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ランドルフ・スコット、彼はB級西部劇の王者だったと私は思っている。今の若い人は名前もご存知ない方が多いだろうが、映画館で彼の西部劇をみて、しびれっ放しだったものだ。昭和26、7年(1951)頃、私が中学生のときである。映画館の前を通るとランドルフ・スコットのポスターが貼ってあると、もう入らずに通り過ぎることは出来なかった。「地獄への道」「スポイラース」「西部魂」「サンタフェ」など、時間の経つのも忘れて見たものだった。 彼は1898年1月23日、バージニア州オレンジ郡で、織物工場の技術管理者の6人の子供の中で唯一の男子としてこの世に生まれた。ハイスクール卒業後、19歳で陸軍に入隊しフランスで従軍する。その後ジョージア工科大学に進みアメリカンフットボールの選手として活躍、オール・アメリカンの候補にまでなったが背中を痛めてその夢を断念することになる。ノースカロライナ大学に移り、父の跡を継ごうと織物技術を修得するが中退し、父親が勤務していた織物工場に会計士として勤務した。しかし1927年頃、演劇に強い興味を示し父親のツテを頼って幸運にもハワード・ヒューズと出会い、ヒューズの取り計らいにより、『三人水兵恋の行脚』(1928年)へエキストラ出演。その後、数本の映画に端役で出演、そしてセシル・デミルの作品のテストを受け、出演には至らなかったが、彼の勧めでパサディナ・プレイハウスに入学し、演劇の訓練をした。彼は幾つかの舞台に出演後、1931年にパラマウントと週給700ドルで7年契約を結ぶ。こうしてやっと映画俳優の足がかりをつかみ、翌年には「砂漠の遺産」(1932年)で主役を獲得した。ここから二枚目スターとして西部劇を中心にした活躍が始まったのである。彼の他の西部劇作品としては、「ネバダ決死隊」「捨身の一撃」「静かなる対決」「昼下がりの決闘」などがある。 彼の作品系列で異才を放っているのは初期の作品だ。シャーリー・テンプルちゃんと共演した「農園の寵児」、アステア&ロジャースのミュージカル「艦隊を追って」、それに戦争映画「トリポリ魂 海兵隊よ永遠なれ」などがある。これは興味深いことだ。 こうして彼は「昼下がりの決闘」を最後に映画界から身を引き、1987年3月2日、この世を去った。享年89歳だった。結婚は2回している。
2009.11.30
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SMJ バーブラ・ストライサンド/追憶バーブラ・ストライサンド、彼女は歌手、女優、作曲家、映画プロデューサー、映画監督という一人5役のエンターテイナーで、アメリカで最も成功した大スターのひとりだ。彼女は1942年4月24日、ニューヨーク市のウィリアムズバーグでユダヤ系の家族のもとに生まれた。1959年、エラスムス・ホール高校を優秀な成績で卒業、高校ではニール・ダイアモンドと共に合唱部に所属していた。ニューヨークのブルックリンで育ち、1962年に歌手デビュー。代表曲に「ピープル」、「追憶」等がある。彼女の映画デビューは、ブロードウェイでのヒット作「ファニー・ガール」(1968年)の翻案物、これが大成功を収め、1968年のアカデミー賞最優秀女優賞を獲得した。だが、キャサリン・ヘップバーンと一緒の受賞となり、これはオスカー史上初の引き分けとなったのである。 これに続く2本の映画、ジェリー・ハーマンの「ハロー、ドーリー!」(1969年)とアラン・ジェイ・ラーナーとバートン・レーンの「晴れた日に永遠が見える」(1970年)もミュージカルであった。4番目の映画「フクロウと子猫ちゃん」(1970年)はブロードウェイ演劇を下敷きにしたものだ。 彼女はオリジナルのコメディーに出演、「おかしなおかしな大追跡」(1972年)ではライアン・オニールと共演し、「またまたおかしな大追跡」(1974年)と「追憶」ではロバート・レッドフォードと共演した。 彼女の2番目のアカデミー賞は、『スター誕生』(1976年)の歌「エバーグリーン」の作曲家として、オリジナル歌曲賞を獲得した。この賞を女性が獲得したのは史上初めてのことである。バーブラは数多くの映画を製作し、1972年にはバーウッドフィルムを興している。「愛のイエントル」(1983年)では、プロデューサ、監督、脚本、主演を兼任、「サウス・キャロライナ/愛と追憶の彼方」(1991年)もこの方法で撮影された。スティーブン・スピルバーグは「愛のイエントル」を傑作と呼んだそうである。サウス・キャロライナ 愛と追憶の彼方彼女は、オスカー2回、エミー賞6回、ゴールデングローブ賞11回、グラミー賞10回、トニー賞1回、ケーブルエース賞2回、アメリカ映画協会の生涯成績賞、そのほか数多くの賞を取っている。1995年、グラミー生涯成績賞を取った。2005年、彼女の米国でのアルバム売り上げは、女性アーティストで全米トップセールス記録を達成した。私生活ではバーブラは2度結婚した。彼女の最初の夫は俳優のエリオット・グールドで、1963年から1971年まで結婚していた。彼らには一人息子のジェイスン・グールドがおり、彼も俳優になっている。彼女の2度目の結婚相手は俳優のジェームズ・ブローリンで、1998年に再婚した。彼らのあいだに子供は生まれていない。女傑バーブラも67歳、今一度”大いなる風”を起こしてもらいたい。
2009.11.29
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トミー・リー・ジョーンズ、彼を中々の役者と認識したのはスティヴン・セガールの「沈黙の戦艦」である。トミーはこの映画で戦艦乗っ取りを企てるテロリストのボス役。血も涙もない男を演じ、ラストではセガールと壮烈な死闘の連続だった。沈黙の戦艦この前にデビュー作「ある愛の詩」でライアン・オニールのルーム・メイトで顔をみせているが、この方ではとんと記憶に残っていない。彼は1946年4月15日、テキサス州で生まれた。父親は油田で働き、母親は婦人警官。高校卒業後、家計を助ける為に父親の働く油田会社に就職し、寝る間も惜しんで独学で勉強に打ち込んだ。1年後、奨学金を得てハーバード大学英米文学部に進学する。夢は文学と演劇の教師になることで、大学では演劇部に所属、寮のルームメイトには後の副大統領となるアル・ゴアがいた。トミーは次第に舞台に立つ事を夢見るようになり、教師から方向転換、大学卒業後はブロードウェイに憧れてマンハッタンへと出た。そして、小さな食堂で皿洗いの仕事をしながら、芝居の稽古に励む。その頃、友人と受けた映画のオーディションに合格、1970年「ある愛の詩」で映画デビューした。だが、映画は大ヒットしたものの、製作元パラマウント映画の上層部から「顔つきがキツい」とクレームがつき、苦い映画デビューになったそうである。1970年代~1980年代はテレビ出演が主で、映画は出演しても脇役だった。しかし「JFK」でアカデミー助演男優賞にノミネートされ、「沈黙の戦艦」に出演してから注目されるようになった。1993年の「逃亡者」ではハリソン・フォード演じるキンブル医師を追い詰める捜査官役でアカデミー助演男優賞を受賞した。以降、主演作品に恵まれるようになり、2005年には自身が監督・プロデュース・出演、「メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬」でカンヌ国際映画祭主演男優賞を受賞する。 メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬以後、数多くの作品に出演、映画ファンを楽しませてくれている。主な作品に「ハワード ヒューズ物語」「告発のとき」「ノーカントリー」「追跡者」などがある。 私生活では、自身の不遇時代に世話になった妻ひとりを守っているようだ。彼は63歳、まだまだ暴れて貰いたいものだ。
2009.11.28
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一生涯保証付・一点もの★[直筆サイン入り写真] ファラ・フォーセット Farrah Fawcettファラ・フォーセット=メジャーズ 彼女はシルヴァー・ブロンドの髪、グリーンの瞳、それに抜群のプロポーションででテレビ画面狭しと暴れまくった。あの爆発的な人気シリーズ「チャーリーズ・エンジェル」のジル役で彼女のファンになった人も多かったと思う。マリリン・モンロー、リタ・ヘイワースと並べられるほど、アメリカでは人気の高いピンナップ・ガールだった。ちょっと頭のたりなさそうな、それでいて現代的なグラマー・ガールというところが一般受けしたのだろうか。ファラは1947年2月2日、テキサス州コーパス・クリスティで生まれた。父は石油業者で、二人姉妹の次女。ダイアンという名の姉がいる。子どもの頃から天性の運動能力を発揮した。テニスの腕前はプロ級であり、かつての夫、リー・メジャースとよくダブルスのトーナメントに出場していた。テキサス大学在学中にミス・カレッジに選ばれ、その写真がハリウッドのエージェントに送られたのがデビューのきっかけとなり、CMを経てテレビドラマに進出、1969年には、クロード・ルルーシュ監督の「あの愛をふたたび」で映画デビューを果たす。そして1976年9月、フォーセットはテレビドラマ『チャーリーズ・エンジェル』の第1シーズンの放映で、絶大な人気を博し、彼女は急速にキャリアの頂点へ駆け上がったのである。同じ頃、売り出された水着姿のポスターは、世界中で1,200万枚を売り上げたという。そして、彼女は“乱れたタテガミのようなヘアスタイルと美しい笑顔の憧れの人物”として知られるようになったのである。そのヘアスタイルは「ファラ・カット」と呼ばれ、米国にとどまらず世界的な現象となった。以降、数多くの化粧品、美容品メーカ等のモデルとして活躍、中でもファベルジェ(英語)の彼女の写真をラベルに使ったシャンプーは日本でも販売され、当時の日本の若い女性達の人気の的になった。『チャーリーズ・エンジェル』はビッグヒットとなったが、フォーセットはわずか1年間の出演ののち、映画出演のために降板、第2シーズンからはジルの妹という設定で、シェリル・ラッドがメンバーに加わった。彼女は映画出演のためと言っているが、当時の夫でTVシリーズ「600万ドルの男」の人気者リー・メジャーズに煽られてギャラ・アップの要求をし、断られたために降りたというのが真相らしい。