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セリーグが開幕だということは今日知った。しかし、大富豪としては、大阪ドームを持っているので、いかざる得ない。京セラに名前を売って、ネームビジネスで儲かったので、税金穴埋めを少ししたのである。阪急阪神タイガースの試合であるが、事前にインターネットで、監督名を覚えて言ったのは幸いである。OKAMAである。・・・大阪ドームの歴史・・・1997年3月1日にオープン。世界初の可動天井でコンサートからプロ野球まで多目的に使用できることを売りにした収容数5万人の超巨大ドーム、総工費は696億円にも上る。大阪市が20%以上出資する第三セクター「大阪シティドーム株式会社」が運営していた。ドーム完成後、それまで藤井寺球場を本拠地にしていた「近鉄バファローズ」がオープンを機に本拠地をここ大阪ドームに移転。しかし球団の経営難を理由にオーナー会社の近鉄(近畿日本鉄道)がオリックスに球団を身売り。だがバファローズが身売りしなければならなくなった原因こそが大阪ドームへの年10億とされる高額な年間使用料だったのである。過剰に豪華な施設は維持費もバカにならない。藤井寺から動かなければよかったのに。さらに追い討ちを掛けたのがコンサートでの観客が一斉にジャンピングすることで、あろうことか周辺に震度1~3程度の人工地震が発生し(笑)周辺住民からジャンピングを伴うコンサートはやめてくれとクレームが入ってしまったことである。 このことで、GLAYをはじめとしたビッグアーティストのコンサートができなくなり、さらに収入源を減らしてしまうこととなる。もはや多目的ドームの名目も失われ、自慢の可動天井「スーパーリング」は供給会社の部品生産中止でメンテナンスができなくなったため、もしも故障した場合動かせなくなる恐れがあるので、地上60メートルの位置で固定させたままの状態だ。そして、その運命を待ち構えていたかのように、第三セクター「大阪シティドーム株式会社」は、2004年11月1日付で債権放棄で特定調停申し立て、つまりご破算。大阪ドームはオリックスが90億で施設を買い取り、大阪ドームの命名権を京セラ株式会社と契約が締結され、施設名も「京セラドーム大阪」に変更される。大阪市側は108億円の債権放棄。ちなみにオリックス・ブルーウェーブの本拠地である神戸グリーンスタジアムも神戸市の税金で建てられたハコモノだが、こちらは建設費も維持費もだいぶ安いらしい。建設費は、大阪ドームの498億円に対し神戸はわずか60億円。「大阪ドーム」のネーミングライツを京セラ株式会社が買収することになり、2006年7月1日をもって「京セラドーム大阪」へと名前を変えることになった。そして大阪ドーム本体もオリックス株式会社に90億円で売却。ちなみに、MKタクシーでお馴染みの在日企業MKグループが100億で買うと名乗り出た。だが管財人が「こんな会社には売れない」と判断して門前払いを食らわせた。その後オリックスが大阪市から最低入札希望価格だった100億円から引き下げて交渉、結局90億で買収しのであった。しかし大阪ドームで笑えないネタなのが、大阪市の市職員互助組合の税金穀潰し労働貴族ども専用に特別観覧VIPルーム7室が公費で用意されていたという話。ちゃんちゃん。そんな訳で、始球式には、なんとかかんとかという女の子が投げていたのを見た後は、暫くしばやい展開の試合をチラ見しながらビールを飲み、弁当を食べて、電車が込む前に帰ったのであった。しかし、よく考えれば、去年も行ったので、もう来年は予定していない。大体分かったから。しかし、視覚にくるよね、とびそうになったよ。
2007.03.31
