顕正会脱会のススメ!

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2013.02.01
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御書拝読 松野殿御返事(妙教 2005年1月) 

(中略)
 ここでよく考えなければならないのは、講中での人間関係の良し悪しは、一体誰が作り出しているのかということである。つまり、組織を構成しているのは、私たち一人ひとりの法華講員であり、他人のせいにしたり、人を指差すのではなく、理想的な組織の構築は、私たち一人ひとりの自覚と責任にあることを知らなければならない
 したがって私たちは、漫然と講中に籍を置くだけでなく、まずトラブルや怨嫉の源を断つべく、意識して我が心を治め、言葉や振る舞いを正して、講中での和を大切にし、異体同心、和合一致の組織を築き上げていくように、皆ができるだけ協力していくことが必要であろう。
 その講中の異体同心の信心、行体を確立していく上で、殊の外重要な誡めが十四誹謗を犯してはならないという日蓮大聖人の御教示である。
 この十四誹謗について、大聖人は本抄で、自行確立の面からと、化他和合の面からの二つの観点より御教示され、この自行と化他にわたって十四誹謗を犯さずに修行し、題目を唱えていくところに、はじめて大きな功徳を成就していくことができる旨を仰せである。
 そのことは、十四誹謗の内容から言っても、第一の慢から第十の誹謗までは、自らの信心の姿勢や行を誡めたものであり、第十一の軽善から第十四の恨善までは、正法正義を受持し、信行に励む者に対して、怨嫉したり誹謗してはいけないと誡めたもので、自ずと自行と化他に対する二つの誡めが含まれていることからも、明らかである。
 以下に十四誹謗の内容について、一つ一つ詳しく述べたい。

「又舎利弗慢懈怠我見を計する者には此の経を説くこと莫れ凡夫の浅識深く五欲に著せるは聞くとも解すること能わじ亦為に説くこと勿れ若し人信ぜずして此の経を毀謗せば即ち一切世間の仏種を断ぜん或は復顰蹙して疑惑を懐かん汝当に此の人の罪報を説くを聴くべし
若しは仏の在世若しは滅度の後に其れ斯の如き経典を誹謗すること有らん
経を読誦し書持すること有らん者を見て軽賤増嫉して而も結恨を懐かん」(開結175~6)
と説かれている。この文について、中国天台宗の第六祖妙楽大師は、
「今の文は但説不説を云うのみ。有る人此れを分かって云く、先に悪因を列し、次に悪果を列す。
悪因に十四あり」(法華文句記五大石寺「訓読法華文句記会本六上」二二四)
 として、譬喩品には慢・懈怠・我見などの者には、誹謗・不信等のために罪障を作らせることになるので、法華経を説いてはならない。これに対して、利根で智慧明了で、仏道を求める人には説くべしと、説かれている。これを慈恩大師がさらに釈して、悪道に堕する悪因に十四あるとして十四誹謗を挙げている。
 経文では、これらの十四誹謗の悪果として、地獄・畜生等の堕して苦しむ相(すがた)や、さらに適(たまた)ま人界に生を得たとしても、種々の病気や種々の苦しみの報いを受けることが説かれている。
 その十四誹謗の第一が「慢(きょうまん)」である。慢は増上慢と同じで、「方便品」第二には、
 「此の輩は罪根深重に、(中略)未だ得ざるを得たりと謂い、未だ證せざるを證せりと謂えり」(開結一〇〇)
 と説かれている。即ち慢は、正法にして驕(おご)りと侮(あなど)りの心をもち、正法をどこまでも謙虚に学んだり求めたりしないことをいう。

 第三に「計我(けが)」。これは、自分の考えを中心として正法を推し量って曲解(きょっかい)し、我見に執着することをいう。自己や我への執着は大なり小なり誰しも持っているが、その我をもととして正法を計ることである。
 第四に「浅識(せんしき)」とは、自分の浅はかな知識や考え、経験をもって仏法を安直に判断したり評価したりして、それ以上の深いものを求めようとしないことをいう。
 第五に「著欲(じょくよく)」。経文に「深く五欲に著せる」とあるように、財・名誉・飲食など世俗の欲に執着して、仏法を求めようとしないことをいう。
 第六に「不解(ふげ)」。経文には「聞くとも解すること能(あた)わじ」とあるように、仏法を聞いても正しく理解できないこと、また理解しようとしないことをいう。
 第七に「不信(ふしん)」。『念仏無間地獄抄』に「譬喩品十四誹謗も不信を以て体と為せり」(御書三九)と仰せのように、今ここで明かしている十四誹謗の本体、つまり一々の誹謗が種々の相(すがた)・形をもって現れるその源・本体となるもので、正法を信じることができないこと、また信じようとしないことをいう。十四誹謗を生む根本となるもので、最も注意を払い誡めるべきものである。