フォーセットは1970年代、1980年代を通して、映画や雑誌でヌードになることを拒み続けた女優として知られているが、1995年に発売されたプレイボーイ誌上で遂にヌードを披露、世間を騒がせた。その号は世界中で記録的な4千万部を売り上げ、1990年代に発行されたプレイボーイ誌のベストセールスを達成したそうである。映画では、「スペース・サタン」「2300年未来への旅」「Dr,Tと女たち」「いくつもの朝を迎えて」などの作品があるが、これはと云えるものがないのは残念だ。 私生活では、1973年に『600万ドルの男』で知られるリー・メジャースと結婚。芸名もファラ・フォーセット・メジャースとした。当時、テキサス出身のフォーセットは南部の言葉の訛りに悩んでおり、一時は女優をあきらめモデルの道を模索していた。夫リー・メージャースの応援もあり、訛りを克服した彼女は女優としての道を歩むことになった。しかし1979年からライアン・オニールと不倫関係となったために別居し、1982年に離婚する。1980年からファラはオニールと同棲し、1985年には二人の間に息子レドモンドが誕生した。二人は結婚しないまま17年の同棲生活を送ったのち破局したが、フォーセットの死の間際まで友人関係は続いたのである。実生活上のパートナー、ファラ・フォーセット&ライアン・オニール初共演作!薔薇の秘密 2006年10月、彼女は肛門癌と診断され、摘出手術を受けた。『チャーリーズ・エンジェル』の初代エンジェル仲間、ジャクリーン・スミスとケイト・ジャクソンも、共に乳ガンを克服しており、ファラの闘病をサポートした。なんとも麗しい仲間意識だと言えよう。2007年2月2日、60歳の誕生日に通信社はファラが癌を克服したと伝えた。彼女は次のコメントを出した。「今日は私と私の家族にとって、とても幸福な日です。残念ながら病気と闘い続けなければならない方々に、私のニュースが何らかのインスピレーションを与えることができたらと願っています」と。2007年5月、3ヶ月検診において再発を確認、同年9月ライアン・オニールに伴われ幹細胞治療のためにフランクフルト大学病院へ転院。2009年4月、肝臓へ転移したためカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)付属病院へ入院する。2009年5月15日、NBCテレビにて、日記形式の90分ドキュメンタリー「Farrah's Story」を放送した。2年半にわたるガン闘病生活をライアン・オニールがホームビデオ・カメラで撮影し、自身がナレーションを担当、ファラ自身は本作を「難病患者へ勇気を送るためのもの」と位置づけていた。そして金曜夜の時間帯で過去1年以上(この中にはオリンピック中継も含まれる)で最高の視聴率を挙げ、推定で8900万人が視聴したのだった。つい最近亡くなった南田洋子のケースを思い起こさせる。2009年6月25日彼女は天国の階段を上がっていった。同日にマイケル・ジャクソンが急死した事で、マイケルと比べ、扱いは小さいが、彼女の死は世界各国のメディアで報道されたのだった。6月30日、ロサンゼルスの教会で近親者による葬儀が行われ、ライアン・オニールやケイト・ジャクソンを初め参列者は数百人に上ったそうである。元夫のリー・メジャースは、次にように弔意を表した。「彼女は地上のエンジェルだった。そして今、永遠のエンジェルとなった。」
2009.11.27
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★一生涯保証付・一点もの★[直筆サイン入写真] ハリソン・フォード Harrison Ford (インディジョーンズ クリスタルスカルの王国)ハリソン・フォード、「スター・ウォーズ」のハン・ソロは宇宙のジョン・ウェインとか、「カサブランカ」のハンフリー・ボガートとか言われているらしいが、本人は気にもしていないそうだ。ガッシリした体に精悍な顔が魅力と云えるが、静かな大人の雰囲気が中々いい。「スター・ウォーズ」「インディジョーンズ」ですっかりスターに納まった。 ハリソン・フォードは1942年7月13日、イリノイ州シカゴで生まれた。父親のクリストァー・フォードはアイルランド系アメリカ人で元俳優、母親のドロシー・フォードはラジオ女優でロシア系ユダヤ人。身長185cm。70年、俳優デビュー後の不遇時代、腕のいい大工として知られていた。アメリカン・ゾエトロープ(コッポラのスタジオ)でも俳優でなく大工(装置部)として雇われていたことがある。この頃、彼は大工か俳優の道を選ぶかでまだ迷っていたらしい。大工の腕前は、主演映画「刑事ジョン・ブック 目撃者」でも垣間見ることが出来る。彼は実際にあごに傷があり、「インディ・ジョーンズ/最後の聖戦」のインタビューによると、これは、20代の頃に自動車事故で負ったものらしい。ジョージ・ルーカス監督の映画「アメリカン・グラフィティ」で注目され、「スター・ウォーズ」旧3部作のハン・ソロ役でスターの仲間入りを果たす。他に代表作として「インディ・ジョーンズ」やジャック・ライアンシリーズ等がある。2001年のギネスブックでは最も裕福な俳優とされた。2002年の「K-19」での彼の出演料は2,500万ドル以上と高額だが、1985年に「刑事ジョン・ブック 目撃者」でアカデミー最優秀主演賞にノミネートされただけで、アカデミー賞にはとんと縁がない。他の出演作品には「ブレードランナー」「エアフォース・ワン」など多数ある。 ハリソンは1964年にメアリー・マーカットと結婚、2人の子供をもうけたが1979年に離婚した。1983年にメリッサ・マティソンと再婚し、息子と娘をもうけたが2003年に離婚。現在は女優のキャリスタ・フロックハートと婚約している。最初の妻から「ルックスが俳優向きだ」とアドバイスされた事が俳優を志すきっかけとなった。現在飛行機とヘリコプターのライセンスを持ち、ワイオミング州ジャクソンホールに800エーカー(3.2km2)の農場を所有する。過去にヘリコプターや飛行機で人命救助を行い、インディ・ジョーンズばりの私生活と話題になった。彼は気に入った映画の脚本がない場合は仕事をせず、山奥でのんびりと過ごすことでも有名だ。彼も67歳、これから老境にさしかかる。頑張って長生きしてもらいたい。
2009.11.26
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【ポスター】愛はひとりキャンディス・バーゲンキャンディス・バーゲン、彼女が「グループ」でスクリーン・デビューしたとき、その気品漂う美貌に”グレイス・ケリーの再来”と騒がれた。彫が深く整った容貌、知的な雰囲気、まさしく「グループ」の中で、彼女は光りを放っていた。キャンディスは1946年5月9日、カリフォルニア州ロサンゼルス・ビバリーヒルズで生まれた。スウェーデン系。父は腹話術師のエドガー・バーゲン。母フランシス・バーゲン(FrancesBergen)も女優。幼い頃は名優チャールトン・ヘストンやウォルト・ディズニーに可愛がられ、ホームパーティではフレッド・アステアとのダンスを楽しんだこともある。華やかな何不自由ない芸能界一家での生活を嫌い、14歳でスイスに留学。ペンシルベニア大学で美術史と絵画を専攻。彼女はカメラと文筆で身を立てるつもりだった。大学在学中にモデルをしていたところ、シドニー・ルメット監督の目に止まり、1966年「グループ」で映画デビュー。「ソルジャーブルー」「続 ある愛の詩」「弾丸を噛め」などに出演、1979年、「結婚ゲーム」ではアカデミー助演女優賞にノミネートされ、実力派として評価される。だが、その一方で、社会の動きをみつめる自分を失うことなく、ライフ誌などに写真とエッセイを送り続けていた。 弾丸を噛め「買物やティータイムを楽しむだけの女にはなりたくない」と、彼女は戦争や女性の自立など、さまざまな社会問題に目を向けながら、女優として写真家として、進む道を模索し自分を見つめ続けた。恋多き女と噂されながら、結婚に否定的だったキャンディスが家庭に憧れ始めたのは、30才を過ぎた頃のことだった。そして80年、彼女はヌーヴェル・ヴァーグの先駆者、47歳のルイ・マル監督と34歳で電撃結婚したのだ。結婚後も「ベストフレンズ」や「ガンジー」「風とライオン」「THE WOMEN」などにも出演、演技の幅を拡げた。 そして1988年から1998年までテレビシリーズ『TVキャスター マーフィー・ブラウン』に主演し、エミー賞とゴールデングローブ賞主演女優賞を受賞。 このドラマは全米では一大ムーブメントを巻き起こしたメガヒット・シットコムで、10年に渡って製作された。映画女優としては低迷していた彼女にとっても復活のチャンスとも言える番組でもあり、どちらかと言うと美人だけれど硬い印象のあった彼女のコメディエンヌとしての才能を全世界に知らしめた画期的作品でもあった。写真家として「ヴォーグ」、「コスモポリタン」などのファッション誌や「ライフ」誌などに発表した作品は高い評価を得ている。私生活ではルイ・マル監督と結婚し、1995年に死別した。現在は再婚している。マルとの間に娘が一人生まれた。彼女は現在63歳、もう一頑張りしてほしい。
2009.11.25
