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”Ja, da können Sie sagen: Die Merkel war’s”それは「Merkelの責任だった」と言われても仕方がないかもしれませんね。 —---本インタビューでAngela Merkel前首相は、Donald TrumpやWladimir Putinとの関係、Friedrich MerzやFDPに対する評価について語ります。また在任中の政策判断ミスなどに関する問題に対して回答しています。—--- Angela Merkel(70)は、彼女が回顧録を執筆したアパートに私達を迎え入れてくれた。Berlin-Mitte地区にある、複雑な間取りの古風なアパートだ。本番印刷前の見本ではあるが、Merkelはどこか誇らしげな表情でその本を見せてくれた。700ページもの大著となったこの回顧録の執筆には、Merkelの側近でブレーンでもあったBeate Baumannも関わっている。インタビューにはBaumannも同席していたが、口を挟むことはほとんどなかった。Merkelの機嫌は良く、自分自身や著書について前向きに話してくれそうだった。現在の政治状況をテーマに、インタビューは始まった。Spiegel:次から次へと危機が訪れ、世界情勢は混迷を深めています。将来を不安視するドイツ人が増えているようですが、あなたも不安を感じていますか。 Merkel:私はもともと楽天家なのですが、それでも不安を感じることはあります。在職中、初めの2年間は首相職に必要な土台を積み上げていましたが、そうこうするうちに多くの危機的な状況が発生しました。以降、紛争の数がどんどん増える様子を目の当たりにしてきました。 Spiegel:政治家ではない立場から見て、現在の状況をコントロールすることは難しくなってきていると思いますか。 Merkel:インターネットによる新しいコミュニケーションは、グレーゾーンに目を向けて妥協の方法を探る能力よりも、問題の白黒はっきりさせるという傾向を強めているようです。まとまって欧州を結束させることが、ますます大変になってきているのです。様々な意見に対処しなければならないとき、どうすべきか?フランシスコ教皇は助言して下さいました。「できる限り柔軟に対応するのです。しかし、壊してしまわないように気をつけなさい」と。とはいえ、私の任期中にそうすることは、すでに難しくなっていました。今日に至っては、状況はさらに深刻です。 Spiegel:アメリカ大統領選が始まる前に書き終えた回顧録が、間もなく出版されますね。その中であなたは、Kamala Harrisの勝利を「心底」願っています。Donald Trumpが選挙戦で勝利したと聞いたとき、どう思いましたか。 Merkel:またもや世論調査がはずれたということですね。多くの新聞が、Harrisはどうにか勝利を手にするだろうと伝えていました。それなのに、朝6時に起きてスマホを見てみたら…。 Spiegel:どうしましたか。 Merkel:がっかりしました。2016年にHillary Clintonが勝てなかった時も残念でした。負けるとは思っていませんでしたし。 Spiegel:Trumpについてどう思いますか。 Merkel:政治にWin-Winの関係を許さず、そこにあるのは勝者か敗者だけだとしたら、これは多国間主義にとっては大問題です。 Spiegel:あなたはもう公職にはないのですから、もっと率直に話してもいいのではないでしょうか。 Merkel:私はもともと率直な物言いをするタイプではありませんでしたから。おそらく東ドイツ時代の影響もあって、行間を読み取るということを学んだのでしょう。事の真偽が不確かな状況で相手を負かそうとすることは、政治的に正しいやり方だと思いません。そんなことをしたら、問題が頻発しかねません。ですから、状況の良し悪しにかかわらず、極端な言い方をしたくないのです。 Spiegel:Trumpと対峙したときに感じたことを教えてください。 Merkel:分かりやすい例を使って説明しましょう。2017年にホワイトハウスを訪問した際のことです。取材カメラマン向けに握手をしましょうと私は言いました。カメラマンが写真を欲しがっていることに、Trumpが気づいていないと思ったからです。でも、彼は握手を拒否したのです。もちろん計算の上でした。 Spiegel:ドイツの首相がTrumpと付き合うにあたり、何を心得ておくべきでしょうか。 Merkel:Trumpは好奇心旺盛で、細部まで事細かに知りたい性格です。自分を有利にするために慎重に調べたいのです。自分の力を強め、相手を弱体化させるためです。その場に人が多ければ多いほど、勝者になろうという思いは強くなります。彼と楽しくおしゃべりができるとは思わないほうがよいでしょう。彼と会う時はいつでも戦いです。お前と俺のどちらが勝つか、ということです。 Spiegel:回顧録の中でTrumpの政治スタイルについて、不動産王としての成功の始まりを基に説明しています。「どんな土地も一度しか取引されない。彼のものになるのか、それとも他人のものになるのか。」今後もドイツの首相はこの彼のスタイルに合わせていく必要がありますか。 Merkel:決してそんなことはありません。そんなことをしたら、政治的に行き詰まってしまうことになりかねません。 Spiegel:Trumpは世界平和にとって危険な存在なのでしょうか。 Merkel:特に多国間主義の観点からすると、Trumpは国際的にかなり厄介な存在です。難しい問題を突きつけられることになるでしょう。この大統領は、世界最強の経済力を味方につけているという点を挙げるだけでも、その理由がお分かりいただけると思います。さらに米国ドルは世界の通貨システムに強い影響力を持っているのです。仮に私達が米国企業との取引をストップするとの声明を出したとしましょう。でも、アメリカによる制裁の影響力に比較すれば、こんな声明は取るに足りないことです。 Spiegel:Trumpが引き起こし得る問題は、2016年の時よりも大きくなるのでしょうか。 Merkel:Trumpは巨大な資本力を有するシリコンバレーの大企業と密接な協力関係にあります。 Spiegel:つまりそれは、Elon Muskのことでしょうか。Trumpは彼を政府機関のトップに据えようとしていますね。 Merkel:宇宙に浮かぶ人工衛星の6割が一個人のものだとすれば、これもまた政治上の大きな関心事となるに違いありません。Spiegel:Muskが所有する企業帝国、そして彼のSNSプラットフォーム「X」の影響力を考えたとき、彼はTrump以上に危険な存在だといえるでしょうか。 Merkel:そこまで言うつもりはありません。しかし、政治家は力を持つ者と一般市民との間に社会的なバランスを取る必要があります。銀行危機や欧州危機、世界経済危機において最終的に正常化に導いたのは政治でした。もしこの政治という最終的な決定機関が、資本力やテクノロジーの力により過度の影響力を受けるならば、だれにとっても、これまでに経験したことのない未知のレベルの問題となるでしょう。 Spiegel:ネット上の巨大プラットフォームの前では、政治は無力だというのでしょうか。 Merkel:そうではありません、民主主義において、政治が企業の前で無力になることなどありません。とはいえ、ドイツではAfDがやっているようなSNSにおける過激な煽りに対しては、理性的に対処することが重要です。 Spiegel:煽るといえば、Olaf Scholzが信号連立の崩壊を告げたとき、彼は連立パートナーであったChristian Lindnerを激しく非難しました。ScholzはLindnerを「小心者」と呼びつけ、信頼を裏切ったのだと非難しました。Lindnerもまた、Scholz首相は首相就任時の宣誓を台無しにしたとやり返しました。政治家によるこのようなやり取りをあなたはどう思いますか。 Merkel:男性諸君!…でしょうか。 Spiegel:典型的な男性像というものを持っていますか? Merkel:例えば、物事を自分自身のこととして感情的に捉えてしまうことがあると思います。政治家としては、これは避けなければなりません。 Spiegel:Scholz首相のように、会見で不満や怒りを表明しようとしたことはありますか。 Merkel:私もそうでしたが、誰でも首相の立場にあれば、大きなプレッシャーにさらされます。困難の中で、常に冷静にバランスの良い対応ができる人間はいないでしょう。イライラがピークに達した時は、オフィスの壁に向かって大声を出すべきです。ドイツの世論にむけて発散してはなりません。首相時代、私も一日中同じ気分でいることなどできませんでした。ともかく不満や怒りはわきに置き、自分は前向きなのだと確認することが大切でした。 Spiegel:Scholzの振る舞いは、首相職の品位を損なったとおもいますか? Merkel:私がそれを「品位のあるべき姿」と感じていたら、そんな風にはいわなかったでしょう。連邦首相は憲法機関である連邦政府を率います。首相の職務には品位があり、その品位こそが常に政府関係者一人ひとりの指針になるべきなのです。 Spiegel:「ようやくOlaf Scholzが指導力を発揮した」という反応もあるようですが。 Merkel:そうですね。率直な意見で態度をはっきりさせると、特に自陣からは良い反応が得られるものです。でも、そのような効果はあまり長持ちしませんし、私の見たところ今回もそのような感じです。Olaf Scholzがあけすけな物言いをしたとき、世間には多少の不安感が生まれました。一部では、次のような見方もありました。「もし私達の首相がそこまで感情のコントロールを失っているとしたら…まいったな、ドイツの状況はそんなに悪いのか?」 Spiegel:あなたが組閣したFDPとの連立政権にも不協和音がありました。2013年、最終的にFDPは連邦議会から議席を失うことになりました。回顧録には次のように書いてあります。「政府与党でありながら、同時に反対派であろうとすることは、ほとんどうまくいきません」 Merkel:少数連立におけるFDPや連邦レベルでのCSU、そして緑の党も長い間そうでしたが、全体の利益を考慮することは苦手だったようです。様々な政治的立場や連邦共和国全体のことを考えるのではなく、各党それぞれの支持層に手厚く対応せねばならないという考えをもっていました。 Spiegel:FDPそのものに問題があったのではないでしょうか。今となっては、LindnerやFDPのトップは数か月にわたり、連立を崩壊させようと画策していたことが明らかになっています。 Merkel:それについて事細かく説明することはやめておきましょう。とはいえ、FDPを単なる連立のパートナーと考えたことはありませんでした。FDPという政党が存在し、その状況を冷静に観察することから始まるのが政治だとだということです。 Spiegel:2017年、緑の党とFDPと共にジャマイカ連合を発足させることに失敗しましたね。信号連立政権の混乱を踏まえると、当時、ジャマイカ連合が成立しなくてむしろよかったと思いますか。 Merkel:そのようには考えていません。連立政権の行く末など、事前にわかることではありません。ジャマイカ連合が成立していたら、とても大変だったと思いますし、各党との調整に多くの時間を割かねばならなかったでしょう。しかし、Lindnerはジャマイカ連合を望まなかったのですから、そのような仮定も生じないでしょう。 Spiegel:700ページの回顧録中、16年の首相在任期間については400ページを割いています。あなたよりも在任期間が短いのに、もっと分厚い回顧録を書いた人もいました。なぜそんなにページ数が少ないのですか? Merkel:私たちの執筆の動機は少し違うのです。プロローグ部分には次のように書きました。「私は70歳になりました。初めの35年間を東側で、そして次の35年間は政治家として過ごしました。二つの人生のように見えますが、一つの人生に他ならず、後半の人生は、前半なしには考えられないものです。」ですから、私達はどうしても2巻本にする気にはならなかったのです。もしそうしたら、東ドイツ時代しか読まない人や、政治家時代しか読まない人が出てくるでしょう。なんといっても、700ページあれば十分に読み応えのある本だといえませんか? Spiegel:まぁ、値段が弱点でしょうか。Helmut KohlやBarack Obamaとの関係について目新しい情報はありませんでした。フランスや中国について割かれたページ数も少ないですね。イスラエルを除く中東については、情報がありません。もしかして執筆を早く終わらせたかったのではありませんか。 Merkel:そんなことはありません。元々の目標は500ページほどに過ぎなかったのですから。なにかを理解してもらうために際限なく巻数を増やす必要はありません。Beate Baumanと私は、特に1990年以降の政治家としての仕事についてはかなり抑制的に書きました。首相職という大きなテーマや、今日の批判的な問いから逃げたくなかったのです。関係者の中には、自分のことが本の中で言及されていないとがっかりする方がいるかもしれませんね。また、読みたいテーマについてもっと書かれていることを期待した読者もいるかもしれません。でも私達は、この本を歴史家のためだけに書いたわけではありません。一般の人にも分かりやすく、歴史的な事実をもとに政治について解説することを目指しているのです。 Spiegel:CDUとの関係について書かれているのは、あなたが本当に幸運を得た時のことだけのようですね。つまり、2000年の党首選について、こう書いてあります。「CDUと私が一体となる気持ちになった党大会は、これ一度きりでした。」 Merkel:それは本当に特別な瞬間でした。党首としてそのような経験をすることはそう多くはありません。とはいえ、CDUは私にとっていつだって居心地がよい場所です。CDUは18年にわたり私を支えてくれました。党員の忠誠心や私との連帯なしにはありえなかったことです。党大会に行くことはいつも楽しみでしたし、晩になれば仲間と食事をしながら、延々と話しをしていました。 Spiegel:しかしあなたは、党内のライバルがいかにあなたに対抗したのかについても書いています。男性党員により結成された派閥Andenpaktがあなたのことを「業務上の事故」だとみなしていたと。この時のCDUと、あなたはずっと距離をとっていたのですか。 Merkel:政党とは権力装置ですから、そこには権力争いがあります。Andenpaktに関する私の理解はこうです。彼らは80年代の中ごろから、Kohlの退任に備えていました。彼らにとってKohlの在任期間は長すぎたのです。そうこうするうちに、ドイツが統一し、とつぜん一人の東側の女性がやってきて、闇献金疑惑に乗じて出世したのです。だからといって、党との間に距離があったということにはなりません! Spiegel:一方で、CDUはMerkel時代の方針からは明らかに一線を引きました。 Merkel:国民政党には様々な意見や立場がありますし、18年間の私の首相在任後になれば、異なった方針をもつ人物を求める声があがるのはもっともなことだと思います。何週間か前にCDUが私の誕生日パーティーを開いてくれました。そこで私はFriedrich Merzの健闘を祈ると同時に、声を掛けて言いました。「CDUは私にとって今でも大切な存在です。たとえ今のCDUの政策の重点が以前とは異なり、共感しきれないことがあったとしてもです。」 Spiegel:Merzについて、あなたはこう書いています。「初めから問題はありました。私達はどちらも党首になりたかったのです。」また2002年に、あなたが彼から連邦議会議員団長の地位を奪い取ったとき、Merzは「大変がっかりしていた」と。あなたはMerzとの関係性の中で、過ちを犯しましたか? Merkel:いいえ。どうしてそう思うのですか? Spiegel:Merzは明らかに裏切られたと感じていました。あなたはMerzのようなCDUの有力者を味方の側につけておくべきではなかったのですか? Merkel:それは当時の彼の決断だったのです。2002年に私もEdmund Stoiberとの首相候補争いに敗れましたが、これはなかなか難しいものでした。しかし私は、もしCDUの一部が常に反対派で占められるならば、私達は選挙戦にかつことは難しいだろうということに気が付きました。StoiberはCDU・CSUを私よりもうまくまとめることができたのです。他の人たちも、そこに気づいてほしかったと思っています。 Spiegel:Merzには閣僚経験がありません。また自制心に欠けることがままあるようです。首相職を担えるでしょうか。 Merkel:今Merzは選挙戦を指揮しています。その中で彼は証明することでしょう。 Spiegel:あなたは彼が首相になることを期待しますか? Merkel:彼はいろいろなことをやり遂げてきた人なのですから、それなりの才能をもっているはずですし、能力もあると思います。理由もなく首相候補になる人はいませんよ。 Spiegel:回顧録中、あなたが女性であること、あなたの外見への悪口が重要なテーマとして取り上げられています。あなたに付けられてネガティブなあだ名をこの場で口にしようとは思いませんが。 Merkel:私が政治活動を始めた頃、どうしてそのような攻撃を受けるのかと、心を乱すことがよくありました。そんなとき、Baumanさんはいつも私に言ってくれました。労働社会問題大臣だったNorbert Bluemがどのように攻撃されていたかを見てごらんなさい。Helmut Kohlにいたっては、「洋梨」なんていうあだ名で呼ばれていたのですよ。振り返ってみると、落ち込んでいた私の気持ちに同情しなかったことに、とても感謝しています。政治とは、自己憐憫に沈むようなタイプの人には向いていない仕事です。私がいつも思っているのは、もしキャリアがほしいならば、繊細過ぎてはならないということです。 Spiegel:女性として政府を指揮したいという強い思いが、あなたの原動力だったのでしょうか。 Merkel:政府を率いる意思はありましたし、女性としてそうしたいという気持ちもありました。ですが、女性であることが私の象徴であるなどと大げさに考えたことはありません。私も女性達にがっかりさせられることはあります。女性である私達が常に団結していたということはありませんでした。 Spiegel:あなたは女性として、フェミニストとしてアピールしていたことは決してなかったという印象は正しいですか。 Merkel:はい。ですが、それは意識的に、戦略的におこなったことではありません。何かを話す際に、女性であることを意識してはならないと言われたことはありません。また、「国民の皆さん、ここで言っておきたいことがあります。私は女性です」といつも言わねばならないと考えたこともありません。東ドイツ時代、私は研究グループのなかで唯一の女性研究者でした。私以外の女性は、秘書の方だけでした。ですので、私は多くの男性のなかで自然に振舞っていたのです。 Spiegel:あなたが持つ、女性としてのアイデンティティーと東ドイツ人としてのアイデンティティー。どちらが強いと思いますか。 Merkel:それについては執筆の際に頻繁に議論しました。東ドイツ人としてのほうが強いと思います。東ドイツの生活では、正直でい続けることには相応の勇気が必要でした。別に反体制活動家が持つ勇気のことを言っているわけではありません。それは私の勇気よりももっと大きなものです。私にとって勇気とは、困難な状況でもあきらめないでやり遂げることです。後に私は西ドイツの人々や同僚議員を眺めて思ったものです。もし国家保安局に勧誘されたら、彼らはどうするだろうかと。そのまま勇敢な言葉を使い続けられるのだろうかと。 Spiegel:在任期間が終わる直前のこと、あなたが東ドイツ出身だという事実は「重荷」であると見なされたことを、あなたは批判しました。回顧録であなたは、「長年にわたる東ドイツでの生活では、『自己検閲』なしに会話をすることはできなかった」と書いています。あなたにとってDDR時代は、やはり重荷だったのではありませんか。」 Merkel:DDR時代の過去が、投げ捨ててしまいたいような重荷だったことはありません。それは私の人生の一部なのです。1992年10月3日のある会合で、大学時代のマルクス・レーニン主義に関する必修課題について話をしたところ、ドイツ統一後の数年間に渡って私はジャーナリストたちに追求を受けたことには戸惑いました。「文書はどこだ?」「一体何を書いたんだ?」「見つけたぞ!」と声をそろえて迫ってきました。一部のメディアでは、東ドイツでの私の生活をスキャンダラスな記事を書くために利用しようとしていました。とはいうものの、このような空騒ぎにかまっている時間も余裕もありませんでした。 Spiegel:あなたの首相在任期間中すでに、東部ドイツでは政党のあり方が大きく変化しました。AfDはあらゆる地域に定着しています。SPDは各地で二桁得票率の確保に奮闘しています。新党BSWはどの政治的な枠組みにもあてはまりませんね。連立の形成はますます複雑化し、チューリンゲンやブランデンブルク、ザクセンなどの地域では、不可能な場合も出てきています。 Merkel:むしろ大切なのは、連立可能な政党が、連立形成の可能性を自らつぶしてしまわないことです。 Spiegel:連邦レベルでの黒緑連立を望みますか。 Merkel:私には次のような根本的問題があるように思えます。つまり、Markus SöderをはじめとしたCSUの党員やCDUが、緑の党をこれほどまでに見下したような発言をすることは正しくないということです。もちろん緑の党が持つ政治的な見方は大きく異なるものですし、どんなに慎重に考えても私が同党のメンバーになることはありません。私はCDUの人間なのです。しかし、連立を組む可能性を維持することは大切です。特にノルトライン=ヴェストファーレン州、シュレスヴィヒ=ホルシュタイン州、バーデン=ヴュルテンベルク州では、黒緑連立政権が成り立っているのです。これら各州が上手くいっていないというわけではありませんよね。 Spiegel:政治家はAfDに関する話題を「しつこく」取り上げるべきではないし、「問題解決の具体的な処方箋無しに口先で勝ち誇るべきでもない」と、あなたは求めました。これはCDUに対する指摘ですか? Merkel:いいえ、それはすべての政党に対するメッセージです。特に政府与党です。与党には状況を変化させるに足る過半数の議席があるとはいえ、日々変化を要求し続けることは適切ではありません。また、選挙でAfDに勝つには、ドイツに来る難民の数が多すぎることを手厳しく指摘すべきだと考えている人がいるようですが、このような勘違いをしたら、正反対のことが起きてしまいます。 Spiegel:与党はゾーリンゲンで起きた刃物襲撃事件のような不快なテーマを避けたがっているように聞こえるのですが。あるイスラム過激派が3人を殺害した事件です。 Merkel:そのような意味ではありません。ゾーリンゲンで起きたような襲撃事件は恐ろしいものでしたし、民主政党ならば状況を改善する具体的な手立てについて発言するべきでしょう。とはいうものの、もしイスラム原理主義のテロリストというテーマが何週間にもわたり政治的トピックの全体を左右したり、特に議論の方向性に影響するようなことになれば、それは問題解決にも、AfDの抑止にも役に立たないでしょう。Spiegel:2015年の大みそかにケルンで起きた集団暴行事件や、2016年にベルリンのブライトシャイト広場で起きたイスラム原理主義者による襲撃事件については、あなた自身も書いています。でも、結論を述べることは避けていますね。 Merkel:そうは思いません。その内容を扱う章では、解決策についても取り上げています。とはいえ、極右勢力に対する戦いがNSU(国家社会主義地下組織)の恐ろしいテロ行為を防げなかったように、どんな移民政策もイスラム過激派による攻撃を根絶やしにすることはありません。 Spiegel:そのような犯罪行為は、開かれた社会が人道的であるための代償なのでしょうか。 Merkel:それはシニカルな見方だと思います。とはいえ、どんな自由な社会にも恐ろしい犯罪があります。ドイツでもそれは移民を契機に始まったことではありません。法治国家に厳格さはもちろん必要ですが、さらに大切なのは、私たちの人間としての自由と尊厳という価値観を決してテロリストに手渡してはならないことです。それを許すことは、テロリストの勝利につながってしまいます。 Spiegel:犯人が私たちドイツ社会に根を持つ人物なのか、それともドイツにやってきた難民なのかという違いには、意味がないということですか。 Merkel:意味はあります。だからこそ私たちは、不法移民が状況を左右するような事態を避けるために、ドイツを目指してくる人々に目を光らせている必要があります。 Spiegel:2015年9月のとある週末の日に、あなたは正反対の決定をしていますよ。ハンガリーに留め置かれた難民たちをドイツへと来させたのです。その後、効果的な入国管理なしに、さらに多くの難民がやってきました。 Merkel:その時私は、ヨーロッパの素晴らしい価値観や人間の尊厳などの言葉が形式に陥り、広く信頼を失ってしまうのではないかと考えていました。例えば、ドイツの国境に放水車を配置するような考えはとんでもないことに思えましたし、そもそも何の解決策にもならなかったでしょう。 Spiegel:回顧録の中であなたは当時の状況を、1989年の壁崩壊直前の在プラハ西ドイツ大使館の状況と比較しましたね。数千人もの東ドイツ人が敷地内に逃れ、西側への出国を求めていました。2015年、あなたが難民と連帯したのは、旧東ドイツ体制下でのご自身の経験が影響していたのでしょうか。 Merkel:その時の私の行動は、いつも二つの視点から説明されています。ひとつは、私が国連事務総長のポジションを狙っていたという説です。そのため、できる限り多くの国々から人気を得るために、すべての人々をドイツに入国させたかったというのです。もうひとつは、私が東ドイツ人としてのトラウマに苦しみ、そのために国境問題にセンチメンタルな感情をもっていたというものです。どちらもナンセンスです。もちろん、西ドイツ大使館に逃れた東ドイツの人々に、ドレスデン経由の特別列車での出国が許されたときの光景は、脳裏に焼き付いています。でも、その記憶が2015年の出来事に大きく影響しているわけではありません。 Spiegel:もしドイツ国境の封鎖を可能な限り行っていたならば、防げたイスラム過激派による犯罪があったかもしれないという考えが、心理的な重荷になっていませんか。 Merkel:大量の移民流入やイスラム過激派のテロなどに対する不安感を、いつでも私は真剣に受けて止めています。地域のお祭りに行っても、背後で誰かがナイフを抜こうとしているかもしれないと心配になるならば、実際にはそのような危険性がなくても、不安を感じずにはいられないでしょう。他方、ドイツがあまりにも不寛容で冷淡になってしまうことに不安を感じる人々もいます。首相としては、どちらにも真摯に対応せねばなりません。 Spiegel:国境開放の決断をした数日後に、Spandauにある難民申請者の初期受け入れ施設を訪問しましたね。そこで撮られたのがあの有名な自撮り写真です。難民になることを促すのではないか、との非難が持ち上がりました。 Merkel:笑顔の写真を見たからといって、故郷を去ろうと決心する人はいません。私は東ドイツからの難民を多く知っています。Helmut Kohlとの握手の場面を見たからといって、国を去った人がいると思いますか。 Spiegel:それはちょっと単純化しすぎではありませんか。あなたは親しみやすい首相として、独裁国家から逃げてきた人々の目の前に現れたのです。 Merkel:何か大切なものを諦めなければならなかった人、家族や友人をあとに残さねばならなかった人がいたら、まずは親切に対応しますよね。それは、当然なことではありませんか。彼らがドイツに滞在できるとか、できないとかとは別の話です。ここドイツで、彼らが期待するようなすばらしい生活が約束されているわけでもありません。 Spiegel:その後すぐ内務省では、国境を実質的に閉じるような措置をとることが検討されました。発令が準備され、難民申請者は送り返されるべきだとされました。しかしこの計画は、あなたが阻止したと言われています。 Merkel:当時、そのような命令を目にしたことはありませんでしたが、後日そのことについて書かれたものを読みました。私がThomas de Maizière内相に伝えたのは、国境管理は不可欠ですが、難民を拒否せよということではありません。もし難民申請があれば、それは調査されるべきです。 Spiegel:現在CDUは、まさにこのやり方、つまり国境で難民申請者を追い返すことを求めていますね。 Merkel:私はこの対応を正しいと思ったことはありません。当時、私達は適切に国境管理を行い、その他にも適切な対策を講じました。一定の効果もありました。一方、難民申請を国境で阻止すれば問題全体が解決するというのは、幻想だといわねばなりません。EUは全体としてこの問題を、EU外部の国境で解決しなければなりません。そうしないと、移動の自由と単一市場に悪い影響をあたえるでしょう。これはヨーロッパ統合にとって一歩後退となり、予測できないような結果をもたらしかねません。 Spiegel:あなたが言った「私たちならやれる」という言葉が広まりましたね。でも、過去を振り返った時、理想を持ちすぎていたとは思いませんか。例えば、流入した人々の数やそれらの人々を受け入れるための多大な労力やコストなどに関してです。 Merkel:毎日1万人の人々がやってくることはないと、私にはわかっていました。それで私は、EUとトルコの難民対策合意の交渉を行いました。もちろん難民の流入による問題は生じましたが、ドイツができることは何かを示すこともできたのです。 Spiegel:2010年、Merkelさんは政治家として次のようにもいいました。「多文化主義は完全に失敗」しました、と。 Merkel:その時は感情的に言ってしまいましたが、今同じように発言をすることはないでしょう。ただし、各方面からの努力なくして異文化との共生は可能だというような考えは、大失敗に終わったのです。 Spiegel:各方面からの努力、ですか。受け入れ側の社会が背負うべき義務のように聞こえますが。 Merkel:その通りです。受け入れ側社会が開かれておらず、また変化へ対応する意欲に欠けては、社会への統合は難しいでしょう。多少なりとも他の文化に関する知識を持つことが最低限必要ですし、私は他の文化にいつでも関心を持っています。 Spiegel:今日、あなたが残した政治的遺産について議論するならば、とくに対ロシア政策とエネルギー政策がテーマになるでしょう。そこで、Wladimir Putinについて質問させてください。元KGB将校のPutinは、かつてDDRで出会ったシュタージ将校を思いださせるというのは本当ですか。 Merkel:彼はとても小さな声でドイツ語を話します。昔のシュタージの将校も、そのように話していたのです。私はそれに気がつきました。 Spiegel:2000年に、あなたは初めてPutinに出会いました。彼は計画どおり物事を進めてきたのでしょうか。それとも彼は徐々に急進化していったのでしょうか。 Merkel:私は、彼に幻想を抱いたことは決してありません。彼は常に独裁的で、自己を正当化する態度に私はよくイライラしたものです。でも、大統領に就任した2000年当時、彼がウクライナ攻撃計画を考えていたとは思いません。そこには状況の変化があったのです。この変化に際して、西側の私たちは適切に対処できていたのか、考えてみる必要があるでしょう。 Spiegel:正しく対処できていたのでしょうか。 Merkel:はっきりと答えることは難しいです。でも、明確に言えることもあります。