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大泉公園を通りがかった。 昭和40年代頃、関東でいえば、多摩ニュータウンのように、千里ニュータウンや泉北ニュータウンといった大規模な住宅地が開発されていったのだが、当時は、多分、値段も同じようなもので、大阪の通勤に同じ位の時間がかかるならどっちでもいいかといって購入した人々も、今となっては売るとなれば、南北だけの違いで価格差がかなりあるといえる。 御堂筋線沿いにある、新金岡でヤボヨウがあり、周辺を歩いた。新金岡については、苦々しい経験がある。それは、中学校1年生のまだ純情で汚れきっていない青春謳歌している頃のことではなく、もうい立派に社会人になってからの話である。私は、その日は梅田で飲んでいたのだが、結構早めに飲み会は終了し、梅田から一駅である淀屋橋駅で京阪電車に乗るべく、御堂筋線に乗ったのである。しかし、何となく、3分の乗車時間を座ってしまったのである。 気がつけば、30分先の終点「なかもず」駅であり、私は、寝ぼけていたので、間違って改札を出てしまった。しまったと思った時は時は遅く、仕方なく、乗車券を購入し、再び、反対車線に乗ったのである。しかし、始発なので、思わず、座っていると、いつの間にか、電車は発車したのであった。 フト、気がつけば、どういうわけだか、反対側の終点駅である、「千里中央」駅であった。1時間ぐらい寝ていたのではないか、寝不足だったんだろうか、何だか情けない気持ちにはなったのだが、今度は改札を出ることなく、ちゃんと、反対車線の始発を待つ電車に乗った。 そうして、ようやく気がついたのが、「新金岡」駅であった。終点なかもず駅の手前の駅である。 そうして、既に、もう戻る電車がないことを静かに悟ると、外へ出た。風が冷たく、目が覚め、財布の中身も寒いことに気がついた。いつまでも同じような団地が続いている。車がスピードを出して幹線道を突っ走っていく。人は歩いていない。酔いは、そうして醒めていったのであった。電器屋かクリーニング屋か分からぬ。初めまして♪私は麻奈と言います(^_^)v佐藤さんから紹介をしていただき、今回初めて連絡を入れました。ひょっとしたら佐藤さんから私の事を聞いているかもしれませんが、私は貴方に逆援助交際を申し込みたくて連絡しました。突然ではありますが本気で貴方と今後、関係を持ちたいと思っているので話だけでも聞いて下さい。まだ会ってもいないのに失礼な話かも知れませんが、必ず貴方にメリットを産むので詳細を詰めさせて頂ければ嬉しいです、ちょっと迷いましたが下記に私の写真も載せてみました。連絡お待ちしていますね♪http://thyme.vivian.jp/image/img04.jpgもし私とこの交際が無理であれば諦めますが、その場合は必ず断りの連絡を下さい。 公開お返事させて頂きます。佐藤君は何て親切なんだろうと、頼みもしないのに、気の聞く奴だなあと感心しました。佐藤君自体にも、数年会っていないので、まず佐藤君に何故あなたを紹介してもらったのか、その真意を聞いてみます。その前に、何故佐藤君が私のメールアドレスを知っており、何故無断であなたにメールアドレスを教えたのかも追求する所存です。その上で、私にもメリット君を産むことができる体になれば、頑張って産みたいと思います。とりあえず、この場を借りて、必ず返事をしました。
2007.03.30