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◆一生涯保証付◆[直筆サイン入り写真] (ロッキー ROCKY) シルヴェスター・スタローン & タリア・シャイアシルヴェスタ・スタローン、彼の名を忘れても、「ロッキー」という映画のことはほとんどの若者が知っているだろうと思う。古くはカーク・ダグラスの「チャンピオン」、ポール・ニューマンの出世作「傷だらけの栄光」など、ボクシングの世界を描いた作品は数多いが、「ロッキー」の甘いハッピーエンドは、どんな若者にもすんなり受け入れられる不思議な魅力が存在していた。ロッキーロッキー2ロッキー3シルヴェスタはボクシングというよりも、ボディビルをやっていたと言う方が似合いの体をしているが、鍛え上げた体をしているのは間違いない。これまで全く無名の彼が大成功を成し遂げたのは何故か。この”アメリカン・ドリーム”の物語は、建国200年祭に湧くアメリカ社会に拍手喝采で迎えられ、大ヒットした。それまで国民の間に鬱屈していたベトナム戦争終結後の国家、政治などへの不信感を、見事に拭い去る”無名のボクサーの成功物語”が、彗星の如く煌めいたのである。75年のある日、建国200年祭の記念イベントとして企画されたボクシングのタイトルマッチを見ていたシルヴェスタは、突然インスピレーションを得た。リングで対戦していたのは、モハメド・アリと挑戦者チャック・ウェブナー。ウェブナーの戦いぶりに共感したシルヴェスタが、愛と栄光を手に入れるストーリーをわずか3日間で書き上げたのである。それまでクズ同然に扱われていた無名俳優の男が”天恵”を得た瞬間だった。彼は脚本をUA社に持ち込んだ。条件は自分に演じさせることだった。サクセスストーリーに惚れ込んだ製作会社は当初2万5千ドルの値をつけたが、主役には同意しなかった。貧しい生活のなか、妻の出産を控えていたシルヴェスタにとって、それはノドから手がでるほど欲しい金だった。しかし、彼ははねつけ「主役は自分でなければ売らない」と言い張った。脚本の値段は最終的に36万ドルまでつり上がったが、彼はあくまでもクビを縦に振らず、会社は渋々、主役をスタローンに決定した。「ロッキー」は”スター不在”のまま、格安の製作費110万ドルでクランクイン、製作日数28日間で完成した。低予算に貢献したのが、ジョン・G・アヴィルドセン監督。彼はハリウッドで”低予算映画の巨匠”という異名を持つ男だ。「最後のゴングが鳴っても、まだ立っていられたら、俺がゴロツキじゃないってことを、初めて証明できるんだ」これは試合の前夜、試合にかける熱い思いを恋人エイドリアンに打ち明ける場面のセリフだ。長い下済み生活からの脱却をこれ一本に懸けたシルヴェスタの入魂の演技は、全米興行収入第1位、アカデミー作品賞、監督賞、編集賞に輝く歴史的な作品となって結実した。会社はシリーズ化を決定、彼は一躍”アメリカン・ドリームの体現者”となったのである。シルヴェスタ・スタローンは1946年7月6日、ニューヨーク州ニューヨーク市マンハッタン区生まれ。 身長177センチ。父はイタリア系アメリカ人で美容師、母はアイルランド系アメリカ人で、元ダンサーで占星術師として著名なジャッキー・スタローン。弟のフランク・スタローンも俳優。次男のセイジ・スタローンは俳優・監督。彼はニューヨークの無法地帯ヘルズ・キッチン(「地獄の台所」、マンハッタンの西34丁目から西59丁目にかけてと8番街からハドソン川河畔までの区域、アイリッシュとシチリアン多数在住)に生まれ育つた。12歳の時に両親が離婚したことを切っ掛けに次第に素行不良になり、小学校から高等学校修了までに14の学校から放校処分を受け、母親の経営するボクシングジムで体を鍛えながらも荒れた生活を続けた。体育奨学金を得て入学したレザンアメリカンスクール在籍時に演劇に興味を持ち始め、マイアミ大学の演劇学科に入学するも授業料の支払いが困難となり2年で中退。23歳で生誕地のニューヨークに戻り本格的に俳優を志すも、与えられる役は常に台詞の少ない端役ばかりでポルノ映画への出演やボディーガードなどをこなして日銭を稼ぐ極貧生活が長く続いた。そして、75年、29歳の時の”天恵”がメガスターへの出発となったのだ。2作目からは監督までやり、今やロッキー・シリーズはファイナルを迎えたのだ。 ランボー彼はもう一つのシリーズもの、「ランボー」シリーズでも快調である。今やアクションスターとして押しも押されもしない存在だ。結婚歴は下積み生活中にサーシャ・チャックと結婚。二人の男児をもうけた後、離婚。1986年にブリジット・ニールセンと再婚し翌年離婚(「コブラ」で共演した仲であった)。 1996年に女優兼モデルの女性ジェニファー・フレイヴィン (Jennifer Flavin) との間に一女をもうけ、1997年結婚。2002年5月に三女が誕生した。
2009.11.24
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ジェーン・フォンダ、彼女の演技に私は涙をこぼしていた。フォンダ親娘の永年にわたる確執を知る私は親娘の和解を願っていた。それが見事な形で表現されたのだ。名優フォンダの遺作となった名作「黄昏」、この作品は娘ジェーンが父のために映画化権を私財を投げ出して買取り、マーク・ライデルの監督、老夫婦役に父ヘンリー、妻役に名女優キャサリン・ヘップバーンを配し、避暑地を舞台に”人生の黄昏”を描いたものである。黄昏父ヘンリーは娘ジェーンのオファーを快諾、入魂の演技を見せた。そして、娘の望んでいた通り、81年度アカデミー主演男優賞を獲得。ゴールデン・グローブ主演男優賞とのダブル受賞になった。フォンダは永年の映画生活で、アカデミー主演男優賞を一度も手にすることが出来なかった。彼の心残りはそのことだった。それを知る娘ジェーンがその場を提供したのだ。父に心を開いたジェーンは父のために喜び、その頃には寝付いていた父の代理でオスカーを受けた。「ああ、パパ! 本当に嬉しいし、パパを誇りに思っているわ」と、アカデミー授賞式の会場で、ジェーンは父の病床に向かって叫んだのだ。ジェーンは1937年12月21日、ニューヨーク州ニューヨーク市で生まれた。父のヘンリー・フォンダ、弟のピーター・フォンダも俳優で、姪のブリジット・フォンダも女優。49年、父ヘンリーは母フランシスに離婚を宣言、そのショックがもとで翌年4月、妻は自殺する。それにも拘わらず、父はフランシスの死後、3ヶ月で再婚。この”事件”以来、12歳のジェーンは父親に強い反発を覚えるようになった。彼女は”アメリカの良心”と謳われ、名優として賞賛されていた父にことごとく反発、57年、絵の勉強のためにフランスに渡った。だが、目的を果たせず半年足らずで帰国。その後、リー・ストラスバーグの演劇学校で学び、雑誌のモデルなどをして糊口をつないだ。そして、1960年に「のっぽ物語」で映画デビュー。63年、ルネ・クレマン監督に請われてフランスへ渡り、「危険がいっぱい」に出演。この時、パリ留学時代に面識のあったロジェ・ヴァディムと再会、「女優の美を磨く天才」といわれていたヴァディムに、ジェーンはたちまち恋をしていまう。危険がいっぱいバーバレラ獲物の分け前彼女はヴァディム作品「バーバレラ」「獲物の分け前」などに出演、知性に溢れ、的確なアドバイスをしてくれるヴァディムにジェーンは大きなやすらぎを覚えた。それは子供たちに常に高圧的だった父からは決して得られないものであった。二人は結婚した。あくまでも反対だったヘンリーは式には姿を見せなかった。60年代後半、ジェーンはベトナム戦争のニュースに大きな衝撃を受け、69年10月、インドで貧困の中に生きる民衆の姿を目の当たりにし、”政治”に目覚めた。そして、70年になるとベトナム戦争反対のデモに参加する。1971年には「コールガール」でアカデミー主演女優賞を受賞するも反戦運動を続けたため、女優の仕事は激減していった。そんなジェーンの心に光を与えたのは、左翼運動家の指導者、トム・ヘイドンだった。ジェーンは別居中のヴァディムと73年に離婚、ヘイドンと結婚、女優の仕事も再開し、1978年に「帰郷」で2度目の主演女優賞に輝いた。コールガール帰郷仕事に恋に、さまざまな挫折を体験したジェーンは、ようやく父の”人生”を認めることが出来るようになってきた。彼女は老境に入った”アメリカの名優”にオスカーを取らせてやりたい、そう決心したジェーンは81年、「黄昏」を企画したのであった。それは父娘共演の最後のチャンスでもあった。永年の確執を解消し、ジェーンが父を天国に見送ったのは、”オスカーの夜”から5ヶ月後のことだった。
2009.11.23
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◆一生涯保証付◆[直筆サイン入り写真] ジョン・トラボルタ (ジョン・トラヴォルタ / John Travolta)ジョン・トラヴォルタ、彼の「サタデー・ナイト・フィーバー」は土曜の夜ディスコで抜群の踊りを見せる若者が、成長する姿を描いた青春映画だ。全編にザ・ビー・ジーズの音楽を散りばめたこの作品の大ヒットで、映画初主演のトラヴォルタは一躍スーパースターの仲間に入り、世界中にディスコブームを巻き起こした。彼の踊りの素晴らしさには圧倒される。ジーン・ケリーも真っ青というくらいだ。イタリア系のルックスからは想像も出来ない若々しいセックス・アピールが、ステップを踏み始めた途端に立ち上ってくる。きっとダンスシーンで痺れた人は多かっただろう。続くミュージカル作品「グリース」もまたまた大ヒット。この映画、トラヴォルタよりもオリヴィア・ニュートン=ジョンの可愛いらしさが凄く印象に残った。グリース彼は1954年2月18日、ニュージャージー州イングルウッドで、6人兄弟の末っ子として生まれた。父親のサルヴァトーレ(1995年没)はイタリア系アメリカ人2世のフットボール選手でもあり、タイヤ会社のセールスマン。母親のヘレン・セシリア(1978年没)はアイルランド系アメリカ人の演技講師。兄や姉も俳優をしている。映画デビューは、76年の「魔鬼雨」。「サタデー・・・」と同じくらい評判になったのは、今は亡き18歳年上の女優ダイアナ・ハイランドとのラブ・フィーバーだった。「グリース」に続いて、「アーバン・カウボーイ」もヒット。だが、彼の代表作と言えば「サタデー・・・」に尽きるのだ。まるで「エデンの東」から離れられないジミー・ディーンのように。彼の他の作品には、「ヘアスプレー」「パルプ・フィクション」「ママの遺したラヴソング」など、数多い。アーバン・カウボーイ その後、「ゲット・ショーティ」(1995)でゴールデングローブ賞男優賞を受賞、2000年には「バトルフィールド・アース」でラジー賞を受賞した。1985年、ホワイトハウスのディナーで、今は亡きダイアナ妃と踊ったトラボルタの姿が写真に残っている。私生活では1991年に女優ケリー・プレストンと結婚。航空機マニアであることから、息子をジェット(Jett)と名付けたが、彼はバハマ滞在中の2009年1月2日に浴室で倒れ、同日死亡が確認された。没年齢16歳。まだ若すぎる愛息の死はさぞ心に応えただろう。それなのに救急隊の一人がそれをネタに彼を強請ったという。彼の心は怒りで煮えたぎったことだろうと思う。他に一女エラがいる。彼は大の航空機マニアで、多数の飛行機を所有するだけでなく、大型旅客機を含む9機種の操縦免許も持っている。2004年には所有するボーイング707を自ら操縦し来日した。なお、このボーイング707の塗装は、親善大使を務めているカンタス航空の往年の塗装である。巨大な滑走路のついた自宅に、2機のジェット機、数機の軽飛行機がある。Google Earthで確認できる(GoogleMAP29°16'42"N, 82°7'0"W)そうだ。彼はまだ55歳、これからも人生を大フィーバーしてもらいたい。
