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2021年04月07日
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あれから75年が経った。 Lafrenzはロッキングチェアから腰を上げた。彼女は、ごめんなさいね、家に探し物があるの、と言った。そして家の中に入ってしまうと、1時間ほど戻ってこなかった。窓にかかったカーテン越しには、居間のソファーに座って考え込む彼女の姿が見えた。


友人の死刑執行から数日後の1943年2月24日、大学の大管区学生指導者は

ヒトラーへの「忠誠表明」を呼び掛け、死刑執行された彼らを「恥知らずの卑劣な連中」と罵った。何百人もの学生たちが足を踏み鳴らしながら賛意を示し、Scholl兄妹を通報した用務員の栄誉をヒトラー式敬礼で称えた。まだ通報されていなかったTraute Lafrenz は、その数日間をScholl家の人々と共に過ごし、仲間内に存在していた有罪の証拠となりうる資料を廃棄し、危険にさらされた協力者に注意を促した。


それでもさらに逮捕者がでていた。1943年7月13日にはAlexander SchmorellとKurt Huber教授が処刑された。医学生Willi Grafは、1943年10月12日に断頭台で処刑された。彼はHans Schollと共に、「自由」、「くたばれヒトラー」、「虐殺者ヒトラー」などの言葉をミュンヘン市内の建物の壁に書いていた。6名の仲間が殺害された後、Lafrenzが構築していたハンブルクとの繋がりにより、ビラ第6号はスカンジナビア経由で英国へとわたり、「ミュンヘン大学学生による声明文」として英国の航空機がドイツにばら撒いた。ロサンゼルスで亡命生活を送っていたThomas Mannは、BBCのラジオ放送で称えた。「勇敢だ。素晴らしい若者たちだ。諸君の死は無駄ではなく、諸君は忘れ去られるべきではない。」


テラスに戻ってきたTraute Lafrenz の目は赤くなっていた。彼女が持ってきた氷の入った2つのグラスには、ジンジャエールが注がれていた。彼女は言った。「あなた、まだそこにいたのね。」 

SPIEGEL :もう少しお話しを伺ってもよろしいですか。

Lafrenz :望もうと望むまいと、人生はずっと続くものです。HansとSophiesの父親が、埋葬の後に何をしようとしていたか知っていますか。Scholl家の皆さんが家にいる時、彼は自暴自棄になって言いました。「さあ、私たちも動脈を切って死のうじゃないか。みんな一緒に。」これに反対したのは信心深い母親でした。「いいえ。まずは何か食事を作りましょう」 と。

SPIEGEL :数日後に一家は、家族の共同責任という理由で拘束されました。しばらくしてあなたも、秘密を知る人物として民族裁判所に引き出されました。

Lafrenz :私が処刑から逃れられたのは、血の裁判官と呼ばれたFreislerが私を愚かな小娘だと思ったからです。女どもに何ができるというのか、と。でも、学校時代の友人Heinz Kucharskiが私や他の多くの人々を裏切りました。私は彼を信頼してビラ第3号をハンブルクの彼のもとに持って行っていたというのに。私はハンブルク=フールスビュッテル刑務所に引き渡され、そこで何週間も尋問を受けました。まるでポーカーのように、私自身に命の選択権がなかったのです。一度私が尋問室に来た時には、ラジオからモーツァルトの「魔笛」のアリアが流れていました。「この神聖な殿堂には復讐を知る者はない...。」

SPIEGEL :あなたの恩赦の嘆願に対する秘密警察の見解が書き残されています。「後日に行われた事情聴取で Lafrenz は自身が売国奴であると認めた。また彼女は、警察での拘留中や、その後数回行われた事情聴取の際に、反省の様子を見せたことはなかった。」

Lafrenz :秘密警察は私を降伏させて、協力者の名前を聞き出したかったのです。彼らは私の母を呼びつけたことがあります。私に対し、二度と母には会えないだろうと言いました。私は子供のように泣いてしまいました。でも私には、誰のことも裏切らないという決心がありました。