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大垣駅、それは、中学校1年の時に夜行鈍行で東京に行って以来、大學で、大阪発より成田発のほうが10,000円以上安ければ、青春18切符を利用して成田発の飛行機に乗りに何度利用したことだろうか。大垣発東京行きの夜行列車は、電車を齧ったことのある人間の中ではあまりに有名な夜行鈍行であり、最も安く東京に行く手段であった。しかし、その大垣、何度も降りたことがあるというのに、駅周辺以外には行ったことがないのである。 大垣駅に降りたのは、20年近くぶりであった。駅前ビルが立派になっていた。それだけだった。 それと比較して、何もないのが、交通の拠点である米原駅である。新幹線の駅もあるというのに、驚くほど駅前に何もなく、隣の彦根駅や能登川駅といったマイナーな駅前でさえ、ファ-スト化した大型店舗駅前ビル(平和堂)ができているというのにである。 残念ながら、乗換えだけの駅というイメージは昔からのままである。私を含め、駅から出たのは4人だけで、乗っていた電車の99パーセントは、やはり乗り換えであった。大昔から、ここは東海道から、中山道と北陸道の分岐点である。それでも昭和50年頃に比較したら水田も随分減ったといえるのであろう。ところで、米原町は、この2月に合併により米原市になったようである。余談であるが、米原駅は「まいばらえき」と読み、米原町は「まいはらちょう」と読んでいたが、今や、まいばらし、になったようである。 3月18日にオープンした、芦屋駅と西ノ宮駅の中間にある「さくら夙川」駅におりたが、これまた見事に何もなく、おまけに、桜も跡一歩というところで咲いていなかったわけだ。 話は、米原に戻るが、米原には苦々しい経験がある。それは、中学校1年生のまだ純情で汚れきっていない青春謳歌している1学期のことであった。私は、勉強机に向かいながら、勉強をせず、時刻表を眺めていた。そして、静かに頷き、同級生SとTに電話した。「明日、名古屋いこうや」 Sは、牛乳を飲みながら、何故だか目線を道端に向ける奴だが、すぐに話に乗ってきたし、後に銀行員になるTもイージーに話に乗ってきたのである。 我々は、早朝から、1駅区間の切符を買い、早速、大阪を越え、京都を越え、そして、米原で乗り換えるところであった。 「おい、きみたち、切符みせてや」そうやって我々は敢え無く駅員に捕まり、ありったけの金を巻き上げられ、荷物検査をされ、私の綿密な旅行行程表を発見し、「名古屋まで行くつもりやったんか」とお灸をすえられた。 すぐに、別室には、また子供達が駅員に連れられて入ってきた。彼らの所持金は4人合わせて総額0円だったので、余計に怒られていた。我々も人の事をいえず、3人分で帰るお金はなく、Tの母が立て替えてくれたお金で、何か証書のようなものを持たされて、最寄り駅に帰っていったのであった。 そういう苦い思い出もある感傷的な米原駅なのであった。
2007.03.29
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日本を代表する映画のひとつであり、網走が舞台といえば、高倉健さんの網走番外地、幸せの黄色いハンカチ、男はつらいよなどがあるが、まさに気持ちだけは最果ての気分になる。網走刑務所 正門 やたら車の出入りが頻繁。それが、罪人関係シャではなくとも、何となく目を合わせてはいけない気分になる。被害者の人権もよろしくお願いします。加害者が匿名なら被害者も匿名報道せなあかんよ。暗澹たる気分になる。刑務作業で受刑者に支給される作業賞与金は、1人あたり日額69円(平成18年度予算)。これでは、一般社会の仕事を奪っていく構造となり、複雑な気分になる。刑務所の給料の安さが民間を圧迫。しかし、木彫り(ニボボ人形)の技術、世間に戻り、社会復帰に役立つのか。多くの受刑者は、そういう性格や体質だからだけでなく、仕事がないので、また刑務所に戻りたくなる人も多くなるのは分かる気分になる。