Putinがウクライナを攻撃したことを正当化できる理由は、昔も今もないということです。とはいえ、西側がもっと結束していればよかったことに間違いありません。私たちは強くなれたかも知れないのに、それほど力を発揮できませんでした。 Spiegel:そのような結果になった原因には、あなた自身も含まれていますね。アメリカといくつかの東ヨーロッパの国々は、2008年のブカレストにおけるNATO首脳会議で、ウクライナを防衛同盟にスムーズに加盟させる意思がありました。でも、あなたはそれを阻んだのですから。(SPIEGEL 38/2023)) Merkel:ブカレストでは、ウクライナとジョージアを加盟候補国とするアクションプランの採択を議論しました。私には、希望的観測にもとづく政治的議論だったように見えます。アクションプラン採決からNATO加盟が実現するまで、数年もの期間が必要であることを念頭に置いていませんでしたから。この暫定的期間を脅威と捉えることなく、Putinは傍観し容認していたとは思えません。だとすると、何が起こりえたのか。2008年当時、NATOが軍事介入をしていたとは考えにくいですよね。もし介入していたとすれば、ウクライナにもNATOにも、どんな結果が待っていたか想像できると思います。私はそのことを慎重に検討したのです。 Spiegel:それがNATOを分断させた原因ですか。 Merkel:それは違います。アメリカの方針反対したからといって、それが分断を引き起こした原因だとみなされるのはなぜでしょうか。当時私は、加盟候補国になることには反対しましたが、ウクライナとジョージアがいつの日にかNATOの一員になることを原則的に認める、という点で妥協したのです。とはいうものの、私達はこの立場で孤立していたわけではありません。フランスをはじめ多くの国々が同じ意見でした。 Spiegel:ブカレストにおける対応を理由に、この戦争に対する責任を不当に負わされたのだと感じますか? Merkel:そう感じる、というよりも、実際に不当に責任を負わされているのです。例えばSelenskyjはブチャでの虐殺事件後、元フランス大統領Sarkozyと私に、ブチャへの訪問を要請しました。これは明らかに、ブチャ虐殺事件の責任がブカレストにおける私達の対応にあったと言っているのです。 Spiegel:それは不当だと思いますか。 Merkel:戦争が始まっておよそ3年経ちますが、Selenskyjの勇気と決断力には感心させられます。でも、ブカレストのことに関しては反論せざるを得ません。2008年のブカレストにおいてもそうでしたが、私は何度も何度も警告したのです。私は同意していませんが、Putinはソ連崩壊を20世紀最大の地政学的悲劇と捉えています。そして、ロシアの存続に対する現実的な脅威が存在すると理解したのです。彼は、紛争を発生させ、可能な限り旧ソ連の共和国を抑え込もうとしました。私の警告は正しかったのです。実際、2008年には、Putinはジョージアに侵攻しています。 Spiegel:あなたはPutinに、ウクライナのNATO加盟に関する拒否権を事実上認めたのではないですか? Merkel:いいえ。それは当時も今も、一方的な決めつけです。 Spiegel:Putinに何ができるのか、当時はっきりと分かっていたのなら、なぜあなたは対策を講じなかったのですか。 Merkel:そんなことはありません。ロシアとの対立を平和裏に治めるために、できる限りのことは試してみるべきだと考えていました。同時に、NATO二重決定のコンセプトのように、抑止の原則も強化しました。2014年のウェールズでのNATO首脳会議では、すべての加盟国がGDPの2パーセントを国防費に拠出する目標が設定されました。ただ、正直に申し上げると、それを推進しようとする勢いには限界がありました。 Spiegel:ところで、この目標の推進に対するあなたの熱意を鈍らせたのは何だったのでしょうか。 Merkel:ドイツにおいて、その責任の所在がCDUにあったとは言えません。私の内閣における歴代の防衛大臣は、連立与党のSPDと何度も話し合いました。詳細は省きますが、例えば、武装ドローンやドイツにおけるアメリカの核弾頭の近代化などについてです。でも、上手くいきませんでした。 Spiegel:とはいえ、あなたは首相、つまり内閣のボスだったのではありませんか。 Merkel:もちろんそうです。私はボスでした。でも、民主主義におけるボスは制限のある中で権限を行使しますし、それには正しい理由があります。 Spiegel:あなたはPutinを決して過小評価したことはないと主張されていましたね。他方、彼の攻撃的な行動に対して効果的かつ未然に防ぐことをしませんでした。ドイツの防衛力強化も、ウクライナへの武器供与も、ロシア産ガスへの依存脱却もです。この回顧録を読んでも、これらの根本的な矛盾については解消しません。 Merkel:この本を書いても議論が終わることはないだろうなと、執筆しながら考えていました。今となっては、多くの重要な視点が見落とされています。例えば、ウクライナもポーランドも、ドイツへのロシア産ガスの輸入が、両国の領土を経由して通過料を得られる限り、反対していたわけではないのです。 Spiegel:2014年のクリミア併合後も、Putinの戦争資金につながるようなノルトストリーム2によるガス供給計画を推進したのはなぜでしょうか。 Merkel:ロシアが戦争を始めたとき、ノルトストリーム2は一度も稼働していませんでした。今日では、他の国々がプーチンの戦争資金を支えていると言ってよいでしょう。仮に当時、私たち西側諸国が一体となってロシアとの経済的な関係を断っていたとしても、結局は同じ状況になっていたでしょう。 Spiegel:今でも、ノルトストリーム2稼働計画を停止しなかったことは、正しい判断だったとお考えですか。 Merkel:私は、自分の決断が正しかったと考えています。ドイツ経済のために安価なガスを入手することは、私の大切な任務であると考えていました。現在私達は、エネルギー価格の高騰がドイツに与える影響を目の当たりにしています。ロシアとのガス取引の打ち切りに関し、私が政治的に過半数の支持を得ることはなかったでしょうし、ましてや経済界でも賛同されることはなかったでしょう。私は、ノルトストリーム2は政治的にも理に適っていると考えていました。Putinは、一部の歴史家からは修正主義者とも呼ばれています。冷戦後の新秩序の中で、豊かさを分かち合うことを前提に、このような人物と関係を維持する方法はあったのでしょうか。 Spiegel:今日、パイプラインは失敗だったと認めることに抵抗を感じるのはなぜですか。 Merkel:なぜなら、私は現在のような状況になることを阻むべく、全力を尽くしたからです。2015年のミンスクでの交渉の際、私はロシアのウクライナ東部への侵攻を止めようとしました。また当時の私には、経済関係の中断を、このタイミングで宣言することは賢明ではないと思われました。経済的なつながりは、Putinにとっても重要だったからです。ついでに言えば、私はヨーロッパで孤立していたわけではありません。EU諸国を何度も説得し、少なくともいくつかの制裁を課すことで納得させることは困難でした。 Spiegel:クリミア併合後、ウクライナに対する武器供与に反対だったのはなぜですか。 Merkel:ウクライナ国内では、ロシア軍をウクライナ東部から武力で排除すべきではないかという深刻な議論がありました。私は、成功の見込みがあるとは思っていませんでした。他方、私はウクライナを無防備な状態にしてはならないということも理解していました。これはまさにジレンマでした。最終的にドイツからは武器供与を行いませんでしたが、NATOのあらゆる取り組みには全面的に協力しました。 Spiegel:首相としての任期の終わるころ、あなたの危機管理は評価されました。しかし、メルケル時代は、チャンスが十分に活かされなかった時代でもありました。デジタル化の停滞、インフラの老朽化、エネルギー転換の遅延などです。これらのテーマには回顧録で触れられていますが、それに関する説明は見つかりませんでした。 Merkel:私は16年間首相を務めていたので、ドイツの良い面もそうでない面も、ある程度私の責任といえるでしょう。もちろん、すべてが満足のいく結果だったわけではありませんし、不十分な点もありました。連邦と州との相互協力が欠かせない連邦制には、常に課題があります。デジタル化の成功には、各自治体の首長も連邦首相も一致団結して推進する力が必要です。私の任期中にはこれが欠けていました。そうですね、それは「Merkelの責任だった」と言われても仕方がないかもしれませんね。 Spiegel:今後の予定について教えてください。 Merkel:楽しみにしていることが沢山あります。旅行したり、友人に会うことです。読書をしてリラックスしましょうか。わたしはこの回顧録が、若者たちと民主主義や連邦共和国の歴史について、また、歩み寄ることの大切さについて話し合うためのよい出発点になるのではと思っています。私はどんな政治家も「他党からのものであれ自党からのものであれ、異なる意見に対して寛容でいられるだろうか」と自問しなければならないと考えています。政治家が模範を示すことで、人々もお互いに耳を傾けあうようになるのです。 Spiegel:あなたの側近であるEva Christiansenは、アメリカに行ってBarack Obama財団の活動を視察しました。あなたにも同様の計画があるのでしょうか。結局、回顧録のおかげであなたはもうすぐ億万長者になるのでしょうから…。 Merkel:Obamaさんのように、そんな大がかりなことが私にできるとは思っていません。どうなることやら。 Spiegel:Merkelさん、インタビューにご対応くださりありがとうございました。 出典:DER SPIEGEL Nr.48 / 23.11.2024
2025年08月12日
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Scholz首相インタビュー (Tagesspiegel)「私達はいつでも国際社会との歩調を緊密にし、協調した行動を取っています。」近隣で勃発した戦争は深刻かつ危険であり、「だから私達は用心深く物事を進めます。決定を下したならば、その後に起きうる結果も綿密にじっくりと検討していきます」と Scholz首相はTagesspiegelとのインタビューで述べた。さらにScholz首相は、エネルギー供給問題と気候中立の達成というドイツの目標についても語った。2023年1月29日(日)---首相、ウクライナへの戦車「レオパルト」の供与が決定されました。これまでの中で最も難しい決断だったのではありませんか。Scholz 首相: ロシアによる恐ろしい侵略戦争が勃発して以降、私が下した決断は難しいものばかりです。ウクライナ侵攻によりロシアは、暴力による国境の変更を認めないという何十年もヨーロッパの安全を保障してきた共通理解を否定したのです。それは「時代の転換点(Zeitenwende)」となりました。この状況に鑑み私達はウクライナを財政的、人道的、軍事的に支援するわけですが、それだけでなく、私達自身の防衛能力の強化も行うのです。これら全ての決断をするにあたり私達は検討を重ねました。またその際には独断を下すのではなく、同盟国や協力国と協調して取り組むという原則を常に守ってきました。ウクライナを可能な限り支援しながらドイツを危機にさらさないことは、まるで危険な綱渡りのようだと表現されましたね。事態のエスカレーションやロシアの核による反発をどの程度深刻に捉えていますか。Scholz首相: ドイツの首相であるならば、自身が行った就任宣誓に真剣に向き合い、ロシアの対ウクライナ戦争がロシアとNATOとの間の戦争にならないよう、やれる事はなんでもやらなければなりません。…その戦争はそのまま世界戦争へと展開するのでしょうか。Scholz首相: だからこそ私達は、思慮を欠いた言い方でドイツは前へ前へと進むことを良しとする人々に応じることはありません。私達はいつでも国際社会との歩調を緊密にし、協調した行動を取っています。それ以外の行動はエスカレーションの危険を高めるでしょうし、責任を放棄しているとも見なされかねません。多くの市民は毎晩ニュースを見ながら、首相に対し冷静さを求めています。私も冷静でいようとしています。あなたは決断を下さねばなりませんが、その決断のせいで寝付けなくなることはないのでしょうか。Scholz首相: プレッシャーを耐えぬくというのも私の仕事の一部です。私たちのすぐ近隣で起きたこの戦争は、とても深刻で危険な事件です。確実なことが何もない状況なのです。何が正しい決断なのかを数学の専門家に予測させることもできませんし、答えをくれるアルゴリズムがあるわけでもありません。だから私達は用心深く物事を進めます。決定を下したならば、その後に起きうる結果も綿密にじっくりと検討していきます。仮に優柔不断だと非難する声が少なからずあったとしても、冷静かつ慎重に進めるのです。演説であなたは、世論に蔓延する不安感について指摘しました。あなたは国内の雰囲気をどのように受け止めていますか。Scholz首相: 大部分の国民の皆さんはウクライナの側に立っており、ウクライナにはロシアの攻撃から身を守るあらゆる権利があることを知っています。そのためウクライナを支援することに肯定的ですね。もちろん、ウクライナへの武器供与が正しいことなのかどうかよく分からないと言う人もいます。他方、もっと積極的な支援を求める声もあります。ただ大部分のドイツ国民は、政府が全ての決断を慎重に検討していることを正しいと感じています。戦車に関する決定を下す際にあなたは、ドイツが戦車を供与するのは、アメリカも戦車「エイブラムス」を供与する場合に限ると強く主張しました。このように固執したのは、そうしなければドイツは危険にさらされ、場合によっては有事の際にアメリカの核の傘の下にいられなくなるかもしれないという不安と何か関係があるのでしょうか。Scholz首相: 私達の決断を見ていただければ分かると思いますが、私達は常に他の国々、とりわけアメリカと協調した行動をとっています。これは新しいことではありません。当初から私達はこの原則に沿って行動しているのです。ところで、ヨーロッパの同盟国だけで戦車を供与する形は望んでいませんでしたね。まさに戦車レオパルトの供与問題においては、そうしていた方が交渉は明らかに短期間で済んだのではないでしょうか。Scholz首相: 私達は単独行動する国家ではなく、アメリカをはじめとした国際的パートナー諸国と緊密に歩調を合わせていくというのが私の考え方です。ヨーロッパの安全保障においてとても大切なのは、アメリカと密接に話し合って決めていくということなのです。アメリカの関与なしでヨーロッパの安全を保障しようとすれば、かえって難しいことになるかもしれません。 ヨーロッパはもっと独り立ちせねばならないという目標とは噛み合っているのでしょうか。Scholz首相: 私達には地政学的に独立した強いヨーロッパが必要です。それはつまり、私がプラハでの演説で概略を述べたように、ヨーロッパに強力な軍需産業を持つこと、外交問題を多数決で採決することなどです。それが私たちの目標であるのは、私たちがまだまだそこまで辿り着いていないからです。ウクライナへの軍事支援についてですが、戦車レオパルトの供与によりレッドラインに達してしまったと思いますか。Scholz首相: 今回のような戦争における状況はとても流動的で、絶えず変化します。私達の武器供給の変遷を見てみて下されば分かるでしょう。まず携行型対戦車兵器に始まり、次に防空システムや重砲、そして今や戦車です。同時に私達は、ウクライナ上空に飛行禁止区域を設けるなどの要求を何度も断りました。アメリカ合衆国大統領Joe Bidenと私は、そのようなことをすればNATOのこの戦争への直接参加に繋がりかねないとの共通認識をもっています。そしてそんなことがあってはならないのです。先週私は連邦議会ではっきりと申し上げたように、私達が地上軍をウクライナに派遣することはありません。そんな中、既にウクライナからは戦闘機の支援要求がなされています。アメリカとフランスはこの要求を拒否していません。一方、あなたはきっぱりと断りましたね。反発があるだろうと思っていましたか。Scholz首相: いいえ、戦闘機の件に関してはまったく問題にはなっていません。兵器システムに関し私にできることは、先を争うように過度の競争が常態化しないよう忠告することくらいです。あることが決まった途端にドイツ国内で次の舌戦が始まってしまっては、そこに真剣さを感じることは難しく、国の決定に対する国民の信頼はグラつくでしょう。国内政治上の立場の違いでそのような議論が行われるべきだとは思いません。ウクライナへの戦車供与を前向きに表明していた方々がいました。私は皆さんが今こそそうしてくださることが大切なのだと思うのです。戦闘機の場合に、(戦車の時と)同じような顛末を繰り返すことは避けられないものでしょうか。つまり、供与要求がなされた後、ドイツはさっさと決断を下すことができず、そのうちにプレッシャーが高まり、、、結局は供与することになる、と。Scholz首相: そうではありませんでしたよ。そんな言い方はまったくあたっていません。私達はウクライナが必要とするものに沿うようにしますが、他方アメリカやイギリス、フランスなど最重要同盟国が何を供与するのかにも合わせていくのです。このようなことから、私達は戦車供与に関する決断を下したのです。Putin は今や戦車の供給によりレッドラインは越えてしまったとみており、戦争への直接参加を口にしています。Scholz首相: どのNATO加盟国もこの戦争に直接参加しません。今後もそういうことはありません。Annalena Baerbock外相が 「私達は対ロシア戦争を戦っているのです」と発言し、戦争への参加を暗示させたのは賢明だったと言えるでしょうか。すでにモスクワはプロパガンダのために使えるものはなんでも使っているというのに。Scholz首相: NATOとロシアの間に戦争はありません。そのような状況の悪化を私達が受け入れることはないでしょう。この点について私達連邦政府の内閣は完全に一致しており、外相もそのような視点で考えています。クリミアにはどの程度の重要性があると考えていますか。元米軍司令官Ben Hodges のような専門家は、クリミアに中心的な意義を与えています。つまり、2014年に戦争はここで始まり、ここで戦争の決着がつくのだと。ロシアがクリミアを占領し続ける限り、ウクライナは確信を持てないとのことです。あなたはこれをどう思われますか。ウクライナはクリミアを奪還しなくてはなりませんか。Scholz首相: ウクライナ国境の不可侵や国家主権を支持する人には首尾一貫した態度が不可欠ですし、またウクライナに必要な目標設定が何なのかを同国に言うべきではないでしょう。私達はウクライナ国民の頭越しに交渉を行うつもりはないのですから。これについて私達はずっと前に合意しています。Selenskji大統領は何度も和平を受け入れる用意があると強調してますし、11月には和平案を発表しました。ウクライナから軍を撤退させ、既に数万人もの死者を出しているこの恐ろしくて無意味な戦争を終わらせるのはPutinの責任なのです。ウクライナの西側同盟国の中で、あなたは今でもまだプーチンと話し合いを続けている数少ないひとりです。この(和平案)方向性で希望を叶える何らかのきっかけがあると考えていますか。Scholz首相: この11か月私は何度もプーチンと話し合いました。マクロン大統領も同様ですね。最近では12月初旬に行いました。 プーチンと再度電話会談する予定もあります。話し合うことが必要なのです。ただし、ロシアが攻撃の手を緩めず戦争を続ける限り、現在の状況に変化が訪れないことは確かです。プーチンとの会談はどのようなものになると考えれば良いでしょうか。 Scholz首相: 電話会談で無礼な言葉を使うことはありませんが、もちろん私達の見方はまったく異なっています。勘違いをしてはなりません。プーチンは隣国領土のある部分を暴力により併合しようとしているのです。こんなことは決して許されません。あなたは彼と議論をかわしますか。Scholz首相: お分かりいただけると思いますが、私の立場ははっきりとしてます。捕虜交換、ウクライナ産穀物輸出、サポリージャ原発などの具体的な問題も議論されました。とはいえ私にとって大切なのは、常に議論が本質的なテーマに立ち戻ることです。つまり、世界はこのひどい状況からどのように抜け出すのか、ということです。 そのための前提が、ロシア軍の撤退であることは明らかです。 4か月前にガスパイプラインのノルトストリームが損傷を受けたときもすぐに、Putinsのロシアはすぐに疑われました。 当時あなたは事態の解明を約束しましたが、それ以降ほとんど何の説明も無いようですが。政府が黙っているのはなぜでしょうか。Scholz首相: 爆発が起きたのはスウェーデンとデンマークの海域においてでした。捜査は困難で、今なお継続中です。ドイツのような法治国家で公職にある場合、憶測は自制し、証明可能なことだけを発表すべきなのです。確証をもって言える状況になれば、私達はもっとお伝えできるでしょう。 あなたには新たな秘密情報がしばらく手元に無いのではありませんか。なんといっても連邦共和国の歴史上、最大のインフラ攻撃なのですよ。Scholz首相: 推測しても私たちには何のプラスにもなりません。このような動乱の時代においては、私達はファクトを拠り所にしなくてはなりません。私は11月に2発のロケットがポーランドに落下し、市民二人を犠牲にしたことを思い出します。その際にも私達は性急な告発ではなく、まず事件の調査を行いました。そこで分かったのは、ウクライナ軍の迎撃ミサイルが軌道から逸れたのだということでした。対ウクライナ戦争の責任はもっぱらプーチンにあります。そんな中で私達は誤った主張に左右されるような仕事をしているのではありません。捜査の結果を待っているのです。最終的にその影響はとても大きなものになりました。突然ロシア産ガスがもはや供給されないと分かったのは、冬が始まるすこし前のことでした。Scholz首相: ところがですよ、私達は無事に冬を過ごしているではありませんか。とにかくいろいろな予測がありましたよね。寒い家の中で私達は凍えてしまうとか、エネルギー供給の全体が麻痺してしまい、ドイツの衰退は避けられないとか、多くの人が言っていました。でも、どれも起きませんでした。不安な気持ちを利用して世論を作ろうとするAfDや左派党のひどいやり方は、空振りに終わったのです。「怒りの冬(Wutwinter)」にはならなかったのです。これこそ私達の民主主義や経済、社会的国家の強さの現れなのです。何をおっしゃりたいのですか。Scholz首相: ドイツは全力で危機に対応し、誇るに足る大きな成果をあげました。それらは、代替エネルギー源の開拓、ノルウェーや他の国々からの追加ガス調達、最新原子炉三機の長距離ネットワーク化、記録的なスピードでの液化天然ガスターミナルの海岸への設置などであり、同時に高いエネルギー価格を安定させました。そのようにして私達は冬を無事に過ごしているのです。そのような報道があるわけですが、それでもまだOlaf Scholzさんの激励が至る所で浸透しているとは言えないようです。アンケート調査で、多くの人々が豊かさを失うことに不安を感じているということが分かっています。ある研究によれば、ドイツという経済地域からは魅力が無くなったと言われています。これをどのように変えていきたいとお考えですか。Scholz首相: 私達がパイプラインや液化天然ガスターミナルの建設で示した新しいドイツのスピード感は、今後の基準になります。 私達の目標は、世界の国民経済第4位の国として2045年に気候中立を達成することです。風力発電や太陽光発電の拡充を促進するために、私達は計画法の改正をしています。今や企業は、電力や水素を使用した新しい生産方法に投資できるという保証を得るのです。いずれグリーン電力が割安となり、私達の競争力は向上するでしょう。あなたがおっしゃる新しいドイツのスピード感を他の分野で目にすることはまだあまりありません。例えばデジタル化、官僚主義の解体、手続の合理化などの分野です。どのように進めていきたいと考えていますか。Scholz首相: まず、まだ言わせてほしいことがあります。3つの大規模半導体工場がドイツ国内に建設されること、そして、さらに数十億ユーロがドイツの工業地帯に投資されることです。ベルリン近郊にはアメリカの企業が大規模な電気自動車工場を建設しました。これら全てのことは、私達がまだ経済と産業分野で成功している国なのかどうかと 多くの人が疑いを口にしている国で起きているのです。私はあなたにはっきり言いましょう。私達は成功しているし、成功し続けますと。良いことをききました。しかしあなたは、まるで問題が全く無いかのようにすることはできません。Scholz首相: そんなことは誰もしませんよ。例えば、まさに行政部門で当てはまることですが、デジタル化の分野では改善が必須です。そうなれば連邦主義はきっと前進する力にこそなれ、障害にはならないでしょう。連邦政府はこのような近代化を重要なテーマとして扱うことになるでしょう。私達は国際的な競争から後れを取ってはなりませんし、未来のテクノロジー分野ではもっと沢山のことに取り組んでいきます。例えば医学の研究、人工知能、宇宙飛行、量子コンピュータなどです。まさにこう言った分野では、ずっと前からアメリカが中心的な役割を果たしていますよね。Scholz首相: アメリカが活躍する分野が多くありますが、そうではない分野もあります。ドイツの中間層を過小評価してはなりません。国家からの補助が全く無くても彼らには世界的に競争力があるのです。そして現在ヨーロッパがまだ遅れをとっている分野では、ヨーロッパの工業政策を通じて、我が国が再び秀でた存在になれるよう取り計らいます。 私達には、より早い決断とスピード感が必要なのです。だとすると、木曜日の晩に連立政権の委員会がまさにこのテーマについて何の結論も出せずに終わったことは、ちょっと上手くいかなかっただけということなのでしょうか。 Scholz首相: 私達は温暖化防止や交通問題についてとても建設的な議論をしました。そして連立政権は、何十年以上も我が国の意思決定作用を邪魔してきた硬直を解放するのだと決断しました。 「硬直化」というキーワードは、ベルリンの問題に上手くつながりますね。 政府による運営や活動が機能的ではなく、機能不全として感じられるケースがあるならば、それは問題になるのではありませんか。市民局ではほとんど予約が取れず、選挙はやり直し、公共の近距離旅客輸送は多くの場所で閉鎖されています。Scholz首相: 至る所でベルリンバッシングが起きていますが、私が手を貸すことはありません。ベルリンは最後に大きく経済成長した都市であり、そして他州の多くを抜き去りました。ベルリンは、企業のスタートアップやデジタル化において成し遂げたことを誇りに思って良いでしょう。これは簡単に起きたことでは無いのです。社会民主党の首相として言わせていただきたいことがあります。これまでの社会民主党出身の市長や現在の市長にも関係することです。もちろんベルリンは大規模な人口増加という困難に直面しています。Franziska Giffeyのような力強い人物が、この問題を克服するのだと私は信じています。首都における差し迫った問題のひとつは住宅難です。連立政権は毎年40万戸の新規住宅建設を約束しましたが、目標達成にはまだまだのようですね。もうお手上げの状態なのでしょうか。Scholz首相: もちろん現在の物価の高騰は世界情勢の影響を受けており、様々な問題を厄介にしています。だからと言って私達は目標達成を諦めたりはしません。年間 40万戸の住宅建設は早期に実現したいし、その目標に変わりはありません。 2023年にはもう実現しませんよね。Scholz首相: エネルギー価格や建設費用の高騰は、目下ネガティブな影響を与えています。しかし、ベルリン市長のFranziska Giffeyや連邦大臣のKlara Geywitz が進めている法改正は、状況を改善するでしょう。過去数年よりも多くの費用が社会住宅の建設に用意されています。建設会社は今やより多くの住宅の建設計画を準備しておくべきでしょう。それは1平方メートルあたり18ユーロの家賃であったり、1平方メートルあたり1万ユーロ以上の売値であったりするのではなく、市民の大多数向けでなければなりません。この点につきドイツでは、何十年もあまり上手く出来ていませんでした。 資産収用についてはどのようにお考えですか。 Scholz首相: 収用では新規住宅は生まれません。社会民主党員として私は大家の皆さんを、公正な借家法により公正ではない物価高から守りたいのです。しかし、人口が増加し今日の暮らし向きが大きく変化する中で、高需要に応える新規住宅建設無しに問題解決を成し遂げられるという幻想を広めることは、無責任ではないでしょうか。 ポツダムからあなたの職場でもあるベルリンに引っ越そうと考えたことはありますか。 Scholz首相: 私は何年もベルリンに仮住まいしていました。ハンブルク市長時代のある時に、それを手放しました。妻のBritta Ernst はブランデンブルク州大臣で、私達はここ数年来ポツダムに住んでいます。住むにはとても素晴らしいところで、選挙区としても申し分ない場所です。私達はとても満足しています。首都ベルリンで好きな場所はありますか。 Scholz首相: ベルリンには素敵な場所がたくさんあります。特に気に入っているのは、都市計画されたように連邦議会議事堂や首相官邸などが周囲に建っている場所です。国民の代表である代議士が使う建物が建つこの場所は、ヒトラーがベルリンのMitte地区に画策した馬鹿げた計画に対する、まさに民主主義的対案なのです。彼は巨大な軍事パレード用の道路を計画していましたが、現在その場所を横切るように建設されたのがその「Band des Bundes」です。これはヒトラーは敗北したということを、今一度印象的にはっきりと表しているのです。出典:https://www.bundesregierung.de/breg-de/suche/kanzler-im-tagesspiegel-interview-2161058皆さん、いろいろ教えてくださりありがとうございました。勉強になりました。
2023年04月24日