2009.11.22
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◆一生涯保証付◆[直筆サイン入り写真] ジャクリーン・ビセット Jacqueline Bisset ジャクリーン・ビセット、潤んだような瞳を見開いて、男心が乱れるまでじっと目をこらしてみつめてくるような彼女をみていると、何だか妙な気分になってくるのが”妙”だ。濡れたような瞳に、ロマンティックなムード、誰にでも好かれそうな清純派タイプなのが、今では希少価値がありそうに思える。彼女は1944年9月13日、イングランドのサリー州で生まれた。子供のころからバレエを習い、演技のレッスンを取るためにしていた写真のモデルがきっかけとなって映画界入り。フランスの高等中学とロンドンで教育を受け、母親はフランス人なので、フランス語も堪能である。そのため、フランス映画への出演も多い。イギリスのリチャード・レスター監督に見出されて、「ナック」で映画デビュー。この作品は何と三人の女優がデビューしている。一見の価値はありそうだが・・・。’65カンヌ映画祭グランプリ作品!えっ?若い!なんと3大女優デビュー作!67年の「甘い暴走」で共演したマイケル・サラザンと同棲したが、その後、別れた。70年代に入ってからも脇役を務めることが多かったが、そんな彼女に決定的な転機をもたらしたのは73年、フランスの名監督フランソワ・トリュフォーの「アメリカの夜」に出演したことであろうか。アメリカの夜 特別版この映画で、彼女は演技とは何かということを掴んだのではあるまいか。以来、キラリと光る色気を加え、一段とスケールが大きくなったように思える。トリュフォーとはその後も付き合い、二人の仲が噂に上ったこともある。米、英、仏を中心に国際映画スターとして、活躍をしている。主な作品だけでもいろいろある。「ブリット」「大空港」「オリエント急行殺人事件」「シークレット」などだ。 出演作品は多数あり、全作品を見ている人はほとんどいないのではあるまいか。彼女ももう65歳、結婚歴は見当たらず、独身を通してきたようだ。
2009.11.21
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ピーター・フォーク、彼は”ウチのカミさん”を口癖にする「刑事コロンボ」であまりにも有名だ。まず知らない人はあるまいと思いたい。だが、彼の右目が義眼だったということを、あなたはご存知でしたか? 刑事コロンボ 完全版 DVD-SET 1刑事コロンボ 完全版 DVD-SET 23歳のとき、腫瘍で義眼を入れたそうで、少年の頃、リトルリーグの審判に不本意な判定を下されると自ら義眼を取り出して審判に振り回して見せ「目ン玉ついてんのかよ、これ(義眼)が必要なのはお前のほうじゃねえのか?」と叫んだことがあったという。彼は1927年9月16日、ニューヨーク市マンハッタンで生まれた。父親はロシア系ユダヤ人、母親はポーランド=チェコ=ハンガリー系ユダヤ人。10代の頃から演劇に親しんでいたといわれ、12歳のときには、舞台『ペンザンスの海賊』に出演した。戦後に一度退学していたハミルトン・カレッジで学びなおし政治学の修士号を得、予算局に勤務。その後、演劇の世界に戻るため稽古を再開し舞台に立ち始めた。1950年代、舞台で演じた『ドンファン』などの演目が好評を博しオフ・ブロードウェイからブロードウェイに進出、1956年以降はTVに主演し始め2年後には映画にも手を広げはじめる。頭角を現したのは1960年の「殺人会社」。冷徹な殺し屋役が注目されアカデミー助演男優賞にノミネート。続く1961年の「ポケット一杯の幸福」では打って変わってコミカルな役柄で再び2年連続で同賞にノミネートされた。1960年代から1970年代にかけては鬼才・ジョン・カサヴェテスと組みシリアス路線が主だったが、1970年代から1980年代以降にかけてはTVドラマにも活躍の場を広げ、コミカルな中年俳優として多くのファンを獲得した。なかでもよく知られる代表作、『刑事コロンボ』には1968年の第1作の「殺人処方箋」から2003年放送の作品まで69作に出演。4回にわたりエミー賞主演男優賞を受賞する。 悪口を云ってはいけないが、自分の体の欠陥を売り物にして、第一級のスターにのし上がった俳優は後にも先にも彼一人だろうと思う。彼の他の作品としては、「名探偵登場」「大反撃」「最高のルームメイト」「こわれゆく女」など多数ある。 私生活では1960年に大学の同級生だったアリスと結婚、二女をもうけているが1976年に離婚。刑事コロンボシリーズ「ルーサン警部の犯罪」で共演したシーラ・ダニーズと1977年に再婚している。また近年は、イタリアのダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞を受賞したことで話題となった、女優のサマンサ・フォークは姪にあたる。2008年、家族の後見申し立てによってアルツハイマー症であることが公表された。彼ももう82歳だ。病気は辛いだろうが、余生を楽しんでほしいと思う。
2009.11.20
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ソフィア・ローレン、彼女の映画で今も記憶に残っているのは、「ひまわり」だ。戦争によって無残に断ち切られた愛、そして愛のもろさ、別れのシーンは涙ボロボロだったのを覚えている。「もう、昔とは違うわ。あなたは別の女・・・、私には別の男、それだけよ」「・・・さようなら、ジョバンナ」「さようなら、アントニオ」ソフィア演じるジョバンナは、アントニオと永遠の別れを告げるのだ。哀切きわまる別れの名シーンだった。彼女は1934年9月20日、イタリアのローマで生まれた。父親はソフィアの母に正式に結婚する気はないと言ったため、母と子はやむなくナポリの実家に身を寄せた。時は第2次世界大戦のさ中、母娘は食うや食わずの生活を強いられた。父親の愛を知ることもなく、貧困の毎日。私生児とさげすまれながらも、自分で明るく生きた。戦後、ソフィアは自分のプロポーションのよさを”武器”に、ナポリの美人コンテストに出場、入選する。しかし、苦しい生活は変わらず、彼女はヌードモデルなどの仕事で糊口をしのいだ。そして、ある美人コンテストで審査員をしていた映画プロデューサー、カルロ・ポンティとの出会いがソフィアの運命を変えた。彼女より22歳年上の敏腕プロデューサーは、ソフィアのくっきりと目立つ顔立ちにスターの素質をみつけたのだ。彼女は「海底のアフリカ」で主役デビュー、スターへの道を歩み始めた。ナポリの太陽のような明るさ、見事なプロポーション、どんな役でもこなす器用さ、全てがスターの資質だった。この頃、ソフィアはポンティに恋心を抱き始めたが、彼には妻子がいた。揺れる心を抑えながら、ポンティの特訓で英語をマスター、イタリア訛りを克服、57年にはハリウッドに進出した。「誇りと情熱」「ナポリ湾」「西部に賭ける女」「伯爵夫人」などに出演、しかし、ハリウッドで出た大多数の映画は酷評を浴び、彼女は女優として限界を感じるようになった。 ソフィアはポンティに相談、ポンティは彼女をイタリア映画に復帰させることにした。そして、彼女はヴィットリオ・デ・シーカ監督のイタリア映画「ふたりの女」(60)でアカデミー主演女優賞を獲得、名実ともにスター女優になったのである。それからも彼女はイタリア映画はもちろん、アメリカ映画やフランス映画にも精力的に出演、ポンティが製作した「昨日・今日・明日」(63)、「あゝ結婚」(64)では2年連続してダヴィッド・ディ・ドナテッロ最優秀女優賞を受賞。女優として絶頂期を迎えたのである。昨日・今日・明日 あゝ結婚しかし、この頃、ソフィアはプライベートで大きな問題を抱えていた。妻子あるポンティといつしか愛し合うようになっていた彼女は57年、メキシコの裁判所でポンティの離婚が認められ、同時に二人は結婚した。だが、カトリックの総本山・ヴァティカンは、ポンテイの離婚を認めず、二人は逆に重婚罪で告訴されたのだ。父親のいない家庭に育ったソフィアには、愛する人との結婚や、その人の子供を生むことは、女優として成功すること以上に大事なことであった。64年、ポンティはイタリアの法律が及ばないフランスの国籍を取り、フランスの法廷がポンティの離婚を認めたため、66年4月、二人はようやく正式な夫婦と認められた。ソフィアは二度の流産する悲しみに遭遇したが、68年、待望の長男、カルロ・ポンティ・Jrを出産した。彼女は幼い頃からの夢をやっと実現したのだ。愛する夫とは2007年に死別したが、彼女はまだ75歳、一日でも長く生き抜いてほしいと思う。
2009.11.19
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ライアン・オニール、彼はアメリカ映画界の問題児と云えようか。2007年2月4日にはロサンゼルスのマリブの自宅にて息子グリフォンに銃を発砲し、逮捕され、2008年9月17には違法薬物所持の容疑で三男と共に逮捕されている。6月には娘のテータム・オニールも同じ容疑で逮捕されている。何とも困った親子である。ライアン・オニールは1941年4月20日、カリフォルニア州ロサンゼルスで生まれた。父は脚本家のチャールズ・オニール。女優ジョアンナ・ムーア、リー・テイラー=ヤングと相次いで結婚、離婚を繰り返し、1980年から17年間に渡りファラ・フォーセットと同棲した結果、一児をもうけた。息子にグリフィン・オニールがおり、有名なテイタム・オニールは最初の妻ジョアンナとの間の娘である。1964年スタートのTVシリーズ『ペイトン・プレイス物語』に大役を得てスターとなり、以後は映画にも出演、逞しい肉体と端正な二枚目のマスクを武器に落ち着いた演技力を披露。一気にスターダムに駆け上がった。そして、その人気を不動のものにしたのは、70年公開の「ある愛の詩」である。映画は大ヒットを記録、態度も自信満々の傲慢さがつきまとい、女性遍歴は奔放そのもの、女は必ずなびいてくるものだといううぬぼれさえ感じられる。 続 ある愛の詩彼の女性遍歴はキャリアに負けず目を見張るもので、出世作の『ペイトン・プレイス物語』で共演したバーバラ・パーキンスと浮名を流したのを皮切りに、最初の妻ジョアンナと離婚。やはり共演者リー・テイラー=ヤングと結婚し離婚。その間、バーブラ・ストライサンド、ウルスラ・アンドレスと枚挙に暇がない。いずれも共演の経験がある女優たちだ。共演女優には彼の自信満々とした美貌が絶対の強みを持つのかもしれない。「ある愛の詩」で不朽の名を残したライアンの他の作品にはどんなものがあるのだろう。娘のテイタム・オニールと共演した「ペーパー・ムーン」「バリーリンドン」「おかしなおかしな大追跡」「悪女のたわむれ」など、結構面白い作品が見られる。 2008~09年、癌の闘病生活を続けているファラの介護に務めていたが、2009年6月25日にファラは死去した。この点、中々できないことだと私は思う。自身も慢性白血病に冒されていながらである。彼も68歳、自重して有終の美を飾ってほしい。
