの彼女は好感が持てましたよね。この新聞のコラムお写真などにも彼女に似ていますね。文庫本(講談社文芸文庫)の解説にある高見順さんの写真も背が高くハンサムなのも納得。*****次ブログでは『如何なる星の下に』の読書メモになり、「No3 石川達三」に続くのだが、こんなふうな新聞切り抜き「わが小説」の内容は要らないように思うので省き、参考にしながら作家の作品を読んで行くことにする。
2018年12月10日
コメント(0)
単なる私小説作家ではありませんでした。ご自分の身近な人たちを題材にしながらもそこに人間の普遍性を冷静に分析しています。この短編集には「聖ヨハネ病院にて」 「大懺悔」 「薔薇盗人」 「野」 「姫鏡台」 「柳の葉よりも小さな町」 「美人画幻想」 「白い屋形船」 「上野桜木町」 「ブロンズの首」みんないい文章なのですが、その中でも「上野桜木町」は印象的。自殺した川端康成との交流を追想しているのですが、はじめは編集者としてお付き合いし、原稿取りに苦戦し、後に自身も作家となって敬愛する先輩となります。ノーベル賞作家となった川端康成の人間味のある姿が生き生きと描かれています。
2018年10月21日
コメント(4)
あらすじ時は明治時代の終わりか、大正の初めと思われる。小学5年生の仙一は学校の校門際に植えてある薔薇を盗んだ。貧弱な薔薇木にたった一輪咲いていたのを。学校中大騒ぎになった。何故、盗んだのか。病弱で寝ている5歳の妹を慰めたかったから。仙一の家は極貧。朝ごはんも食べずに学校へ行かねばならない。栄養失調の妹二人は家でボロキレにくるまって寝ているしかない。電灯もろうそくもつけない家は真っ暗だ。そんな中での洒落た赤い薔薇の花は一時の慰め。働きものの母親が死んで、気落ちの父親、喜八も病気である。いや、怠け者の極道との世間の噂は一応あたっているらしい。左手の指が生まれつき4本しかない欠陥もあり、心が病んでいるにちがいない。自作農だった田地が今は小作になってしまったのもひねくれから。いよいよ喜八は働きたくなく、親子4人は飢餓にさらされている。近所や親戚も助けてくれることはあるが、所詮足りない。喜八もふて寝の毎日だ。そんな喜八が息子仙一の盗みを知ると病気を忘れて烈火のごとく怒り、仙一を家からたたき出してしまう。はだしで飛び出して、自分の月影を踏みつつ田舎道を彷徨う小学生仙一。普段はガキ大将でもあるのに、心細さはがつのる。手下の三年生を誘うと隣村の芝居小屋に潜り込もうとしたり、それがかなわないと、嫌がる手下を真っ暗な自分の母親のお墓に連れていったりする。行き場がなく、仕方なく自分の家に帰ってくる。「・・・・・土間の戸をそおっと開けようとすると、家の中がなんとなく明るんで見えた。おや、と思いながら這入ってみると、蝋燭の火が一本ほの揺れて、その光のそばで、父親の喜八が後光に包まれたような格好をして、草履を作っていた。仙一の学校草履をもう二足も作っていた。仙一が帰って来たのを見ると、喜八は重い口で「芋食うて寝よ」と言った。仙一ははだしで座敷を上がり、芋を二つ三つ食ってから、利エと由美江(妹たち)の間へ割り込んで寝た。父親の影法師が煤けた壁の上で大きく揺れるのを見つめながら・・・・・」*****貧しい家庭に育つ少年と父親を冷静な描写、あたたかい目線で捉えられ、悲惨ながら感動を与える短編。「貧乏をしても盗むな」というきれいごとの説教ではない、人間の心のひだを探る文学の作品である。*****上林暁の処女作短編。昭和の作家探訪とて昔の新聞の切り抜きから、読んでいこうと思っていてはじめの一歩、No1が上林暁。講談社文芸文庫の短編集『聖ヨハネ病院にて 大懺悔』の一番目の作品。上林暁はその後、私小説作家になるのだが、この一作目は純然たる創作。察するに教員だった父親の話からヒントをもらったのでは。川端康成が作家の「目の誠実」と褒め称えたそうである。
2018年10月21日
コメント(3)
№1 上林 暁<かんばやし あかつき>(1902~1980)78歳で没この記事書いた時は60歳におなりでした。「主に短編(80枚以下)ばかり書いている」私小説家ということです。取り上げてある作品は『聖ヨハネ病院にて』鎌倉文庫『人間』昭和21年6月号に60枚で発表「私が都下小金井の聖ヨハネ病院に寝泊まりして、そこの神経科に入院していた妻を看取ったのは、終戦直後の昭和20年9月から10月にかけてであった。病室は五号室で、チェホフの狂人小説『六号室』とは一号違いで、私はそれを面白く思った。私は妻のベッドの傍らで、病院での経験をつぶさにノートにつけた。」なるほどね、これは私小説ですね。20年9月って敗戦後すぐの時期、混乱と食糧難の中で病人を抱えて大変だったろう。そういう飢えの季節が背景、全然自信が持てなかった作品だが、大御所、井伏鱒二や伊東整が疎開先からまだ帰っていない隙にほめる人がいてまとめて本にしてドル箱となった由他作品『薔薇盗人』『春の坂』『白い屋形船』『ブロンズの首』など。*****上記昔の新聞切り抜きから書いたが、講談社文芸文庫の短編集『聖ヨハネ病院にて 大懺悔』の年表や解説を読むと、この記事を書いたころは脳出血で倒れて半身不随になっていたとのこと。口述筆記などや左手で執筆をつづけていらしたとのこと。不屈の闘志。昭和時代の作家探訪(1)の続き
2018年10月18日
コメント(0)
<朝日新聞昭和32年(1962年)「わが小説」シリーズ切り抜きより>若いころのこと、好んで読んでいる世界文学や古今の名作ばかりではなく、今活躍している作家の作品はどのようなものがあるかとその頃、家が購読していた(といっても結婚前だから実家)新聞から切り抜きをしていました。きちんとノートに貼り付けて143回分もとってあったのです。今回の整理片付けに「捨てようかな」とパラパラと見てみると、ちょっとおもしろい。当時の文壇・出版界で活躍の作家が、自分の(自信作の?)小説を紹介する記事です。その「わが小説」シリーズは№1から№143で終わっていて、多分毎日連載されていたのだと思います。その後50幾年、これを参考に当時の現代作家の作品をわたしがどれだけ読んだか?それに今も平成の(もう終わりだけど)作家さんたちをちゃんと感知しているか、あやしいものだと相変わらず偏った本好きなのではありますが。ところでその「わが小説」記事を書いた作家が、すっかり昭和作家辞典の様相になってます。物故された方がほとんどですし、ブレイクせずに忘れられたようになっている方もありそうです。述懐をふくめて勉強になりますし、その作家たちをウイキペディアなどでで調べながら、ときどきアップしてみようと思っています。では№1 上林 暁<かんばやし あかつき>(1902~1980)78歳で没わたしの知らない作家さんです。次回に続く・・・
2018年04月15日
コメント(0)
全8件 (8件中 1-8件目)
1