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「私はゆっくり眠れますよ。」アンゲラ・メルケルは首相府における政権交代を冷静に見守っている。2021年10月22日メルケル政権の副首相だったSPD(ドイツ社会民主党)の人物が、まもなくドイツで政権を握ることになるだろう。しかし、彼女が不安になることはない。連邦議会選挙後の最初のインタビューで、彼女は自身の在任期間を総括した。連邦首相としての16年間を終えるCDU(キリスト教民主同盟)のアンゲラ・メルケルは、首相府における政権交代を冷静に、しっかりと見守っている。連邦議会選挙後初のインタビューで、彼女は『南ドイツ新聞』に語った。「私の在任期間中に私たちが何をやり遂げたのか、私には分かっています」。2005年以降、メルケルは首相として国を率いてきた。今後、SPDが再びこの国の政権を握ることを考えたとき、あなたは落ち着いた気持ちで眠ることが出来ますか、という質問に対し、メルケルは「ハイ」と答えると、こう続けた。「政治的見解の違いは当然のことですからね。私はゆっくり眠れますよ。」SPD、緑の党、FDP(自由民主党)は、12月6日から10日にかけて、Olaf Scholz (SPD)を首班とする連立政権樹立に向けて動いた。Scholzはこれまで副首相兼財務相であった。「Scholzさんの財布のひもは緩いわねって、いつも思っているわけではありません」とメルケルは言う。連邦議会選挙で与党が残念な結果に終わったことと、この結果に対するメルケルの責任について、彼女は次のように答えた。「良い結果が出なかったことは明らかです。現在CDUとCSU(キリスト教社会同盟)は、選挙結果を教訓とし、将来に向けて今回の選挙の総括を行っているところです。両党とも、順調にこの作業を終えるでしょう。」「私が行った全てのことは、やらなければならないことでした。」CDUが支持を失ったのは、メルケルが候補者でなくなったから、あるいは首相退任後に向けた準備が不十分だったからなのか、という質問に対してメルケルは答えた。「誰にも働くべき時というものがあるでしょう。私は2018年に党首を退任し、そして今、連邦首相としての任期を終えます。私が行った全てのことは、やらなければならないこととして行いました。それは目下の問題に対応するためだったわけですが、もちろん諸々の決定事項が将来においても有効であればよい考えています。」気候保全政策についてメルケルは、ドイツは過去10年間で再び二酸化炭素排出を大きく削減したことに論争の余地はないと言う。これは1990年代におけるよりも難しかったと、旧東ドイツの発電施設を引き合いにだしながら説明している。つまり、当時は旧式の発電所や生産施設の閉鎖が、大規模な削減という結果を導いていたのだ。「私たちが必要とする成果にはまだ届いていません。でも、道筋をつけることは出来ました。」メルケルの想像を超えたコロナ危機コロナ危機についてメルケルは、「子供たちが極めて長い期間通学できなかったのは第二次世界大戦以後はじめてのことであり、私がその責任を負う連邦首相になる」ことなど全く予期していなかったと言う。「そのような措置の導入が必要になったことは、先に起きた危機的状況に対応した私の想像をも越えていました。いずれにしても、やり抜かねばなりませんでした。」メルケルは医療体制の逼迫回避で重要な役割を担い、適切な医療処置を提供し、死者数を最小限に抑え込んだ。「この二つの点において、ドイツでは事態の大きな悪化を阻むことができましたが、これに耐えねばならない国もありました。こうしてみると、私たちはこれまでのところ、パンデミックの難を切り抜けることが比較的可能だったのでしょう。」失敗を認めたメルケルメルケルは失敗があったことも認めている。「あの時のことを思い出すと、今でも悲しい気持ちになります。昨年のクリスマスのことです。当時、検査は可能だったのです。それにもかかわらず、老人ホームや介護施設では検査が頻繁に行われていませんでした。クリスマスの前後、各地域の責任者たちとの電話会談の際には、一個人としても検査の実施を強くお願いしました。私たちは無料検査を実施し、またそのための人件費も引き受けていました。それでも介護施設で検査が実施されるまでには多くの時間が必要でした。パンデミック対策において、最も困難極まりない時期でした。」首相の座を離れてまず何をするのか、メルケルはまだ思い付かないらしい。けれども夫のJoachim Sauerには、やがて彼女が家の中でぼんやり座ったままになるという心配はないようだ。「彼はそのような心配をしていないと思いますよ。第一、彼にはやらねばならないことが十分にありますし、私だって家でただぼんやり座っていることは決して得意ではありません。」首相府内には、歴代首相の肖像画を展示するギャラリーがある。メルケルによれば、そこに彼女の絵が飾られる予定だという。しかし誰に絵を描かせるのか、まだ決めていないらしい。「何年も経ってから、やっと絵を描かせた方もいたみたいですよ。」(dpa)出典: Tagesspiegel.de
2022年01月24日
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『候補者だけに原因があったわけではありません。』2021年10月4日 22時46分政党研究の専門家が東部ドイツにおけるCDUの支持率低下について解説します。Maria Fiedler記者 政党研究を専門とするEric Linhart氏は、今回の選挙結果は、CDU(キリスト教民主同盟)に警告を発しているのだと説明する。Eric Linhart氏は政党研究および政治学を専門とし、ケムニッツ工科大学で教鞭をとっている。このインタビューでLinhart氏は、東部ドイツにおける連邦議会選挙の結果について見解を述べた。— — — Linhart先生、連邦議会選挙においてCDUは東部で大きく支持を失いました。このような事態が起きたのは何故でしょうか。西部よりも東部においてCDUの勢力が弱いことは、今に始まったことではありません。ただし今回はっきりしているのは、この選挙の敗北はかなり連邦レベルの政策に関係があるということです。例えば、9月中旬にザクセン州ではあるアンケートが行われました。典型的な日曜日設問(Sonntagsfrage)とならび、「もし日曜日に州議会選挙があるとしたら、あなたは誰に投票しますか」という質問がありました。CDUへの支持は、連邦レベルで18パーセント、州レベルでは31パーセントという結果でした。 つまり、CDUは連邦レベルで失敗しているとおっしゃりたいのですね。それはどんな失敗なのでしょうか。ラシェット氏が首相候補となりましたが、それが旨くなかった。どのアンケートをみても分かります。彼が党首および次期首相候補になったとき、東部ドイツではそれがはっきりしました。その頃、東部のCDU各支部には、それぞれに支持する対立候補が常にいたのです。しかし転落の原因は首相候補だけにあったわけではありません。すでに2019年の欧州議会議員選挙の際、東部におけるCDUへの支持は20パーセントをわずかに超えていたにすぎません。州内の喫緊の諸問題を解決するには、CDUはもはや信頼するに値しないという考えが多数だったのです。 CDUはすっかり西側の政党になってしまうのかもしれない、という悲観的な見方がすでの多くの人々の間にあります。その見方は時期尚早ではないでしょうか。東部における4年前のSPD(社会民主党)への支持率は今年のCDUよりも低いものでしたし、CDUへの支持は再び改善しているのですから。とはいうものの、アンケート結果はCDUに警告を発しているのだといえるでしょう。 問題があるのはCDUに限ったことではありません。左派党は東側政党としてのイメージを失いました。完全に失ったわけではありません。アンケート結果によれば、今でも東部における左派党への支持は、西側においてよりも三倍近くあります。ですが、左派党が2013年と2017年にはすでにAfD(ドイツのための選択肢)に多くの支持者を奪われており、これは大きな問題です。今や左派党は、東部ドイツ人の利益を代弁する政党としての役割を、AfDと共に担わなければならなくなりました。一見すると、左派の有権者が正反対の右派に乗り換えてしまったようで、大変驚きました。これはどのように説明できるでしょうか。以前の左派党の支持層には、かなりバラつきがありました。典型的な左派の政治を重視する人々がいる一方、党は新連邦諸州の利益を代表すべきだと考える有権者もいました。加えて、何よりもドイツの民主主義のあり方に不満を示そうと左派党を選ぶ人々もいました。後者の二つのグループは、党の左派的な活動内容に対してそれほど好意的ではありませんでした。そう考えると、AfDに鞍替えすることは、当初考えられていたより、そんなに無い話とは言えないでしょう。 左派党が体制寄りになりつつあるとみなされ、そのため以前のように抗議政党として期待されなくなったことは、有権者の支持の変化に関係があるでしょうか。確かにそれもあるでしょう。アンケートでAfDにとって良い結果が出ればすぐに、旧東独諸州に注目が集まります。そして、この結果に何か不都合なことがあるのかと尋ねられます。このような状況は以前、左派党にも起きていました。1990年代、独裁制崩壊後の旧東ドイツ市民が、よりにもよってドイツ社会主義統一党(SED)の流れをくむ民主社会党(PDS)に投票したことは、大きな疑問でした。今日この注視すべき状況は、左派党よりもAfDによく当てはまります。AfDは脅威である、というイメージが無くなったからです。そしてついに同党は、幾つかの州政府に参加するようになりました。 支持者をAfDに繋ぎ止めているのは、異議申し立てのためだと言えるでしょうか。AfDが支持者を繋ぎ止めているのは、ドイツにおける政治のあり方に対する不満です。東部ドイツの実状が批判されるのには、十分な理由があります。道路は以前のような状態に戻り、学校や幼稚園は閉鎖され、賃金や年金の給付水準は未だ標準レベルに届かず、大企業の経営に参加する東部ドイツ出身者の数は明らかに平均を下回っているのです。現在の諸問題を合法的なやり方であげつらい支持者を繋ぎ止めようとしていますが、AfDが民主主義にとって脅威ではないと勘違いをしてはなりません。民主主義の制度や過程から信頼が失われた場合に、それが何を引き起こすかは、私たちがアメリカ合衆国で見たとおりです。さらに、現在AfDの多くの支持者は信念を持って同党に投票します。異議申し立てのためではないのです。 つまり、取り戻すことは難しいということでしょうか。もちろん、先程説明した東部における諸問題には対応せねばなりません。しかし、対応しておけばそれでよい、と思うことは危険です。AfD支持層には、権威主義、民主主義に対する疑念、外国人への敵意などが広く定着していることが分かっており、これは鉄道路線の拡張や年金保険料を増額したからといって、消えて無くなるものではありません。 では、どのような対処が考えられるでしょうか。この質問に対する答えは、もう何度となく繰り返されていますが、残念なことに実行に移されたことは決してありません。一例を挙げるならば、私たちには学校での政治教育が必要だと言うことです。民主制が担う一般的な役割、とりわけ私たちの政治システムの機能について理解できるよう、その範囲も幅広くあるべきでしょう。そうすることで、AfDが私たちの民主主義に与えた歪んだイメージに対抗するのです。教育はもちろん万能薬ではありませんし、成果が現れるにはしばらく時間がかかります。これは一つの例ではありますが、州政府は、具体的な形で着手なければならなくなるでしょう。 参考URLhttps://www.wahlrecht.de/umfragen/landtage/sachsen.htm 出典: tagesspiegel.de
2021年12月27日
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2019年9月2日 ブランデンブルク州議会選挙について「やるせない気持ちになります。」 コトブス市では得票率26パーセントを獲得したAfD(ドイツのための選択肢)が最大勢力になる。ライバル政党は他のどの地域よりも、日常的に正面から向き合ってAfD支持層と関わり合うことになるだろう。もはやこの状況を避けることは出来ない。 Hannah Beitzer記者(コトブス) 東ドイツの時代に、コトブス刑務所の囚人たちが口ずさんでいたフレーズがある。「憧れは西へと向かう。自由を知る人のいる場所へと。/人生の邪魔をする権力。もはやそれともサヨナラだ。」ベルリンの壁が崩壊して30年が経った今、コトブスでは、憧れや自由、西側に対するイメージが、ドイツ再統一直後に多くの人々が考えていたよりもずっと複雑化している。 ラウジッツの中心、コトブスへようこそ。大通り沿いには多くの空き店舗が並ぶ労働者の街、コトブス。AfDは立て続けに三つの勝利を得た。ブランデンブルク州議会選挙では得票率26パーセントを得て、さらに二つの直接議席も獲得。市議会でも、5月からAfDが最大会派となっている。組織化され安定した右派のネットワークをベースとするAfDにとって、統一後のフラストレーションは原動力のひとつである。東ドイツ時代の囚人の心を西側へと結びつけていた自由への約束は、AfDとその支持者の目には、果たされているように見えないのだ。 AfDの存在は、コトブス市の諸政党にも影響を与えている。他のどんな地域よりも日常的に顔を突き合わせてAfDと関わりを持つ機会がずっと多くなるということだ。AfDとは何の関係もない事案に取り組みたいという場合でも、彼らと関わらざる得ないのだ。 人権活動家例えば、Sylvia Waehlingも同じような状況の中で活動している。彼女は「コトブス人権センター」協会の事務局長であり、現在同協会は旧刑務所の敷地で記念館を運営している。投票日の日曜日、彼女はオフィスの隣りのキッチンで、昼食のトマトの肉詰めを作りながら言う。「コトブスには良いことが沢山あるのよ。」それなのにマスコミは、AfDが次々と選挙に勝ったり、右翼団体の「故郷の未来(Zukunft Heimat)」が反難民デモの計画をしたりするときにしか来ないらしい。それでも彼女の声に非難じみたところはなく、むしろ彼女の仕事、そして彼女がコトブスのために何を願っているのかについて話せることを喜んでいた。 彼女は、記念館の扱うテーマが過去の出来事に限定されないことを重視している。年間の来館者8000人のほとんどは学校の生徒たちだ。かつての囚人たちは彼らと一緒に動画を撮影したり、スプレーで落書きをしたりした後に、ワークショップで逃亡や追放の今日的な意味について意見を出し合う。彼女自身は数年間にわたり、イラクのクルディスタン地域でイスラム国から迫害されたヤジーディーなどの人々のために尽力してきた。 彼女は記念館を拡充し大規模な教育センターにしたいと考えており、実現の際には反ナチ抵抗運動の闘士Traute Lafrenzに因んだ名称にして、コトブス市の範囲を超えて活動を広めていくつもりだ。彼女は、同センターが「コトブス、人権都市」という新しい観点から市に新たな力を与えられると考えている(将来、この標語が今日的な意味で理解されなくなる可能性があることもわかっている)。しかしAfDに対する態度は、標語の中でそれとなく示されただけではなかった。 選挙戦の期間中、人権センターはAfDに反対する立場を選んだのである。 AfDは東ドイツの人権活動家のようなやり方でポスターを掲げていた。例えばそこには「転換期を終わらせろ」というスローガンが書かれていた。センターの理事会は次の声明を作成した。「コトブス人権センターのメンバーの8割は、かつて東ドイツで政治犯として勾留された人々です。彼らは自らの自由と民主的な生活のために沢山の危険を冒しました。我々はAfDによる議会の掌握、さらに我々の民主的法治国家が独裁制と同等に扱われることに反対します。」 実際には、同協会の理事会は、協会は超党派であると定めているため、選挙戦には干渉しない事になっている。今回もそこに変更はなかったとWaehlingは感じている。「多くの賛成があった一方、批判も多くありました。」というのも、協会にはもちろんAfDの支持者もいたし、協会を脱退したメンバーも2名でていた。彼女と全てのメンバーは「私たちは、社会を映すの鏡である」という考え方を常に心に留めている。 「赤赤緑」連立投票日の晩のコトブス市州立劇場のホールには、全く違う風景があった。芸術家たちはこの場所に「不安解放地帯」を作った。そこへの扉を通り抜ければ必ず「不安が吹っ飛ぶ」ことが約束されているのだ。そして、不安解消の印としてロリポップが手渡される。ホールには、主催者の女性が作ったタロットカードのコーナーがある。また別の場所には来場者が「政治家のタブー」について意見を言えるコーナーがあった。そこではお互いが親しげに呼び合い、入場は無料で、場所の雰囲気はざっくばらんだ。壁のポスターには次の言葉が書かれていた。「わたしたちは多数である。私たちの誰もが。」 次は「社会を映す鏡」でもなく、もとよりコトブス市民の姿を映し出してもいない様子を紹介する。「私たちはもうフィルターバブルの中にいるのです」と言うのは23歳の学生Laura Schulzeだ。彼女は同居人とテーブルを囲んで椅子に座っている。コトブス生まれのPaul Weisflog(36歳)とザクセン州出身のKonstantin Schneider(25歳)だ。彼らは一緒に選挙結果を待っている。彼らは社会民主党、緑の党、左派党連立に投票しているので、AfDについてどのように感じているかを長々と質問する必要はない。Weisflogはつい最近、AfDの行事の後、攻撃を受けたことがある。友人たちがChristopher Street Day に虹色の旗を窓から掲げたときには、彼らの大家が旗を下ろすように頼んできたこともあるのだ。「大家は投石されることを恐れていたのです。」毎日ジャンプブーツの足音がコトブスの通りに響き渡るわけではないのだが、この場所には確かに何か問題がある。 何が原因なのか、そして特に、再び表面化してきた理由は何なのか。答えは簡単だ。ドイツ統一による構造の転換と、その後の人々の落胆が人種主義に至ってしまった問題である。彼らはこのテーマについて沢山議論し、考えを巡らせたという。しかしながら3人は自分たちのフィルターバブルの中にいながらも、全ての点で一致しているわけではない。例えばSchulzは、右派の旧東ドイツ市民のイメージが一般的であること、そしてこのイメージがメディアでも長年にわたり支配的となり、かつ多くの人々の印象に残るようになったこと嘆いている。一方、彼女の二人の友人の態度は異なる。既に長年にわたりコトブスで反右翼運動に参加しているWeisflogは「今ある諸問題は議論されなければならない」と言う。「ペギーダが生まれたのはドレスデンで、同じように右翼的背景のあるドルトムントじゃない。これは偶然ではない」とSchneiderは言う。このことは、もっともっと議論されなければならない。そしてザクセン人の彼は、一呼吸おいて言った。「やるせない気持ちになります。」 民主的な合意点を見つけて、立ち位置を決めなければならないことについては、彼らは一致している。Weisflogはコトブス市とCDUの市長 Holger Kelchを批判する。「彼はコソコソとしているんだ。」CDUはAfD支持者を取り戻したいと考えているのだという。Konstantin Schneider は、これは危険なやり方だと見ている。「どんどん僕が右派に接近してAfDを排除したとしよう。でも、AfDが無くなっても、今度は僕がAfDのような立場になってしまうかもしれない。」 コトブス市長驚くようなことでは無いが、コトブス市長Holger Kelchの見方は異なる。彼は、劇場から車で5分程のところにあるホテルで選挙の行方を見守っていた。終盤に近づくにつれ、彼はコトブス市の開票状況を何度もスマートフォンで確認した。「CDUにとっては、かなり悪い結果だ。予想外だ」と彼は言う。最終的に彼の党はコトブス市で15パーセントの議席を得たが、二つの直接議席はAfDのものとなった。「私たちは良い候補者に恵まれていました」とは言うものの、彼は有権者たちの思いも理解している。「あんたたちは大風呂敷を広げるばかりだったじゃないか」と彼に意見する人々がいることを、彼はよく分かっているのだ。 過去数年間、彼はAfD とやり取りをしながら、多くの試みを行なってきた。例えば、市民意見交換会、市内ツアー、市民相談室などである。さらに市内ではこれらと同じくらい大切な事案として、難民の労働者市場統合計画や市による学校生活相談員の採用などがあったとKelchは付け加える。一方、彼は限界にもぶつかったと言う。何度も、何度も。コトブス市には大規模な変革プロジェクトに使える予算はほとんどない。もともと市は、州や連邦レベルの政策に多くを依存している。例えば、ラウジッツ地方にとっては最重要のテーマである、ベルリン方面行き列車のための二つめのホーム増設や、脱石炭政策などである。そこで彼はAfDと対決するわけだが、もちろん上手くはいかない。AfDの党員は、財政にも管轄にも気をかけないうえに、脱石炭政策の妥協案から着手しようとは考えず、何かといえばすぐに言う。「気候変動はインチキだ」、と。 一方、彼に対してもっと力強い政治姿勢を期待する人々もいる。「人種主義は私にとって超えてはならない一線です」とKelchは言う。しかし、AfD はとにかく実在しており、当然同党の支持者もいる。「投票者の30パーセントを十把一絡げに非難する事は流石に出来ません。私には全ての人々に対する責任があるのですから。」 AfD支持者との対話を求める声と、自身の政治姿勢の明確化の要求との間にいれば、きっと身も心も消耗することだろう。ともあれコトブス市のCDUは、この事を再確認したのであった。 出典:SZ.de 参考にしたページhttps://www.cottbus.de/verwaltung/gb_ii/buergerservice/wahlen/ergebnisse_der_cottbuser_wahlkreise_der_wahl_zum_7_landtag_brandenburg.html
2021年10月18日
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2019年5月3日Traute Lafrenz ドイツ連邦共和国功労勲章を受章100歳の誕生日を迎える抵抗運動の闘士Traute Lafrenzに勲章が授与される。コトブス市ではLafrenzをはじめとした勇気ある女性達を記念する企画展が開催中だ。Sandra Dassler 記者本日金曜日に100歳の誕生日を迎える「白バラ」最後の生存者Traute Lafrenz Pageが、連邦共和国一等功労十字章を受章する。連邦共和国大統領のFrank-Walter Steinmeierは、彼女のナチ政権に対する闘いはドイツに大いに貢献したと称え、彼女は「自由の立役者」として人々の模範であると述べた。1947年からアメリカ合衆国に在住する医師のLafrenzに対し、在アトランタ ドイツ総領事館は、サウスカロライナ州チャールストン近郊の彼女の自宅で勲章を授与するという。 しかし、この授章式が予定通りに挙行されるかはまだはっきりしていない。コトブス人権センター事務局長のSylvia Waehlingによれば、家族がここ数日のLafrenzの健康状態を心配しているという。「私たちにはドイツでTraute Lafrenzの誕生日会とそのライブ配信を行う計画がありましたが、これは取りやめになりました。」ただし、抵抗運動の闘士としてのLafrenzに対する授章式は行うことになった。コトブス刑務所記念館の代表でもあるSylvia Waehlingによれば、今回の白バラ財団による展示のオープニングとLafrenzとの間の関係に鑑みれば、なおのこと授章式は開催されるべきだという。この記念館では5月末日までTraute Lafrenzの生涯について知ることができる。 そもそもLafrenzが白バラのメンバーだったことが知られるまでには、とても長い時間が必要だった。彼女が70年以上もアメリカ在住であることはもとより、必要以上に多くのことを語らないという彼女の性格も関係しているだろう。Lafrenzがビラの配布に関与したことは、彼女の逮捕やアメリカ軍の解放により死刑を免れたことと同様に、彼女にとっては当前の事実であり、大袈裟に語るようなことでは無いのである。愛、友情、共通の信念Hans Schollへの愛がLafrenzを抵抗運動へと促したという事実もまた、彼女は特段隠してはいない。ハンブルク出身の賢く陽気な医学生だった彼女は、1941年にハンブルク大学からミュンヘン大学に移った後、とあるコンサートでHansと知り合いになった。 Hans Schollとの「ひと夏の恋」の後、恋愛関係にはピリオドが打たれたが、共通の信念を持つふたりの友情は終わらなかった。Traute Lafrenz は、Alexander Schmorell、Christoph Probst、Kurt Huberなどの、抵抗運動に参加する他のメンバーとの議論に何度も参加していた。1942年の秋が終わる頃、Lafrenzは白バラのビラ第3号をミュンヘンからハンブルクへと運んだ。かつての学校仲間に手渡すと、彼はこれを配布した。1943年2月18日にHans SchollとSophie Schollの兄妹が逮捕されると、Traute Lafrenzにも容疑が賭けられた。1943年3月15日に彼女は逮捕され、およそ1か月後、事件を関知していた一味であると判断され、彼女は有罪となった。 Lafrenzは自分自身もビラの配布に関与したという事実を隠し通すことができた。しかし彼女は一時期を除き、終戦まで収監されたのだった。1947年彼女はアメリカに移住し、そこで医学を修めた。1949年には医師のVernon Pageと結婚し、4人の子供に恵まれた。1972年から1994年まで、彼女はシカゴで発達障害児のための養護学校の校長だった。頭脳明晰1944年11月から1945年2月までTraute Lafrenzは他の白バラ女性メンバーと共にコトブス刑務所に収監されていた。現在この刑務所は記念館になっている。「そのようなLafrenzさんの生涯を知り、彼女に連絡をとったのです」とSylvia Waelingは説明する。「残念ですが、ご高齢のためLafrenzさんにこちらに来ていただくことは叶いませんでした。けれども、私たちの活動には大いに関心を持って下さいました。クルディスタンにおけるプロジェクトにはご寄付まで頂きました。」さらにWaehlingは、Lafrenzが頭脳明晰な老婦人だと言う。 寄付の一部はどうしても手数料として使われてしまうとWaehlingが伝えると、Traute Lafrenzはそれに見合うよう金額を上積みしたのだという。また、この記念館が教育センターに改組される際にはLafrenzにちなんだ名称にしたいと願い出たところ、Lafrenzは別途額縁入りの証書を用意して許可を与えたという。多くの人々がそうであるように、Sylvia WaehlingもLafrenzの早期回復を願っている。ところで複数のジャーナリストによれば、Lafrenzは自身の健康状態を実際よりも深刻に見せて、数々のお祝いや訪問客から逃れようとすることがあったという。つい最近ではClaas #Relotiusがこれを悪用した。彼の記事によれば、Traute Lafrenzは彼を追い返すために電話越しに居留守を使い、「Lafrenzさんはお亡くなりになったのよ。本当に突然だったわ」と言ったことになっている。Relotiusは50本以上の捏造記事を様々なメディアで書いた。主には情報誌「Der Spiegel」であったが、Tagesspiegel紙にも彼の記事がこれまでに2本掲載されている。Relotiusが昨年秋に行ったTraute Lafrenzとのインタビューの記事でも、いくつかの箇所で捏造が見つかった。100歳になろうとしていたLafrenzは、「Spiegel」に対し強い憤りを伝えたのだった。白バラ財団主催のTraute Lafrenzに関する企画展は5月31日まで、旧コトブス刑務所の常設展『鉄格子の空 - コトブス刑務所における政治犯の収容 1933 - 1989』のスペースで開催中。場所はコトブス駅から徒歩で約15分(住所:Bautzener Straße 140)。ベルリンからはRE2(毎時1本)が便利。本展示および他の二つの展示の観覧時間は火曜日から金曜日が午前10時から午後5時、土日は正午から午後6時まで。月曜日と祝日は記念館の休館日。電話でガイドの予約が可能(0355 2901330)。出典: tagesspiegel.de
2021年05月05日
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Jonas NayをClaas Relotius役でキャスティング2021年2月15日 世間を揺るがせた事件の発覚から2年、「現代のペテン師物語」を描く映画の制作が発表された。Elyas M'BarekとJonas Nayが、Michael Bully Herbig監督によるメディア風刺映画『1000 Zeilen』に主演する。この映画は、雑誌「Spiegel」の記事捏造スキャンダルを描いたJuan Morenoの著書にヒントを得た作品だ。月曜日に制作会社Ufa Fictionは、今年の夏にミュンヘン、ベルリン、ハンブルク、スペインで撮影が行われると発表した。また同社はすでに、2019年の春にMorenoの著作を使用する権利を取得している。「現代のペテン師の顛末を物語にしてメディア界を風刺」すると言うのが今回の構想である。監督Herbigは次のように説明している ー 作り事のような出来事は、ひょっとしたら実際に起きうるものなのかもしれません。しかし、結局は辻褄合わせが必要なので、そこには必ず歪曲があるものです。(Nach Diktat nicht verreist, wegen Lockdown.和訳省略)「Deutschland 83」シリーズとその後続番組で人気を得たJonas Nayが、ドイツ有力ニュース週刊誌の花形記者Lars Bogeniusを演じる。Larsの同僚Romeroを演じるのは、「Fack ju Göhte」シリーズを経て人気俳優になったElyas M'Barekだ。Romeroは受賞歴を持つ記者Bogeniusの書いた記事中に矛盾点を発見する。そして彼の暴露によりドイツ報道界において最悪ともいえる報道スキャンダルが明るみになる。以上が現時点で判明している作品内容である。2018年にSpiegelが自ら公表したスキャンダルは、メディア業界の範囲を越えて、未だ取り組みが必要な問題として思い出される。同誌によれば、Claas Relotiusの執筆記事や、彼が部分的に参加した記事などを含めると、2011年以降およそ60本の記事が同誌とオンライン版の「Spiegel Online」とに掲載された。そこでは、#Relotiusが捏造した登場人物やシーンが少なからず見つかっている。「Tausend Zeilen Lüge - Das System Relotius und der deutsche Journalismus」で描かれているように、Morenoは共同執筆した記事の調査の際にRelotiusのやり口を見破った。その後Spiegelは問題の検証を開始し、またメディア業界の枠を超えたいくつかの取り組みもスタートした。そこでは、記事捏造の防止策だけでなく、取材事実を実証できない報道や、情緒面が強調され過ぎている報道の発生を改善された方法で防いでいくことを目指している。 出典: FAZ.NET
2021年04月12日