2009.11.18
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シルヴァーナ・マンガーノ、彼女を初めて映画館で見たときの衝撃は未だに忘れられない。大きな胸に、はちきれんばかりの肉感的な脚ーー。映画は勿論、「にがい米」(49)である。この映画で、どんな困難にも屈しない出稼ぎの田植え女を演じたマンガーノの、躍動感あふれる肉体美と健康なエロティシズムに私は目を奪われていた。マンガーノは1930年4月23日、鉄道の車掌だったイタリア人の父と、イギリス人の母との間にに、3姉妹の長女としてローマで生まれた。幼い頃からスポーツや乗馬に熱中し、7歳から13歳までジアー・ルースカヤ舞踊研究所でバレエを習う。均整のとれた見事なプロポーションはそんな少女時代の鍛錬の賜物だった。16歳でミス・ローマの美人コンテストで優勝。これを機に女優を目指すようになった彼女は、ローマの映画実験センターで学びながら、「にがい米」のオーディションを受けるが、このときは落選。数日後、ローマの街を歩きながら主役の女優を探していた「にがい米」の監督ジュゼッペ・デ・サンティスが、偶然マンガーノに出会った。厚化粧で一張羅を着こんで望んだオーディションから一転、スッピンに近い化粧、質素な服装で健康美を包んだ少女こそ、監督のイメージそのものだったのだ。「にがい米」は世界中に大きな波紋をもたらした。この映画の新進プロデューサー、ディノ・デ・ラウレンティスは彼女にこう云った。「僕と一緒に歩いてくれ。君を世界のトップスターにしたい」と。そして49年、19歳の彼女は29歳のラウレンティスと結婚。新人女優マンガーノは、この敏腕プロデューサーとの二人三脚で、大女優への道を歩み始めたのだ。彼女は「ユリシーズ」(54)、「テンペスト」(59)、「バラバ」(62)などの歴史大作に出演、ルキノ・ヴィスコンティらが監督したオムニバス映画「華やかな魔女たち」(67)では全編で魔女を演じた。続くピエル・パオロ・パゾリーニ監督の「アポロンの地獄」(67)では強烈な印象を残して大女優への階段を着実に上って行った。アポロンの地獄 ベニスに死すビスコンティは「華やかな魔女たち」でエロティシズムの陰に潜む彼女の潜在的な力を見出し、「ベニスに死す」(71)で彼女を起用、この作品で貴婦人役を演じたマンガーノはグラマー女優から気品ある個性派へと新境地を切り拓いて魅せた。73年、ラウレンティスは彼女を伴いハリウッドへ。しかし、映画の都は彼女を”グラマー女優”としか見なかった。イタリアに戻ったマンガーノは新たな理解者となったヴィスコンティのもと、「ルードウィヒ神々の黄昏」「家族の肖像」などに出演、”イタリアが誇る大女優”との名声を得た。ルードウィヒ 家族の肖像 81年、息子のフェデリコを飛行機事故で失った彼女は次第に仕事を控えるようになり、2年後、30年以上共に暮らした夫ラウレンティスとも別居、パリやマドリードに隠棲、タペストリー作りなど趣味の世界に浸りながら静かに暮らした。そして89年12月16日、肺ガンで59歳のまだ若い命を天国に捧げたのである。
2009.11.17
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ジェームズ・ガーナー、彼のちょっと困った悲しそうな目つきには中々味がある。彼の持つ雰囲気からは、アクション・スターとみられがちだが、そうではなさそうだ。アクション物以外でも、いい演技を見せてくれている。「噂の二人」で、オードリー・ヘブバーンの恋人を演じたとき、町の良識派の医師ジョーは、同性愛の噂をたてられたヘプバーンが、「ラヴラヴ」と言いながら寄り添ってくるのを、困ったような顔で抱きしめてやる、そんなやさしさを持った役者なのだ。彼は1928年4月7日、オクラホマ州ノーマンで生まれた。オクラホマ大学を卒業後、朝鮮戦争に従軍したが、名誉戦傷章を与えられ除隊。モデルや舞台俳優を経て、ワーナーと契約。1957年の「ロケット・パイロット」が映画デビュー作。テレビシリーズ『マーベリック』での長男ブレット役で一躍人気俳優となる(のちに映画としてリメイクされた「マーヴェリック」(1994年)では、メル・ギブソン演じるブレットの父親役で出演した)。 他に出演作品としては、大作「大脱走」、心温まる「きみに読む物語」、西部劇「墓石と決闘」、「ヤァヤァ・シスターズの聖なる秘密」など幅広い作品に出演している。 1974年には『ロックフォードの事件メモ』でテレビ界に復帰、その飄々とした個性で人気を集めた。「マーフィーのロマンス」ではアカデミー賞主演男優賞候補となったほか、その他の作品でも3度のゴールデングローブ賞、2度のエミー賞の主演男優賞に輝く実力派である。2005年、半世紀にわたる息の長いキャリアを称え、アメリカ映画俳優組合から生涯功労賞を授かった。私生活では、糟糠の妻、Lois Clarkeと1956年に結婚、現在に至るまで仲良く暮らしている。彼ももう81歳、元気で長生きをしてほしい。
2009.11.16
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キャサリン・ロス、「卒業」のラストシーンでダスティン・ホフマンに奪われる花嫁エレーンを覚えておいでだろうか。また「明日に向かって撃て!」で、無法者ブッチとサンダンスのあこがれのヒロインを演じた彼女。その清らかな容姿とムーディな個性は観客を画面に引き込んで放さなかった。彼女は一躍ニューシネマのアイドルになったのだ。卒業 明日に向って撃て!キャサリンは1940年1月29日、映画の都、カリフォルニア州ロサンゼルスのハリウッドで生まれた。父親が海軍大尉だったため、海軍宿舎で特権的な暮らしを送ったが、反面、各地を転々とし、彼女は特定の土地での思い出が作れなかったという。そんな暮らしも、キャサリンが12歳のとき両親が離婚、少女は母親に引き取られ、サンフランシスコへ移る。地元の大学に進んだ彼女は演劇と出会い、「演じること」にのめりこんでいく。そして、本格的に女優を目指すため、大学を中退、サンフランシスコの名門演劇学校アクターズ・ワークショップで裏方として働きながら、先輩俳優の演技を吸収していった。やがて舞台にも立ち始め、22歳のときテレビデビュー、人気番組「ベン・ケーシー」などにも出演した。そして、アンドリュー・V・マクラグレン監督の「シェナンドー河」で映画デビューを果たした。シェナンドー河 [初回限定生産/廉価版]助演女優だったが、映画の評判は今ひとつ、焦り始めた時に舞い込んだのが、「卒業」のエレーン役だったのだ。映画は大ヒットし、彼女の生活は一変、映画出演の以来が殺到した。出演料は15000ドルから20万ドルに跳ね上がった。そんな彼女をハリウッドはこう評した。「キャサリン・ロスは『卒業』のエレーン役で永遠に人々の胸に刻み込まれるであろう」と。続く「明日に向かって撃て!」で人気は頂点に達し、キャサリンは押しも押されもしない大スターになった。しかし、その後は皮肉にも良い役に恵まれず、「さすらいの航海」(76)でゴールデン・グローブ賞を獲得した程度で、軸足をテレビに移している。ナチスの迫害を逃れ、大西洋を豪華客船でさ迷い続けるユダヤ人たちの皮肉な運命と悲劇的な末路を描く「さすらいの航海」その他の作品には、「シークレット・レンズ」「ステップフォード・ワイフ」「ファイナル・カウント・ダウン」などがある。 爽やかで屈託のない笑顔に似合わず、”取材嫌い”で私生活を閉ざしたキャサリン。彼女は84年に俳優のサム・エリオットと結婚、1女を生している。TV出演のほか児童文学作家としても彼女は2冊の本を出版している。彼女はまだ69歳、もう一花咲かせて貰いたいものである。
2009.11.15
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ロバート・ワグナー、彼は”コレ1本”が思い浮かんでこない不運な俳優だ。明るく清潔なヤンキー・ボーイの典型で、苦労のわりには認めてもらえないというタイプかもしれない。そのわりにナタリー・ウッドとの2回に渡る結婚で艶名を馳せた。二枚目スターとして、結婚は4回、最初、ナタリーと1957年に鐘を鳴らし、62年に別れ、2人目マリオン・マーシャル(1963-1970)、そして、再びナタリーと2度目(1972-1981)の鐘を鳴らした。だが、不幸にもナタリーを事故で失い、4回目のジル・セント・ジョン(1990-)と結婚、現在に至るというのが、彼の華麗なる結婚遍歴だ。子供はマリオンとナタリーの間に娘が一人ずついる。ロバートは1930年2月10日、ミシガン州デトロイトで生まれた。父親は鉄鋼界の大物だったが、彼は若い頃から映画界入りを熱望していたという。50年に映画デビュー、「地獄の戦場」では、印象に残る役をこなしていた。更に「ならず者部隊」「折れた槍」「レーサー」などその数は多い。 1950年代から息の長い活動を続けるダンディな演技派俳優だが、むしろテレビシリーズ「スパイのライセンス」、「華麗な探偵ピート&マック」、「探偵ハート&ハート」の主演者として知られている。最近では「オースティン・パワーズ」シリーズのナンバーツー役でお馴染みである。オースティン・パワーズオースティン・パワーズ ゴールドメンバー 2008年、出版した自叙伝『Pieces of My Heart』がベストセラーになった。彼も79歳、印税ガッポリで余生を楽しむことである。
2009.11.14