SPIEGEL :残念ながらそのような考え方をする人はあまりいなかった。

Lafrenz :Christoph Probstが断頭台で処刑された後、ナチスは彼の妻に断頭台使用料 600ライヒスマルクの請求書を送りつけました。Scholl家では、見知らぬ人が家の玄関先に来てこう言いました。「こんにちは。あの、自分の子供たちの首がはねられた親の顔をちょっと見てみたいのですが。」人々の心の中はどうなっていたのでしょうか。ドストエフスキーは書いています。「人間の心は広い、広過ぎるくらいだ。出来ることなら少し縮めてみたい。」

SPIEGEL : 60年代初頭、Adolf Eichmannがイスラエルで裁判にかけられていたころ、心理学者のStanley Milgramは一般市民の行動心理を実験しました。それによれば、たとえそれが良心に反する事だとしても、人は権威主義的な指示に従ってしまうのだそうです。被験者は、他の実験の参加者に電気ショックを流すよう指示されます。たとえ実験の参加者(本当はサクラの役者)が叫んで実験中止を求めても、被験者の多数は電気ショックを加え続けました。少なくとも理論上は、死に至るまでそうしたことになります。

Lafrenz :悪とは陳腐なものですね。アメリカ人医師Susan Benedictはナチ時代におけるドイツの安楽死について一冊の本を書きました。私はこの本の執筆に参加しています。同書にはMeseritz-Obrawalde精神病院の看護婦について考察している章があります。彼女たちは数百人の患者を殺害しました。20年後の1960年代になり、ミュンヘンの安楽死裁判で告発されました。ほとんどの看護婦は、権威のある医師たちに敬意を払って行ったことだと弁明し、自らの行動に対する責任を決して認めなかった。彼女たちの多くは信心深いカトリック教徒でしたが、国家に奉仕する義務のほうが宗教的な価値観より大切だったのです。さらに彼女たちは、道徳的な優越感を感じていたと思います。

SPIEGEL :死刑執行官Reichhartは、正装姿で白バラのメンバーを斬首しました。戦後になると彼は自分の立つ側を変えて、156人のナチスと戦争犯罪人を処刑し、ニュルンベルク裁判の開始前には、アメリカ人に絞首台の使い方を手ほどきしました。老齢の宰相Konrad Adenauerは、タクシー運転手連続殺人事件後の1964年に死刑制度の再導入を求めた際、Reichhartはこれに反対して言いました。「私はもう、二度とやらないでしょう。」

Lafrenz :そのような話を聴くと途方に暮れてしまいます。私たちから人間性を奪うものは何か。そして私たちを再び人の道へと戻すものは何か。これらが瞬く間に起きてしまう出来事だからといって、絶えず目を光らせている必要は無いと言えるのでしょうか。悪を見て見ぬふりをしてしまったら、いつの日にか悪は復活するのではないでしょうか。


Traute Lafrenz は無言で、家の前を流れる河に目を向けた。遠くで蒸気船がミシシッピ河を横切っている。ヨンジズ アイランドの夕方。河はとても静かで、コオロギが鳴き、木々の後ろにゆっくりと夕日が沈んでいく。


1944年の秋、たくさんの白バラの協力者たちが逮捕された。その頃 Lafrenz は囚人として家畜運搬車両に乗せられ、ハンブルクからベルリンのモアビットに移送された。さらに彼女は他の抵抗運動の闘士たちと一緒にコトブスの収容所へと移った。ある日、アウシュヴィッツからの輸送車がコトブスの収容所に到着した。その時はじめてアウシュヴィッツのことを聴いたと Lafrenz は言っている。


1945年2月、彼女はバイロイトへと移送された。反逆罪、敵方ほう助、国防軍攪乱の罪で、再び処刑の危機が迫っていた。同年4月14日、裁判開始のほんの数日前に、アメリカ軍が刑務所を解放した。 Lafrenz と他の収監者たち(その中にはハンブルク時代のかつて担任教師Erna Stahlもいた)は、爆弾投下を恐れて屋根に白いシーツを張っていた。


