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2021年04月07日
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Lafrenzによれば、ドイツのポーランド侵攻により第二次世界大戦が勃発した1939年、高校卒業試験を終えた彼女は、国家勤労奉仕団での務めを果たし、ハンブルクで医学を学び始めた。彼女が学んだエッペンドルフの大学病院では、「非アーリア人」の志願者は受験を拒否され、「非アーリア人」の医師からは開業免許が剥奪されていた。 彼らの中にはユダヤ人として迫害され、アメリカ、イギリスもしくはスウェーデンに逃れた人々がいた。連行されて、数年後に強制収容所で殺害される場合もあった。


Lafrenz自身は、4学期間をハンブルクで勉強した。1941年の春、前年にフランスに侵攻したドイツ国防軍がソ連攻撃に備えていた頃、彼女はミュンヘンに移った。そこで彼女は仲間となるHans Schollと知りあう。22歳のウルム出身の医学生で、占領下のパリから帰還したばかりの一等看護長でもあった。


Lafrenz :バッハのブランデンブルク協奏曲が演奏された夜のコンサートでのことです。友人のAlexander Schmorellの紹介で私たちは知り合いました。実は、大学の講義中に、私はすでにHansに見とれていました。最初に気になったのは、彼の口元でした。その美しい口のHansは、約束を守れない人でした。 

SPIEGEL :それでもあなたは彼と関係をもつことにしたのですね。

Lafrenz :私たちはひと夏を共に過ごしました。イザール川で泳ぎ、お互いをもっと知るようになりました。どんどんと関係が深まった、と言えばよいでしょうか。ハンスにはカリスマがあり、他にも彼の魅力に引き込まれました人がいました。

SPIEGEL :Hans Schollはあなたに出会う1941年の夏まで、ナチ政権に敵対的ではなかったようです。

Lafrenz :彼の妹Sophieもそうでしたが、敵対している感じはありませんでした。彼女は 3歳年下でした。「ドイツ女子同盟」の制服姿で堅信礼を行ったのは、同学年の中で彼女だけだったそうです。またHansもヒトラーユーゲントでは他のメンバーと一緒に列の前方に並んでいましたし、大規模な党大会では隊長としてヒトラーの前を整然と行進したこともありました。私と知り合ったとき彼はまだ国防軍での出世を望んでいましたが、失敗もあったようです。彼は大学入学前に逮捕されたことがあります。それは、男性同性愛を禁止する刑法典175条への抵触でした。彼はヒトラーユーゲントで、ある若者と関係を持ったのです。今日であれば、「だから何?」というようなことでしょう。しかし彼は牢屋に閉じ込められてしまいました。きっと彼は、このことを忘れられなかったでしょう。 

SPIEGEL :白バラの母体となる仲間うちのサークルは、当時の政治状況とは相容れない考えを持っていましたが、どのように集会を開いていたのですか。

Lafrenz :Hansも私も文学好きだったため、私たちは夜の読書会を開きました。ハンブルク時代の経験から読書会のやり方は分かっていたので、それをミュンヘンでも開催したのです。当初の参加者はほんの一握りでしたが、後にSophie Schollや10人ほどの信頼できる学生が加わりました。スウィングを聞き、ワインを飲み、プーシキンを読み、絵画について語り合いました。

SPIEGEL :ヨーロッパの半分が戦争の真っただ中のときに、あなたは芸術を楽しんでいたのですか。

Lafrenz :男たちは何度でも前線に出向かねばなりませんでした。私たち女は弾薬工場で働かねばなりませんでしたが、総じて生活は悪くはありませんでした。私たちは哲学や倫理学について議論しました。もちろん、ヒトラーについても。でも、白バラのメンバーには強い政治的関心があったというのは誤解です。私たちはもちろん、Hansもまったくそうではありませんでした。それだけに、私は当時を振り返り考えることがよくあります。なぜ、彼だったのだろうと。 他の誰にも出来なかったことを、よりによってなぜHansはやったのでしょう。 