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【一点もの!一生涯保証付】[直筆サイン入写真] (映画 チャイナタウン) フェイ・ダナウェイ フェイ・ダナウェイ、彼女は演技一筋に恋にも芝居にも新しい女性の魅力を生き生きと表現した女優である。ニューシネマの代表作「俺たちに明日はない」のポニー役で、センセーションを巻き起こした。ラストシーンでクライドと一緒に87発の銃弾を打ち込まれ蜂の巣にされる場面の凄惨さ、車の中で彼女は何度跳びはねただろうか。体中に弾着と血糊を仕掛けられ、それが破裂したときは本当に生きた心地がしなかったに違いない。俺たちに明日はない 彼女は1941年1月14日、フロリダ州バスコムで軍人の家庭に生まれた。「あの娘から、女優になりたいという以外の話を聞いたことがない」という母親の言葉通り、少女時代から演技の虫だった。フロリダ州立大学に入学した彼女は、男子大学生団体の「恋人」に選出され、名門ボストン大学に転校、自ら決めた演技ひとすじの人生に乗り出した。学業にも演劇にも非凡な才能を見せたフェイは、舞台デビューを目指し、ブロードウェイの劇場での”練習生”の道を選ぶ。しかし、現実は厳しかった。一向に芽が出ず、最終学年の21歳になって、卒業制作の舞台「るつぼ」で主役を獲得、その演技がようやく舞台関係者の目に止まったのだ。翌年、フェイはブロードウェイの大演出家エリア・カザンの推薦により「わが命つきるとも」で念願の初舞台を踏んだ。そして次々と出演する舞台をニューヨークの雑誌や新聞が取り上げ、彼女は映画界からも注目される存在となったのだ。彼女の映画デビュー作は1967年の「夕日よ急げ」だったが、同年出演した「俺たちに明日はない」でアカデミー主演女優賞にノミネート。ベレー帽にVネックのニット、ミディスカート姿のフェイが、雑誌「ライフ」の表紙を飾り、彼女は一躍銀幕の大スターの仲間入りを果たしたのだ。だが、彼女は”誰からも認められる大女優になること”という一点に目標を絞り、更なる挑戦を開始した。74年にはジェーン・フォンダとの激しい”戦い”の末、ロマン・ポランスキー監督の「チャイナタウン」主役をゲット。 チャイナタウン ネットワーク続いて、どうしてもやりたかった「華麗なるギャッビー」のデイジー役をミア・ファーローと争ったが、ミア・ファーローに持っていかれ、一敗地にまみれた。その悔しさを晴らしたのが、3年後の「ネットワーク」で、彼女はダイアナ役でアカデミー主演女優賞を獲得したのだ。他に出演作品としては、「華麗なる賭け」「パリは霧にぬれて」「小さな巨人」「コンドル」など多数ある。 南部女の誇りと情熱に生きるフェイは、”恋”にも自分流の生き方を貫き、エリア・カザンやマルチェロ・マストロヤンニと浮名を流しても、結婚には否定的だった。74年、フェイは5歳年下のロックシンガー、ピーター・ウルフと結婚したが、5年で破局、2度目の結婚も失敗した。二度目の結婚相手は1984年に有名な写真家であるテリー・オニールで、1987年に離婚している。彼らの間には1980年生まれの息子リーアム・オニールがいる。彼女は68歳、恋によって得た演技力をまだまだ見せてほしいと思う。
2009.11.13
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【一生涯保証付・一点もの】[直筆サイン] (映画 夜の大捜査線 等) シドニー・ポワチエシドニー・ポワチエ、彼はカラードで成功を収めた第1人者である。いわゆるカラードには二つの生き方が存在する。ボクサーのアリのように白人を拒否し続け、自分の黒い肌を主張するタイプと、ポワチエのように白人の妻をめとり、白人の間で黒い肌を見せるタイプに分かれる。だが、どちらにせよ白人を意識した闘いであることに変わりはない。ポワチエは1927年2月20日の生まれ。バハマでトマト栽培を営む農夫の子だ。出荷先のマイアミで母が産気付き、そこで生まれたのがポワチエである。少年時代からポワチエは、白人社会の隷属者として、屈辱をイヤというほど味わってきた。極貧の生活、路上を寝床代わりにした生活を経て、15歳のとき、生活の事情で単身で再び渡米。あらゆる種類のアルバイトを転々とし、年齢を詐称してアメリカ軍に入隊。生年月日に諸説があるのはこのためだ。除隊後、アメリカン・ニグロ・シアターに入団し俳優を志したが、故郷バハマの訛りが取れなかったため、裏方の仕事に終始していたそうである。1945年にスクリーンデビュー、1946年には黒人俳優だけの舞台でブロードウェイに初出演。1955年「暴力教室」の生徒役で注目されてからは知名度が上がり、続く1958年に公開された「手錠のままの脱獄」では主演のトニー・カーティスと共にアカデミー主演男優賞にノミネートされるなど、その後は順調にキャリアを重ねた。手錠のままの脱獄 野のユリ そして63年、ポワチエは「野のユリ」で見事アカデミー主演男優賞を獲得、初代黒人男優アカデミー賞受賞者となった。彼はそのまま主演級の俳優に成長し、それまでのハリウッドにおける黒人俳優のイメージを一変させた。1968年「招かれざる客」、「夜の大捜査線」など社会的かつ人種差別問題を真正面から提起する重い題材に挑みつづけ、多くのファンの支持を獲得した。こうして、黒人俳優というひとつの道を開拓したのである。 公民権運動などを経て機が熟していたということもあるだろうが、白人では決して持ち得ない美しさが彼には存在した。他に彼の出演作には、「偉大な生涯の物語」「駆逐艦ベッドフォード作戦」「長い船団」「マンデラとデクラーク」などがある。 1970年代以降はポール・ニューマンらとプロダクションを設立し、監督業にも挑んだ。彼の監督作品には監督・主演の「ピース・オブ・アクション」「一発大逆転」などの喜劇ものもある。ピース・オブ・アクション 一発大逆転私生活では1950年に結婚、4人の娘がいるが1965年に離婚。1976年には女優のジョアンナ・シムカスと再婚し二女がいる。そのうちのシドニー・ターミア・ポワチエは女優である。2001年に贈られたアカデミー名誉賞は、ポワチエの功績に対するアメリカ映画界の敬意を象徴している。彼も既に82歳、老齢ではあるが、映画界のために力を尽くして、貰いたいものだ。
2009.11.12
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アンナ・カリーナ、彼女は’60年代の映画史に残るスターである。”おとぎの国”デンマークからパリにやってきた女優志願の女の子はただ一筋の夢を追ってきたのだ。このとき彼女は18歳だった。1940年9月22日、アンナはコペンハーゲンで生まれた。父は軍人、母は洋裁学校を営んでいた。忙しい母は彼女がキスをせがんでも「今はそれどころじゃないんだよ」と相手にもしてくれなかった。彼女は空想を友に、少女時代を過ごす。そして、その空想はいつしか女優になりたいという夢に変わっていった。59年、コペンハーゲンで出演した短編映画がカンヌ国際映画祭で評判になったことに自信を得て、アンナは単身パリへ旅立ったのである。彼女の胸は女優になりたいという希望で弾けんばかりだった。フランス語はまったく話せず、ポケットにあるのは小銭だけ。だが、アンナの強運が夢をたぐり寄せ始める。猫のようなキリリとした瞳の少女は、すぐに写真家の目にとまり、雑誌の表紙を飾った。そしてモデルとして活躍。「アンナ・カリーナ」という芸名は当時出会ったココ・シャネルが授けたものである。やがて映画出演の話が舞い込んだ。監督はヌーヴェル・ヴァーグのジャン・リュック・ゴダール、彼の「勝手にしやがれ」に次ぐ、二本目の作品「小さな兵隊」だった。友達はこぞって出演を勧めた。出演を決めた数日後、大衆紙がアンナはゴダールと寝て役を貰ったと書きたてた。彼女はすぐさまゴダールに電話、即座に出演を断った。だが、彼は「製作会社の宣伝にすぎない」と歯牙にもかけなかった。そして、部屋で泣いていたアンナの許へ、50本の真っ赤なバラの花束が届けられた。そこには、メッセージが添えられていた。「アンデルセンのおとぎの国の少女が涙を流してはいけないよ」と。心を揺すぶられた彼女は改めて出演を決意、と同時にゴダールに恋心を感じた。こうしてヌーヴェルヴァーグの旗手と女優の卵は心がひとつになったのだ。小さな兵隊61年3月、アンナはゴダールと結婚。20歳のアンナにはゴダールこそあらゆることの教師だった。徹底したリハーサルが彼女の演技を磨きに磨いた。二人がコンビを組んだ2作目「女は女である」(61)で、彼女は早くもベルリン国際映画祭女優賞を獲得、一挙にスターの地位に上ったのだ。女は女であるその後、二人は1964年に共同で映画製作会社「アヌーシュカ・フィルム」を設立、第一回作品は『はなればなれに』(1964年)。しかし、この後、二人は題名通りに”はなればなれ”になってしまう。若いアンナがゴダールの神経質な気質に耐えられなくなったのだ。二人は別居し、1965年1月には正式に離婚、その後三度の結婚歴がある。しかし、離婚後もアンナは「気狂いピエロ」(65)「女と男のいる舗道」「メイド・イン・USA」などに出演、普通の監督と女優の間柄になった。 女と男のいる舗道ゴダールの7作品に出演したアンナは、60年代のミューズとして映画界に大きく羽ばたいたのである。彼女はまだ69歳、まだまだ頑張ってほしい。
2009.11.11