戦後Traute Lafrenz はミュンヘンで医学の勉強を続け、3年後にカリフォルニアのバークリーで学位を得た。その後彼女はアメリカに留まった。眼科医のVernon Pageと結婚し、3人の息子とひとりの娘に恵まれた。そして、シカゴで発達障害児のための養護学校の校長となった。1980年代初頭に、彼女はシカゴでかつてのクラスメートの Helmut Schmidtと再会した。首相職の任期を終えた彼は、講演のためシカゴを訪れていた。聴衆の中にいた Lafrenz は呼び掛けた。「ねえ、おしゃべり男」と。そして彼女は彼に手をさしだした。

SPIEGEL :自身の過去について、あなたは何年も話しをしなかった。あなたの子供たちは大人になってから行ったヨーロッパ旅行の際に、母親がドイツで抵抗運動に参加していたことを初めて知りました。なぜずっと話さずにいたのでしょうか。

Lafrenz :私は大げさにしたくなかったのです。戦後のドイツ社会にはScholl兄妹のような人物像を求める大きな要請がありました。アメリカ人もまた、手本となるドイツ人像を早急に必要としていましたが、そのようなものはありませんでした。そこで彼らは純粋な殉教者という神話創出を後押して、そのイメージを聖像化しました。Sophie Scholl関連だけでも相当数の映画や書籍がありますから、彼女が抵抗運動を率いたと信じてしまうかも知れません。彼女はビラを1枚も書いていなかったのに。

SPIEGEL :それでもやはり、今日に至るまで、特にSophieの名を冠した学校、通り、各種団体があります。

Lafrenz :彼女が受け取ったものに対して異論はありません。でも、彼女とHansが超人的なヒーローに、つまり聖人化されてしまったことには違和感を感じます。ドイツ人はもう、自分たちが何の行動も起こさなかった理由に迷う必要は無くなりました。なぜなら、ドイツにはずっと立派で善良なScholl兄妹がいたからです。でもそんなふたりだって、ヒトラーに惑わされたことはあったし、弱みも持っていました。彼らはこの上なく勇敢であると同時に軽率でもありました。場合によっては、向こう見ずな行動を取ったり、自身の信念のために他人の生命を危険に晒したこともありました。ただし、このような異なる視点から彼らを検討する余地などはありませんでした。そんなことをすれば、神話が台無しされてしまい、彼らが人間として示されしまうからです。もしそうなると、ドイツ人の一人ひとりは自身の罪と向き合わねばならなくなってしまいます。私たちは誰も聖なる存在ではなかったし、誰もが私たちのように行動する可能性があったでしょう。確かに私はビラを撒きました。でもそれはまったく取るに足らないことなのです。

SPIEGEL :かつての強制収容所の収容者が、ビラのことを知った収容者たちの反応について報告しています。「ミュンヘンで何が起きているのか聴いたとき、私たちは抱き合って拍手喝采しました。こんな状況のドイツにも、まだ人間がいるのだ。」

Lafrenz :人間である、とはどいう言うことでしょう。学校長だった頃に、私は質問されたことがあります。発達障害児と一緒に作業をすることは何をもたらすのか、そしてそれは何の役に立つのか。私は答えました。私は子供たちの役に立ちたいのです。子供たちが自分自身を人間として感じられるように。挑戦を乗り切れるように。多くの子供たちにとっては、身体を洗ったり、ナイフとフォークで食事したりすることです。絵画を眺めたり、ドストエフスキーを読んだり、また、もっぱら自分の良心に従うことで、人間であることを感じる子供たちもいます。どれも人生では大切なことです。誰もが自身のやるべきことをやらなければなりません。

SPIEGEL : Lafrenz さん、お話を聞かせてくださり有難うございました。

聴き手: #Claas Relotius 記者

出典 : SPIEGEL ONLINE






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最終更新日  2021年05月16日 16時24分31秒
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