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あれから75年が経った。 Lafrenzはロッキングチェアから腰を上げた。彼女は、ごめんなさいね、家に探し物があるの、と言った。そして家の中に入ってしまうと、1時間ほど戻ってこなかった。窓にかかったカーテン越しには、居間のソファーに座って考え込む彼女の姿が見えた。友人の死刑執行から数日後の1943年2月24日、大学の大管区学生指導者はヒトラーへの「忠誠表明」を呼び掛け、死刑執行された彼らを「恥知らずの卑劣な連中」と罵った。何百人もの学生たちが足を踏み鳴らしながら賛意を示し、Scholl兄妹を通報した用務員の栄誉をヒトラー式敬礼で称えた。まだ通報されていなかったTraute Lafrenzは、その数日間をScholl家の人々と共に過ごし、仲間内に存在していた有罪の証拠となりうる資料を廃棄し、危険にさらされた協力者に注意を促した。それでもさらに逮捕者がでていた。1943年7月13日にはAlexander SchmorellとKurt Huber教授が処刑された。医学生Willi Grafは、1943年10月12日に断頭台で処刑された。彼はHans Schollと共に、「自由」、「くたばれヒトラー」、「虐殺者ヒトラー」などの言葉をミュンヘン市内の建物の壁に書いていた。6名の仲間が殺害された後、Lafrenzが構築していたハンブルクとの繋がりにより、ビラ第6号はスカンジナビア経由で英国へとわたり、「ミュンヘン大学学生による声明文」として英国の航空機がドイツにばら撒いた。ロサンゼルスで亡命生活を送っていたThomas Mannは、BBCのラジオ放送で称えた。「勇敢だ。素晴らしい若者たちだ。諸君の死は無駄ではなく、諸君は忘れ去られるべきではない。」テラスに戻ってきたTraute Lafrenzの目は赤くなっていた。彼女が持ってきた氷の入った2つのグラスには、ジンジャエールが注がれていた。彼女は言った。「あなた、まだそこにいたのね。」 SPIEGEL:もう少しお話しを伺ってもよろしいですか。Lafrenz:望もうと望むまいと、人生はずっと続くものです。HansとSophiesの父親が、埋葬の後に何をしようとしていたか知っていますか。Scholl家の皆さんが家にいる時、彼は自暴自棄になって言いました。「さあ、私たちも動脈を切って死のうじゃないか。みんな一緒に。」これに反対したのは信心深い母親でした。「いいえ。まずは何か食事を作りましょう」 と。SPIEGEL:数日後に一家は、家族の共同責任という理由で拘束されました。しばらくしてあなたも、秘密を知る人物として民族裁判所に引き出されました。Lafrenz:私が処刑から逃れられたのは、血の裁判官と呼ばれたFreislerが私を愚かな小娘だと思ったからです。女どもに何ができるというのか、と。でも、学校時代の友人Heinz Kucharskiが私や他の多くの人々を裏切りました。私は彼を信頼してビラ第3号をハンブルクの彼のもとに持って行っていたというのに。私はハンブルク=フールスビュッテル刑務所に引き渡され、そこで何週間も尋問を受けました。まるでポーカーのように、私自身に命の選択権がなかったのです。一度私が尋問室に来た時には、ラジオからモーツァルトの「魔笛」のアリアが流れていました。「この神聖な殿堂には復讐を知る者はない...。」SPIEGEL:あなたの恩赦の嘆願に対する秘密警察の見解が書き残されています。「後日に行われた事情聴取でLafrenzは自身が売国奴であると認めた。また彼女は、警察での拘留中や、その後数回行われた事情聴取の際に、反省の様子を見せたことはなかった。」Lafrenz:秘密警察は私を降伏させて、協力者の名前を聞き出したかったのです。彼らは私の母を呼びつけたことがあります。私に対し、二度と母には会えないだろうと言いました。私は子供のように泣いてしまいました。でも私には、誰のことも裏切らないという決心がありました。SPIEGEL:残念ながらそのような考え方をする人はあまりいなかった。Lafrenz:Christoph Probstが断頭台で処刑された後、ナチスは彼の妻に断頭台使用料 600ライヒスマルクの請求書を送りつけました。Scholl家では、見知らぬ人が家の玄関先に来てこう言いました。「こんにちは。あの、自分の子供たちの首がはねられた親の顔をちょっと見てみたいのですが。」人々の心の中はどうなっていたのでしょうか。ドストエフスキーは書いています。「人間の心は広い、広過ぎるくらいだ。出来ることなら少し縮めてみたい。」SPIEGEL: 60年代初頭、Adolf Eichmannがイスラエルで裁判にかけられていたころ、心理学者のStanley Milgramは一般市民の行動心理を実験しました。それによれば、たとえそれが良心に反する事だとしても、人は権威主義的な指示に従ってしまうのだそうです。被験者は、他の実験の参加者に電気ショックを流すよう指示されます。たとえ実験の参加者(本当はサクラの役者)が叫んで実験中止を求めても、被験者の多数は電気ショックを加え続けました。少なくとも理論上は、死に至るまでそうしたことになります。Lafrenz:悪とは陳腐なものですね。アメリカ人医師Susan Benedictはナチ時代におけるドイツの安楽死について一冊の本を書きました。私はこの本の執筆に参加しています。同書にはMeseritz-Obrawalde精神病院の看護婦について考察している章があります。彼女たちは数百人の患者を殺害しました。20年後の1960年代になり、ミュンヘンの安楽死裁判で告発されました。ほとんどの看護婦は、権威のある医師たちに敬意を払って行ったことだと弁明し、自らの行動に対する責任を決して認めなかった。彼女たちの多くは信心深いカトリック教徒でしたが、国家に奉仕する義務のほうが宗教的な価値観より大切だったのです。さらに彼女たちは、道徳的な優越感を感じていたと思います。SPIEGEL:死刑執行官Reichhartは、正装姿で白バラのメンバーを斬首しました。戦後になると彼は自分の立つ側を変えて、156人のナチスと戦争犯罪人を処刑し、ニュルンベルク裁判の開始前には、アメリカ人に絞首台の使い方を手ほどきしました。老齢の宰相Konrad Adenauerは、タクシー運転手連続殺人事件後の1964年に死刑制度の再導入を求めた際、Reichhartはこれに反対して言いました。「私はもう、二度とやらないでしょう。」Lafrenz:そのような話を聴くと途方に暮れてしまいます。私たちから人間性を奪うものは何か。そして私たちを再び人の道へと戻すものは何か。これらが瞬く間に起きてしまう出来事だからといって、絶えず目を光らせている必要は無いと言えるのでしょうか。悪を見て見ぬふりをしてしまったら、いつの日にか悪は復活するのではないでしょうか。Traute Lafrenzは無言で、家の前を流れる河に目を向けた。遠くで蒸気船がミシシッピ河を横切っている。ヨンジズ アイランドの夕方。河はとても静かで、コオロギが鳴き、木々の後ろにゆっくりと夕日が沈んでいく。1944年の秋、たくさんの白バラの協力者たちが逮捕された。その頃Lafrenzは囚人として家畜運搬車両に乗せられ、ハンブルクからベルリンのモアビットに移送された。さらに彼女は他の抵抗運動の闘士たちと一緒にコトブスの収容所へと移った。ある日、アウシュヴィッツからの輸送車がコトブスの収容所に到着した。その時はじめてアウシュヴィッツのことを聴いたとLafrenzは言っている。1945年2月、彼女はバイロイトへと移送された。反逆罪、敵方ほう助、国防軍攪乱の罪で、再び処刑の危機が迫っていた。同年4月14日、裁判開始のほんの数日前に、アメリカ軍が刑務所を解放した。Lafrenzと他の収監者たち(その中にはハンブルク時代のかつて担任教師Erna Stahlもいた)は、爆弾投下を恐れて屋根に白いシーツを張っていた。戦後Traute Lafrenzはミュンヘンで医学の勉強を続け、3年後にカリフォルニアのバークリーで学位を得た。その後彼女はアメリカに留まった。眼科医のVernon Pageと結婚し、3人の息子とひとりの娘に恵まれた。そして、シカゴで発達障害児のための養護学校の校長となった。1980年代初頭に、彼女はシカゴでかつてのクラスメートの Helmut Schmidtと再会した。首相職の任期を終えた彼は、講演のためシカゴを訪れていた。聴衆の中にいたLafrenzは呼び掛けた。「ねえ、おしゃべり男」と。そして彼女は彼に手をさしだした。SPIEGEL:自身の過去について、あなたは何年も話しをしなかった。あなたの子供たちは大人になってから行ったヨーロッパ旅行の際に、母親がドイツで抵抗運動に参加していたことを初めて知りました。なぜずっと話さずにいたのでしょうか。Lafrenz:私は大げさにしたくなかったのです。戦後のドイツ社会にはScholl兄妹のような人物像を求める大きな要請がありました。アメリカ人もまた、手本となるドイツ人像を早急に必要としていましたが、そのようなものはありませんでした。そこで彼らは純粋な殉教者という神話創出を後押して、そのイメージを聖像化しました。Sophie Scholl関連だけでも相当数の映画や書籍がありますから、彼女が抵抗運動を率いたと信じてしまうかも知れません。彼女はビラを1枚も書いていなかったのに。SPIEGEL:それでもやはり、今日に至るまで、特にSophieの名を冠した学校、通り、各種団体があります。Lafrenz:彼女が受け取ったものに対して異論はありません。でも、彼女とHansが超人的なヒーローに、つまり聖人化されてしまったことには違和感を感じます。ドイツ人はもう、自分たちが何の行動も起こさなかった理由に迷う必要は無くなりました。なぜなら、ドイツにはずっと立派で善良なScholl兄妹がいたからです。でもそんなふたりだって、ヒトラーに惑わされたことはあったし、弱みも持っていました。彼らはこの上なく勇敢であると同時に軽率でもありました。場合によっては、向こう見ずな行動を取ったり、自身の信念のために他人の生命を危険に晒したこともありました。ただし、このような異なる視点から彼らを検討する余地などはありませんでした。そんなことをすれば、神話が台無しされてしまい、彼らが人間として示されしまうからです。もしそうなると、ドイツ人の一人ひとりは自身の罪と向き合わねばならなくなってしまいます。私たちは誰も聖なる存在ではなかったし、誰もが私たちのように行動する可能性があったでしょう。確かに私はビラを撒きました。でもそれはまったく取るに足らないことなのです。SPIEGEL:かつての強制収容所の収容者が、ビラのことを知った収容者たちの反応について報告しています。「ミュンヘンで何が起きているのか聴いたとき、私たちは抱き合って拍手喝采しました。こんな状況のドイツにも、まだ人間がいるのだ。」Lafrenz:人間である、とはどいう言うことでしょう。学校長だった頃に、私は質問されたことがあります。発達障害児と一緒に作業をすることは何をもたらすのか、そしてそれは何の役に立つのか。私は答えました。私は子供たちの役に立ちたいのです。子供たちが自分自身を人間として感じられるように。挑戦を乗り切れるように。多くの子供たちにとっては、身体を洗ったり、ナイフとフォークで食事したりすることです。絵画を眺めたり、ドストエフスキーを読んだり、また、もっぱら自分の良心に従うことで、人間であることを感じる子供たちもいます。どれも人生では大切なことです。誰もが自身のやるべきことをやらなければなりません。SPIEGEL: Lafrenzさん、お話を聞かせてくださり有難うございました。聴き手: #Claas Relotius 記者出典: SPIEGEL ONLINE
2021年04月07日
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Lafrenzはロッキングチェアに座りながら身体を上下に動かしてた。はじめ彼女はゆっくりと椅子揺らしていたが、「第三帝国」の話を続けるにつれて落ち着きを失くしていった。Lafrenzによれば、ドイツのポーランド侵攻により第二次世界大戦が勃発した1939年、高校卒業試験を終えた彼女は、国家勤労奉仕団での務めを果たし、ハンブルクで医学を学び始めた。彼女が学んだエッペンドルフの大学病院では、「非アーリア人」の志願者は受験を拒否され、「非アーリア人」の医師からは開業免許が剥奪されていた。 彼らの中にはユダヤ人として迫害され、アメリカ、イギリスもしくはスウェーデンに逃れた人々がいた。連行されて、数年後に強制収容所で殺害される場合もあった。Lafrenz自身は、4学期間をハンブルクで勉強した。1941年の春、前年にフランスに侵攻したドイツ国防軍がソ連攻撃に備えていた頃、彼女はミュンヘンに移った。そこで彼女は仲間となるHans Schollと知りあう。22歳のウルム出身の医学生で、占領下のパリから帰還したばかりの一等看護長でもあった。Lafrenz:バッハのブランデンブルク協奏曲が演奏された夜のコンサートでのことです。友人のAlexander Schmorellの紹介で私たちは知り合いました。実は、大学の講義中に、私はすでにHansに見とれていました。最初に気になったのは、彼の口元でした。その美しい口のHansは、約束を守れない人でした。 SPIEGEL:それでもあなたは彼と関係をもつことにしたのですね。Lafrenz:私たちはひと夏を共に過ごしました。イザール川で泳ぎ、お互いをもっと知るようになりました。どんどんと関係が深まった、と言えばよいでしょうか。ハンスにはカリスマがあり、他にも彼の魅力に引き込まれました人がいました。SPIEGEL:Hans Schollはあなたに出会う1941年の夏まで、ナチ政権に敵対的ではなかったようです。Lafrenz:彼の妹Sophieもそうでしたが、敵対している感じはありませんでした。彼女は 3歳年下でした。「ドイツ女子同盟」の制服姿で堅信礼を行ったのは、同学年の中で彼女だけだったそうです。またHansもヒトラーユーゲントでは他のメンバーと一緒に列の前方に並んでいましたし、大規模な党大会では隊長としてヒトラーの前を整然と行進したこともありました。私と知り合ったとき彼はまだ国防軍での出世を望んでいましたが、失敗もあったようです。彼は大学入学前に逮捕されたことがあります。それは、男性同性愛を禁止する刑法典175条への抵触でした。彼はヒトラーユーゲントで、ある若者と関係を持ったのです。今日であれば、「だから何?」というようなことでしょう。しかし彼は牢屋に閉じ込められてしまいました。きっと彼は、このことを忘れられなかったでしょう。 SPIEGEL:白バラの母体となる仲間うちのサークルは、当時の政治状況とは相容れない考えを持っていましたが、どのように集会を開いていたのですか。Lafrenz:Hansも私も文学好きだったため、私たちは夜の読書会を開きました。ハンブルク時代の経験から読書会のやり方は分かっていたので、それをミュンヘンでも開催したのです。当初の参加者はほんの一握りでしたが、後にSophie Schollや10人ほどの信頼できる学生が加わりました。スウィングを聞き、ワインを飲み、プーシキンを読み、絵画について語り合いました。SPIEGEL:ヨーロッパの半分が戦争の真っただ中のときに、あなたは芸術を楽しんでいたのですか。Lafrenz:男たちは何度でも前線に出向かねばなりませんでした。私たち女は弾薬工場で働かねばなりませんでしたが、総じて生活は悪くはありませんでした。私たちは哲学や倫理学について議論しました。もちろん、ヒトラーについても。でも、白バラのメンバーには強い政治的関心があったというのは誤解です。私たちはもちろん、Hansもまったくそうではありませんでした。それだけに、私は当時を振り返り考えることがよくあります。なぜ、彼だったのだろうと。 他の誰にも出来なかったことを、よりによってなぜHansはやったのでしょう。 SPIEGEL:しばらくして、あなたは再び彼と別れました。Lafrenz:彼はいつも衝動的で無鉄砲な性格でした。あらかじめ物事を最後まで考えずに、はめを外すこともよくありました。どんな結末になるかよく考えていれば、勢いでやってしまったあのようなことには、彼は決して手を出さなかったはずだと、今私はそう思っているのです。SPIEGEL:どのようにしてビラを撒くというアイデアが出たのでしょうか。Lafrenz:私たちは皆、大衆を軽蔑していました。誰もが同じように見え、誰もが同じように振舞っていました。それは罠のようなもので、もはや真実の言葉を語ることはできない、とても危険な状況でした。私たちの目に映るこのような状況に、私たちは従いたくなかった。そこで、私たちは敵国の放送局、例えばBBCを聞きました。そこでは、 Thomas Mannがラジオ演説で、国防軍による犯罪やポーランドにおける虐殺について語りました。演説の内容は、後日Hansや他のメンバーが東部戦線で目の当たりにしたことと同じでした。彼らがワルシャワのゲットーについて語ったことはおぞましいものでした。その後私たちの多くも、ユダヤ人が連行されるのを目撃しました。彼らは二度と戻ってきませんでした。SPIEGEL:ほとんどのドイツ人がこの光景を目にしましたが、どうにかしようとはしませんでした。 Lafrenz:私たちは良心の危機に陥りました。もう目を逸らすことはできません。そんなことをすれば、自分自身の存在価値が無くなってしまいます。私たちは相談しました。漆黒の闇に射す希望の光についてです。つまり、どうすれば国民を目覚めさせられるのか、どのような問題提起を新たに行わなければならないのか。発言したのはSophie Schollだったと思います。彼女は言いました。「多くの人々が現政権のために命を落としています。誰かが反政権を掲げて命を賭ける時が来なければ。」Traute Lafrenzは両手を合わせていた。話すにつれて力が入ったのか、指の関節が白く浮き上がっていた。彼女は目の前のテーブルにあるHans Schollの古い写真をしばらく見つめると、何度も首を横に振った。1942年の夏、医学生だったHans SchollとAlexander Schmorellは「ヒトラーとその同志」への反対を主張するビラを4枚作成した。その頃、ヴァンゼーではナチ党の高官らがユダヤ人の組織的殺害について確認した会議が開かれ、アウシュヴィッツでは数か月に渡るガス殺が実行されていた。彼らはミュンヘン市内から対象者を選び、それぞれに約100部づつビラを郵送した。学卒者や影響力のある人々が主な対象者だった。SchollとSchmorellは1台のタイプライターを使って、ミュンヘンのベネディクテンヴァント通り12番地でビラを編集した。そこは、 総統代理Rudolf Hessの家の近所だったという。彼らはナチ国家の犯罪を公に非難した最初の人物ではなかったが、ユダヤ人迫害をはっきりと抵抗運動の理由にしたのは彼らだけだっただろう。ビラ第1号「白バラからの呼びかけ」は次の二文から始まる。「無責任かつ下劣な欲望から生まれた一味に抵抗することなく「支配」されることほど、文化民族にとって不名誉なことはない。誠実なドイツ人であれば誰でも、今日の自国政府を恥じているのではないか。いつの日か我々の両目を覆い隠していたヴェールが外され、限度を知らぬ凶悪犯罪が明るみになれば、どんなにひどい汚名が我々や我々の子供たちに着せられるのか、想像できる者が我々の中にいるだろうか。」 Lafrenz:私や他のメンバーは、彼らが何をやっているのか全く知りませんでした。ある晩、Hansは私にビラを差し出しました。私はそれを読んですぐにピンときました。スパルタ人の盲従を批判するFriedrich Schillerからの引用でした。これについて私たちはよく議論していたのです。そこで私は、ビラを書いたのはHansなのかと本人に尋ねました。そのようなことは訊くものじゃない、というのがHansの答えでした。私は彼のほのめかしを理解し、二度とそのような質問はしませんでした。SPIEGEL:我々は黙らない。我々は諸君のやましい心なのだ。白バラは諸君に休息など与えはしない。ビラ第4号の最後の文は、巨大組織からの脅迫のように聞こえます。Lafrenz:そのような意図があったのでしょうし、私にもそのように感じられました。背後に真の反乱計画があるのかと思いましたし、彼らが単なるふたりの友人ではなくなった感じがしました。SPIEGEL:白バラという名前の由来はなんでしょうか。Lafrenz:今でもそれは知りません。自分たちにそのような名前をつけたことはありませんでした。Hansは花が大好きだった、というのが、単純ですが答えじゃないでしょうか。SPIEGEL:ビラ作りに誰が関与しているのかよく分からないまま、あなたはビラを配布したのですね。Lafrenz:私はウィーンにいる叔母を訪ねました。謄写器を手に入れるためです。叔母には私たちと同じような考えを持っていることを知っていましたから。その後私はハンブルクに移動し、学校時代の友人Heinz Kucharskiにビラ第3号を1部手渡しました。彼はそれをドイツの北部で配布しました。列車での移動の間、私はずっと膝の上のカバンの中にビラを入れていました。列車内では常に警官が監視していたのです。 SPIEGEL:秘密警察の特別班はビラの編集者をずっと探していました。移動している活動家がいるとふんでいたのです。不安ではありませんでしたか。Lafrenz:いいえ、決して。正しいことをしていると確信していましたから。SPIEGEL:あなたも友人も軍務に着いていましたが、比較的安定した暮らしをしていました。それなのに、あなたは全く危険を顧みませんでした。後にヒトラー暗殺を試みた Stauffenbergのような軍のエリートではなく、あなたは一般人として行動しました。 Lafrenz:私は大量の切手や封筒など、疑われても仕方がないものを大量に買いましたが、そんなことは全く考えませんでした。私たちは皆同じ志を持ち、沢山の仲間がいると感じていたので、心強かったのです。 SPIEGEL:第1号から第4号には、受け取ったビラを広めて欲しいと書かれていまが、ビラを受け取った人々の3分の2は秘密警察に届け出ました。 Lafrenz:ええ、そうでしたね。私たちはとても孤立していたのに、それを全く分かっていませんでした。最初の行動を起こしてから半年後の1943年1月、第5号「すべてのドイツ人に呼びかける!」が発行された。9000部に迫る大部数のビラが、配達業者や郵便でドイツの諸都市へと頒布された。今やビラの作成者は大衆に対し「国家社会主義の野蛮」との絶縁を呼びかけていた。この時代に彼らはすでに、戦後の統合ヨーロッパに連邦制の新ドイツ国家を打ち立てることを訴えていた。一方、秘密警察は大捜査を開始していた。 それから約3週間後の1943年2月18日の朝、国防軍最高司令部がスターリングラードでの敗北を大ドイツ放送局を通じて発表した。ベルリンではJoseph Goebbelsが、スポーツ宮殿での演説を前に、「総力戦」への支持を国民に訴えるべく草稿を練っていた。その時HansとSophieは、ミュンヘンのLudwig-Maximilians大学の構内に入っていった。ふたりは講義室の前に数百部のビラ第6号を並べて置いた。草稿を書いたのは、彼らと親しい哲学教授Kurt Huber、49歳の仲間だった。女子学友諸君!!男子学友諸君!スターリングラードの兵士たちは敗北し、我々国民は動揺している。第一次世界戦争に参加した一兵卒の天才的戦略は、無意味かつ無責任に33万人のドイツ軍兵士を死と壊滅に追いやってしまった。総統殿、我々はあなたに感謝いたします!Lafrenz:ちょうど授業が終わり講義室から出てきたときでした。Hansが書類カバンとトランクを持って大学に来ているのを見て、どうしたのだろうと思いました。彼らが何をしようとしているのかは知りませんでした。少しも慌てているようには見えませんでした。Sophieは私に言いました。「あなたが借りたがっていたスキーブーツは家にあるわ。私が今日の午後戻れなかったら、持って行っていいわよ。」彼女とHansを見たのは、これが最後でした。SPIEGEL:兄妹はビラを並べました。そして、束の一つを吹き抜けのある玄関ホールへとばら撒きました。その様子を見た用務員により、ふたりは通報されました。Lafrenz:秘密警察はSophieとHansを別々に尋問しました。捜査課のリーダーにより個別に尋問されていたSophieは、兄が自白したことを知り、自分も自供しました。彼女自身は一行だって書いてはいなかったのに。SPIEGEL:Sophieの尋問を行ったRobert Mohrは後日、彼女は「必死に」自分自身がすべての罪を被ろうとしていたと、彼女の父親に伝えています。彼はSophieに「さん付け」で話しかけ、自身を同調者と認めて極刑を逃れることを勧めたが、彼女はこれを拒否しましたLafrenz:それはこのように考えるべきです。つまり、ベルリンではチビのGoebbelsが国民の前に登場して「諸君は総力戦を望むか」と大声で演説し群衆を熱狂させました。他方、ミュンヘンでは秘密警察の前に座るたったひとりの21歳の若い女性が、毅然として死刑判決を受け入れたのです。 SPIEGEL:尋問の際に共謀者を問われたとき、Hans Schollは言いました。 「Lafrenzは自分とはなんの関係もない。」 Lafrenz:当たっているとしても半分だけね。私たちはもう恋人同士ではありませんでしたから。SPIEGEL:四日後に民族裁判所は、被告のHansとSophieそして学友のChristoph Probstに対して、斬首による死刑判決を下しました。Probstの書いたビラ第7号の草稿をハンスはカバンの中に所持していたのです。 Lafrenz:私はScholl家の両親が恩赦を求める手助けをしました。法は99日間の猶予を認めていましたが、かつてヴァンゼー会議にも出席していた民族裁判所長官Roland Freislerはひどい金切り声で言い放ちました。「法だと。法など我々には必要ない。」私はChristoph Probstの妻の傍にいました。彼女は3人目の子供を出産していました。夫のための恩赦の嘆願書に署名をしていた彼女のもとに、シュダーデルハイムから連絡が入りました。判決から4時間も経たないうちに、死刑が執行されたとの知らせでした。SPIEGEL:Sophie Schollは死刑執行の直前に、監房の中で書いています。「とても天気の良い日です。そして、私は行かなくてはなりません。もし私たちが何千もの人々を揺り起こし、奮い立たせることが出来ていたなら、私たちの命など問題ではありません。」熟練の肉屋でもあった死刑執行官のJohann Reichhartは、ナチズムの時代に3000件もの死刑を執行しました。後に彼は、彼女のように死んでいった者を見たことはなかったと述べています。Lafrenz:彼女が逮捕される少し前のことです。道端に立つ私たちの隣には数頭の馬がいて、鼻を鳴らして息をしていました。Sophieは、「まあ、頼もしいわね」というと、笑いながらとある文具店に入り、私たちの活動のために必要な禁制品を買っていました。悪びれた様子もなく、無邪気でとても明るい笑顔でした。ときどき私の夢の中に、同じ笑顔で断頭台に歩いていく彼女の姿が現れます。SPIEGEL:あなたの日記には、その日の晩の出来事について書かれています。「埋葬のために遺体を買い取った」と。Lafrenz:私は医学生でしたので、そうでもしないと彼らの遺体を埋葬出来なくなるかもと心配したのです。そうして、彼らの遺体はペルラッハ フォルスト墓地 73-1-18 番に到着しました。棺は荷車で運ばれました。墓穴の向こう側には、ずらりと秘密警察の人員が立っていました。彼らは墓地全体を取り囲んでいました。 SPIEGEL:あなたは埋葬に参列した、たったひとりの白バラのメンバーでしたね。Lafrenz:殺されもせず、逮捕されてもいなかったのは、私くらいのものでした。彼らは棺を乱暴に墓穴に落とすと、ガタンと音がなりました。棺は並べられることなく、上下に重ねられました。私はショル家の母親が言うのを聴きました。「SophieはHansの上に埋葬されてしまうのね。」出典: SPIEGEL ONLINE
2021年04月07日
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1942年の夏、医学生だったHans SchollとAlexander Schmorellは「ヒトラーとその同志」への反対を主張するビラを4枚作成した。その頃、ヴァンゼーではナチ党の高官らがユダヤ人の組織的殺害について確認した会議が開かれ、アウシュヴィッツでは数か月に渡るガス殺が実行されていた。彼らはミュンヘン市内から対象者を選び、それぞれに約100部づつビラを郵送した。学卒者や影響力のある人々が主な対象者だった。SchollとSchmorellは1台のタイプライターを使って、ミュンヘンのベネディクテンヴァント通り12番地でビラを編集した。そこは、 総統代理Rudolf Hessの家の近所だったという。彼らはナチ国家の犯罪を公に非難した最初の人物ではなかったが、ユダヤ人迫害をはっきりと抵抗運動の理由にしたのは彼らだけだっただろう。ビラ第1号「白バラからの呼びかけ」は次の二文から始まる。「無責任かつ下劣な欲望から生まれた一味に抵抗することなく「支配」されることほど、文化民族にとって不名誉なことはない。誠実なドイツ人であれば誰でも、今日の自国政府を恥じているのではないか。いつの日か我々の両目を覆い隠していたヴェールが外され、限度を知らぬ凶悪犯罪が明るみになれば、どんなにひどい汚名が我々や我々の子供たちに着せられるのか、想像できる者が我々の中にいるだろうか。」 Lafrenz:私や他のメンバーは、彼らが何をやっているのか全く知りませんでした。ある晩、Hansは私にビラを差し出しました。私はそれを読んですぐにピンときました。スパルタ人の盲従を批判するFriedrich Schillerからの引用でした。これについて私たちはよく議論していたのです。そこで私は、ビラを書いたのはHansなのかと本人に尋ねました。そのようなことは訊くものじゃない、というのがHansの答えでした。私は彼のほのめかしを理解し、二度とそのような質問はしませんでした。SPIEGEL:我々は黙らない。我々は諸君のやましい心なのだ。白バラは諸君に休息など与えはしない。ビラ第4号の最後の文は、巨大組織からの脅迫のように聞こえます。Lafrenz:そのような意図があったのでしょうし、私にもそのように感じられました。背後に真の反乱計画があるのかと思いましたし、彼らが単なるふたりの友人ではなくなった感じがしました。SPIEGEL:白バラという名前の由来はなんでしょうか。Lafrenz:今でもそれは知りません。自分たちにそのような名前をつけたことはありませんでした。Hansは花が大好きだった、というのが、単純ですが答えじゃないでしょうか。SPIEGEL:ビラ作りに誰が関与しているのかよく分からないまま、あなたはビラを配布したのですね。Lafrenz:私はウィーンにいる叔母を訪ねました。謄写器を手に入れるためです。叔母には私たちと同じような考えを持っていることを知っていましたから。その後私はハンブルクに移動し、学校時代の友人Heinz Kucharskiにビラ第3号を1部手渡しました。彼はそれをドイツの北部で配布しました。列車での移動の間、私はずっと膝の上のカバンの中にビラを入れていました。列車内では常に警官が監視していたのです。 SPIEGEL:秘密警察の特別班はビラの編集者をずっと探していました。移動している活動家がいるとふんでいたのです。不安ではありませんでしたか。Lafrenz:いいえ、決して。正しいことをしていると確信していましたから。SPIEGEL:あなたも友人も軍務に着いていましたが、比較的安定した暮らしをしていました。それなのに、あなたは全く危険を顧みませんでした。後にヒトラー暗殺を試みた Stauffenbergのような軍のエリートではなく、あなたは一般人として行動しました。 Lafrenz:私は大量の切手や封筒など、疑われても仕方がないものを大量に買いましたが、そんなことは全く考えませんでした。私たちは皆同じ志を持ち、沢山の仲間がいると感じていたので、心強かったのです。 SPIEGEL:第1号から第4号には、受け取ったビラを広めて欲しいと書かれていまが、ビラを受け取った人々の3分の2は秘密警察に届け出ました。 Lafrenz:ええ、そうでしたね。私たちはとても孤立していたのに、それを全く分かっていませんでした。出典: SPIEGEL ONLINE
2021年04月07日