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イヴ・モンタン/イヴ・モンタン全集~枯葉イヴ・モンタン、彼の心は新人歌手のように熱く燃えていた。13年ぶりのロングリサイタル、しかも60歳の老齢だった。「今夜のショーでは新曲を披露して、聴衆に新たな感動を与えたい」1981年10月、60歳のイヴ・モンタンは新人のような不安と期待を胸に、パリ、オランピア劇場の舞台に立った。満員の聴衆を前に、モンタンは歌い始めた。”自分の歌など、もう忘れ去られてしまったのではないか・・・”、そんな不安は瞬く間に消し飛んだ。万雷の拍手が彼を包んだのだ。イヴ・モンタンは1921年10月13日、イタリアで生まれた。本名イーヴォ・リーヴィ(Ivo Livi)。イヴ・モンタンという芸名は、子供の頃、戸外にいた彼を母親が階上から、「イーヴォ、モンタ!」(Ivo, monta!, イーヴォ、上がってきなさい!)と呼んでいたことにちなむという。ムッソリーニ支配下の故国を逃れ、一家でマルセイユに移住、26年、フランスに帰化した。一家の生活は苦しく、始めて間なしの父親の会社は倒産、モンタンは11歳で製麺工場で働き、その後、サンドイッチ売りやトラックの荷積みなどをして、青春期を送った。彼の唯一の楽しみは、週末に映画館やミュージック・ホールへ出かけることだった。そして、楽しみはいつしか憧れに変わっていた。ある日、野外劇場で歌う素人たちを冷やかしていたモンタンを、兄がこう叱責した。「同じことがお前に出来るのか? できないなら黙ってろ」この言葉は、17歳のモンタンを奮い立たせた。それくらい俺にもできる・・・。彼は猛特訓を開始した。そして39年にはミュージック・ホールやカフェで歌い始め、舞台で熱唱する彼の名は、瞬く間にマルセイユで評判になった。そして、その噂はパリにまで届いた。44年の某日、パリのムーラン・ルージュのがらんとした舞台で、モンタンは一人の女性の視線にさらされていた。20世紀を代表する歌姫、エディット・ピアフだった。当時、28歳のシャンソン歌手ピアフが、22歳のモンタンの実力を聴こうと彼を呼び出したのである。彼は臆することなく歌った。その歌声は歌姫を感動させるに充分だった。ピアフは自分の主演作「光りなき星」に早速端役でモンタンを起用、2作目「夜の門」では「枯葉」を挿入歌で歌わせた。ムーラン・ルージュの出会いから二人は恋に落ちていた。富と名声、モンタンの望む物全てを与えてくれる歌姫は理想の女性といえた。しかし、46年、二人の関係は2年で破局を迎えた。次に出会ったのが、女優のシモーヌ・シニョレ。シモーヌには家庭があったが、二人は愛を貫き、51年には晴れて夫婦となる。ピアフの支援で映画デビューしたモンタンだったが、52年製作の「恐怖の報酬」に主役で出演、これがカンヌ国際映画祭グランプリを獲得した。こうして彼の役者としての地位は不動のものとなったのだ。 恐怖の報酬「恋をしましょう」ではハリウッドのミューズ、マリリン・モンローと共演、モンタンは題名通りマリリンと恋仲になってしまった。そのせいで妻のシモーヌは自殺未遂まで起こす始末、幸い離婚にまでは至らなかったが、夫婦仲に大きな亀裂を残した。その他には「愛と宿命の泉 PART1」「さよならをもう一度」「晴れた日に永遠が見える」などがある。 幅広い演技で注目され、いつもリラックスムードを漂わせていたモンタンだが、その素顔は徹底した完璧主義者で、いかなる場面でも努力と緻密な計算を怠らなかったという。こうして死の直前まで努力し続けた老雄は1991年11月9日、黄泉の国へ旅立った。享年70歳だった。息子が一人いる。
2009.11.10
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【一生涯保証付・一点もの】[直筆サイン入写真] (サウンド・オブ・ミュージック) ジュリー・アンドリュースジュリー・アンドリュース、彼女はこの地上に舞い降りてきた天使、そう云っても過言ではあるまいと思う。”明るくて、とてもやさしくて、美しくて、僕たちを可愛がってくれる理想の家庭教師さん、早く来てください”。腕白坊主、少女の願い通りに、右手にパラソル、左手にバッグを持った「メリー・ポピンズ」が、東風に乗って舞い降りてきた。この映画は、ジュリーのスクリーン・デビュー作であり、アカデミー主演女優賞獲得作品でもあったのだ。メリーポピンズ スペシャル・エディション 彼女は1935年10月1日、イギリスはロンドン近郊、テームズ河畔の町ウォルトンで生まれた。母の再婚相手が芸人だったため、旅興行で少女時代を送った彼女は6歳で舞台を踏んだ。幼年にしてジュリーの音域は4オクターブに達し、継父が専門医に見せると「大人のノドを持っている」と驚いたそうである。12歳の時にロンドンで本格的に舞台デビュー、評判はアメリカにも届き、18歳でブロードウェイに招かれ、「ボーイフレンド」で主役デビューを果たした。そして新作ミュージカル「マイ・フェア・レディ」のヒロイン、イライザ役に抜擢された。舞台は大評判、イライザは彼女の当り役となった。それから数年、「マイ・フェア・レディ」の映画化の話が持ち上がり、主役のイライザ役は、知名度の点でオードリー・ヘップバーンにさらわれたのである。「ほかの人なら嫌だけど、オードリーなら許せるわ」というジュリーの言葉は、強がりにしか聞こえなかったという。もし・・・だったら・・・というのは、お二人に大変失礼な言い方だが、映画のイライザをジュリーが演じていたらどうだったろう。甲乙つけがたかったように思う。歌唱の面では圧倒的にジュリーに軍配が上がっただろうが、新味には欠けていただろう。オードリーは歌はともかく、新鮮さと知名度の点でジュリーに勝っていたと思う。だが、運命の女神は彼女にプレゼントを用意していた。それが「メリー・ポピンズ」の映画出演だったのだ。64年、彼女は「メリー・ポピンズ」で大成功、続く「サウンド・オブ・ミュージック」ではマリア役を射とめ、ミュージカル映画史上、不朽の名を残したのである。サウンド・オブ・ミュージック 製作40周年記念版この2本の映画があまりにも素晴らしかったため、あとの企画がついていけなかった。演技もうまく結構いけるのだが、やはりジュリーには歌ってほしい。「モダン・ミリー」「スター!」などでは役不足といえるだろう。他に「ヴィクター/ヴィクトリア」「プリティ・プリンセス」などである。 彼女は最初の夫、舞台美術家のトニー・ウォルトンと23歳で結婚、長女を生しているが、妻、母、女優の両立が耐え切れず、8年間で幕を閉じた。ジュリーの苦境に手を差し伸べたのが、映画監督のブレイク・エドワーズだった。二人は69年に結婚した。その後、ジュリーは映画出演を減らし、童話の世界に羽ばたく。彼女は63歳のとき、声帯手術が原因で歌手生命を絶たれたが、翌年には女優として復帰。98年にはエリザベス女王から男性の「サー」に当る「デイム」の称号を贈られている。そして、童話の出版をするほか、UNIFEM(国連婦人開発基金)の親善大使をするなど、活躍を続けている。そのイメージは「サウンド・オブ・ミュージック」のマリアそのまま、74歳の今も優しく愛くるしい人柄で輝いているのだ。アンドリュースの執筆した童話のうち『偉大なるワンドゥードルさいごの一匹』と『マンディ』は日本でもTBSブリタニカより出版されている。* 歌手の沢田研二は、ジュリー・アンドリュースのファンだったことから「ジュリー」という愛称が付いたそうである。 カーネギーホールライヴ ザ・リーディング・レディーズ
2009.11.09
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【一生涯保証付・一点もの】[直筆サイン入り写真] ジェームズ・カーン (James Caan)ジェームズ・カーン、彼は今ではほとんど出会うこともなくなった限りないやさしさを見せてくれる俳優だ。「シンデレラ・リバティ」で、ゆきずりの男の子供を生む酒場女へのいとおしさを気取ることなくさりげなく演じて見せてくれた。【INTRADA20%OFFセール】シンデレラ・リバティー・かぎりなき愛彼は1939年3月6日、ニューヨークのブロンクスで生まれた。東欧ユダヤ系移民の出身だ。ミシガン州立大学で経済を学びながらフットボールに熱中、空手の黒帯も保持し、ロデオにも挑戦したという。中々の運動家だったといえよう。その後ホフストラ大学で演劇に出会い、ネイバーフッド・プレイハウスで演技を学んだ。最初はテレビ出演し、テレビの人気シリーズ「裸の町」「ルート66」「アンタッチャブル」「ベン・ケーシー」などを経て、64年、ハワード・ホークス監督の「不意打ち」で映画デビューした。その後、低迷を続けていたが、フランシス・F・コッポラ監督と出会い、彼の「雨のなかの女」「ゴッドファーザー」で急速にクローズ・アップされるようになった。それからの彼は「ローラーボール」「ミザリー」などに出演、数多くの作品に恵まれた。 他に主な作品として「友よ、風に抱かれて」「エルフ ~サンタの国からやってきた~」「フォー・ザ・ボーイズ」「ファニー・レディ」などがある。 私生活では4度の結婚で5人の子供がおり、その中の一人のスコットは俳優となった。ジェームスも今年70歳、だが、まだまだ階段を上り続けてほしい。
2009.11.08
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ジュリー・クリスティ、彼女は奔放な女らしさを画面いっぱいにぶつけ、公私ともに”女の性(さが)”そのままに生きてきた女性だ。激しい時代の波に押し流されながら、三度めぐり合うたびに、焼きつくすような情熱の炎を燃やす、「ドクトル・ジバゴ」のラーラ。彼女の官能の虜になった人も多かったのではあるまいか。ドクトル・ジバゴ 特別版彼女は1941年4月14日、インド・アッサム州で生まれた。父親が紅茶のプランテーションをインドで経営していたためだ。母親はウェールズ人の画家。8歳のとき、ロンドンに移り、パリで美術、ロンドンの演劇学校(スクール・オブ・スピーチ・アンド・ドラマ)で演劇を学び、1957年にエセックスのFrinton Repertoryのメンバーとしてデビュー。ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーの舞台などに出演して、1961年に映画デビュー。1965年のイギリス映画『ダーリング』でアカデミー主演女優賞を受賞し、一躍トップ・スターになった。ダーリングジュリーの役柄はほとんどが「ダーリング」と「ドクトル・ジバゴ」のラーラとの線上にあり、そこが彼女の魅力でもあると同時に彼女自身のジレンマにもなっているようだ。彼女の主な作品としては、ウォーレン・ビーティと共演した「天国から来たチャンピオン」「シャンプー」「ギャンブラー」、「華氏451」などがある。彼女は常に誰かと同棲しており、とくにウォーレン・ビーティとの10年にも及ぶロマンスは有名である。 ジュリーは、2006年(劇場では2007年)公開の女優サラ・ポーリーの長編監督デビュー作品である「アウェイ・フロム・ハー君を想う」での演技が高く評価され、第65回ゴールデングローブ賞主演女優賞(ドラマ部門)など多数の映画賞を受賞、第80回アカデミー賞主演女優賞にもノミネートされた。 アウェイ・フロム・ハー 君を想う1979年からジャーナリストのダンカン・キャンベルとはパートナーの関係であったが、2007年に結婚した。彼女はまだ68歳、出来ればもう一花咲かせてほしいと思う。
2009.11.07