受刑者の1日(平日)起床6:40 点検6:55 朝食7:05 始業7:40 休息9:30~9:45 昼11:40 就業再会12:20 休息14:30~14:45 終業16:20 点検16:40 夕食16:50 就寝21:00 行きたくなる人もおるワナア・・・やpっぱり、という気分になる。網走川向こうに、煉瓦の塀がある、刑務所全景。ここでは無理だろうけど、昔、刑務所の壁に向かって親族などがタバコを放り投げるとおうことが結構あるらしい。どんな気分になる?網走駅の文字も、まるでシブイ。刑務所観光にすがっている気分になる。お気軽に寄って捕まってしまうという按配。おとり捜査している気分になる。網走刑務所は農場監獄です。この農場で作ったポテトチップス、商魂逞しい。しかし、味は同じ、しかし、ちょっとだけ、大丈夫かなあという気分になる。網走刑務所の横にあるスナック。名前がイカス。ちょっと一杯ひっかけたい気分になる。気分だけで、旅行した気分になった旅行だった、という気分になった。解説;五寸釘寅吉こと西川寅吉は、安政元年(1854年)、三重県に百姓の次男として生まれた。寅吉が初犯をおかしたのは14歳の時である。賭場でイカサマがばれて殺された叔父の仇を討とうと敵の一家に忍び込み、親分と子分四人を斬りつけ火を放って逃げた。少年のため死刑を免れ、無期刑となって三重の牢獄に入れられた寅吉は、仇討ちをした相手がまだ生きていることを知り、牢獄を脱走。仇を求めて各地の賭場から賭場を渡り歩くうちに、すっかり渡世人の垢がしみついていった。ある時、賭場が手入れをくらい、寅吉は逮捕されて三重牢獄に逆戻りしたが、二度目の脱獄をし、今度は秋田の集治監に移送された。しかし、寅吉は、ここもあっさりと脱獄してしまったのである。秋田から故郷の三重に向かって逃走する途中、牢獄でイカサマの手口を覚えた寅吉は、静岡のある賭場で荒稼ぎをした。元来指先が器用だったのでけっしてみやぶられることはなかった。しかし、一人であまりにも勝ちすぎたことから乱闘になり、数人に傷を負わせる事件を起こした。非常線が張りめぐらされ、巡回中の警官に発見された寅吉は、逃げる時に路上で板についた五寸釘を踏み抜いてしまった。しかし、そのまま三里(12キロ)も逃走。結局、力つきて捕まったが、この時以来「五寸釘」の異名がつけられた。寅吉の身柄は東京の小菅監獄に移され、そこから遠い北海道の地に送られることになる。寅吉の名は全国に知れわたっていた。樺戸集治監では彼を畏敬する囚人たちの援助を得て、三度にわたって脱獄を繰り返した。一度目は明治20年夏、構内作業中、濡らした獄衣を塀のたたきつけ一瞬の吸着力を利用し、塀を乗り越えたという。人並みはずれた彼の脚力は捜査人を翻弄した。今日札幌に現れたかと思うと、次の日は留萌と、神出鬼没で、しかも豪商の土蔵から盗んだ金は、バクチで湯水のように使う一方で貧しい開拓農民や出稼ぎ夫の家に投げ込んだりしたため、一躍有名になったばかりでなく、庶民からもてはやされ一種のヒーローになっていった。しかし、半年後、釧路の賭場でついに捕まった。二度目はこの年の冬、吹雪のあとの除雪作業中、仲間が投げる雪煙にまぎれるように脱走。しかし、三ヶ月後に函館で逮捕され、再び樺戸に連れ戻された。三度目は仲間が食事の飯の中に隠して差し入れた特製の合い鍵で錠をはずして逃亡。 警察当局の裏をかいてまんまと北海道を脱走し関西の大都市、大阪の人混みの中に姿を消した。全国に張りめぐらされた捜査網から逃れることはできず福岡で捕まり、再び北海道に送られて今度は空知集治監に収容された。 だが、ここも間もなく脱走する。さすがの寅吉もこの時は40歳の峠を越し体力も衰えていたものと見え、わずか一週間で逮捕され釧路集治監に収容された。そして、釧路の集治監が網走へ移動する時に、他の囚人たちと一緒に網走入りをしている。