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Lafrenzはロッキングチェアに座りながら身体を上下に動かしていた。はじめ彼女はゆっくりと椅子揺らしていたが、「第三帝国」の話を続けるにつれて落ち着きを失くしていった。Lafrenzによれば、ドイツのポーランド侵攻により第二次世界大戦が勃発した1939年、高校卒業試験を終えた彼女は、国家勤労奉仕団での務めを果たし、ハンブルクで医学を学び始めた。彼女が学んだエッペンドルフの大学病院では、「非アーリア人」の志願者は受験を拒否され、「非アーリア人」の医師からは開業免許が剥奪されていた。 彼らの中にはユダヤ人として迫害され、アメリカ、イギリスもしくはスウェーデンに逃れた人々がいた。連行されて、数年後に強制収容所で殺害される場合もあった。Lafrenz自身は、4学期間をハンブルクで勉強した。1941年の春、前年にフランスに侵攻したドイツ国防軍がソ連攻撃に備えていた頃、彼女はミュンヘンに移った。そこで彼女は仲間となるHans Schollと知りあう。22歳のウルム出身の医学生で、占領下のパリから帰還したばかりの一等看護長でもあった。Lafrenz:バッハのブランデンブルク協奏曲が演奏された夜のコンサートでのことです。友人のAlexander Schmorellの紹介で私たちは知り合いました。実は、大学の講義中に、私はすでにHansに見とれていました。最初に気になったのは、彼の口元でした。その美しい口のHansは、約束を守れない人でした。 SPIEGEL:それでもあなたは彼と関係をもつことにしたのですね。Lafrenz:私たちはひと夏を共に過ごしました。イザール川で泳ぎ、お互いをもっと知るようになりました。どんどんと関係が深まった、と言えばよいでしょうか。ハンスにはカリスマがあり、他にも彼の魅力に引き込まれました人がいました。SPIEGEL:Hans Schollはあなたに出会う1941年の夏まで、ナチ政権に敵対的ではなかったようです。Lafrenz:彼の妹Sophieもそうでしたが、敵対している感じはありませんでした。彼女は 3歳年下でした。「ドイツ女子同盟」の制服姿で堅信礼を行ったのは、同学年の中で彼女だけだったそうです。またHansもヒトラーユーゲントでは他のメンバーと一緒に列の前方に並んでいましたし、大規模な党大会では隊長としてヒトラーの前を整然と行進したこともありました。私と知り合ったとき彼はまだ国防軍での出世を望んでいましたが、失敗もあったようです。彼は大学入学前に逮捕されたことがあります。それは、男性同性愛を禁止する刑法典175条への抵触でした。彼はヒトラーユーゲントで、ある若者と関係を持ったのです。今日であれば、「だから何?」というようなことでしょう。しかし彼は牢屋に閉じ込められてしまいました。きっと彼は、このことを忘れられなかったでしょう。 SPIEGEL:白バラの母体となる仲間うちのサークルは、当時の政治状況とは相容れない考えを持っていましたが、どのように集会を開いていたのですか。Lafrenz:Hansも私も文学好きだったため、私たちは夜の読書会を開きました。ハンブルク時代の経験から読書会のやり方は分かっていたので、それをミュンヘンでも開催したのです。当初の参加者はほんの一握りでしたが、後にSophie Schollや10人ほどの信頼できる学生が加わりました。スウィングを聞き、ワインを飲み、プーシキンを読み、絵画について語り合いました。SPIEGEL:ヨーロッパの半分が戦争の真っただ中のときに、あなたは芸術を楽しんでいたのですか。Lafrenz:男たちは何度でも前線に出向かねばなりませんでした。私たち女は弾薬工場で働かねばなりませんでしたが、総じて生活は悪くはありませんでした。私たちは哲学や倫理学について議論しました。もちろん、ヒトラーについても。でも、白バラのメンバーには強い政治的関心があったというのは誤解です。私たちはもちろん、Hansもまったくそうではありませんでした。それだけに、私は当時を振り返り考えることがよくあります。なぜ、彼だったのだろうと。 他の誰にも出来なかったことを、よりによってなぜHansはやったのでしょう。 SPIEGEL:しばらくして、あなたは再び彼と別れました。Lafrenz:彼はいつも衝動的で無鉄砲な性格でした。あらかじめ物事を最後まで考えずに、はめを外すこともよくありました。どんな結末になるかよく考えていれば、勢いでやってしまったあのようなことには、彼は決して手を出さなかったはずだと、今私はそう思っているのです。SPIEGEL:どのようにしてビラを撒くというアイデアが出たのでしょうか。Lafrenz:私たちは皆、大衆を軽蔑していました。誰もが同じように見え、誰もが同じように振舞っていました。それは罠のようなもので、もはや真実の言葉を語ることはできない、とても危険な状況でした。私たちの目に映るこのような状況に、私たちは従いたくなかった。そこで、私たちは敵国の放送局、例えばBBCを聞きました。そこでは、 Thomas Mannがラジオ演説で、国防軍による犯罪やポーランドにおける虐殺について語りました。演説の内容は、後日Hansや他のメンバーが東部戦線で目の当たりにしたことと同じでした。彼らがワルシャワのゲットーについて語ったことはおぞましいものでした。その後私たちの多くも、ユダヤ人が連行されるのを目撃しました。彼らは二度と戻ってきませんでした。SPIEGEL:ほとんどのドイツ人がこの光景を目にしましたが、どうにかしようとはしませんでした。 Lafrenz:私たちは良心の危機に陥りました。もう目を逸らすことはできません。そんなことをすれば、自分自身の存在価値が無くなってしまいます。私たちは相談しました。漆黒の闇に射す希望の光についてです。つまり、どうすれば国民を目覚めさせられるのか、どのような問題提起を新たに行わなければならないのか。発言したのはSophie Schollだったと思います。彼女は言いました。「多くの人々が現政権のために命を落としています。誰かが反政権を掲げて命を賭ける時が来なければ。」Traute Lafrenzは両手を合わせていた。話すにつれて力が入ったのか、指の関節が白く浮き上がっていた。彼女は目の前のテーブルにあるHans Schollの古い写真をしばらく見つめると、何度も首を横に振った。出典: SPIEGEL ONLINE
2021年04月07日
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悪を見て見ぬふりをしてしまったら、いつの日にか悪は復活するのではないでしょうか。SPIEGEL インタビュー「白バラ」最後の生存者、Traute Lafrenz。学生時代にHans Schollと恋に落ちた彼女は、ヒトラー政権への抵抗を呼び掛けるビラを撒いた。99歳になった現在、彼女はアメリカに住んでいる。これは、決して風化することのない彼女の人生、そして彼女が直面した様々な危機についてのインタビューである。私が初めてTraute Lafrenzと話をしたのは電話でだった。その時は長く話すことが出来なかった。私は、アメリカにいる彼女を訪問して、インタビューをしたいと伝えた。すると、彼女はしわがれた声でしっかりと答えた。「止めてください。私はもう年寄ですから。」2回目の電話でも長くは話せなかった。彼女は言った。「私は忙しいのよ」と。3回目に電話したときは、彼女は「私は家に居りません」と応答すると、そのまま電話を切ってしまった。何度目かに私は、彼女の義理の娘と電話で話すことが出来た。彼女によれば、どうも義理の母は適当な事を言っていただけのようだ。義理の母は、自らの半生について話をすることにはとても消極的らしい。Traute Lafrenzは1919年、ハンブルクに生まれた。そこで彼女はHelmut Schmidt、Loki Schmidtとともに学校に通った。21歳になると医学を学ぶためミュンヘンへ移り、大学でHans Schollと出会う。彼女はHansと共に仲間を集めてサークルを作り、夜になると秘密裡に議論を重ねた。このサークルから誕生した白バラは、主に学生で構成された反体制グループだった。白バラは反ヒトラー政権を主張するビラを作成し、ドイツ国内の諸都市で配布した。HansとSophieのScholl兄妹は、逮捕、起訴され、そして処刑された。ふたりは抵抗運動の象徴的存在だが、命を賭したのは彼らだけではない。Traute Lafrenzは、ビラを配布した最初のメンバーのひとりだった。彼女はミュンヘンからハンブルクへと抵抗運動を伝え、移動の痕跡を消し、すんでのところで死刑を免れた。また、秘密警察の尋問調書から割り出されそうな多くの同志の命を救った。Traute LafrenzとHans Schollのふたりは、ある夏のひと時、恋人同士だった。今から70年以上も昔のこと、第二次世界大戦後に彼女はドイツからアメリカに移住し、現在に至っている。今はサウスカロライナ州のヨンジズ アイランド在住である。私は取材の約束を取らずに、彼女の住む彼の地に飛んだのだった。アメリカに到着すると、私は再度彼女に電話をした。Lafrenz夫人は、とことん控え目な性格のようで、かすかな北ドイツ訛りを隠しながら英語で応答した。「Lafrenzさんはお亡くなりになったのよ。本当に突然だったわ。」とにかく私は、彼女のもとに向かった。彼女の住む家は広大な農場にあり、木々には南国産のスパニッシュモスがクリスマスの飾りのように掛かっていた。8月のある日曜日の午後、Lafrenzはベランダのロッキングチェアに座り、大西洋へと流れる河を眺めていた。同じ日に7000キロ以上離れたドイツ ザクセン州のケムニッツでは、大騒動となった市の記念祭でネオナチが行進をしていた。SPIEGEL:Lafrenzさん、お元気のようですね。 Lafrenz:電話をもらったとき、死んだことにしたほうが良いと思ったのよ。それなのにあなたはここに来た。あなたのことを追い払おうかと思ったわ。 SPIEGEL:何故ですか。Lafrenz:抵抗運動で殺されたのは、死ぬには若すぎる若者たちでした。私には生き延びた過去があり、そして孫やひ孫に恵まれました。今現在、私だけが最後に生き残っているからと言って、インタビューを受けろというのですか。あまり正しいことには思えませんが。SPIEGEL:ドイツの歴史上重要な出来事ですし、それについて今語ることができるのはあなただけなのです。Lafrenz:偶然ではないのかもしれませんね。今、私たちが命を全うしようとしているその時に、当時のような災いが再燃しています。あるアメリカの新聞に載っていた最近のドイツの写真を見ました。とてもゾッとしました。SPIEGEL:写真には何が写っていましたか。 Lafrenz:公衆の面前で、右手を真っ直ぐにのばしてナチ式の敬礼をするドイツ人です。まるで当時のように。歳はとりましたが、私にはハッキリとわかります。最近では、難民が犯罪者や家畜のような扱いで語られていることを、私はしっかりと聞いています。連邦議会の政治家が、今また次のような言葉を使っていることだって知っています。「ウソつきメディア」、「民族の裏切り者」、「国防軍への誇り」だったかしら。このような人々は、自分が話している言葉について全く分かっていない。でも、彼らには同じ策略があるのです。そのようにして災いは始まるのです。SPIEGEL:Hans Schollがいわゆる民族の裏切り者としてヒトラーの手下に処刑されるよりも前に、あなたは彼とひと夏の間を一緒に過ごしましたね。9月22日は彼の生誕百周年です。今でも時折、彼のことを考えたりしますか。Lafrenz:私たちの関係はもう75年も前のことです。ほんのたまにですが、眠たくてうとうとし始めると彼が夢に現れます。そこで彼に話しかけます。Hans、あなたは当時あそこで一体なにを考えていたの。私たちはどんなに未熟だったのかしら。ヒトラーに挑もうだなんて、私たちは思いあがっていたのかしら、って。 SPIEGEL:あなたは抵抗運動に参加したことを後悔しているのですか。Lafrenz:私が悔いているのは、すべてが悲劇に終わるしかなかったことです。私たちは全く普通の若者で、なにをどうすればよいのか分かっていませんでした。 SPIEGEL:あなたはハンブルクのヴィンターフーデ地区で育ちました。あなたの父は財務局に勤務し、母は主婦でした。少女時代には、進歩的なリヒトヴァーク中等学校に通っていましたね。Helmut Schmidt と一緒に。Lafrenz:おしゃべり男!SPIEGEL:そんなふうに彼を呼んでいたのですか。 Lafrenz:Schmiddiはおしゃべりが上手でした。何に対しても自分の意見を言っていました。Lokiとはいつでも仲が良かったけれど、Schmiddiにはがっかりしたことがあります。後に、私たちの担任だったErna Stahl先生が秘密警察に拘束されたときのことです。先生の命がかかっていたそのとき、Schmiddiは国防軍の中尉になっていました。彼女のためになんとか取りなすことだってできたはずなのに。でも、彼は何もしなかったのです。SPIEGEL:Erna Stahlは「第三帝国」の時代に、あなたや他の生徒たちを立派に成長させることに力を注いでいました。彼女は「若者に対する計画的な洗脳」の罪で死刑になるところでした。 Lafrenz:1935年以降、彼女は私たちと秘密の会合を開いていました。国家全体が足並みを揃えて行進し、退廃芸術の焼却や禁止書物の焚書が行われていたころ、彼女は私たちを招き入れ、まさにこれらの書物を一緒に読みました。トゥホルスキー、カフカ、エリッヒ・ケストナー。そうすることで私たちを災いから守ってくれたのです。SPIEGEL:文化的教育があなたを守ってくれた、ということでしょうか。Lafrenz:Adolf Hitlerもかなりの読書家でした。彼個人の図書館には16,000冊の本が並び、シェイクスピアやニーチェを尊敬していたにもかかわらず、何百万人もの人々を毒ガスで殺害しました。Josef Mengeleは障害児に対する人体実験の後には、好んでワルツを聞いていました。おそらくですが、感情移入をすると、文化や芸術の美が人間の心の中で何かを引き起こすのでしょう。 私の場合、本を読めば読むほど、心が固くしっかりと守られていくような気がしました。 出典: SPIEGEL ONLINE
2021年04月07日
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SPIEGEL-ONLINE: 2018年12月20日掲載記事「白バラ」最後の生存者Lafrenzとのインタビューは #Relotius記事捏造事件に関連ありと判明Claas Relotius の仕事の中で、「白バラ」最後の生存者Traute Lafrenzとのインタビューほど賞賛されたものはまず無いだろう。改めてこの記事を調査した結果、複数の捏造箇所があることが分かった。SPIEGELの調査により、「白バラ」最後の生存者Traute LafrenzはClaas Relotius記事捏造事件に巻き込まれていたことが判明した。本年9月にSPIEGELに掲載されたLafrenzとのインタビュー記事には、明らかに不正確な記述が散見される。SPIEGELの別の記者が改めてLafrenzに取材したところ、99歳の彼女は、インタビュー記事には複数の「ひどい」部分があり、多くの箇所について苦情を述べた。今週の水曜日、SPIEGELはLafrenzに2回連絡を取った。1回目の電話で彼女は、サウスカロライナの自宅でRelotiusと話した事を認めている。電話の後に今一度丁寧に記事を読んだ彼女は、インタビュー時の発言とは違うことが書かれているとの見解に至った。記事中に彼女自身の言葉が使われていない箇所が多くあるというのだ。具体的には以下の部分が該当する。ケムニッツのネオナチについて、Relotiusは彼女の次の言葉を引用している。「公衆の面前で、右手を真っ直ぐにのばしてナチ式の敬礼をするドイツ人です。まるで当時のように。」しかしLafrenzは、記事中の4つ目の質問に対して、記事に書いてあるような回答は決してしていないと言う。さらに彼女は、該当するような行進の様子を写した最近のドイツの写真をアメリカの新聞で見たことなどはないと言った。インタビューの中で、生徒たちの「秘密の会合」と呼ばれている集まりについて、Lafrenzは決して話していないと言う。後の「白バラ」メンバーとの関係を持つLafrenzの担任だったErna Stahlが開いた夜の読書会は、まったく普通の集まりであって、「秘密の会合」ではなかったとLafrenzは言っている。Relotiusのインタビュー記事では、同じ学校に通っていたHelmut Schmidtに対しLafrenzは、「ねえ、おしゃべり男」と大声で呼びかけたことになっている。Lafrenzによれば、Helmut Schmidtに対してこのような呼び方をしたことはないと言う。しかし彼女は、講演会後にSchmidtに声をかけて話をしたことは認めている。ただし彼女は、「Bild」紙のインタビューでSchmidtについて話した際に、この言葉を使っている。Relotiusが「Bild」のインタビューを利用したことは考えられるだろう。Relotiusのインタビューにある「Christoph Probst が断頭台で処刑された後」という表現は決して使っていないと言う。「これは削除してもよいパラグラフ」だと彼女は言っている。水曜日に行った2回目の電話取材でLafrenzが何度も繰り返したのは、「私は決してそんなことは言っていません」という言葉だ。不正な引用についてさらに質問すると、「まあ、まだ足りないのですか」と彼女は言った。シカゴ在住でRelotiusのインタビューに同席していたLafrenzの義理の娘とも電話で話をした。彼女によれば、Relotiusはインタビュー当日、17時頃にLafrenz宅に到着し、そこにいたのは長くとも1時間半程度で「決して2時間以上ではありませんでした」ということだ。SPIEGEL編集部内では、RelotiusはLafrenzと5時間一緒だったと報告されている。取材時間は45分間から1時間程度で、それより長くはなく、インタビューが終わると彼女はRelotiusを敷地の外まで案内して見送ったとのことだ。Lafrenzが家の中に入ってしまうと「1時間ほど戻ってこなかった」とRelotiusが書いた箇所について、義理の娘は言う。「いいえ、そんなことはありえません。彼はそんなに長時間いなかったのですから。」義理の娘によれば、Relotiusは携帯電話で会話を録音していた。一方、RelotiusはSPIEGELに対して真逆の説明をしている。Lafrenzとの会話の録音は無いのだと。SPIEGEL社内では、取材の証拠として会話記録やそれに相当するものの提出を求めた者がいなかった。通常、取材内容の承認のために「SPIEGEL インタビュー」の記事は取材の相手に送られる。そうすることで、校閲部は事実の確認だけに作業の的を絞る。一方、Relotiusによれば、Lafrenzは承認にこだわらなかったのだと言う。アメリカでは承認の手続きが一般的ではないため、彼は驚かなかったと述べた。ドイツではインタビュー内容の承認を取るが、これは国際的に確立している手続きではない。この落とし穴と同僚からの信頼を、Relotiusは利用したのだ。社内調査で明らかになったように、RelotiusはSPIEGEL英語版のスタッフに、英語への翻訳をしないよう再三求めている。彼はその都度様々な理由を唱え、同僚によれば、それは何時でももっともらしいものだったという。ただし、これらの情報が一箇所に集約されることはなかった。また彼の記事は、その多くが海外を舞台にしているために、でっち上げや部分的な内容操作は即座に見破られなかった。このチェック機能部分での別の防止策の必要性とその明確化については、Relotius事件全体を調査するSPIEGELの委員会が検討する。出典: SPIEGEL ONLINE
2021年04月07日
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2019 年 11 月 8 日 「これはメディア業界全体に関わる事件である。」 SPIEGEL 誌の元記者で、記事捏造事件を起こした #Claas Relotius。彼に関する Wikipedia の項目が書き換えられ、事実に反する内容になっていたことが分かった。上記鍵括弧中の引用は、Relotius の捏造スキャンダルが公になった直後に、Springer 社取締役 Mathias Doepfner が捏造事件の全容解明の重要性について述べた言葉である。 ——— Wikipedia の Claas Relotius に関する記載内容を歪曲しようとする行為が、数か月にわたり行われていたという報道があった。この企ては失敗に終わったというものの、そこでは偽造された WELT 紙の新聞記事の掲載というようなことまで行われていたという。 記事捏造事件を起こした SPIEGEL の元記者 Claas Relotius に関する Wikipedia の項目で不正な書き換えが行われていたとスイスの新聞 Tages-Anzeigers 紙 が伝えた。Wikipedia はユーザーの誰もが参加できるインターネット百科事典だ。この Relotius の捏造行為を矮小化しようとする試みは、書き換えの根拠となる情報源の提示を求めた Wikipedia の熱心な参加者や管理者による対応により終息した。 同紙の報道によれば、Wikipedia 上で元 SPIEGEL 記者の印象を覆そうとしたこの企みには複数の人物が関与しており、いくつかの異なるユーザー名のもとで書き換えが行われていたという。ただし、Relotius に好都合な内容への書き換えを着々と進めたのが、同一人物の仕業である可能性についてはまだ分っていない。 一例を挙げよう。Relotius のキューバに関するルポにある男性が登場する。彼は実在しないとみられていたが、Wikipedia で編集に参加した一人は、彼が実在する証拠を見つけたと主張したという。しかし、この証拠はニセモノであった。また、Tages-Anzeiger の調べによれば、大きな脚色も散見され、例えば Relotius は「現代の Karl May」になったなどと書かれている箇所もあった。 Wikipedia における Relotius に関する記事に脚色を加えることが一体誰のために行われたのかははっきりしていない。しかし、その影響はとても大きかった。その記事は 64 万回以上も検索され、閲覧回数もとても多かった。2018 年 12月23日、つまり Relotius の捏造事件公表の数日後に、ユーザーの一人は次のように書いている。「この記事は頻繁に閲覧されています。良い記事を書く励みになります」。しかし、それは良い記事とは正反対のものであった。 この Wikipedia における歪曲行為は、WELT 紙メディア欄のでっち上げなど、さらに悪質なものへと展開した。この本物にそっくりのWELT 紙の紙面は、かつての Relotius の上司が Juan Moreno の著書に対して法的措置をとろうとしていることを伝えている。Moreno は Relotius が SPIEGEL で起こした捏造事件を暴いた人物だ。Moreno の著書にはインチキがあるというのが、そのでっち上げニュースの内容だ。 「いったい君はどこでこのスクリーンショットを撮ったのか、説明してもらえないだろうか」と 9 月 22 日に 「Altersegler」というユーザーが、この疑わしい WELT 紙紙面のスクリーンショットを撮ったユーザーに質問した。数時間後「Snapperl」という名のユーザーが回答した。「Alstersegler さん、悪いけれども、それは価値のある質問だとは思えないし、考えすぎなんじゃありませんか?そのスクリーンショットは私のタブレット端末で撮りました。君たちがそれをどうしようとも、それは全く君たちの自由ですよ!」と。実際には、スクリーンショットの紙面は存在せず、ニュースも実在しないニセモノであった。 本物の Relotius は、実際に弁護士を通じて Moreno の著書に対する法的手段をとっている。WELT 紙によれば、彼はその本の中には 20 もの事実に反している箇所があると主張しているが、そのほとんどは、取るに足らないものである。Claas Relotius の弁護士である Christian Schertz 氏は、メディア関連法の専門家だ。WELT 紙は彼に、Relotius 側からの訴えと Wikipedia 記事書き換え問題との間の関連性の有無について知っていることがあるかと質問をしたが、答えは得られてていない。 他方、Tages-Anzeiger 紙の調査によれば、調べた 8 つのユーザーアカウントのうち 5 つが同一のコンピューターから操作されていることがわかった。現在これらのユーザーアカウントは解除されている。ひとりのユーザーは コンピューターの IP アドレスをさらしてしまっていた。その場所は北ドイツの一地方で、Relotius の出身地でもある。ある Wikipedia の参加者の目にも、Relotius 支持者のこの入念なやり方は異様に映った。彼は次のように述べている。「PreRap と Snapperl のここでのやり口は、かつての Relotius のやり方そのもののように見えます。」 出典: Welt.de
2020年01月27日
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最後は『Jaegers Grenze』だ。この記事で #Claas Relotius のジャーナリスト⼈⽣は終わった。前後の出来事については⻑くも短くも説明することができるが、重要なのはその結末である。今皆さんがお読みのこの記事を執筆し、それが SPIEGEL に掲載されるまでの間に、それまでずっと #Relotius が誰にも邪魔されずにやってきた悪事が終わったのだ。Juan Moreno はどんな抵抗にも負けず、決して諦めず、調査を続け、前進し、そして⾃⾝で収集した事実関係を信じた。それは簡単なことではなかったはずだ。都合の悪い真実を⾒つけた内部告発者がなかなか信じてもらえないように、Moreno も初めは壁にぶつかった。告発された側には、疑惑や⾮難の余地があるようには思われなかったからだ。 『Jaegers Grenze』が記事になるまでの出来事は、それ⾃体が⼩さな物語だ。Relotius がアメリカで、Moreno が⽶墨国境の南側で取材をしていた期間中、すでに⼆⼈の⾜並みは⼤きく乱れていた。この乱れは、その後の Moreno の告発が真剣に受け⽌めらず、事件が速やかに明るみに出なかった原因でもあった。11 ⽉になっても Relotius が懸命だったのは、⾃⾝の悪事を全⼒で覆い隠そうとしていたからであった。彼はメールで Facebook上で撮ったスクリーンショットを送り、⼈を騙そうとした。しかし最終的には、彼は Moreno が集めた証拠を握りつぶすことはできなかった。 まず単純なことだが、『Jaegers Grenze』に登場する⼈物名、経歴、⾝元について問題があった。次に、もはや単純とは呼べない問題、つまり、Relotius が⾃警団のひとりと過ごした⽇々について説明した⼤部分が、調査報道記者 Shane Bauer が Mother-Jones 誌に寄稿した⻑編ルポに酷似していることである。もちろん、まったく異なる部分も多い。 しかし、SPIEGEL に登場する Jaeger、Pain、Ghost、Spartan という⼈物名は、Mother-Jones 誌に登場する中⼼⼈物の名前と同じである。これは全くの偶然なのだろうか。さらに、SPIEGEL に載った迷彩服の男が Chris Jaeger と名乗っているのはなぜか。彼は Chris Maloof という名で、2016 年末に同じ写真が New York Times に載った男性ではないのか。⼀体なにが起こっているのか。 Relotius は原稿を完成させ『Showdown』という仮のタイトルを付けたが、Moreno は全く気に⼊らなかった。出稿の⽇の晩、Moreno はレイアウトが終わった記事に使われている写真をみてすぐに気が付いた。記事中のある写真に Tim Foley が映っている。アリゾナの⾃警団のリーダーである彼の名前は、この記事の⽂⾯には登場していないのに。何よりも Moreno が驚いたのは、潜⼊取材をした⾃警団が写真やビデオに撮られることを拒否したと Relotius が強く⾔い張ったからだ。しかしこの Foley という男は有名⼈である。賞を獲得したドキュメンタリー映画『Cartel Land』に登場しているし、さらに⽣活のために記者や旅⾏者から⼿数料をとり国境沿いを案内し、⾃警団の世界を体験させたりもしている。いったい何なんだ。 Moreno は 1 通のメールを校閲部に送り 、以上の件について問い合わせた。同僚にも捏造の疑いについてそれとなく話してみたが、Moreno にはまだ確証がなかった。彼はインターネットで⼿掛かりを探した。翌⽇の 11⽉15 ⽇⽊曜⽇は印刷の⽇だった。彼は校閲者のひとりと電話で話した。ふたりが記事について意⾒を交わしたとき、Moreno は⾃分が疑っていることを話した。記事の登場⼈物が以前にも他のメディアに登場している事実について話したが、意図的な捏造を認めるには⾄らず、記事掲載中⽌の可能性を正当化することはできなかった。 ⾦曜⽇の晩、記事は翌⽇出荷される最新号の SPIEGEL に印刷されていた。Moreno は彼の上⻑であり社会部⻑の Matthias Geyer に会い、捏造を疑っていると彼に打ち明けた。Geyer は Moreno に、告発の内容を⽂⾯にするよう指⽰した。⽇曜⽇、まず Moreno は Foley の写真と記事の他の部分に関し質問を三つにまとめて提出した。そして質問は Relotius に突き付けられた。彼は⾒事に、⼿抜かりなく⾃⾝を弁護した。Relotius は告発に対しては堂々と対応し、また⾃分の記事中には不完全な箇所もあると認めつつ巧妙に対応すると、Moreno こそがトラブルメーカーではないかと思われるようになってしまった。その時の Moreno は、⾃らに落ち度はないのに、深い⾕間を歩かされていたようなものだ。 Moreno はアメリカに調査の旅にでて、Relotius に反論するためにもっと多くの資料を集めようとした。それは⾃分の⽴場を守るためであった。彼を⾏動に移させたのは、⾃分⾃⾝が多くの部分で確証が持てないような記事に⾃分の名前が載っていることを考えると、我慢できなかったからだ。Moreno の最初の仕事は、SPIEGEL のスポーツ⾯に寄稿した記事だった。現在世界で最も稼いでいるスポーツ選⼿であるボクサー Floyd Mayweather に関するものだった。この取材に同⾏したのはミュンヘン出⾝のカメラマン Mirco Taliercioだ。彼は Mayweather の取材のアレンジも⾏っており、Moreno と Taliercio は良い仲間であった。 そのようなこともあり、Moreno は彼に 2 回⽬の秘密の取材旅⾏ に同⾏してもらった。Moreno は Arizona Border Recon ⾃警団のリーダー Tim Foley に会いたかった。さらに、SPEGELで Jaeger と呼ばれた迷彩服の男 Chris Maloof を⾒つけ出したかった。この⼆⼈は SPEGEL の記事に登場しているのだから、正しいことが⾏われていれば、Relotius は両名と連絡を取っていたはずである。Relotius は Jaeger もしくは Maloof と呼ばれる男と数⽇間⼀緒に、昼夜を砂漠で過ごしたという。そのアメリカ⼈に会った記憶がないとしたら、あまりにも不⾃然だ。Moreno は Foley へのコンタクトに成功した。Foley を通じて Maloof に会うことも可能となった。 Moreno とカメラマンの Taliercio は Las Vegas から 770 キロ先にある Arizona 州の Arivaca へ⾃動⾞で向かった。そこでは、⾃警団員の Foley (本名 Nailer) が 200 ドルと交換で彼らと会うために待っていた。Moreno は Foley に Relotius の写真を⾒せた。その様⼦を撮影したビデオがある。ずっとRelotius のことを信頼できるフレンドリーな奴だと思ってたかもしれない⼈々にとってはショッキングな映像だ。Foley は、これまでにこのドイツ⼈に会ったことはないと明⾔した。 そのシーンは数⽇後、別の場所で、別の⼈物の⽴会のもとで再⽣された。12 ⽉4 ⽇のことであった。その前⽇、Relotius は Janet Foley からくだんのメールを受信していた。『Ein Kinderspiel』で報道記者賞の最優秀賞を受賞したのもその⽇だった。SPIEGEL の記事で Chris Jaeger と名付けられた彼は、ビデオの中では Chris Maloof と名乗った。彼は証拠として⾝分証を提⽰した。落ち着き、リラックスした様⼦だった。 Relotius の写真を⾒せられた彼は、Foley 以上に確信をもって⾔った。 「これまでこの男に会ったことはない」 それなのに Relotius は断⽚的にも彼のことを書いたのだ。例えば、彼は両⼿の甲に 「Strength」 や「Pride」という⾔葉の⼊れ墨をしていたと。しかし、Maloof の両⼿に⼊れ墨はなかった。Maloof は Jaeger でもなかった。Jaeger という⼈物は存在しないのだ。Relotius は、Foley にも Maloof にも会ってはいないのだ。Relotius は何の関係もない素材を並べてみただけだ。まさしくこれが Relotius のやり⽅なのだ。 数々の写真、Facebook の投稿や YouTube の利⽤、昔の新聞記事や無名の Blog からの借⽤、そして断⽚、破⽚、⼩⽚、クズを使って、Relotius は遊び好きな⼩物の神様のように彼の創造物をこしらえたのだ。Chris Jaeger、Gayle Gladdis、Fergus Falls の Neil Becke、Kirkuk の Nadim と Khalid、アレッポの Ahmed と Alin、グアンタナモの Mohammed Bwasir 、彼らはみな実在せず、Claas Relotius という⼈物が紙の上にだけ⽣み出したのだ。Relotius はこの登場⼈物たちを歌わせたり、泣かせたり、祈らせたりした。そして彼が望めば、『Jaegers Grenze』で書いたように、主⼈公に⾃動⼩銃を持たせ、闇夜に向けて鋭い弾丸をためらいなく撃たせた。それは Relotius のお伽噺に終⽌符を打つにはピッタリの結末だった。 出典: SPIEGEL ONLINE
