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釜山国際映画祭でおなじみのプサンフィルムコミッション(FC)から、グリーティングカードが届きました。カワイイのでご紹介です。では…皆さんよいクリスマスを…‥。
2003.12.24
金髪F監督(次号編集長)から久しぶりの書き込みがありました。嬉しくなって、勝手に事務局日記でも紹介しちゃいます。☆→ここに書き込むのは久しぶりです。監督協会広報委員の金髪Fです。このHNは前に書き込んだときに勢いでつけたのですが、もうやめたいです。でも一応続けようかな。さて、監督協会サイトは1月10日に冬号に更新されます。現在その編集作業中で、いろんな監督がシメキリとガチンコバトルしてます。ちなみに僕は冬号の編集長やらせてもらってます。あ、HNの意味なくなるね(笑)ということで、冬号も大ボリュームで素晴らしい企画が目白押しですんで、皆様ぜひチェックしてください!まだ協会のサイトに来訪されてない方は、秋号が掲載されてる今のうちにとりあえず一度見に来てくださいね。http://www.dgj.or.jp/ 皆さんのご来訪お待ちしてます!>事務局の皆様ここで言うのも何ですが、更新に向けていろいろよろしくお願い致します。あと、いつもお世話になってます。あれ、順番逆かな?(笑)
2003.12.19
今日12月12日は小津安二郎監督の誕生日にして、逝去された日。 小津監督は60歳の誕生日に亡くなり、それからちょうど40年たったという事なのです。小津安二郎監督は監督協会が戦後再建されてからの2代目理事長。(1955~1963年就任。前任は溝口健二監督) 今夜はNHK-BS2 午後8:00~午後10:17『東京物語』(1953 松竹)を観て、小津監督を偲びましょう。★小津安二郎監督プロフィール★1903年12月12日、東京深川(江東区)に生まれる。小学生の時に父の故郷・三重県松阪市に移る。この時期に見たハリウッド映画「シヴィリゼーション」(監督:トーマス・H・インス)の影響で、 映画の道を志す。伊勢市の宇治山田中学校卒業後、三重県飯南郡(飯高町)の尋常小学校で1年間代 用教員を務めた後、帰京。1923年叔父のつてで撮影助手として松竹キネマ蒲田撮影所に入社。1926年演出部に移り、大久保 忠素の助監督となる。翌1927年時代劇「懺悔の刃」で監督デビューを果たす。1932年に監督した「生 まれてはみたけれど」はキネマ旬報ベストテンで第1位に選出されるなど、高い評価を得た。1936 年自身初のトーキー作品「一人息子」は最後の蒲田撮影所作品ともなった。2年間の出征の後、「戸 田家の兄妹」、「父ありき」の2作の秀作を残し、軍報道部映画班として南方へ従軍、この地で数多く のハリウッド映画を見る。1945年終戦をシンガポールで迎え捕虜生活の後、翌年帰国。1947年戦後 第1作「長屋紳士録」で復帰。戦後は脚本家・野田高梧と組み、神奈川県茅ヶ崎市の旅館・茅ヶ崎館 で脚本を執筆し、「晩春」、「麦秋」、「東京物語」といった名作を次々に発表。中流家庭を舞台に親子 の関係や人生の機微を描き、独自のローアングルの手法を磨き上げ、いわゆる“小津調”を確立し日 本映画界を代表する巨匠となる。「東京暮色」以降は蓼科高原(長野県茅野市)の野田家の山荘・雲 呼荘(小津安二郎の借りていた別荘は無藝荘)に共に籠もって脚本を執筆し、晩年の名作を生み出す。 1958年「東京物語」がロンドン国際映画祭でサザーランド賞を受賞したのを機に、海外でも注目 を浴びるようになる。同年には紫綬褒章、翌1959年には芸術院賞を受賞し、映画人として初の芸術 院会員となる。世界レベルで評価が高まる中癌に冒され、1963年12月12日、60歳の誕生日に逝去。 晩年を過ごした北鎌倉の円覚寺の墓に眠る。 http://www.ozu100.jp/ # より
2003.12.12
12月01日――日本映画監督協会オフィシャルWebサイトの、定期更新作業を行いましたので、報告いたします。 ~広報委員会~・‥‥…━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━……‥‥ 日本映画監督協会オフィシャルWebサイト http://www.dgj.or.jp/ ・‥‥…━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━……‥‥
2003.12.01
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