SPIEGEL :しばらくして、あなたは再び彼と別れました。

Lafrenz :彼はいつも衝動的で無鉄砲な性格でした。あらかじめ物事を最後まで考えずに、はめを外すこともよくありました。どんな結末になるかよく考えていれば、勢いでやってしまったあのようなことには、彼は決して手を出さなかったはずだと、今私はそう思っているのです。

SPIEGEL :どのようにしてビラを撒くというアイデアが出たのでしょうか。

Lafrenz :私たちは皆、大衆を軽蔑していました。誰もが同じように見え、誰もが同じように振舞っていました。それは罠のようなもので、もはや真実の言葉を語ることはできない、とても危険な状況でした。私たちの目に映るこのような状況に、私たちは従いたくなかった。そこで、私たちは敵国の放送局、例えばBBCを聞きました。そこでは、 Thomas Mannがラジオ演説で、国防軍による犯罪やポーランドにおける虐殺について語りました。演説の内容は、後日Hansや他のメンバーが東部戦線で目の当たりにしたことと同じでした。彼らがワルシャワのゲットーについて語ったことはおぞましいものでした。その後私たちの多くも、ユダヤ人が連行されるのを目撃しました。彼らは二度と戻ってきませんでした。

SPIEGEL :ほとんどのドイツ人がこの光景を目にしましたが、どうにかしようとはしませんでした。 

Lafrenz :私たちは良心の危機に陥りました。もう目を逸らすことはできません。そんなことをすれば、自分自身の存在価値が無くなってしまいます。私たちは相談しました。漆黒の闇に射す希望の光についてです。つまり、どうすれば国民を目覚めさせられるのか、どのような問題提起を新たに行わなければならないのか。発言したのはSophie Schollだったと思います。彼女は言いました。「多くの人々が現政権のために命を落としています。誰かが反政権を掲げて命を賭ける時が来なければ。」


Traute Lafrenzは両手を合わせていた。話すにつれて力が入ったのか、指の関節が白く浮き上がっていた。彼女は目の前のテーブルにあるHans Schollの古い写真をしばらく見つめると、何度も首を横に振った。


1942年の夏、医学生だったHans SchollとAlexander Schmorellは「ヒトラーとその同志」への反対を主張するビラを4枚作成した。その頃、ヴァンゼーではナチ党の高官らがユダヤ人の組織的殺害について確認した会議が開かれ、アウシュヴィッツでは数か月に渡るガス殺が実行されていた。彼らはミュンヘン市内から対象者を選び、それぞれに約100部づつビラを郵送した。学卒者や影響力のある人々が主な対象者だった。SchollとSchmorellは1台のタイプライターを使って、ミュンヘンのベネディクテンヴァント通り12番地でビラを編集した。そこは、 総統代理Rudolf Hessの家の近所だったという。彼らはナチ国家の犯罪を公に非難した最初の人物ではなかったが、ユダヤ人迫害をはっきりと抵抗運動の理由にしたのは彼らだけだっただろう。


ビラ第1号「白バラからの呼びかけ」は次の二文から始まる。「無責任かつ下劣な欲望から生まれた一味に抵抗することなく「支配」されることほど、文化民族にとって不名誉なことはない。誠実なドイツ人であれば誰でも、今日の自国政府を恥じているのではないか。いつの日か我々の両目を覆い隠していたヴェールが外され、限度を知らぬ凶悪犯罪が明るみになれば、どんなにひどい汚名が我々や我々の子供たちに着せられるのか、想像できる者が我々の中にいるだろうか。」 


Lafrenz :私や他のメンバーは、彼らが何をやっているのか全く知りませんでした。ある晩、Hansは私にビラを差し出しました。私はそれを読んですぐにピンときました。スパルタ人の盲従を批判するFriedrich Schillerからの引用でした。これについて私たちはよく議論していたのです。そこで私は、ビラを書いたのはHansなのかと本人に尋ねました。そのようなことは訊くものじゃない、というのがHansの答えでした。私は彼のほのめかしを理解し、二度とそのような質問はしませんでした。

SPIEGEL :我々は黙らない。我々は諸君のやましい心なのだ。白バラは諸君に休息など与えはしない。ビラ第4号の最後の文は、巨大組織からの脅迫のように聞こえます。