2019年03月30日
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Claas Relotius のジャーナリストとしての最後の年、2018 年 3 ⽉に『Die letzte Zeugin』が掲載された。あるアメリカ⼈⼥性についての極めて興味深いストーリーだ。法律により死刑執⾏には⼀般市⺠の⽴会が定められており、彼⼥は自らその役割を務めている。彼⼥は死刑に賛成しており、この役割を通じて国家の役に⽴つことが義務だと考えている。さらに Relotius は彼⼥にドラマチックな個⼈的な体験を付け加えて、彼⼥の所作を細部まで伝えている。Relotius は彼⼥に同⾏したと主張する。ストーリ全体を通して彼は彼⼥のそばにピッタリと付き添っているようだ。この様⼦はすでに記事冒頭部分に⾒られる。彼⼥が Missouri 州 Joblin の⾃宅を出る場⾯である。 「(彼⼥は) ⾒知らぬ男の死を⾒届けるのだ。彼⼥はドアをしっかりと閉め、カギを三度回し、そして⼈気のない道を歩いて、停留所へと向かった。彼⼥は、Texas 州 Huntsville ⾏き Greyhound バスの乗⾞券を 141 ドルで購⼊した。往復切符だ」 あっというまに感情移⼊させるような⼈物描写であり、なかなかの書きっぷりだ。この記者は明らかに多くの時間を登場⼈物と共有にしたかのようにみえる。またよくあることだが、彼⼥は本名が新聞に出ることを望まなかった。その気持ちは理解できる。そこで Relotius は彼⼥に Gayle Gladdis という名を与えた。 「彼⼥は前⽅右側の席に座った。バスの⻑旅で彼⼥はよく気分が悪くなるという」 または: 「Gladdis は深く息を吸い込み、握った両⼿を膝に押し付けると、指の関節が⽩く浮き上がった」 または: 「ブラウスと⼗字架のネックレスを⾝に着けた彼⼥は、聖書のページをめくった。頻繁に読むらしく、聖書の表紙は⻩⾊くなり、ページにはしわが寄っている。彼⼥はレビ記第 24 章を開いた。そこには次のように書かれていた『かりそめにも⼈を打ち殺す者は、必ず殺される』」 まったく完璧である。ただ、そこに事実はない。どれもこれもウソだ。Claas Relotius はアメリカで刑場に⾏く⼥性に同⾏などしていない。⼀緒にバスにも乗っていないし、レビ記だって読んでいない。彼は 40,273 ⽂字を使って捏造記事を書いたのだ。2018 年第 10 号の 5 ページと 1 段分、58 ページから 63 ページまで。捏造記者の間でも、これは⼤記録だと⾔われるだろう。 彼のやり⽅は時間の経過ととも悪質になっていったのだろうか。Relotius はそのようには感じていないと⾔う。彼は記者として働き始めた頃からずっと変わらない、彼の思考のメカニズムについて説明した。Relotius いわく、調査が進み取材したい⼈物を⾒つけた場合には「普通の」記者のように働いたし、素材に⼿を加えたり事実を曲げたりすることはなかった。しかし、新たな事実が発覚した今、彼のこの説明も疑われて当然だろう。 ⾏き詰まり、先に進めなくなり、そしてストーリーが思い浮かばなくなると、話を捏造しはじめるのだと Relotius は⾔う。そして彼は虚偽を含む⽂章を書き、それをそのまま活かした。彼⾃⾝も⾃分のやっていることが⽩々しくて⾺⿅げているように感じることがあり、執筆中の⾃分⾃⾝に語りかけたという。 「おい。お前、正気か︖絶対逃げ切れないぞ︕」 Relotius と話して受ける印象は、彼の世界が崩れ落ちてから、⾃分⾃⾝をメタファーで表現する術を探しているような感じだ。しかし彼はまだそれを⾒つけていないようだ。 この数年間、彼は捏造記事を書いて楽しんでいたのだろうか。 巧みな記事の出だし、美しく描写された場⾯、描かれた細部のすべてがすっかり偽物であっても、彼はそれを喜んでいたのか。⽊曜⽇にこの質問をしたとき、彼は⾸を横に振った。Relotius は⾔う。捏造記事を書く⾃分⾃⾝に対して不快感を感じていた。申し訳ないと思うし、やってしまったことすべてをとても恥じている。そして彼の周囲に対してやってしまったことに、やっと気が付いたと。Claas Relotius は⾔う。何かが上⼿くいかないし、それをどうにかしなければならないと。 「私は病んでいる。助けが必要なのです」 さらに彼は 『Ein Kinderspiel』を書いた。これは彼の最後の仕事となった。3 週間前の⽉曜⽇、12 ⽉3 ⽇にこの記事は、2018 年ドイツ報道記者賞の最優秀賞を獲得した。2018 年 6 ⽉ 23 ⽇発⾏の SPIEGEL に掲載されたこの記事では、シリアの Daraa 市内で壁に反アサド的描写の落書きをした若者について書かれており、⼤衆抗議運動勃発の原因がこの落書きにある可能性を⽰唆している。ただし残念ながら、多くの Relotius のでっち上げと同様に、これも捏造記事にほかならない。何が事実で何が幻想なのかを切り分けることは難しい。Relotius が⼀体誰に何度会いどの程度密接な関係になれたのか、どのようにして通訳、翻訳がなされたのか、そして携帯電話での通信は技術的に可能であったのか - これらの 質問に対して答えることも難しい。 Relotius は羞恥⼼からか、細部について話したがらなかった。携帯電話のカメラを⼿に廃墟の街を巡った事実はないと、彼は認めた。また、テキストをドラマのように演出した (地の⽂で説明すべき部分が偽のインタビューに置き換えられている) ことを認めた。聞き取り記録や登場⼈物の⾔葉が取材成果としては乏しかったため、Relotius はインタビューを捏造したり、ごく少ないインタビューの記録からでっち上げたりしていたのだ。⽊曜⽇に彼は記事の捏造箇所を明かしたが、特定箇所ではなくパラグラフを⼤雑把に指し⽰しただけだった。 出典: SPIEGEL ONLINE
2019年03月30日
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『Blind Date』は、イスラム国の戦⼠ Denis Cuspert に恋をした FBI の通訳者についてのストーリーだ。この記事では虚偽というほどのことはやっていないと Relotius は⾔う。しかしながら、そもそもテーマがウソっぽくはないか。記事の詳細にも疑問が残る。しかし、現段階ではまだ何も明らかになっていない。調査は Relotius の証⾔を得てからさらに進められる。⼀⽅、SPIEGEL に掲載されたアメリカン フットボールのスター選⼿ Colin Kaepernick に関する記事の⼤部分が捏造であるというのには根拠がある。彼は国歌⻫唱の際に⽚膝をつき、アメリカの⽇常的な⼈種差別に対して抗議の意思を⽰したところ、解雇されてしまった選⼿だ。 Relotius が彼について書いた記事『Touchdown』が 2017 年 10 ⽉ に SPIEGEL に掲載された頃、Kaepernick はすでに世界中で憧れのプレーヤーになっていた。Relotius はこの⼈物にも会いには⾏っていない。しかし彼はまたしても、 「どうにかして作り出そう」 としていた。Relotius は粘り強くKaepernick を取材しようとしなかった。そうする代わりに Relotius は空想した ー ⼊ることができない場所、⽴ち⼊りが許可されていない体育館、そして Kaepernick の両親との電話インタビューを。記事冒頭の場⾯は、まるで Relotius が最前列に座っているかのように書かれているが、実際には彼はそこにはいない。 「(Kaepernick は、) ⽬の前で椅⼦座っている 30 ⼈もの黒人の少年少⼥たちの顔を眺めた。会得した真理を語ることを躊躇するかのように、しばらくの間動きを⽌めていた」 そしてその後すぐ、不思議なことに Relotius は Kaepernick の両親と電話で話している。 「ご両親は電話越しに息⼦について語ることをためらっていた。息⼦に迷惑がかからないかと気にしていたのだ。 しかし同時に、⼈々が息⼦を理解してくれることを望んでいた。声を震わせながら、また笑いながら、⺟は彼の息⼦の話をしてくれた」 その後も両親との電話越しの会話は記事中に現れる、実際にはこの電話インタビューは⾏われていなかった。Keapernick の弁護⼠に電⼦メールで、SPIEGEL の記事に何か不⼀致な点がないかと問い合わすと、彼は簡潔に回答してきた。「何の根拠もない」と。⽊曜⽇にこの弁護⼠からの回答を突き付けられた Relotius は、両親と話した事実はないことを認めた。これを認める少し前までは、Relotius は全く逆のことを⾔っていたのに。 出典: SPIEGEL ONLINE
2019年03月30日
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それから 1 か⽉後の 2017 年 3 ⽉末、Minnesota 州 Fergus Falls の⽇常を書いた『In einer kleinen Stadt』が SPIEGEL に掲載された。この企画はハンブルクの編集部で提案されたもので、アメリカ⼤統領に就任したトランプの最初の数か⽉をヨーロッパの視点から⾟辣に描くだけではなく、偉⼤なるドナルドに投票したであろうアメリカの⽚⽥舎に住む⼈々の視点からも観察してみようというものだ。Relotius が Fergus Falls に部屋を借り、現地の⼈々と知り合いになり、話を聞きそして⽇常の姿を記録することで、ほんの少しだけでもアメリカ⼈をよりよく理解しようという計画だった。 取材中にはよくあることだが、計画はうまく進まなかった。Relotius は取材のとっかかりを得るための⼈物を⾒つけ出すことができず、記事のテーマに迫れていなかった。彼は編集部や同僚にメールを書いて、⼋⽅ふさがりで先に進められないことを伝えた。記事になりそうなことはなく、何もみつからない。記者であれば誰でもよくある状況に陥ってしまったのだ。このような場合には、判断を早くしなければならない。取材を中⽌するのか、進めるのか。仕切りなおすのか、やめておくか。違う視点から試してみるか、それとも帰国するか。 このような場合、SPIEGEL は担当記者に判断を任せている。Relotius のような⼈物でない限り、取材記事が上⼿くまとまらなかったからといって責められる⼼配をする必要はない。記者であれば、そのような事態になることや調査が滞ること、またテーマはよいのだが⾯⽩い記事にならないことがあるのは分かっている。資⾦をうまく利⽤できず⾜りなくなってしまうこともある。これらはリスクなのだ。 ただし、Relotius はこれを受け⼊れない。Fergus Falls について書くことを中⽌したからといって、責めを負うことはないと分かっていたと Relotius は⾔う。 先週 Relotius は次のように語った。 「普通の⼈だったら、『編集⻑、ここでの取材はうまくいきません。⾏き詰ってしまったようです。記事にすることはできません』と⾔うと私は思います」。 しかし Relotius は普通の⼈ではなかったようだ。Relotius は続けた。「私はどうにかしたいと考えてしまいます。どうにかして作り出したい、という強い思いが⽣まれて、それに駆り⽴てられます。でも本当は、誰にもどうしようもないのです。そして捏造された記事が⽣まれるのです」 他の「誰」のことでもなく、彼は⾃らのことを語ったのだった。 Fergus Falls の記事で Relotius は、ずうずうしくも現代の歴史的事実を歪曲した。記事の冒頭で読者を強く引きつけようと、Fergus Falls の街の⼊り⼝に⽴つ歓迎の看板のすぐ横に置かれた 2 枚⽬の看板を次のように描写した。 「(⼀枚⽬の看 板の) 半分ほどの⾼さではあったが、⾒落としようがなかった。凍結した地⾯に差し込まれた分厚い⽊製の看板には、『メキシコ⼈ ⽴ち⼊り禁⽌』 と⼤きく書き殴られていた」 記事全体に基調となる雰囲気を与えたこの看板は実在せず、筆者が頭の中で作り出したものに過ぎない。彼はためらうことなく、このでっち上げを事実として何⼗万⼈もの読者に伝えたのだ。Fergus Falls の住⺠を⾺⿅にしたも同然だ。Relotius は、分別ある⼤⼈が何の抗議もしてこないと侮っているのだ。いくつか例外もあるが、Relotius は⾃分の都合に合わせて、Fergus Falls の住⺠のプロフィールを書き換えた。さらに彼は⼤胆にも次のような、極めて不快なウソをついている。John F. Kennedy ⾼校の⽣徒がアメリカンドリームを代表する⼈々の絵を描くことになった。「⼥性を描いた⽣徒は誰ひとりいなかった。ひとつのクラスが Barack Obama を、⼆つのクラスがロックフェラーを描いた。ほとんどのクラスは Donald Trump を描いた」。これはすべてウソであり、まったくのでっち上げなのだ。 Relotius は⾃分の作り話を、ついには真実だと信じてしまったのだろうか。彼はそれを否定している。⼀⽅、作り話で⼈を騙したことは分かっていると⾔う。そして Relotius が⾔ったことではないが、彼のような類の⼈間はウソの話をこしらえるために、史上最⼤と⽬されるツールを⾃由⾃在に使っている。今⽇、Facebook 、YouTube、 Google、 Wikipedia などを使い、地球上のどこかにある⼩さな事実を組み上げれば、本当に実在するかのような世界や社会を創り出すことができてしまう。Relotius はこれらの素材を記事のテーマや中⼼⼈物に合わせて組みなおし、それから現場へ赴きほんの⼿短に⼈に会い、そして画家がパレットの上でするかのようにすべての素材に⾊付けをして、それを混ぜ合わせて現実社会に対する彼独自の⾒⽅を創り出してしまったのだ。 出典: SPIEGEL ONLINE
2019年03月24日
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2017 年 2 ⽉には SPIEGEL に『Loewenjungen』 が掲載された。「イスラム国」の⼿先が 12 歳と13 歳の兄弟⼆⼈を洗脳し、⾃爆テロ要員として Kirkuk に送り出したという深刻な内容の記事で、ジャーナリスト界を超えて話題となった。このような素材からは良質の記事が⽣まれることがある。 このような記事では近年の出来事が読みやすい形にまとめられているため、現代の歴史的事実を⼤雑把に掴めるようになる。すると、ある瞬間に全体像が⽬の前に⾒えてくる。そのような素材を得た記者がドラマ的演出の才能を持つと、おとぎ話のように⻩⾦を紡ぎだすことが可能となる。Relotius にはその才能があった。彼は素材そのものを捏造していたのだ。そして近年の中でも優秀な記事を書き上げ、それは傑作だと⾔われた。Peter Scholl-Latour 賞のプレゼンターであり新聞業界で⻑く活躍してきた Paul-Josef Raue⽒は、記事を読んだ際にジャーナリストであることを誇りに思ったと述べている。 「ジャーナリズム界はこれ以上のルポルタージュを得られるのだろうか」。 Claas Relotiusはあらゆる⼈々を騙した。編集⻑、部⾨⻑、校閲部、同僚、ジャーナリズムを学ぶ学⽣、友⼈たち。司教、起業家、⼈権活動家、メディア関係者、政治家、⽀援者など審査員に選ばれた様々な⼈々が、彼の書くストーリーに夢中になったことに不思議はない。彼の記事は⽴派で、⼼を揺さぶるものだったのだ。しかし、実際はこうだ。『Loewenjungen』で Relotius は Nadim とじっくりと話し込んだことになっている。⾃爆テロ要員にはならなかったこの少年は実在するものの、Relotius がこの少年と⻑く会話した事実はない。また Relotius は、「イスラム国」 が少年に教え込んだとされるコーランの⾔葉を利用している。 『Loewenjungen』 は Relotius の捏造の例としては最悪である。多くの場⾯で物語を⽀える登場⼈物の 医師は存在しない。さらに、記事中のコーランからの引⽤部分は次のとおりだ。 「Nadim はこれらの章句を決して忘れたりはしない。彼は独房の中に座り、恥ずかしがる⼦供が詩歌を朗読するように、床に目線を落とし、息を切らすことなく次々と暗唱していく。第 9 章 41 節︓あなた⽅は奮起して、軽快に、慎重に動き出しなさい。そしてあなた⽅の財産と⽣命をささげて、アラーのために奮闘努⼒しなさい」 章から章へと暗唱は繰り返されるが、こんなことは筆者の頭の中でだけ起きているに過ぎないのだ。それでも Relotius は、新たに賞を獲得するような記事を再び書いている。 出典: SPIEGEL ONLINE
2019年03月21日
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時折 Relotius は⼤きな仕事をした。2016 年 4 ⽉ の 『Nummer 440』 は、グアンタナモに不当に収容されたイエメン⼈に関するセンセーショナルな記事だ。この⼈物は、14 年間にわたる暴⾏と隔離により、ついには解放を求める気持ちを失ってしまったという。それからほんの 3 か⽉後の 7 ⽉には、賞も獲得した Relotius の代表作である 『Koenigskinder』 が SPIEGEL に掲載された。この記事は、トルコで⼦供の奴隷になってしまったアレッポの⼆⼈の孤児について伝えている。 『Nummer 440』 には問題となる虚偽が含まれているが、『Koenigskinder』 には嘘がないと Relotius は⾔う。しかし、『Koenigskinder』 は次のように始まる。 「今年のある夏の⽇ことだった。早朝、Alinという名の 13 歳の少⼥は、眠たそうな⽬で Mersin 市内のまだ薄暗い 通りを歩きながら、ある歌を⼝ずさんでいた」 少⼥は歌っている ― Relotius の⽂章中で歌が歌われるところでは、いつものパターンどおり、お伽話が始まるのだ。今やこれは明らかな事実だが、⽇々の編集作業でこのパターンに気が付くことは容易ではないだろう。ひとつの記事の寄稿から、次までの間には、数か⽉時間が空くこともあるのだから。『Koenigskinder』 は続く。 「サンダルをパタパタとさせながら少⼥は、荒廃した家屋の前、睡眠中の⽝、消えた街路灯のそばを歩いて⼯場街を通り抜けた。彼⼥が⼝ずさむ歌は、ある⼆⼈の⼦供の物語だ。⼈⽣に⾒放された⼦供たちが、⼤きな困難を耐え抜き救済されるという内容だ」 これを美しいと思う⼈も、キッチュと感じる⼈もいるだろう。はたしてこのような童謡がシリアに存在するのかと尋ねることもできるだろう。しかし、たとえこの歌が存在しなかったとしても、 記者の捏造を証明することは難しかっただろう。Relotius が弟の Ahmed と出会った時にはカメラマンが同⾏していた。つまりそこには第三者証⼈がいたことになる。他⽅、Alin の写真を撮影したのは Relotius ⾃⾝であり、その時⼆⼈にはカメラマンも含めて同⾏者は誰もいなかった。だからと⾔って、それだけで捏造だと疑うことができるだろうか。Relotius は少⼥と⼀緒に、少⼥の働く地下の縫製⼯場を訪れた。そこへは許可なしで簡単に出⼊りができるかのように描かれている。Relotius は少⼥と⼀緒に 15 段の階段を下り、汗臭い地下に降りた。そこには 「15段」 とはっきり書いてある。Relotius は詳細な数値が⽂章の信ぴょう性を⾼めることを学んでいたのだ。 しかし、もしかしたらそれは事実だったのかもしれない。もしかしたら Relotius は⼀⽅の⼦供だけではなく、もう⼀⽅の⼦供にも同⾏したのかもしれないし、少⼥の歌の内容はそのとおりだったのかもしれない。そしてやましいところのない取材記録から、この記事が書かれたのかもしれない。しかし、どうしたって Relotius のことなんか信⽤できない。グアンタナモの収監者 Mohammed Bwasir の⼼境の変化をでっち上げたと⽩状した彼をどうして信じられようか。 Relotius は、彼⾃⾝の⼒では出来なかったことをひとつひとつ提⽰するというトリックを使って、でっち上げを巧みに隠した。記事の冒頭で次のように、はっきりと書いている。 「グアンタナモに取材に⾏っても、誰も Mohammed Bwasir には会うことも話すこともできない。しかし、彼の声 を届けられる⼈たちがいる」 Relotius によれば、それは弁護⼠であり、「イエメンにいる」兄弟であり、かつての囚⼈仲間であり、さらに収容所の報告書やリークされた秘密⽂書、個⼈の書簡などであるという。はたして Relotius はどうやってこれらの情報源に接触したのだろうか。知っている⽂書とは⼀体どれを指しているのだろうか。そして、その弁護⼠はどの程度 Relotius に協⼒したというのだろうか。 記事では、収監者がアラビア語で書いた多くの⼿紙は弁護⼠の協⼒者により翻訳され、それを Relotius が吟味し調査したと匂わせている。彼はすべての⼿紙に⽬を通したかのように要点をまとめ、記事を書いたのだ。例えば次のように。 「当初、彼からの報告には『将来』という⾔葉があちこちに書かれていた」。⼀体 Relotius が、14 年という収監期間の初めの頃、中頃、そして終わりの頃の何を知っているというのか。彼は何も知らないのだ。そして、⽊曜⽇に彼は、収監者の⼼の変化を 想像⼒に任せて書いたと⽩状した。さらに信⽤が置けないのは、彼が描写するグアンタナモ内部の様⼦だ。 「すると兵⼠たちは⾳楽を流した。彼の頭のすぐそばにある 4 本のスピーカーから Bruce Springsteenの『Born in the U.S.A.』が聞こえた」 出典: SPIEGEL ONLINE
2019年03月21日
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⽊曜⽇に Relotiusは、 『Heim in die Hoelle』 (劣悪な環境の矯正施設を扱った記事。そこに収容された少年たちは⻑年に渡り暴⼒被害を受けていた) は犠牲者、⽬撃者、訪問者を現地で取材した、調査に基づく嘘のない仕事だと⾔った。2015 年 2 ⽉に SPIEGEL に掲載された 『Gottes Diener』 も事実に基づく記事だと⾔う。この記事は、アメリカ・ミシシッピ州で堕胎を施す最後の婦⼈科医 Willie Parker の政治的姿勢を伝えている。しかしながら、Relotius の真実への向き合い⽅を知ってしまった今、この記事内容を信頼できるだろうか。ミシシッピ州には妊娠中絶⼿術をする医師は⼀⼈しかいないというのか。かつて中絶に反対していたというこの医師は、ものの⾒⽅をすっかり逆転させてしまったとでもいうのか。 物事を疑い始めると、いろいろと怪しく⾒えてくるものだ。素直に読む⼈は、ずっと気が付かない。疑いの⽬で読む⼈は、どこでもすぐに嗅ぎつける。疑う理由がないかぎり、⼈間というものは、正しさと真実に向きあっているため寛容になれる。信じがたいストーリーを真に受けてしまうことは、それが真実に⾒えてしまう限り⽌めようがない。まさにそれが、Relotius の成功を⽀えたのだった。そして今や⾸根っこを押さえられた Relotius の⾔葉を信じる者はいなくなり、彼はこの上ない惨めさを味わっている。 Relotius 記事には、⾳楽や歌詞の引⽤が頻繁に現れ、テキストの中にしっくりと溶け込み、その場⾯は完璧に仕上げられている。受刑者は洗⾯所で出し抜けにポップスを歌いだし、迷い⼦は暗い道を歩きながら悲しい歌をくちずさむ。⾳楽はストーリーに連想の余地を与え、感性に強烈に訴えて、読者の想像⼒を膨らませる。すると、⽂字で書かれた記事は映画のように感じられ始める。ジャーナリストの表彰で使われる常套句のように頭の中で映画が始まるのだ。⾃分の記事に向けられたこの褒め⾔葉を、Relotius は幾度となく聞いてきた。ただし、この映画館ではドキュメンタリーの上映だけが許されるはずだ。それなのに、彼は真逆を選んだ。⽂学や映画とは異なり、ジャーナリズムは最初から最後まで事実に合致しなければならないのに。 『Gottes Diener』では、 妊娠中絶医院内の廊下で、CD プレーヤーから Tom Petty の 「I Won't Back Down」 が何度も何度も、そして静かに流れているらしい。歌詞がストーリーにあまりにも完璧にハマっているため、読後に読者は、もしこれが事実であれば出来過ぎだと感じるかもしれない。⽊曜⽇、不正の事実を掴まれた Relotius が 荷物をまとめ始めた時、彼は⾳楽の使い⽅に対する疑義を認めた。 そのとおり、ストーリーの中で歌が歌われている場合ほとんどはでっち上げなのだ。 しかし、まだ疑わしい点がある。CD プレーヤーから⼩さな⾳で⾳楽が流れていたのも嘘なのか。ラジオから場⾯に ぴったりの歌が流れていたのも嘘なのか。 編集者や部⾨⻑のもとに上記のような記事が提出されれば、出来の良い仕事を喜び、まず怪しいと疑ったりはしない。 そこではプロフェッショナルな基準、例えば、記事の構成、適切な⾔葉が相応の印象を与えているか、などが評価される。書かれた内容の真偽を判断しているわけではない。そしてこの Relotius という男は⼤した苦労もせずに抜群の記事を何度も書き上げ、⼤きな喜びをもたらしていたのである。一方、Relotius はとても頼れる同僚であった。彼は⼤きなテーマばかりを扱っていた訳ではない。週単位の仕事にも熱⼼に取り組み、そこでも彼の才能は発揮された。編集業務を⽚づけながら、⼩さなインタビュー取材をこなし、『Eine Meldung und ihre Geschichte』というコラムをテンポよく書いていた。雑多なニュースの背景に深く切り込むこの週刊コラムは Relotius の担当だった。彼はこの仕事をそつなくこなした。ウイットにも富んでいた。さらに軽妙な書きっぷりだった。 1985 年⽣まれのRelotius は、良い意味で彼の同世代⼈とは異なっていた。SPIEGEL にやって来るインターンは、往々にして⾃信満々で⾃分の意⾒を前⾯に押し出してくる。⼀⽅ Relotius は謙虚で、ひょろりと背が⾼く、控えめで、礼儀正しく、親切で、少し真⾯⽬すぎる感じがあったかもしれない。⾔ってみれば、「息⼦さんが成功されてよかったですね」と声をかけたくなるような両親がいるタイプだ。どちらかといえば⼝頭で議論することが苦⼿な様⼦だったが、SPIEGEL に やって来た 2014 年の春、彼はまだ 30 歳にもなっていなかった。前途有望な新⼈フリーランス記者のひとりであった。彼⾃⾝のオフィスはまだなく、⼊館証も持っていなかった。仕事は報酬ベースで、稼ぎは悪くなかった。 当時彼はフリーのジャーナリストとして他誌にも寄稿していたが、SPIEGEL は次第に彼との関係を密にしていった。すぐに彼には前払い分の報酬が⽀払われるようになり、そして彼は書いた。所属部⾨の仲間との共同作業に協⼒し、⼩さな報道記事をこなし、仕事は期待どおりの品質で仕上げられ、さらに学ぶスピードも速かった。彼は他者からの指摘があれば喜んで聞き⼊れた。受けた改善提案はしっかりと理解し、部⾨⻑からアドバイスがあれば、それを実⾏した。彼⾃⾝の記事や同僚の記事につい ⼀緒に話し合った。研修中の新しいインターンに⼿を貸したこともある。彼は編集部の⼈気者だった。 出典: SPIEGEL ONLINE
2019年03月21日
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執筆者として、共同執筆者として #Relotius は SPIEGEL に 55 本の記事を寄稿してきた。そのうちの 3 本は SPIEGEL International で英語に翻訳され、18 本はウェブサイト上にも配信された。Relotius は 3 度 SPIEGEL ONLINE に記事を書き、 さらにジャーナリストとしての 10 年から 11 年の間に彼は Cicero、Neuen Zuercher Zeitung am Sonntag、Financial Times Deutschland、taz、Welt、SZ-Magazin、Weltwoche、ZEIT online、ZEIT Wissen、Frankfurter Allgemeinen Sonntagszeitung にも寄稿している。また Relotius の経歴によれば、イギリスの Guardian にも書いている。しかし、それを証明する記録は SPIEGEL では⾒つかっていない。 嘘の引⽤をされたり、⼈⽣の細部を捏造されてしまった⽅々、でっち上げのシーンや架空の場所など実在しないものと関連付けられて Claas Relotius の記事に登場してしまったかもしれない⽅々など、本誌 SPIEGEL はすべての⼈々に対してお詫びを申し上げる 。さらに本誌編集部は、読者各位、同業の同僚諸⽒、各賞の選考委員会ならびに選考委員各位、ジャーナリズム学校、Rudolf Augstein ⽒のご家族、ビジネスパートナーとその顧客の皆様に対しても、同様にお詫びをしたい。本誌 DER SPIEGEL は社外メンバーを含む委員会を招集し、事件の解明と再発防⽌を⽬指すことになった。ただし、どんなに労を重ねても、このような事件を締め出すことはなかなか難しい。他業種と同様にジャーナリズム界も、 Heinrich von Kleist の⾔葉を借りれば、「⼈間の弱さ」からは逃れられない。そして⼈間であるジャーナリストはいつでも間違いを犯すものなのだ。 もちろん対策は必要だが、その⽅法を⾒つけることは簡単ではない。今⽇、SPIEGEL に掲載される すべてのテキストは、事実関係の正確性をチェックする校閲部において検証されている。2014 年 8 ⽉に SPIEGEL に寄稿した初めての⼤型記事 『Heim in die Hoelle』 で、Relotiusは 「Marianna 市はフロリダ北部の Tallahassee から⻄に約 1 時間のところにある」と書き、SPIEGEL の校閲部はこれを検証している。 Relotius が、その⼩さな町には「3 つの教会、2 つの狩猟協会、そして壊れかけた家々の間を⻑い⼤通りが 1 本⾛っている」と書いた内容も、インターネットのおかげで⼗分に検証が可能である。⼀⽅、記者が現地で⾏った取材の信ぴょう性についてはどうだろうか。編集部は記者を信頼し、記者の仕事はその上に成り⽴っているはずだ。確かに SPIEGEL の校閲部は記者にとっては厄介な相⼿だが、それは SPIEGEL 創業者の Rudolf Augstein が求めていたものでもある。つまり、校閲部は誤りを防ぐ⼿助けをすることで、同じように制作に携わっているのだ。ひとりの同僚が故意にインチキをすることなど、ジャーナリズムの⽇常では考えられない。真実のために、偽りがないことのために誠実に努⼒をすることだけが認められるのだ。ペテンがあってはならない。Claas Relotius のケースでは、各役割の境目が不鮮明になっていた。 出典: SPIEGEL ONLINE
