・一穂ミチの『たぶん、恋しい』 は、2026年6月に新潮社から刊行された6篇の短編集。『スモールワールズ』『光のとこにいてね』『ツミデミック』などで、人と人との距離にある微細な感情を描いてきた一穂ミチが、「恋しい」という言葉だけでは収まりきらない感情を掬い上げた作品集だ。収録作は「エンパイアライン」「わたしたちは平穏」「月を経る」「あなた」「すげえ泣くじゃん」「たぶんそんな感じ」の6篇。いずれも恋愛だけではなく、家族、夫婦、老い、喪失、記憶、ペットなど、「かけがえのない存在」との関係を描いている。
・「エンパイアライン」では、「猫ファースト」を公言する恋人と、ようやく対面することになった彼女の愛猫をめぐる出来事が描かれる。「わたしたちは平穏」では、濃い味も濃い感情も苦手な二人が暮らす家の冷凍庫に、互いに隠しているものがある。「月を経る」の主人公は48歳の緋沙子。結婚、出産、生理といった身体の時間を経てきた女性が、自分の人生の扉が閉じていく感覚と向き合う。「あなた」では、結婚生活の大半を単身赴任先で過ごした夫が定年前に帰宅し、夫婦のあいだに流れていた長い時間が静かに揺らぎ始める。「すげえ泣くじゃん」では、旅行に出発しようとする主人公のもとへ、3年前に失踪した母親をテレビで見つけたという甥が訪ねてくる。そして「たぶんそんな感じ」では、施設で暮らす大叔母の口笛をきっかけに、過去と現在、人と人とのつながりが交差していく。どの物語にも共通しているのは、 「そこにないもの」が、かえって人の心を強く支えている という構造だ。
・本書の核心は、 「恋しい」とは、相手を所有したいという感情ではなく、不在によって初めて輪郭を持つ感情だ というところにある。一穂ミチ自身も、「恋しい」は相手が目の前にいる状態では生まれない感情だと語っている。今回の6篇も、書籍化する段階で振り返ると「名前のつけられない感情」が共通していたという。だから、本書に登場する「恋しい」は、単純な恋愛感情ではない。亡くなった人を思うこと。離れてしまった家族を思うこと。かつての自分を思うこと。失われていく身体や時間を惜しむこと。あるいは、まだ失ってはいないのに、いつか失うかもしれないものを想像すること。「好き」とも「寂しい」とも「悲しい」とも言い切れない感情が、作品の底に静かに流れている。
・この短編集の優れたところは、 「普通ではない愛情」を異常として処理しないこと にある。架空のペット、元妻の幽霊、失踪した家族、老いた親族――。一見すると奇妙な設定が多い。しかし一穂ミチは、その奇妙さを笑いや恐怖だけに回収しない。むしろ問いかける。 「他人には理解できないものを、大切にしている人間を、私たちはどこまで受け入れられるのか」 これは30代、40代になると急に身近になる問いでもある。若い頃は、「好きなものが同じ」「価値観が近い」といった共通点によって人間関係を築きやすい。しかし年齢を重ねるほど、家族にも恋人にも同僚にも、それぞれに説明できないこだわりや秘密が増えていく。相手を完全に理解することなどできない。それでも一緒に生きる。本書が描くのは、その「理解できないまま受け入れる」という成熟した人間関係だ。新潮社が本書を「人と生きることを肯定してくれる六篇」と評しているのも、この点にある。
・ 『たぶん、恋しい』は、「失ったもの」ではなく、「かけがえのないものが存在した事実」を抱えて生きるための短編集だ。 恋しいとは、誰かを強く求めることだけではない。その人、その時間、その場所、その自分が確かに存在したことを、心のどこかでまだ手放せないこと。だから「たぶん」と付く。それは恋なのか、愛なのか、寂しさなのか、執着なのか――本人にも分からない。 名前をつけられないからこそ、人生には忘れられない感情がある。 一穂ミチは、その曖昧な感情を急いで結論づけず、そっと読者の手のひらに置いてみせる。そこに本書の文学的な強さがある。
たぶん、恋しい [ 一穂 ミチ ]
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