Lafrenz :そのような意図があったのでしょうし、私にもそのように感じられました。背後に真の反乱計画があるのかと思いましたし、彼らが単なるふたりの友人ではなくなった感じがしました。

SPIEGEL :白バラという名前の由来はなんでしょうか。

Lafrenz :今でもそれは知りません。自分たちにそのような名前をつけたことはありませんでした。Hansは花が大好きだった、というのが、単純ですが答えじゃないでしょうか。

SPIEGEL :ビラ作りに誰が関与しているのかよく分からないまま、あなたはビラを配布したのですね。

Lafrenz :私はウィーンにいる叔母を訪ねました。謄写器を手に入れるためです。叔母には私たちと同じような考えを持っていることを知っていましたから。その後私はハンブルクに移動し、学校時代の友人Heinz Kucharskiにビラ第3号を1部手渡しました。彼はそれをドイツの北部で配布しました。列車での移動の間、私はずっと膝の上のカバンの中にビラを入れていました。列車内では常に警官が監視していたのです。 

SPIEGEL :秘密警察の特別班はビラの編集者をずっと探していました。移動している活動家がいるとふんでいたのです。不安ではありませんでしたか。

Lafrenz :いいえ、決して。正しいことをしていると確信していましたから。

SPIEGEL :あなたも友人も軍務に着いていましたが、比較的安定した暮らしをしていました。それなのに、あなたは全く危険を顧みませんでした。後にヒトラー暗殺を試みた Stauffenbergのような軍のエリートではなく、あなたは一般人として行動しました。 

Lafrenz :私は大量の切手や封筒など、疑われても仕方がないものを大量に買いましたが、そんなことは全く考えませんでした。私たちは皆同じ志を持ち、沢山の仲間がいると感じていたので、心強かったのです。 

SPIEGEL :第1号から第4号には、受け取ったビラを広めて欲しいと書かれていまが、ビラを受け取った人々の3分の2は秘密警察に届け出ました。 

Lafrenz :ええ、そうでしたね。私たちはとても孤立していたのに、それを全く分かっていませんでした。


最初の行動を起こしてから半年後の1943年1月、第5号「すべてのドイツ人に呼びかける!」が発行された。9000部に迫る大部数のビラが、配達業者や郵便でドイツの諸都市へと頒布された。今やビラの作成者は大衆に対し「国家社会主義の野蛮」との絶縁を呼びかけていた。この時代に彼らはすでに、戦後の統合ヨーロッパに連邦制の新ドイツ国家を打ち立てることを訴えていた。一方、秘密警察は大捜査を開始していた。  


それから約3週間後の1943年2月18日の朝、国防軍最高司令部がスターリングラードでの敗北を大ドイツ放送局を通じて発表した。ベルリンではJoseph Goebbelsが、スポーツ宮殿での演説を前に、「総力戦」への支持を国民に訴えるべく草稿を練っていた。その時HansとSophieは、ミュンヘンのLudwig-Maximilians大学の構内に入っていった。ふたりは講義室の前に数百部のビラ第6号を並べて置いた。草稿を書いたのは、彼らと親しい哲学教授Kurt Huber、49歳の仲間だった。

女子学友諸君!!男子学友諸君!スターリングラードの兵士たちは敗北し、我々国民は動揺している。第一次世界戦争に参加した一兵卒の天才的戦略は、無意味かつ無責任に33万人のドイツ軍兵士を死と壊滅に追いやってしまった。総統殿、我々はあなたに感謝いたします!