 第九に「疑惑(ぎわく)」。一往一通り頭では分かっているが、心から信じきれず、正法を疑い、惑(まど)うことをいう。例えば御本尊の意義や功徳を教えられても、心から信じることができず、疑って勤行や唱題をためらうことなどがこれに当たる。
 第十に「誹謗(ひぼう)」。正法に対して言葉をもって積極的に悪しざまに謗(そし)ることをいい、その罪障は最も大きい。
 第十一に「軽善(きょうぜん)」。これ以下の四つは、経文に「経を読誦し 書持すること有らん者を見て」と条件が付されているように、正法、即ち御本尊を受持し、信行に励む人に対して、軽んじ侮ることをいう。
 第十ニに「憎善(ぞうぜん)。正法を信受する僧俗を憎むことをいう。
 第十三に「嫉善(しつぜん)」。正法を信受する僧俗を嫉(そね)み妬(ねた)むことをいう。嫉むことも妬むことも共に、他の勝れたものに対して羨(うらや)んだり憎んだりするところから起こる感情で、今日特に創価学会が日蓮正宗に対して、怨嫉(おんしつ)の念を強くもって破壊しようとする行為は、まさに学会自らが宗門の正当性と正しさを認識している証でもある。
 第十四に「恨善(こんぜん)」。正法を信受する僧俗を恨むこと。字義から言うと「恨」の字は、同じウラミでも心中に根に持つ深いウラミをいう。
 以上が十四誹謗であり、これに対して本抄は、
 「此の十四誹謗は在家出家に亘(わた)るべし、怖(おそ)るべし怖るべし」(御書一〇四六)
 と仰せのように、在家の信徒も出家の僧侶も、共に悪果・悪報を招く大きな業因となるので、恐れ慎んで十四誹謗を誡めていくべきことを強く説かれている。
 私たち日蓮正宗の僧俗は、この大聖人の御教示の通り、自行と化他行に亘って十四誹謗を犯さないよう、十分に注意したいものである。

心豊かな晩年を迎えるために
 さて、今私たちは確実に高齢化社会を迎えている。特に日本においては、2010年には65歳以上の高齢者が全人口の五分の一の割となり、さらにその十年後の2020年には四人に一人となるといわれている。一体どんな時代がやってくるのだろうか。私たちは決してこの現実から逃れることはできない。ならば自らの老後をどう迎えていくか、否、老後をどう仕上げていくか、という問題を真剣に考えて、日々歩んでいかなければならない。
 若い時や壮年時にはどれほど苦労が多くても、人生の締めくくりとなる晩年は、すべての悩みが解決し、所願満足して、歓びと感謝の中に、心豊かに過ごしたい。このような思いは熟年の域に足を踏み入れた私ばかりではなく、人生半ばを過ぎると、誰もが抱く思いではないだろうか。
 しかし晩年はといえば、フランスの哲学者アランは、
 「青年は恋愛を欲しがり、
 壮年は地位を欲しがり、
 老人は貧欲になって、地位も金も名誉もすべて欲しがる」(『精神と情念に関する八十一章』)
 と述べているように、地位も名誉も全て欲しがる貧欲な老後が待っているという。長年勤めてきた仕事への愛着を断ちきれるであろうか。また「進む時は人任せ退く時は自ら決せよ」との言(越後長岡藩家老・河井継之助)もあるように、その立場や地位から自らの意思で去ることができるのであろうか。これらに執着がある限り、歓びと感謝につつまれた心豊かな老後はやって来ないだろう。貪瞋癡(とんじんち)の三毒を抑制し、わが心を潔(いさぎよ)く無にすることができてこそ、幸せな老後を迎えることができるのではないか。
 心豊かな幸せな老後を迎えるためには、まず信心によって功徳善根を積み、わが心の罪障消滅と生命(いのち)の浄化・色心の六根清浄を成就していくと共に、世法の上からも、人としての徳を限りなく積んでいくことに、心がけていかなければならない。
 信心も自行のみでは真の苦楽を超越した自受法楽の境界は得られないのであって、他のための折伏と育成に悩み苦しんでこそ、人のあり様、世の中のあり様を客観的に体得し、自らの三毒を抑え、種々の執着より離れることができるのである。
 また、先程から述べて来たように、自行と化他行にわたって十四誹謗を犯すような信心を繰り返していては、仏法上悪果を招く罪業でしかないのであるから、十四誹謗を誡め、慢や懈怠のない自行を心がけていくと共に、同じ法華講員同士で悪口を言い合うことのないように、十分に注意していかなければならない。このような不断の清らかな信行の積み重ねにより、心が鍛錬され、三毒を抑制し晩年の自分を作り上げていくことができるのである。
 大聖人は、正月一日を正法をもって愛でることを悦ばれた『十字(むしもち)御書』に、
 「とくもまさり人にもあいせられ候なり」(御書一五五一)
 「法華経を信ずる人はさいわいを万里の外よりあつむべし」
 「法華経を信ずる人はせんだんにかをばしさのそなえたるがごとし」(ニ文共に御書一五五二)
 と仰せられ、この信行に励む者は幸を万里の外から集め寄せ、もともと良い香りのする栴檀(せんだん)にさらに芳(かぐわ)しさを添えるように、徳も積まれ、人に愛されるようになると、正法信行の功徳を御教示である。
 信心の上から、我が生命を過去世にまで遡(さかのぼ)って浄化しつつ磨いていくと共に、さらに世法の上からも人の生き方をよく学び、修練を重ねて己を磨いていくことが必要である。
 宋の黄堅(こうけん)の編んだ「古文真宝」には、学問の修養について、
 「厚く積みて薄く発す」(宮城谷昌光著『中国古典の信行録』四十)
 と教えている。ひたすら学問に励んで、徳を厚く積み重ねることによって、はじめて幽(かす)かに徳が光を発するのである。我が身に積み重ねていく信心のくどくも、丹誠を込めて長く深く積み重ねていくことにより、光り輝く人間性が、ふとした言動の中に現れるのである。
 弥よ私たちは、地涌の菩薩の一類として、清らかな自行化他の信行に徹し、自らの過去久遠からの使命である衆生救済に精励すると共に、人の生き方もしっかりと学び、心豊かな晩年を迎えられるよう努力をしていきたいものである。またそのことが正法を受持し信行に励んできた実証といえるのだから。
http://www.geocities.co.jp/sarariwoman/hokkeko/shingyo_point_0501.htm





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Last updated  2013.02.01 01:35:06


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