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Lafrenzはロッキングチェアに座りながら身体を上下に動かしていた。はじめ彼女はゆっくりと椅子揺らしていたが、「第三帝国」の話を続けるにつれて落ち着きを失くしていった。
Lafrenzによれば、ドイツのポーランド侵攻により第二次世界大戦が勃発した1939年、高校卒業試験を終えた彼女は、国家勤労奉仕団での務めを果たし、ハンブルクで医学を学び始めた。彼女が学んだエッペンドルフの大学病院では、「非アーリア人」の志願者は受験を拒否され、「非アーリア人」の医師からは開業免許が剥奪されていた。 彼らの中にはユダヤ人として迫害され、アメリカ、イギリスもしくはスウェーデンに逃れた人々がいた。連行されて、数年後に強制収容所で殺害される場合もあった。
Lafrenz自身は、4学期間をハンブルクで勉強した。1941年の春、前年にフランスに侵攻したドイツ国防軍がソ連攻撃に備えていた頃、彼女はミュンヘンに移った。そこで彼女は仲間となるHans Schollと知りあう。22歳のウルム出身の医学生で、占領下のパリから帰還したばかりの一等看護長でもあった。
Lafrenz :バッハのブランデンブルク協奏曲が演奏された夜のコンサートでのことです。友人のAlexander Schmorellの紹介で私たちは知り合いました。実は、大学の講義中に、私はすでにHansに見とれていました。最初に気になったのは、彼の口元でした。その美しい口のHansは、約束を守れない人でした。
SPIEGEL :それでもあなたは彼と関係をもつことにしたのですね。
Lafrenz :私たちはひと夏を共に過ごしました。イザール川で泳ぎ、お互いをもっと知るようになりました。どんどんと関係が深まった、と言えばよいでしょうか。ハンスにはカリスマがあり、他にも彼の魅力に引き込まれました人がいました。
SPIEGEL :Hans Schollはあなたに出会う1941年の夏まで、ナチ政権に敵対的ではなかったようです。
Lafrenz :彼の妹Sophieもそうでしたが、敵対している感じはありませんでした。彼女は 3歳年下でした。「ドイツ女子同盟」の制服姿で堅信礼を行ったのは、同学年の中で彼女だけだったそうです。またHansもヒトラーユーゲントでは他のメンバーと一緒に列の前方に並んでいましたし、大規模な党大会では隊長としてヒトラーの前を整然と行進したこともありました。私と知り合ったとき彼はまだ国防軍での出世を望んでいましたが、失敗もあったようです。彼は大学入学前に逮捕されたことがあります。それは、男性同性愛を禁止する刑法典175条への抵触でした。彼はヒトラーユーゲントで、ある若者と関係を持ったのです。今日であれば、「だから何?」というようなことでしょう。しかし彼は牢屋に閉じ込められてしまいました。きっと彼は、このことを忘れられなかったでしょう。
SPIEGEL :白バラの母体となる仲間うちのサークルは、当時の政治状況とは相容れない考えを持っていましたが、どのように集会を開いていたのですか。
Lafrenz :Hansも私も文学好きだったため、私たちは夜の読書会を開きました。ハンブルク時代の経験から読書会のやり方は分かっていたので、それをミュンヘンでも開催したのです。当初の参加者はほんの一握りでしたが、後にSophie Schollや10人ほどの信頼できる学生が加わりました。スウィングを聞き、ワインを飲み、プーシキンを読み、絵画について語り合いました。
SPIEGEL :ヨーロッパの半分が戦争の真っただ中のときに、あなたは芸術を楽しんでいたのですか。
Lafrenz :男たちは何度でも前線に出向かねばなりませんでした。私たち女は弾薬工場で働かねばなりませんでしたが、総じて生活は悪くはありませんでした。私たちは哲学や倫理学について議論しました。もちろん、ヒトラーについても。でも、白バラのメンバーには強い政治的関心があったというのは誤解です。私たちはもちろん、Hansもまったくそうではありませんでした。それだけに、私は当時を振り返り考えることがよくあります。なぜ、彼だったのだろうと。 他の誰にも出来なかったことを、よりによってなぜHansはやったのでしょう。
SPIEGEL :しばらくして、あなたは再び彼と別れました。
Lafrenz :彼はいつも衝動的で無鉄砲な性格でした。あらかじめ物事を最後まで考えずに、はめを外すこともよくありました。どんな結末になるかよく考えていれば、勢いでやってしまったあのようなことには、彼は決して手を出さなかったはずだと、今私はそう思っているのです。
SPIEGEL :どのようにしてビラを撒くというアイデアが出たのでしょうか。
Lafrenz :私たちは皆、大衆を軽蔑していました。誰もが同じように見え、誰もが同じように振舞っていました。それは罠のようなもので、もはや真実の言葉を語ることはできない、とても危険な状況でした。私たちの目に映るこのような状況に、私たちは従いたくなかった。そこで、私たちは敵国の放送局、例えばBBCを聞きました。そこでは、 Thomas Mannがラジオ演説で、国防軍による犯罪やポーランドにおける虐殺について語りました。演説の内容は、後日Hansや他のメンバーが東部戦線で目の当たりにしたことと同じでした。彼らがワルシャワのゲットーについて語ったことはおぞましいものでした。その後私たちの多くも、ユダヤ人が連行されるのを目撃しました。彼らは二度と戻ってきませんでした。
SPIEGEL :ほとんどのドイツ人がこの光景を目にしましたが、どうにかしようとはしませんでした。
Lafrenz :私たちは良心の危機に陥りました。もう目を逸らすことはできません。そんなことをすれば、自分自身の存在価値が無くなってしまいます。私たちは相談しました。漆黒の闇に射す希望の光についてです。つまり、どうすれば国民を目覚めさせられるのか、どのような問題提起を新たに行わなければならないのか。発言したのはSophie Schollだったと思います。彼女は言いました。「多くの人々が現政権のために命を落としています。誰かが反政権を掲げて命を賭ける時が来なければ。」
Traute Lafrenzは両手を合わせていた。話すにつれて力が入ったのか、指の関節が白く浮き上がっていた。彼女は目の前のテーブルにあるHans Schollの古い写真をしばらく見つめると、何度も首を横に振った。
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