Lafrenz :ちょうど授業が終わり講義室から出てきたときでした。Hansが書類カバンとトランクを持って大学に来ているのを見て、どうしたのだろうと思いました。彼らが何をしようとしているのかは知りませんでした。少しも慌てているようには見えませんでした。Sophieは私に言いました。「あなたが借りたがっていたスキーブーツは家にあるわ。私が今日の午後戻れなかったら、持って行っていいわよ。」彼女とHansを見たのは、これが最後でした。

SPIEGEL :兄妹はビラを並べました。そして、束の一つを吹き抜けのある玄関ホールへとばら撒きました。その様子を見た用務員により、ふたりは通報されました。

Lafrenz :秘密警察はSophieとHansを別々に尋問しました。捜査課のリーダーにより個別に尋問されていたSophieは、兄が自白したことを知り、自分も自供しました。彼女自身は一行だって書いてはいなかったのに。

SPIEGEL :Sophieの尋問を行ったRobert Mohrは後日、彼女は「必死に」自分自身がすべての罪を被ろうとしていたと、彼女の父親に伝えています。彼はSophieに「さん付け」で話しかけ、自身を同調者と認めて極刑を逃れることを勧めたが、彼女はこれを拒否しました

Lafrenz :それはこのように考えるべきです。つまり、ベルリンではチビのGoebbelsが国民の前に登場して「諸君は総力戦を望むか」と大声で演説し群衆を熱狂させました。他方、ミュンヘンでは秘密警察の前に座るたったひとりの21歳の若い女性が、毅然として死刑判決を受け入れたのです。 

SPIEGEL :尋問の際に共謀者を問われたとき、Hans Schollは言いました。 「Lafrenzは自分とはなんの関係もない。」 

Lafrenz :当たっているとしても半分だけね。私たちはもう恋人同士ではありませんでしたから。

SPIEGEL :四日後に民族裁判所は、被告のHansとSophieそして学友のChristoph Probstに対して、斬首による死刑判決を下しました。Probstの書いたビラ第7号の草稿をハンスはカバンの中に所持していたのです。 

Lafrenz :私はScholl家の両親が恩赦を求める手助けをしました。法は99日間の猶予を認めていましたが、かつてヴァンゼー会議にも出席していた民族裁判所長官Roland Freislerはひどい金切り声で言い放ちました。「法だと。法など我々には必要ない。」私はChristoph Probstの妻の傍にいました。彼女は3人目の子供を出産していました。夫のための恩赦の嘆願書に署名をしていた彼女のもとに、シュダーデルハイムから連絡が入りました。判決から4時間も経たないうちに、死刑が執行されたとの知らせでした。

SPIEGEL :Sophie Schollは死刑執行の直前に、監房の中で書いています。「とても天気の良い日です。そして、私は行かなくてはなりません。もし私たちが何千もの人々を揺り起こし、奮い立たせることが出来ていたなら、私たちの命など問題ではありません。」熟練の肉屋でもあった死刑執行官のJohann Reichhartは、ナチズムの時代に3000件もの死刑を執行しました。後に彼は、彼女のように死んでいった者を見たことはなかったと述べています。

Lafrenz :彼女が逮捕される少し前のことです。道端に立つ私たちの隣には数頭の馬がいて、鼻を鳴らして息をしていました。Sophieは、「まあ、頼もしいわね」というと、笑いながらとある文具店に入り、私たちの活動のために必要な禁制品を買っていました。悪びれた様子もなく、無邪気でとても明るい笑顔でした。ときどき私の夢の中に、同じ笑顔で断頭台に歩いていく彼女の姿が現れます。

SPIEGEL :あなたの日記には、その日の晩の出来事について書かれています。「埋葬のために遺体を買い取った」と。

Lafrenz :私は医学生でしたので、そうでもしないと彼らの遺体を埋葬出来なくなるかもと心配したのです。そうして、彼らの遺体はペルラッハ フォルスト墓地 73-1-18 番に到着しました。棺は荷車で運ばれました。墓穴の向こう側には、ずらりと秘密警察の人員が立っていました。彼らは墓地全体を取り囲んでいました。 

SPIEGEL :あなたは埋葬に参列した、たったひとりの白バラのメンバーでしたね。

Lafrenz :殺されもせず、逮捕されてもいなかったのは、私くらいのものでした。彼らは棺を乱暴に墓穴に落とすと、ガタンと音がなりました。棺は並べられることなく、上下に重ねられました。私はショル家の母親が言うのを聴きました。「SophieはHansの上に埋葬されてしまうのね。」
出典 : SPIEGEL ONLINE





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最終更新日  2021年04月07日 18時56分05秒
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