2019年03月20日
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このような事実の発覚は私共の不⼿際を公表していることでもあり、編集部、校閲部、発⾏元、全従業員など SPIEGEL 関係者にとって衝撃である。同僚たちの動揺も⼤きかった。#Relotius のオフィス 09-161 号室のあった SPIEGEL 社屋 9 階では、彼の所属部⾨の従業員とリーダーたちが⾔葉を失うほど沈んだ気持ちになった。Relotius の記事に多く関わったある同僚は、今週初め、この事件は「家族の誰かが死んだようなものだ」と語った。 Relotius は、⻑年をかけて SPIEGEL が構築してきた品質管理の抜け⽳をついたのだ。組織にとってこれはかなりの痛⼿であり、即座の対応が求められている。1949 年以来、SPIEGEL の綱領に謳われている社の価値観がこれほどはっきりと傷つけられ、またそれ防げなかったことは、痛烈な出来事である。 ハンブルク市ハーフェンシティ、エリヒウスグラーベンにある SPIEGEL 本社の⼊⼝を⼊ると、SPIEGEL 創設者 Rudolf Augstein のモットーが壁に掲げられており、ジャーナリズムが⽬指すべき姿が極めて⼿短に記されている: 「Sagen, was ist. (あるがままを語れ)」。それは常に重要な使命であり、単なる銀⾊の壁飾りでも、ジャーナリスト界に昔からある⾔い伝えでもない。1949 年の綱領にある⾔葉を援⽤しつつ、「Sagen, was ist.」 とは何か説明しよう。 「SPIEGELで編集され、作成されたすべての報道記事、情報、事実関係は絶対的に正確でなければならない … SPIEGELでは、訂正が⾏われることなどあってはならない」 これは最重要事項である。職務上の義務でもある。⼀⾔⼀⾔忘れてはならない。 ゆえに Relotius の事件は SPIEGEL 70 年の歴史の中で最悪の出来事なのだ。⾃社で定めた⽬標は損なわれ、⽬指す基準は台無しになり、受け継がれてきた価値観は傷つけられてしまった。⼀体この出来事は何回起きているのか、そしてどのようにして発⽣してしまったのか、我々は検証しなければならない。⼤物のふりをしていた若い記者は⽇曜⽇に荷物をまとめた。そして⽉曜⽇で契約を打ち切った。 出典: SPIEGEL ONLINE
2019年03月15日
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『Jaegers Grenze』 を書いて #Relotius は失敗した。この記事にウソを含めたことが裏⽬に出た。なぜならこの記事には共同執筆者がいたからだ。彼は Relotius のインチキに加担せず、記事捏造の可能性を指摘し、その証拠を集めていた。その共同執筆者 Juan Moreno は、2007 年以降世界中 を取材して、SPIEGEL に寄稿している記者である。Moreno はこの記事の件で Relotius 本⼈とも、その他の関係者とも対⽴することになってしまった。そして⾃らの職を危険にさらしながら、破れかぶれになりながらも調査を進めた。彼はこれをすべて⾃費で⾏っていた。その 3、4 週間、Moreno はとても苦しんだ。当初ハンブルクの SPIEGEL 本部の同僚や上司は、彼の告発を信⽤しなかったからだ。Relotius が︖ インチキを書いたって︖ あの謙虚な Claas が︖ よりによってなぜ彼が︖ 11 ⽉下旬から 12 ⽉初旬にかけて、SPIEGEL 編集部員の⽬にはまだ、Moreno が賭けに出た悪党で、Relotius は誹謗中傷の被害者に映っていたのかもしれない。Moreno のどんな執拗な問いも、調べ上げられた証拠も、Relotius は巧妙にはぐらかした。Relotius には Moreno を不審⼈物に仕⽴てあげたり、批判に対してもっともらしく反論したりする⽅法がいくらでもあったし、保⾝のためには真実を捻じ曲げもした。しかし、それを永遠に続けることはできなかった。悪事発覚の不安から、とうとう Relotius は眠れなくなってしまったのだ。Relotius が屈したのは、先週、上⻑で社会部副部⻑の Oezlem Gezer が Relotius に説明を求めた時のことだ。彼⼥は Relotius をもはや信じることができないと直接⾔い渡した。⽊曜⽇に Relotius は、所属部⾨の部⻑と編集⻑との⾯談の場で真実を⽩状した。もっともそれは、彼の⽴場からの真実であった。 Claas Relotius 33 歳、SPIEGEL の有名記者。すでに多くの賞を獲得した同世代の間で⼈気のあるジャーナリスト。しかし、彼は記者なんかではなく、⾃分勝⼿にうまい作り話を書いていただけだった。彼の書いた記事では虚偽と真実がないまぜになっている。彼によれば、調査に基づく嘘のない記事がある⼀⽅、まったくの作り話や、引⽤を操作し事実に⼿を加えたものがあるということだ。⽊曜⽇、彼は次の⾔葉どおり告⽩した。 「次に何が起きるのかなんてどうでもよかった。失敗することに怯えていたのです」「成功を重ねるたびに、失敗 してはならないというプレッシャーがどんどん⼤きくなっていきました」 虚実のないまぜであるにもかかわらず、⼀流だと思われてしまった⼀連の記事で、Relotius は今年最も成功したジャーナリストのひとりに選ばれた。Relotius はドイツのジャーナリストに贈られる次の 4つの賞を獲得している。 Peter Scholl- Latour 賞、Konrad-Duden 賞、Kindernothilfe 賞、Katholischer Medienpris 賞 。さらに Coburger Medienpreis 賞を受賞した。 CNN の Journalist of the Year にも選出され、さらに Reemtsma Liberty Award、European Press Prize に表彰され、 Forbes の 「30歳未満の30⼈」ヨーロッパメディア部⾨ にも選ばれた。いったい彼は授賞式で贈られた賛辞をどうやって耐えぬいたのか。退場の際に羞恥⼼を感じなかったのか。 出典: SPIEGEL ONLINE
2019年03月15日
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Claas #Relotius 事件: SPIEGEL 社で発生した記事捏造事件に関する報告 記事捏造: SPIEGEL における記事捏造事件について 本誌 DER SPIEGEL の記者が多数の捏造記事を書いていたことが判明した。編集部内で浮上した疑惑を調査したところ、数⽇前に Claas Relotius に対する嫌疑が裏付けられた。彼は⾃⾝の捏造⾏為を認め、そして当社を退職した。他のメディアでも同様のケースが起きているかもしれない。 Ullrich Fichtner 2018 年 12 ⽉ 19 ⽇⽔曜⽇ 12:45 Claas Relotius のジャーナリスト⼈⽣が終わる直前に、彼は⼈⽣の栄光と失敗を同時に経験した。3 週間前の⽉曜⽇、12 ⽉ 3 ⽇の晩、SPIEGEL の記者として合計 7 年、正式な編集部員としては 1 年半の Relotius は、ベルリンでの授賞式に出席していた。2018年 ドイツ報道記者賞の選考委員会は、彼の報道記事が再び年間最優秀賞を受賞すると発表した。ある シリア⼈の若者を扱った記事で、彼は少年の時に描いた落書きが内戦を誘発したのだと信じて⽣きてきたという。選考委員は次のように称賛した。 「軽妙な筆致、濃密で有意義な内容。依拠した取材源にも不明点はない」 しかし実際には、この時はまだ誰も知らなかったのだが、取材源は不確かなものばかりだった。すべてのソースが疑わしかった。後に、その多くは作り話、捏造、虚偽であることが判明した。引⽤、場所、場⾯、実在すると思われていた登場⼈物など。これらはすべてインチキだった。 他⽅、Claas Relotius の失敗については 1 通の電⼦メールに記録されている。このメールが彼のもとに配信されたのは、 偶然にも同じ12 ⽉ 3 ⽇午前 3 時 5 分 (ドイツ時間)、ベルリンでの授賞式のほんの 17 時間前のことだった。Jan (本名 Janet) と名乗る⼥性からのもので、彼⼥はアメリカ・アリゾナ州でメキシコとの国境沿いを警備する⾃警団のメディア 担当者だ。彼⼥は Relotius に尋ねる。彼は 2 週間前に SPIEGEL に掲載された記事『Jaegers Grenze』の中でこの⾃警団を扱ったとのことだが、不可解な点がある。⼀体どのようにしてこの記事は書かれたのか。関係者の話を⼀度も聞かずに⾃警団の記事を書き上げたというのか。記者が現場を取材せずに記事を書くことを、彼⼥は不⾃然に感じていた。 出典: SPIEGEL ONLINE
2019年03月15日
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土曜日の午後に行われた「マージーサイド・ダービー」。リバプールとエバートンの対戦は0:0のドローで終了した。 チャールトンのホームで行われた試合ではチェルシーがチャールトンを1:0でくだし、マンUとのポイント差を3点縮め優勝争いに望みをつなぐ。日曜日にマンUは敵地でトテナムと対戦する。 プレミアリーグ残留を争うウィガンはポーツマスと対戦し1:0の勝利。降格圏内のチームとの差を引き離した。一方昇格組みのレディングはマンチェスター・シティを2:0でくだし、改めてチームの好調さを示した。 ミドルスブラとアーセナルの対戦は1:1の引き分けに終わった。Am fruehen Samstagnachmittag kam Liverpool im Merseyside-Derby gegen Everton nicht ueber ein 0:0 hinaus. Danach wahrten die "Blues" in Charlton (1:0) ihre Meisterschaftschance und verkuerzten den Rueckstand auf ManU, das am Sonntag bei Tottenham gastiert, zunaechst auf drei Punkte. Unten verschaffte sich Wigan (1:0 gegen Portsmouth) im Abstiegskampf Luft, waehrend Aufsteiger Reading (2:0 bei ManCity) weiter frech aufspielt. Middlesbrough und Arsenal trennten sich 1:1.See:http://www.kicker.de/fussball/intligen/startseite/artikel/361060/コメント:1. チャールトンとの試合でチェルシーのテリーが試合に復帰!2. A.コールの膝の具合はどうなのだろう?
2007年02月04日
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マンU、アウェイで勝点を取りこぼすかロンドンでは日曜日にFCアーセナル対マンチェスター・ユナイテッドの注目の一戦が行われる。この試合に先立ちウィガン・アスレティックはFCエバートンと対決する。リーグ戦6試合勝星の無いホームのウィガンは降格圏内間近。対するエバートンはこの試合に勝利しUEFAカップ出場に手が届く位置につけたいところだ。今週末に新しいホームスタジアムでアーセナルが首位のマンU勝利すれば、リーグ戦の対戦成績は2連勝となる。 ベンゲル監督のアーセナルは今シーズンの優勝にはもはや手が届かないかもしれない。しかし永遠のライバルであり優勝争いを演じるファーガソン監督に対し一泡ふかす絶好の機会だ。 マンUサイドとしては対アーセナル戦で失ったポイントを取り返すチャンス。 アウェイのオールド・トラフォードでアーセナルは0:1のスコアで勝利しており、これはマンUにとって今シーズン、ホームでの唯一の負け試合となっている。Stolpert ManU im Emirates Stadium?Bevor in der Hauptstadt am Sonntag der Kracher zwischen dem FC Arsenal und Manchester United steigt, kreuzen Wigan Athletic und der FC Everton die Klingen. Waehrend die Abstiegszone fuer die Gastgeber nach sechs Niederlagen in Folge ist bedrohlich nahe gekommen ist, wollen die "Toffees" mit einem Sieg zumindest in Sichtweite der Europacup-Startplaetze bleiben.Zum Abschluss wartet der Spieltag dann mit dem zweiten absoluten Leckerbissen auf, wenn Arsenal - erstmals im neuen Emirates Stadium - Tabellenfuehrer ManU erwartet. Auch wenn die "Gunners" mit der Vergabe der Meisterschaft in dieser Saison nichts mehr zu tun haben werden, wuerde Arsenal-Coach Arsene Wenger seinen Dauerrivalen Sir Alex Ferguson im Titelrennen nur zu gerne zum Stolpern bringen. Die "Red Devils" ihrerseits haben mit den Londonern ebenfalls noch eine Rechnung offen. Im Hinspiel im Old Trafford kassierten sie beim 0:1 die bislang einzige Heimniederlage der Saison.See:http://www.kicker.de/fussball/intligen/startseite/artikel/360375/コメント:特に"Zum Abschluss wartet der Spieltag dann mit dem zweiten absoluten Leckerbissen auf, "の部分の意味がよくつかめない。
2007年01月21日
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バーミンガム、ニューカッスルに圧勝水曜日に行われたFAカップの再試合でフラムはレスター・シティに、トテナムはカーディフにそれぞれ勝利し次のラウンドに進出することになった。 一方ニューカッスル・ユナイテッドはホームのセント・ジェームス・パークでチャンピオンシップ・リーグの首位を走るバーミンガム・シティに惨敗。 昨年度プレミアリーグから降格したバーミンガムに対し1:5の大敗を期した。「サポーターの皆様には大変申し訳ない」。 不甲斐ないプレーで1:5の大敗を期したニューカッスルのグレン・ルーダー監督は試合後冷静に語った。 前回の試合結果は2:2の同点。この再試合で勝負をつけたいニューカッスルだったが、前半5分バーミンガム・シティがギャリー・マクシェフリーの得点で先制。今回はこの先制点がニューカッスルに動揺を広げた。 前半終了直前にはノルベルト・ソラーノのオウンゴールで0:2。後半開始直後ジェームズ・ミルナーのゴールで1点差に追いつくものの、その1分後スティーヴン・テイラーへのレッドカードで雲行きが怪しくなる。 59分にブリュノ・エンゴティ、83分にラーション、89分にはDJキャンベルが得点し、試合は「ブルーズ」の圧勝で終了した。City kanzelt Newcastle abIn den Wiederholungsspielen des FA-Cups erreichten am Mittwoch Fulham gegen Leicester sowie Tottenham gegen Cardiff die naechste Runde. Fuer Newcastle dagegen gab es gegen den Tabellenfuehrer der Championship, Birmingham City, im heimischen St. James Park ein boeses Erwachen. Ein deftiges 1:5 stand am Ende gegen den letztjaehrigen Premier-League-Absteiger zu Buche."Ich moechte mich bei unseren Fans entschuldigen." Newcastles Coach Glenn Roeder rang nach der desolaten Vorstellung seines Teams bei der 1:5-Schlappe gegen Birmingham sichtlich nach Fassung. Nach dem 2:2 beim Championship-Spitzenreiter wollten die "Magpies" im Wiederholungsspiel eigentlich alles klar machen, doch City schockte die Hausherren, die im ersten Durchgang nie in die Partie fanden, mit einem fruehen Tor (McSheffrey, 5.). Solanos Eigentor bedeutete dann kurz vor dem Wechsel das 0:2. Nach dem Kabinengang stand der Erstligist nach Milners Anschlusstreffer (56.) vor einem Comeback, doch Taylors Ampelkarte nur eine Minute spaeter machte einen Strich durch diese Rechnung. Weitere Tore durch N'Gotty (59.), Larsson (83.) und DJ Campbell (89.) sorgten am Ende fuer einen Kantersieg der "Blues".See: http://www.kicker.de/fussball/intligen/startseite/artikel/360312/コメント:"...,die im ersten Durchgang nie in die Partie fanden"の意味は要チェック。
2007年01月18日
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アーセナル、10人で勝利FC アーセナルはアウェイのイーウッド・パークでブラックバーン・ローバーズと対戦。試合開始早々に意気込みをくじかれたのはアーセナル。 ジウベルト・シウバがロビー・サヴェイジとの小競り合いの後にレッドカードを受ける。 しかし「ガナーズ」はこの試合を落とす分けには行かなかった。 37分にコロ・トゥーレがティエリ・アンリのフリーキックをヘディングで先制すると、71分にはアンリ自身がカウンター攻撃からエレガントなロングシュートを決め勝利を決定付ける。結果は2:0でアーセナルの勝利。 イングランド北部ブラックバーンでのアウェイの一戦で貴重な勝利を収めたアーセナルはボルトンを抜き4位になった。 リーグ戦での3連勝後にブレーキがかかったローバーズ。UEFAカップではバイヤー・レバークーゼンと対戦する。Arsenal trotz Unterzahl erfolgreichAm fruehen Abend musste der FC Arsenal zunaechst eine schnelle "kalte Dusche" beim Spiel im Ewood Park gegen die Blackburn Rovers einstecken. Gilberto Silva sah nach einem Gerangel mit Savage in der Anfangsviertelstunde die Rote Karte. Der 2:0- Sieg war den "Gunners" dennoch nicht zu nehmen. Kolo Toure (37.) koepfte nach einem Freistoss von Thierry Henry zum 1:0 ein, der Franzose selbst entschied die Begegnung mit einem fulminanten Weitschuss nach einem Konter (71.). Durch einen ihrer seltenen Auswaertserfolge im Norden Englands kletterte Arsenal an Bolton vorbei auf Rang vier. Die Rovers, im UEFA-Cup demnaechst Gegner von Bayer Leverkusen, wurden nach zuletzt drei Siegen in Folge ausgebremst.See: http://www.kicker.de/fussball/intligen/startseite/artikel/360077/
2007年01月16日
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赦された36年前の万引きと罪の意識からの解放1970年にノルウェーの商店で万引きをしたドイツ人男性。以来、後悔の念に苛まれる日々を送ってきた。彼が良心の呵責から解放されたのはつい最近のことである。30年以上にも渡るわだかまりに決着をつけようと、このドイツ人男性(匿名)はオスロから北に250km離れた小さな街ロムの市長に手紙で罪を告白した。彼の弟、ガールフレンド(現在の妻)と一緒に旅行をしたとき、一行はロムを訪れた。この街の小さな商店で彼は15ドル(約11,50ユーロ)の商品を万引きしたのである。 「何年経っても万引きしたことを忘れることができませんでした。市長への手紙には心のつかえを取り除くために手を貸して欲しいと書き、小切手を同封しました。数十年前の罪の赦しを請うためです」。 なにしろ昔のことなので、男性は店の名前をはっきりと思い出すことができない。「大きな駐車場のある土産物店」 - これが記憶の限界だった。ロムのビョルゲン市長に宛てた手紙に375ドルの小切手を同封し、男性は赦しを求めた(正しい行いとはいえかなりの額面アップである)。市長への依頼の内容は、当時の土産物店のオーナーを探し出し小切手を渡して欲しいということであった。ビョルゲン市長は手を尽くしてガブリエル・ルンド氏(78)を見つける。同氏は1970年当時「the Fjoset gift shop」を経営していた。 市長はドイツ人男性への返事の中で、ルンド氏は男性の罪を赦していること、そして小切手は地域の老人ホームに寄付し役立てることを伝えた。 罪の意識から解放され、男性に安らかな夜が訪れますように。Former Shopkeeper Soothes Guilty Conscious 36 Years LaterA German man who had shoplifted from a small store in Norway in 1970 and been plagued by it ever since finally got some psychological relief. The man, whose name has not been released, finally confronted the demons that had plagued him for over three decades by writing a letter to the mayor of the small town of Lom, located about 250 kilometers (155 miles) north of Oslo. He confessed that during a trip taken there with his younger brother and girlfriend, now his wife, he had stolen about $15 (11.50 euros) worth of goods from a local store. "For many years, my conscience has bothered me. With the enclosed check, I hope to free myself from that and request your help," wrote the German man. "I would also like to ask for forgiveness for the wrong I did so long ago." The incident lay so far in the past, the former thief wasn't even sure of the name of the store. He recalled it only as "a souvenir shop with a big parking lot." In his letter to Mayor Simen Bjoergen, the German man included a check for $375 (apparently figuring in a pretty high inflation right) and asked for absolution. He requesting that the mayor track down the former shop owner and give him the check. If that was not possible, he wrote, he wanted the money to go to a good cause. Bjoergen did end up finding the now elderly shopkeeper, 78-year-old Gabriel Lund, who owned the Fjoset gift shop in 1970. The mayor wrote the German back, saying Lund had indeed forgiven him and given the money to the local retirement home to do something nice for its residents. Let's hope the repentant thief is sleeping better now.See: http://www.dw-world.de/dw/article/0,2144,2309126,00.html
2007年01月15日
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ロナウド、ゴールを量産中マンチェスター・ユナイテッドと2位のチェルシーとの勝点差は縮まらなかった。FAカップでマンUはアストン・ヴィラを相手に2:1の勝利を収めている。今日の試合でもマンUは、11試合連続で勝星が無く不振に苦しむ同チームに対し、余裕の試合運びで快勝した。 試合は3:1で終了。パク・チソンとマイケル・キャリックが早い時間に得点したため、前半13分にはすでに勝負がついてしまった。 現在のマンUの好調を支えているのはクリスティアーノ・ロナウドだ。前半終了前の得点は、まさにこのことを裏付けている。 12月に6試合で7点をたたき出しているロナウドは、11月に続き月間MVPを受賞。 これまで2ヶ月連続でMVPを獲得した選手は、デニス・ベルカンプ(1997年)とロビー・ファウラー(1995/96年)のふたりだけである。 この試合の得点でロナウドの今シーズンのゴール数は 13となった。Ronaldo trifft und trifftManchester United hielt den Verfolger jedoch auf Distanz. Wie schon im FA-Cup (2:1) reichte es gegen das kriselnde Aston Villa (elf Spiele ohne Sieg) zu einem Erfolg. Beim 3:1 waren die Fronten schon nach 13 Minuten geklaert, da Park und Carrick bereits frueh getroffen hatten. Seine starke Form bestaetigte dann noch vor der Pause Cristiano Ronaldo. Im Dezember erzielte der Portugiese in sechs Spielen sieben Tore und wurde dafuer wie bereits im November zum Spieler des Monats der Premier League gekuert. Diese Auszeichnung hatten in aufeinanderfolgenden Monaten bisher erst zwei Spieler erhalten: Dennis Bergkamp (1997) und Robbie Fowler (1995/96). Am Samstag gelang ihm sein 13. Treffer.See: http://www.kicker.de/fussball/intligen/startseite/artikel/360077/コメント:"die Fronten waren geklärt"は「勝負がついてしまった」でよいのだろうか?
