・櫛木理宇の『無音 忌み語を紡ぐ町』 は、2026年8月に集英社から刊行された長編ホラー。320ページ。舞台は、口にしてはいけない「忌み語」が異様なほど多く存在するD県十櫃町。人間の心理的な恐怖と、土地に染みついた因習、そして「音」を組み合わせた、櫛木理宇らしいサイコホラーだ。著者自身も本作を「聴覚」から想像力に訴えるホラーとして語っている。
・主人公の高嶋那月は、夫・健介の転勤をきっかけに、14年ぶりに故郷の十櫃町へ戻ってくる。しかし、この町には奇妙な習慣がある。「たがい違い」「アカンボ」「くっつく」――。日常的な言葉の中に、口にすることを避けられている「忌み語」が数多く存在する。そして那月には、もう一つ、決して忘れられない忌み語がある。 「タカシマサキ」 中学時代の同級生・鷹島咲の名前だ。鷹島咲の死をきっかけに、町では原因不明の自殺が続いた。さらに、その葬儀で那月が聞いた「ひーい」という、この世のものとは思えない声。その記憶は14年経っても消えていない。そして現在。再婚によって那月の娘・沙希も「タカシマサキ」という名前になってしまう。単なる偶然だと思いたい。しかし娘の言動は次第におかしくなり、笑顔も消えていく。夫の不在、母親から受けてきた呪縛、元夫によるモラハラの記憶、そして妊娠による身体と精神の変化。過去の記憶と現在の生活が絡み合うなかで、那月は再びあの声を聞く。 「ひーい」――。 町の忌み語と、那月自身の人生に潜んでいた傷が重なり、怪異は次第に暴走していく。
・この作品の核心は、 「呪いとは、超自然的なものだけなのか」という問い にある。十櫃町には、口にしてはいけない言葉がある。しかし、言葉を禁じることで本当に恐怖を封じ込められるわけではない。むしろ、口に出せないものほど、人間の意識の中で大きくなる。それは怪異だけではない。親から受けた傷。過去の恋愛や結婚。地域社会の因習。女性に押しつけられる役割。子どもを守らなければならないという責任。自分でも認めたくない記憶。人間は、それらを「なかったこと」にしようとする。しかし、消したはずのものは別の形で戻ってくる。だから本作における「忌み語」は、単なる怪談上のギミックではない。 語ることを禁じられた記憶そのものの象徴 として機能している。
・本作で特に秀逸なのは、タイトルの「無音」と、恐怖の中心にある「声」の対比だ。櫛木理宇はインタビューで、声や音、歌などの聴覚的な恐怖を扱うことについて、「音」は映像とは違い、読者自身の想像力に委ねられるため、小説に向いていると語っている。これは本作の恐怖の本質でもある。姿が見える怪物なら、読者はその姿を確認できる。しかし「ひーい」という声には姿がない。どこから聞こえるのか。誰の声なのか。人間なのか。幻聴なのか。過去から来たものなのか。分からないからこそ、読者自身の頭の中で恐怖が完成する。そして「無音」というタイトルは、単純に「音がない」という意味ではない。むしろ、 音が消えた場所ほど、聞こえてはいけない声が聞こえてくる という逆説を含んでいる。
・さらに重要なのが、怪異と社会的な抑圧が重なっている点だ。本作には、長男を優遇する地域の風習や、毒親的な支配なども絡むと紹介されている。つまり、那月を追い詰めているのは幽霊だけではない。
「母親なのだから」
「妻なのだから」
「家族なのだから」
「この町ではこうするものだから」
そうした言葉によって、人間は少しずつ自由を奪われていく。ここでホラーが現実社会と接続する。本当に怖いのは、説明のつかない怪異だけではない。 「それが普通だ」と言われ続けることで、自分自身の違和感を疑ってしまうこと だ。その意味で『無音』は、因習ホラーであると同時に、家族や地域社会の中で受け継がれる「見えない呪い」の物語でもある。
・ 『無音 忌み語を紡ぐ町』は、「語ってはいけないもの」ほど、人間を深く支配するという恐怖を描いた因習ホラーだ。 怪異の正体を追う物語でありながら、本当に描かれているのは、過去、家族、土地、記憶によって人間の内側に植えつけられた「呪い」なのだと思う。そして最も不気味なのは、最後まで耳を澄ましても、声の出所がはっきりしないことではない。 自分の中にも、誰にも言えない「忌み語」があるかもしれない。 そう思わせるところに、この作品の恐怖がある。
無音 忌み語を紡ぐ町 [ 櫛木 理宇 ]
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