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一生涯保証付・一点もの◆[直筆サイン入り写真] (ジョーズ JAWS) リチャード・ドレイファス リチャード・ドレイファス、彼はダスティン・ホフマン、アル・パチーノと並ぶ米映画界の身長160センチスターの一人だ。堅実で軽やかな味のある演技は都会的なセンスの良さを感じさせてくれる。77年製作の「グッバイガール」では、ズッコケた売れないシェークスピア俳優を演じて、その颯爽とした演技でアカデミー主演男優賞を勝取った。グッバイガール / リチャード・ドレイファス 彼は1947年10月29日ニューヨークのブルックリンでロシア系ユダヤ人の家庭に生まれた。9歳のとき、家族と共にロサンゼルスに移り住む。1940年代後半(日本でいう戦後)生まれのハリウッドの主演男優たちの中ではデビューは比較的早く、1960年代半ばからテレビに出演し始めた。68年「俺たちに鎖はない」で映画デビュー。同年、ダスティン・ホフマンの「卒業」や往年の大女優スーザン・ヘイワード主演の映画「哀愁の花びら」に端役で出演している。またスティーヴン・スピルバーグとは親しい間柄で、75年の「ジョーズ」に始まり「未知との遭遇」「オールウェイズ」など現在まで彼の3作品で主演を務めている。 他の作品としては、「陽のあたる教室」「張り込み」「ブッシュ」「ジャイアント・ピーチ」などその数は多い。 張り込み 私生活では結婚は1度、現在まだ62歳で健在だ。
2009.11.06
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◆一生涯保証付・一点もの◆[直筆サイン入り写真] ラクエル・ウェルチ Raquel Welch (恐竜100万年)ラクエル・ウェルチ、彼女が「恐竜100万年」に登場したとき、アメリカでは丁度「ならず者」にジェーン・ラッセルが登場したような話題を呼んだそうである。日本でも、周囲が怪獣ばかりでセリフを喋らない彼女を”グラマー怪獣ウェルチドン”などとよんで、プロポーションの素晴らしい肉体美に憧れたものである。「こんな怪獣なら食い殺されても本望だ」と呟く輩もいたらしい。身長168cm・体重53kg。B94-W58-H90。これが彼女の公式データーであるが、歩くたびに巨大なバストがユサユサ揺れるさまには圧倒されたものである。彼女ラクエルは1940年9月5日、イリノイ州シカゴで生まれた。父親はボリビア・ラパス出身、母親はアイルランド系アメリカ人。サンディエゴ・カレッジ演劇科在学中から”ミス写真”コンテスト荒らしと云われ、注目を集めていた。63年に映画デビュー、一説によると、全身整形をしているそうだが、真実は?である。私が最初に彼女の映画を見たのは「ミクロの決死圏」だった。次いで「恐竜100万年」で、演技よりもむしろ彼女の姿態に見惚れたものである。「100挺のライフル」の西部娘にはダイナミックな迫力があった。 恐竜100万年 彼女の作品としては肉体美が売り物のものが多く、芝居の方はさっぱりと言うのが定評だが、中々どうして、「三銃士」ではゴールデン・グローブ賞をゲットしている。他の作品には、「空から赤いバラ」「バンドレロ!」「キューティ・ブロンド」など多い。 彼女は“20世紀最高のグラマー”と称された。私生活では、これまで4度結婚しており、娘のターニーも女優になった。ラクエルも”おばあさん”と云われる年になったが、まだ69歳、老け込んでほしくないものだ。
2009.11.05
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ロバート・ショウ、彼はかの有名な「007ロシアより愛をこめて」でショーン・コネリーと列車内で死闘を演じた殺し屋といえば、「ああ、あいつ」と思い出す人も多いと思う。この激闘は歴代007でもトップクラスのアクションだったと私は思う。その位、彼の印象は強烈なものだった。ロシアより愛をこめて 彼、ロバート・ショウは、1927年8月9日、ショウはランカシャー州ウェストホートンで生まれた。ロンドンの王立演劇学校で演技を学び、オールドヴィク座に入る。ロンドン、ブロードウエイの舞台を経たあと、55年「暁の出撃」で映画デビューする。代表作として「007 ロシアより愛をこめて」(1963年)、「バルジ大作戦」(1965年)、「わが命つきるとも」(1966年)、「スティング」(1973年)、「ジョーズ」(1975年)が挙げられる。彼は「わが命つきるとも」で、ゴールデングローブ賞とアカデミー助演男優賞にノミネートされた。 他の出演作品としては、「空軍大戦略」「サブウエイ・パニック」「ロビンとマリアン」などがある。 そして、彼は1978年8月28日、突如、死亡した。悲報に接したとき、惜しい人を亡くしたものだと思った。若い奥さんを貰ったのがいけなかったのではないかという噂が飛んだほど、元気ハツラツな人だったそうである。新婚1年目だったという。小説も書き、戯曲もものにし、ユーモア溢れる毒舌をもって鳴らしていた、まだまだこれからの人と言えた。私生活では3度結婚し、2番目の妻である女優のメアリー・ユーアとの間に4人の子供をもうけた。死因は心臓発作であった。
2009.11.04
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パティ・デューク、彼女は生後19ヶ月で目が見えず、耳が聞こえず、言葉も喋れない三重苦を背負ったヘレン・ケラーの少女時代を演じた「奇跡の人」で恐ろしいまでの演技を見せ、アカデミー助演女優賞に輝いた。女教師アニー・サリヴァン役のアン・バンクロフトと共に、11歳のときから700回も舞台で演じた役の映画化とあって、まさに鬼気迫るとは彼女のヘレンを言うのであろう。すさまじいまでの演技だった。「奇跡の人」は1962年の映画化で、このとき彼女はまだ16歳であった。映画化のあと、テレビの”パティ・デューク・ショー”が人気を呼び、19歳で娘役として映画に復帰した。彼女は1946年12月14日、ニューヨークで生まれた。父は映画やテレビの端役。子役学校で演技を学び、5歳でテレビ、8歳で映画に出た天才子役である。娘役としては「哀愁の花びら」「キスへのプレリュード」「ナタリーの朝」など、さして多くない。中でも「ナタリーの朝」はパティならではの作品だったと言えようか。他に「悪魔の棲む家 完結編」など、たいした作品は残していない。哀愁の花びらキスへのプレリュード悪魔の棲む家 完結編 やはり子役で大成した役者は少ないと言われるように、彼女もその例外にならなかったのは残念である。彼女は「奇跡の人」で名前を残したのだろうと思う。私生活では4度の結婚をし、子供もいる。現在62歳である。
2009.11.03
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エリオット・グールド、馬面で長身、鼻下に立派な八の字ヒゲを蓄えた男でニューシネマの申し子。どこかとぼけたユーモアのある役を多く演じている。 彼は1938年8月29日、ニューヨーク市ブルックリンで、東欧よりのユダヤ系家庭に生まれた。ブロードウェイでも活躍し、その後、68年に映画界に入り、「ボブ&キャロル&テッド&アリス」(69)あたりから注目され、ロバート・アルトマンの「M★A★S★H マッシュ」で人気を博した。ボブ&キャロル&テッド&アリスその後、「ロング・グッドバイ」「カプリコン・1」「レディ・バニッシュ 暗号を歌う女」「可愛い女」など、多数出演している。 テレビ出演も入れると、これまでの出演作は100本を超えている。「フレンズ」ではロス・モニカの父親を演じていた。超豪華オールスター・キャスト作品「オーシャンズ11~13」は見ものだと思う。 1963年に女優のバーブラ・ストライサンドと結婚したが1971年に離婚、ジャジャ馬バーブラ・ストライサンドと結構長く続いたものだと思う。結婚歴は彼女との結婚を入れて2回だ。彼は今年まだ71才、まだまだいい役者ぶりを見せてほしい。
2009.11.02
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バチェラ-・パラダイス アン=マーグレット、アンとマーグレットをハイフンでつないでおり、これは名前だけで苗字がない。アン=マーグレット・オルソンが正式な名前だそうだが、オルソンは映画デビュー前からカットしていた。芸名からしてユニークだ。1941年4月28日、彼女はスウェーデン・イェムトランド地方ヴォルソビンで生まれた。両親は共にスウェーデン人。5歳の時にアメリカに移住し、主にイリノイ州で育つ。ノースウェスタン大学中退後、ラスベガスのクラブに出演して、ジョージ・バーンズにより見出される。この時、ステージ、RCAレコード、映画と三つのオファーがほとんど同時に舞い込んだそうである。1961年に舞台でデビュー、同年に「ポケット一杯の幸福」で映画初出演。1963年にはヒロインを務めたミュージカル映画「ステート・フェア」「バイ・バイ・バーディー」で溌剌とした歌を披露して、人気を博した。「ステート・フェア」(62)「バイ・バイ・バーディ」(63)で見せたたくましく美しい脚線美のダイナミックなダンス、これは中々のものだった。彼女の生まれるのがもう少し早ければミュージカル映画のトップ・スターになれていたかもしれない。彼女のためにそれが残念だ。ミュージカルが下火になってからの登場だったのは運命的といえるだろう。「ラスベガス万才」ではエルヴィス・プレスリーの相手役をつとめ、おまけにプレスリーの影が薄くなるくらい食いまくって、エルヴィスに”二度とアン=マーグレットとは共演しない”と言わしめたそうである。ラスベガス万才以後、「シンシナティ・キッド」「マドリードで乾杯」の後、彼女の代表作とも言える「愛の狩人」に出演した。1971年の「愛の狩人」はゴールデングローブ賞 助演女優賞、1975年の「Tommy/トミー」でゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ミュージカル・コメディ部門)を受賞。また、前者でアカデミー助演女優賞、後者でアカデミー主演女優賞にもノミネートされた。愛の狩人トミーその他、「TAXI NY」「ラブリー・オールドメン」「マジック」「クイーン」などに出演している。 歌手としても、これまで13枚のアルバムをリリースしている。1967年にロジャー・スミスと結婚。スミスはドラマ『サンセット77』などが有名な俳優だったが、後にマーグレットのマネージャーへ転身。離婚歴はなく、2007年に結婚生活40年を迎えた。彼女はまだ68歳である。
2009.11.01
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