2007年01月15日
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ロッベン移籍情報の錯綜移籍話の破談を避けたいバイエルンFCバイエルン、次シーズンに向けてスター選手を求める。移籍の成否はまだ闇の中...。 「彼は注目に値する選手だ」。FCバイエルン社長カール=ハインツ・ルンメニゲ (51) は『Bild』紙上でチェルシーのアリエン・ロッベン (22) に関心を寄せていることを認めた。 すでに交渉が持たれたとも言われている。しかしマネージャーのウリ・ヘーネス (55)はこの件について 「何も知らない」とまだ口を閉ざしている。錯綜するロッベンの移籍話だが、本誌『Bild』は確実な情報を得た。バイエルンは 俊足のウイング・プレイヤーであるロッベンの獲得に大きな関心を寄せていることが明らかである。ルンメニゲはこのことを認めているが、へーネスは公式の発言を避けている。 その理由は、ロッベン獲得の交渉が破談になる可能性を拭えないからだ。ただし問題の所在は バイエルンではなくチェルシー側にある。チェルシーのモウリーニョ監督 (43) の今後が現在のところ全く不明瞭なため、ロッベンは落ち着かない毎日を送っているという。同監督が辞任すればロッベンは引き続きイングランドでのプレーを選び、一方続投が決まればロッベンはチームを去りたいと考えるだろう。ロッベンの今後はモウリーニョの処遇に左右されると見られている。一方 バイエルンのオーウェン・ハーブリーブス (25) は引き続きマンチェスター・ユナイテッドへの移籍を望んでいる。 ロッベンとの交換トレードの可能性についてハーグリーブスは 「何も言うことはない」と語るのみ。 チェルシーを舞台とした移籍話にハーグリーブスも恐々としているようだ。バイエルンのフロント陣はチームの戦力に不満を持っている。チャンピオンズリーグで(次戦は対レアル・マドリー)勝利するには現在の戦力は不十分であるとの認識だ。 今シーズンのリーグ戦での優勝さえも難しいと見られている(首位のブレーメンとはすでに6ポイント差)。なによりもカップ戦でアーヘン相手に2:4で試合を落としたことは 不名誉以外のなにものでもない。フリオ・ドス・サントス(23、VfLヴォルフスブルクにレンタル中)やアリ・カリミ (28、前所属チームのアル・アリに戻る予定)のような下手な買い物は二度と許されない。バイエルンは貴重な戦力としてロッベン獲得を熱望しているのである。Transfer-Chaos um RobbenDarum haben die Bayern Angst, dass der Wechsel doch noch platztDer FC Bayern und die Jagd auf Stars fuer die neue Saison - es wird wild...Bayern-Boss Karl-Heinz Rummenigge (51) bestaetigte in BILD das Interesse an Chelsea-Star Arjen Robben (22): "Ein hochinteressanter Mann!" Es gab sogar schon Gespraeche. Manager Uli Hoeness (55) sagt aber: "Davon weiss ich nichts!"Chaos um den Robben-Transfer. BILD klaert auf, was da wirklich mit dem Holland-Dribbler laeuft.Fakt ist: Bayern ist maechtig scharf auf den Fluegelflitzer. Rummenigge gibt es zu, Hoeness sagt's nicht oeffentlich. Warum? Weil der Deal mit Robben zu platzen droht. Schuld daran ist das Chaos. In diesem Fall nicht das bei den Bayern, sondern das bei Chelsea London...Robben fuehlt sich dort unwohl. Die Ursache dafuer ist allein Trainer José Mourinho (43), dessen Zukunft bei Chelsea mehr denn je ungeklaert ist.Geht Mourinho, will Robben womoeglich weiter in England spielen. Bleibt der Portugiese, will der hoellaendische Nationalspieler weg. Alles haengt an einem seidenen Faden.Hinzu kommt: Bayerns Owen Hargreaves (25) traeumt weiterhin von ManU. Er sagt zum angedachten Tausch-Geschaeft gegen Robben: "Dazu moechte ich mich nicht aeussern." Das Theater in London schreckt auch ihn ab...Bei Bayern ist die Chef-Etage nervoes. Man hat realisiert, dass der aktuelle Kader viel zu schwach ist, um in der Champions League (naechster Gegner Real Madrid) fuer Furore zu sorgen. Selbst in der Meisterschaft wird's dieses Jahr gegen Bremen (schon drei Punkte Vorsprung) schwer. Und die erste Brutal-Blamage gab's ja schon: Pokal-Aus in Aachen (2:4).Flop-Einkaeufe wie Julio dos Santos (23, ausgeliehen an Wolfsburg) und Ali Karimi (28, soll sofort zu Ex-Klub Al Ahli) duerfen einfach nicht wieder vorkommen.Deshalb ist Bayern so heiß auf auf das Sturm-Juwel Robben...See: http://www.bild.t-online.de/BTO/sport/bundesliga/2007/01/13/bayern-transfer-chaos/bayern-transfer-chaos.htmlコメント:この記事は文章の流れを把握するのが難しかったです。1.Es gab sogar schon Gespraeche.のGespraecheは、すでに交渉があったということだろうか。2.Tausch-Geschaeftは、トレードという意味で良いのだろうか。
2007年01月14日
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モウリーニョ、 次の職場を検討中かチェルシーを去る準備はできているポルトガル出身のジョゼ・モウリーニョ監督がFCチェルシーを去るのは時間の問題とみられている。チェルシーは昨シーズンイングランド・プレミアリーグを制した強豪。 イギリスの大衆紙『The Sun』によればモウリーニョがチェルシーでの経歴に幕を引くことは決定的であり("He's off")、また高級紙『Independen』は金曜日に、同監督はチームを去るため他のオファーを検討中だと伝えている。England: Star-Coach sondiert AngeboteMourinho bereit fuer AbschiedDer Abschied des portugiesischen Erfolgstrainers Jose Mourinho vom englischen Meister FC Chelsea rueckt immer naeher. Nach Angaben der Boulevardzeitung "The Sun" ist ein Ende des "Blues"-Kapitels in Mourinhos Laufbahn bereits beschlossene Sache ("He's off"), der serioesere "Independent" schreibt am Freitag davon, dass der Trainer bereit sei zu gehen und bereits Angebote sondiere.See: http://www.kicker.de/fussball/intligen/england/vereinsinfo/object/505/liga/500/saison/2006-07/naviindex/0コメント:"serioeser"は、インディペンデントがサンよりも媒体としてまじめだといっているのか、それともインディペンデントの報道内容がサンよりも深刻なものだということなのか?
2007年01月13日
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アーセナル カーリングカップ準決勝進出 - ルイス・ガルシアは靭帯を損傷アーセナルがリバプールに大勝多くの主力選手を温存しながらFCアーセナルはカーリングカップの準決勝に駒を進めた。 アーセナルはFCリバプールを相手に6:3のスコアで勝利。この結果リバプールは同カップ戦から姿を消すことになった。リバプールは先日のFAカップでもホームでアーセナルに勝利を献上しているため、短期間のうちに2度もアーセナルに敗北を期す結果となってしまった。 またこの一戦でルイス・ガルシアが十字靭帯を損傷。 「レッズ」には大きな打撃である。 先日アーセナルに1:3で敗北し伝統のFAカップでの敗退が決まったリバプール。この一戦で借りを返すはずだったが全ては空回りに終わってしまった。 スピードのあるジェレミー・アリアディエールに先制点を、さらにジュリオ・バティスタに4得点を奪われるなど、ラファエル・ベニテス率いるリバプールは全くゲームを支配することができなかった。33分ベテランのロビー・ファウラーの得点でリバプールは一時同点に追いつく。しかしこの失点でアーセナルが動揺することはなかった。 リバプールのGKはサブのイェルジ・デュデク。バプティスタのペナルティ・キックを止める活躍を見せたものの、デュデクのプレー内容は総じて満足できるものではなかった。前半ロスタイムにアーセナルのアレックス・ソングが加点し勝利を引き寄せる。67分リバプールの主将スティーブン・ジェラードが素晴らしいボレーシュートで、80分にはサミ・ヒーピアがヘッドで得点を決め応酬するが勝利に繋げることはできなかった。この一戦でアーセナルは、ドイツ代表GKイェンス・レーマンをはじめフォワードのティエリ・アンリ、ブンデスリーガでも活躍したトマシュ・ロシツキーやアレクサンダー・フレブを温存しながらも圧倒的な試合内容で勝利。その結果アーセナルは準決勝に進出し、トッテナム・ホットスパーとロンドンダービーを戦うことになった。大敗北を期したリバプールは、不幸なことに2名の負傷者まで出してしまった。 試合中に重傷を負ったスペイン代表のルイス・ガルシアは水曜日の検査の結果、十字靭帯の損傷が明らかとなり、今シーズン中の復帰は絶望。 さらにチリ代表マルク・ゴンサレスは脛骨の負傷により3週間戦線から離脱することになった。 両選手とも火曜日の試合中に怪我のため退場している。イングランドの古豪リバプールに残された今シーズンのタイトル獲得のチャンスは、もはやチャンピンズリーグしか残されていない。リバプールは2月に決勝トーナメント1回戦でディフェンディングチャンピオンのFCバルセロナと対戦する。 Liga-Pokal: Arsenal erreicht das Halbfinale - Kreuzbandriss bei Luis Garcia "Gunners" schießen "Reds" abAuch ohne zahlreiche Stammkraefte hat der FC Arsenal das Halbfinale im Liga-Pokal erreicht. Mit 6:3 fertigten die "Gunners" den FC Liverpool ab, der damit die zweite Pleite innerhalb weniger Tage an der heimischen Anfield Road gegen die Wenger-Elf hinnehmen musste. Besonders bitter fuer die "Reds": Luis Garcia erlitt in der Partie einen Kreuzbandriss. Nach dem Aus mit dem 1:3 im traditionsreichen FA-Cup wollte Liverpool Revanche nehmen, doch der Schuss ging nach hinten los. Das Team von Rafael Benitez bekam vor allem den agilen Jeremie Aliadiere, der den Fuehrungstreffer besorgte (28.), sowie den vierfachen Torschuetzen Julio Baptista (41./45.+4/60./85. Minute) nie in den Griff.Routinier Robbie Fowler (33.) konnte fuer Liverpool zwar zwischenzeitlich ausgleichen, doch die Wenger-Elf ließ sich dadurch nicht wirklich aus dem Konzept bringen. Der schwache Ersatz-Torhueter Jerzy Dudek konnte zwar einen Elfmeter von Baptista parieren, machte aber insgesamt eine unglueckliche Figur.Alex Song (45.+2) steuerte einen Treffer zum 6:3-Sieg bei, "Reds"-Kapitaen Steven Gerrard (67.) mit einem sehenswerten Volleyschuss und Sami Hyypiae (80.) per Kopf konnten lediglich das Ergebnis etwas ertraeglicher gestalten.Arsenal, das ohne den deutschen Nationalkeeper Jens Lehmann, Stuermerstar Thierry Henry, sowie die frueheren Bundesliga-Profis Tomas Rosicky und Alexander Hleb antrat, steht nach dem klaren Erfolg in der Runde der letzten Vier und trifft dort auf Lokalrivale Tottenham Hotspur.Neben der klaren Niederlage muss Liverpool noch dazu zwei schwere Verletzungen verkraften: Nach Diagnosen am Mittwoch hat der spanische Nationalspieler Luis Garcia sich einen Kreuzbandriss zugezogen und faellt fuer den Rest der Saison aus. Auch der Chilene Mark Gonzalez fehlt aufgrund einer Schienbeinverletzung drei Wochen. Beide mussten am Dienstagabend vom Platz getregen werden.Eine Titelchance hat der englische Rekordmeister nach der Niederlage in dieser Saison nun nur noch in der Champions League, in der Titelverteidiger FC Barcelona im Februar im Achtelfinale der Gegner ist. See: http://www.kicker.de/fussball/intligen/startseite/artikel/359941コメント:1. アーセナルのSongって聞いたことないなぁ。どんな選手なのかな?2. 「得点」に関する表現、「勝利」および「敗退」に関する表現をもっと知りたい。3. ルイス・ガルシアがかわいそう。
2007年01月12日
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チームメートから不満噴出か? モウリーニョの足元もグラグラと…FC チェルシーのミヒャエル・バラック (30) はチームメートからの激しい批判にさらされている。チーム内で不満が爆発した。 イギリスの有力紙『Sunday Times』は、2:2 のドローとなった12月30日の対フラム戦終了後、同僚のディディエ・ドログバとクロード・マケレレがバラックの冴えないプレーに対して不満を爆発させたと伝えている。チームメートからの批判チェルシーの多くのチームメートが バラックに対し不満を抱いているという。その内容は、 バラックの活躍(リーグ戦15試合で3ゴール)は全く不十分で、ディフェンスでの貢献度も低いこと。さらにフォワードとの連携が見られないことなどである。プレミアリーグの多くのチームがプレーヤーの分析に採用している「ProZone-System」の結果によれば、運動量および一対一の能力においてバラックは特に秀でてはいないとの結果が出ている。 一方フランク・ランパードはこれらの点でチャンピオンズ・リーグに出場するエリート選手のレベルに達しているという。「バラックはまだまだ活躍できる選手である」とジョゼ・モウリーニョ監督はバラックを擁護する。 4部リーグのマクルスフィールドと対戦するFAカップの試合前に、同監督はバラックに休養を与えた。この試合でランパードは3点を決め、チェルシーは 6:1 で勝利している。 その時バラックはオーストリアのキッツビューエルで休暇を取ったが、チームメートにはバラックに対するこの処遇もあまり気に入らなかったようだ。「自分自身、最初の5ヶ月間のプレーには満足しているし、不安な要素などなにもない」と述べているように、バラック自身には周囲の騒ぎに困惑している様子は見られない。 ドイツ代表チームのマネージャー、オリバー・ビアホフも冷静だ。「海外での一年目をしっかりとやり抜くことはとても難しいが、バラックであれば冷静にやり遂げられるはずだ」。バラックが批判にさらされていることは、彼を擁護するモウリーニョ監督のにとっても不安材料であるといえよう。 チェルシーのオーナーであるロマン・アブラモビッチは、ロシア代表監督のフース・ヒディンクとすでにコンタクトを取っているとの情報が流れている。チャンピオンズリーグでチェルシーはモウリーニョの古巣ポルトと対戦する。もしこの試合を落とすようなことがあれば、モウリーニョも自分の首を心配しなければならない。そうなると、次はバラック自身の番となるだろう。Mobbing gegen Ballack? ...und Mourinho wackelt ploetzlich Beim FC Chelsea hagelt es Kritik an Michael Ballack (30) - von den eigenen Mitspielern.Jetzt kommt heraus: Nach dem 2:2 gegen Fulham (30.12.) haben sich die Stars Didier Drogba und Claude Makelele ueber Ballacks mangelnde Effektivitaet aufgeregt, berichtet die angesehene "Sunday Times".Mobbing gegen Ballack?In der Chelsea-Truppe rumort es. Mehrere Spieler sollen unzufrieden mit unserem Kapitaen sein.Die Vorwuerfe: Ballack (15 Liga-Spiele, 3 Tore) setze sich zu wenig ein, arbeite nicht hart genug in der Defensive und haette keine Bindung zu den Stuermern.Laut "ProZone-System", das viele Premier-League-Klubs zur Analyse ihrer Spieler nutzen, ist Ballack in Bereichen wie Laufbereitschaft oder Zweikampfverhalten nur Mittelmass. Frank Lampard dagegen erreiche den höchsten Elite-Champions-League-Level.Rueckendeckung erhält er von Mourinho: "Ballack ist weiter unantastbar." Der Chelsea-Coach goennte dem Deutschen beim 6:1 im FA-Cup bei Viertligist Macclesfield Town (3 Tore Lampard) eine Pause. Ballack durfte in Kitzbuehel entspannen. Auch das duerfte den Kollegen wenig gefallen haben.Ballack selber bleibt gelassen: "Mit den ersten fuenf Monaten bin ich sehr zufrieden. Ich lasse mich nicht verrueckt machen." Auch Nationalelf-Manager Oliver Bierhoff beruhigt: "Das erste Jahr im Ausland muss man sich durchbeissen. Michael ist kaltschnaeuzig genug, um sich durchzusetzen."Ballack in der Kritik - und auch fuer seinen Fuersprecher Mourinho wird es ungemuetlich. Chelsea-Boss Roman Abramowitsch soll bereits mit seinem Freund Guus Hiddink, der momentan Russland-Trainer ist, gesprochen haben.Bei einem Scheitern in der Champions League gegen seinen Ex-Klub Porto sind Mourinhos Tage wohl gezaehlt. Dann wuerde es fuer Ballack ganz ungemuetlich.See:http://www.bild.t-online.de/BTO/sport/2007/01/08/ballack-chelsea-mobbing/ballack-chelsea-mobbing.html
2007年01月11日
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げんを担ぐスペインのスーパースターベッカムのキス x2今晩(19時キックオフ)デポルティーボ・ラ・コルーニャと対戦するレアル・マドリー。この試合を皮切りに、レアルはリーグのトップを走るセビージャとバルセロナを追撃し首位奪回を狙う。 そんなレアルのスター選手は、2003年以来のタイトルを獲得すべく縁起を担いでいるという。デビッド・ベッカム (31): 交代の時には必ずチームメートの頬に2回キスをする。イケル・カシージャス (25):ゴールキーパーの彼はユニフォームの袖を自らはさみで切り落としジンクスを振り払う。ファビオ・カンナバーロ (33):ピッチに向かう通路をカッペロ監督の姿が見えるところまで駆け上がる。 他の選手は歩く場所だ。ロベルト・カルロス (33): ピッチに向かう通路でユニフォームを着る。ラウル (29): ロッカーや練習場を一番最後に出る。マハマドゥ・ディアッラ (25): キックオフの瞬間に目と閉じ両手を広げて祈る。セルヒオ・ラモス (20): 人差し指を上に向けて天を仰ぐ。ロビーニョ (22): チームバスの中でサンバを聴く。ファビオ・カペッロ監督 (60): ピッチは常に清潔でなければ我慢ならない。 練習場にはペットボトル専用のゴミ箱を用意させている。他チームの選手にもげんを担ぐ姿がみられる。ロナウジーニョ (26/ バルセロナ):ウォーミングアップを一番最後に終える。 ゴールポストを狙ったキックが成功しないと、ウォーミングアップが終わったことにならない。フェルナンド・トレス (22/A・マドリー): 調子の悪いときにはヘアースタイルを変える。カニサレス (37/ バレンシア): 自分が守るゴールに赤いハンカチを置く。モビージャ (28/サラゴサ):イエス・キリストのTシャツを着る。サッカーストッキングを後ろ前に履く。Die sonderbaren Ticks der Spanien-StarsZwei Kuesschen von BeckhamHeute startet Real Madrid bei La Coruna (19 Uhr live, Arena) seine Aufholjagd auf das Spitzenduo Sevilla und Barcelona. Damit es mit dem ersten Titel seit 2003 klappt, setzen viele Real-Stars auf ihr Gluecks-Ritual:David Beckham (31): Jedes Mal, wenn er aus- oder eingewechselt wird, gibt er seinen Teamkollegen zwei Kuesschen.Iker Casillas (25): Schneidet sich aus Aberglauben die Aermel seines Torwarttrikots selbst mit der Schere ab.Fabio Cannavaro (33): Sprintet immer auf das Feld bis er sich auf Hoehe von Coach Capello befindet. Alle anderen gehen.Roberto Carlos (33): Zieht sich das Trikot erst im Tunnel zum Platz an.Raul (29): Verlaesst als Letzter die Kabine und das Trainingsgelaende.Mahamadou Diarra (25): Betet vorm Anstoß mit offenen Haenden und geschlossenen Augen.Sergio Ramos (20): Gruesst mit nach oben gerichtetem Zeigefinder den Himmel.Robinho (22): Hoert Samba im Mannschaftsbus.Trainer Fabio Capello (60): Besteht fanatisch auf sauberen Rasen. Hat auf dem Trainingsgelaende extra Muelleimer fuer Wasserflaschen aufstellen lassen.Auch andere Spanien-Stars haben ihre Rituale:Ronaldinho (26/ Barcelona): Beendet als Letzter das Aufwaermen. Das tut er immer erst, nachdem er gegen den Pfosten geschossen hat.Fernando Torres (22/Atletico Madrid): Verpasst sich eine neue Frisur, wenn es schlecht laeuft.Canizares (37/ Valencia): Hat ein rotes Handtuch in seinem Tor dabei.Movilla (28/Saragossa): Traegt ein Jesus-T-Shirt und zieht sich die Stutzen verkehrt herum an.See:http://www.bild.t-online.de/BTO/sport/2007/01/07/beckham-kuss/beckham-kuss.htmlコメント:"... und zieht sich die Stutzen verkehrt herum an."は、「裏返しに履く」という意味かなぁ。ストッキングを後ろ前には履けないような気がする。
2007年01月10日
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マンU提示額を上積みハーグリーブス獲得に3000万ユーロミュンヘン 発- FC バイエルン・ミュンヘンでプレーするイングランド代表オーウェン・ハーグリブスの獲得を目指すマンチェスター・ユナイテッドは、3000万ユーロにまでオファー額を上積みしたという。 イギリスの日刊紙『Daily Mail』は、ドイツの古豪からプレミア・リーグの首位を走るマンUへの移籍は1月の第1週に実現すると伝えている。 「現在は交渉の推移を見守りたいと考えています」と述べるのは、マンUのファーガソン監督。 同監督によれば、バイエルン側との次の交渉には経営責任者のデビッド・ギルが臨むという。 現在バイエルン側は移籍の可能性を否定。ハーグリーブスは2010年までバイエルンとの契約を残している。 2006年夏にバイエルン側は、マンUからの2500万ユーロのオファーを一度拒否している。 BEMUEHUNGEN VERSTAERKTManU bietet 30 Millionen Euro fuer HargreavesMünchen - Manchester United verstaerkt seine Bemuehungen um Owen Hargreaves und will sich die Verpflichtung des Bundesliga-Profis vom FC Bayern Muenchen angeblich 30 Millionen Euro kosten lassen. Nach Angaben der britischen Tageszeitung "Daily Mail" soll der Wechsel des englischen Fußball-Nationalspielers vom deutschen Rekordmeister zum Spitzenreiter der Premier League in der ersten Januar-Woche ueber die Buehne gehen. ManU-Teammanager Sir Alex Ferguson hat nach eigenen Angaben Vorstandschef David Gill beauftragt, noch einmal mit dem FC Bayern zu verhandeln. "Wir werden abwarten und sehen, was dabei heraus kommt", sagte Ferguson. Bayern Muenchen hat einen Verkauf von Hargreaves, der in Muenchen noch bis 2010 unter Vertrag steht, bislang abgelehnt. Im Sommer hatte der Club eine Offerte aus Manchester ueber eine Abloesesumme von 25 Millionen Euro ausgeschlagen. See: http://www.express.de/servlet/Satellite?pagename=XP/index&pageid=1004370693633&rubrik=214&artikelid=1166031503598®id=1ハーグリーブスの所属、どうなったのでしょう?
2007年01月08日
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ミヒャエル・バラックの失敗 !チェルシー、ミスで首位に届かずミヒャエル・バラック(30)の評判は、チーム内で下降線をたどっている。 チェルシーは格下のフラム相手に 2:2 のドロー。一方、首位を走るマンチェスター・ユナイテッドは3:2でレディングに勝利し、チェルシーとの勝ち点差は6ポイントに広がった。ドイツW杯でキャプテンを務めたバラックのプレーに本来のキレは見られなかった。 今回のようなプレー内容では、高額年棒に値するプレーヤーだと辛口の評論家諸氏を納得させることはまず出来ないだろう。なにしろ フラムに同点のチャンスを献上したのはバラック本人だったのである。 試合終了6分前、チェルシーは不用意にも左からのセンタリングを許してしまった。 ゴール手前6メートルの位置にポジションを取っていたバラックは空振りでクリアに失敗。ボカネグラにごっちゃんゴールを決められ、スコアは2:2のタイとなった。一方フラムはこの試合で強豪チェルシーをよそめにひとつの金字塔を打ち建てている。 元シャルケのモリッツ・フォルツが16分にニアサイドへの鋭いシュートで先取点を決めた。 これが1992年のプレミアリーグ発足以来15,000発目の記念すべきゴールとなり、フォルツには15,000ポンド(22500ユーロ)の特別賞が贈呈された。34分チェルシーの主将ランパードはフラムのロシニアーがクリアし損ねたボールをシュートし、同点弾を決めた。62分には、ディディエ・ドログバがセンタリングを頭で決め2:1とする。しかしドログバの今シーズン13点目のゴールは勝利に結びつかず、マンチェスター・ユナイテッドに勝ち点差を広げるチャンスを与えてしまった。 首位のマンUとレディングとの実力の差は歴然であったが、マンUは多くの得点チャンスを逃していた。 33分にスールシャールの得点でマンUが先制。しかし38分にゴールキーパーのファン・デル・サールがパンチングに失敗し、ソコのヘディングシュートでレディングが同点に追いつく。ゲームを決めたのは、59分と77分に決まったクリスティアーノ・ロナウドの2発。 ロナウドの1試合2得点は、今シーズン2度目である。 90分にレディングのリチャードソンが1点を返したものの、そのまま試合終了となった。Ballack-Fehler!Chelsea patzt im TitelkampfDie Stimmung um Michael Ballack (30) in Chelsea wird immer schlechter: Sein Team schaffte nur ein 2:2 gegen Fulham, liegt jetzt schon sechs Punkte hinter Tabellenfuehrer ManU (3:2 gegen Reading)!Unser WM-Kapitaen spielte mal wieder nur mittelmaessig. Mit solchen Leistungen kann Ballack seine vielen Kritiker nicht ueberzeugen, die ihn einen ueberbezahlten Mitlaeufer nennen...Tiefpunkt: Ballack war am ueberraschenden Ausgleich von Fulham beteiligt. Sechs Minuten vor Schluss verpassten alle eine Linksflanke. Ballack haute beim Abwehrversuch sechs Meter vor dem Tor am Ball vorbei, Bocanegra staubte dankend zum 2:2 ab.So belohnte sich Fulham fuer eine starke Leistung beim großen Nachbarn. Der Ex-Schalker Moritz Volz hatte das 0:1 besorgt, ein Hammer ins kurze Eck (16.). Uebrigens das Tor Nummer 15 000 in der Geschichte der Premier League (seit 1992), dafuer bekommt Volz 15 000 Pfund (22 500 Euro) Sonderpraemie.Kapitaen Lampard schaffte mit einem von Rosenior abgefaelschten Schuss das 1:1 (34.) und schlug die Flanke fuer Drogbas Kopfball zum 2:1 (62.).Doch das 13. Saisontor des Chelsea-Knipsers reichte nicht zum Sieg - und Manchester nutzte das aus! Der Spitzenreiter war gegen Reading klar ueberlegen, versiebte aber viele Chancen. Nach dem 1:0 durch Solskjaer (33.) boxte Keeper van der Sar an einem Freistoss vorbei, Soko koepfte das 1:1 (38.)Doch Cristiano Ronaldo machte die Treffer zum Sieg (59./77.) - sein dritter Doppelpack in Folge! Das 3:2 von Richardson kam zu spaet (90.).See: http://www.bild.t-online.de/BTO/sport/aktuell/2006/12/31/ballack-chelsea-patzer/ballack-chelsea-patzer.html
2007年01月07日
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ラッツィンガー枢機卿は、1927 年に警察官の息子としてバイエルン州に生まれた。子供時代にはヒトラー・ユーゲントに入団したが、ナチ党員になることはなかった。戦争中に対空部隊に召集されたため、聖職につくための学問を中断せねばならなかったが、戦争の最終局面で彼は、部隊から脱走した。ラッツィンガーは、アメリカ軍の捕虜として戦争を終えた。当初から偉才を放ち、ひときわ目立つ存在だったラッツィンガー。青年時代の彼は、急進論者であった。先輩学生らから相対主義者であると告発されたときには、(…) ラッツィンガー提出した博士論文のひとつは審査を拒否されてしまった。有名なドイツの大学の神学部(ボン、ミュンスター、チュービンゲン、レーゲンスブルク)で教えた後に彼は、1960年代の大規模な教会改革運動が議論された第二バチカン公会議に、神学の顧問として参加した。その際に彼は、かつては宗教裁判所として知られていた教理省に関する有名な一文を書き、「教理省の『やり方や態度は現代に順応しておらず、世の中に存在する不名誉を生む源泉のひとつになっている』」と主張した。わかんないところ1. his superiors は、「先輩学生ら」でいいのか???2. 最後の文、"its methods and behaviour do not conform to the modern era and are a source of scandal to the world."が、うまく飲み込めない。出典:The Independent 20.04.2005
2005年04月25日
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五百万人の失業者 ドイツドイツの失業者数が五百万人を数えることを、最新の政府発表の統計は伝えている。しかし政府は、先月実施された経済改革により来月の数値が下がるものと予測している。失業問題は、ゲルハルト・シュレーダー首相にとって極めてデリケートな政治問題である。1998年に初めて内閣首班に指名されたシュレーダー首相は、失業者数を三百五十万人まで減少させると公約した。シュレーダー首相は公約を果たすことに失敗し、いまや五百万人を超える失業者の存在が公式に発表されるに至った。これは、大恐慌が発生し国民社会主義に権力が委ねられた1930年代以来の深刻さである。公式の数値は改ざんされ問題の深刻さをかなり低く見積もっているとも言われており、事態はさらに悪化の様相を呈している。政府の職業訓練計画などに参加する人数をも含めると、実際の求職者数は九百万人にも上るのではないかと見られている。Five million Germans out of work Five million people are unemployed in Germany, according to the latest official statistics. But the government says economic reforms implemented last month will bring the numbers down. Unemployment is a deeply sensitive political issue for Chancellor Gerhard Schroeder. Back in 1998 he was elected for his first term on a promise that the jobless count would be brought down to three and half million. He failed to deliver on that and now the official unemployment figure is above five million, the first time since the great depression of the 1930s, which brought the Nazis to power. And to make matters worse, the official figures may greatly understate the real extent of the problem. Once those on government training schemes and the like are included the actual number of people looking for work could be as high as nine million. See: http://www.bbc.co.uk/worldservice/learningenglish/newsenglish/witn/2005/02/050204_germany_unemployment.shtml (excerpt)新聞の記事の調子をうまく出すには、どうしたらいいのだろうか(新聞読めってことか)。ていうか、この翻訳は、どの程度の出来なのだろうか。熟語・単語*failed to deliver on: did not achieve what was expected*understate: to describe something in a way that make it seem less serious than it really is
2005年03月07日
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(2月8日に) BBC1 で放映された番組『 Looking Different 』では、形成外科の技術が人の一生においてとても有意義な役割を担うことや、子供たちが普通の生活を楽しむための手助けとなることが紹介されていました。私は、ヘイリーちゃんに畏敬の念さえ感じました。顔面の奇形に負けることなく、ヘイリーちゃんはいつも微笑んでいました。ただ悲しいことにヘイリーちゃんの家族は、無関心という世間の無常に立ち向かわなければなりませんでした。このようなテレビ番組の放映がさらに求められて、万人が受け入れられる社会の創造に貢献できればいいなと思います。Face ValueLooking Defferent on BBC1 demonstrated how plastic surgery does have its place in life and can help youngsters to enjoy a normal existence.I was in awe of Hayley, who always had a smile on her face, despite her facial abnormality. Sadly, all the families had to deal with cruelty caused by other people's ignorance. More programmes like this are needed to help everyone to be accepted by society.出展:30ぴーのTV Choice熟語:in awe of - : - に畏敬の念を抱いて疑問:「all the families」って、ヘイリーちゃんの家族?
2005年03月02日
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