寅吉の脱獄は計6回におよんだ。前代未踏の脱獄歴である。しかし、14歳の少年期から悪の道を極めてきた彼も、網走に来てからは沈黙した穏やかな生活に入る。寅吉は監獄で働いて得たわずかな金を、捨てるように残してきた故郷の妻子に送金し続け、季節の変わり目には必ず手紙を書き送っていたという。大正13年9月、ついに寅吉の長い長い獄中生活に終止符が打たれる日がやってきた。寅吉はすでに72歳になっていた。彼の出所を手ぐすね引いて待ちかまえていたには、興行師たちだった。それを知った刑務所側は、彼が利用されるのを心配し、釈放日をずらし、秘かに出所させるなど配慮を払ったが、興行師の手を振り切ることができず、「五寸釘寅吉劇団」という一座を組み、全国を巡業した。寅吉は幾人もの興行師に利用されたあげく、最後には捨てられた。昭和の初め、故郷の三重県に帰り、息子に引き取られて、平穏な生活に入り、畳の上で安らかな往生を遂げている。
2007.03.28
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網走刑務所関係の本は何冊か読んだことがあるが、「脱獄」(吉村昭)は面白かった。まあ、こちらは白鳥由栄にことなのだが。alex99さんには、やっぱり修行僧らしく、この黄色の作務衣(XLサイズ、手錠はSサイズ)にしようかと思います。郡山ハルジさんには、右の龍のモンモンの入った服というか、皮をプレゼントしたく思います。小田切さんには、この戸建式独房に愛と共に隔離軟禁しようかと思います。達人放浪さんは、一番奥の人間にしようかと思います。「おまえが判決くだせや」と囚人に諭してもらいます。解説 白鳥由栄は、明治40年青森県で生まれた。 豆腐屋を営み裏で泥棒をして生活していた。 昭和8年、盗みに入った家で発見され、殺人をおかしてしまう。 2年後、その時の共犯者が別件の「土蔵破り」で捕まったのを新聞で知る。 義理堅い白鳥は自首した。 昭和10年、青森刑務所に移送される。 青森刑務所脱獄では、看守たちは白鳥につらくあたった。 「お前のような人殺しは、どうせ死刑だ。早く死んでしまえ」と 白鳥を馬鹿にし、顔にタンを吐きかけた。 白鳥は腹を立て、脱獄を決意した。白鳥は独房に収容されていた。独房の外に出る機会は少ない。脱獄の為,辺りの観察はおこたらなかった。そなえつけの便器から便捨て場に汚物を捨てに行く時、この小窓と鍵穴の位置を観察した。鍵穴は小窓から手を伸ばせば届く位置にある。ある日、便器の汚物を捨てに行く時、白鳥は針金を見つけ、看守の目を盗んでこれを拾った。針金は汚物入れの底に、ご飯でノリ付するなどして見つからないように、持ち歩いた。白鳥は小窓から手を出し、鍵穴に指を押しつけ鍵穴の形をうつしとり、針金を曲げ、さし込み、何度も試行錯誤し、とうとう合い鍵を作ってしまった。看守の気がゆるむのは真夜中の交代時間で、巡回に15分間のわずかな時間があく。白鳥は、この時間の隙間を狙ったのだ。白鳥の手製鍵は、独房だけでなく、廷物にも、裏門にも全て合った。白鳥は針金一本で脱獄を果たしたのである。青森市内は大騒ぎとなった。県の警察官の半分が捜索に動員された。 民間人も非常警戒にあたった。白鳥は山で山菜を食べて腹をこわしてしまった。 墓地にいるところを発見され、脱獄より3日後、あっけなく逮捕された。 昭和11年、青森地裁で準強盗殺人と逃走の罪で無期懲役判決が下る。共犯とされた男はすくに下獄したが、白鳥は控訴する。 この強盗と殺人は白鳥が主犯ではなく、共犯とされた男が実は主犯だったが、白鳥を売って自らの罪を軽くしたのだ。警察も無理矢理に白鳥を主犯としたという説がある。しかし、白鳥は生涯仲間について沈黙を守った。 昭和12年宮城刑務所、小菅刑務所(現・東京拘置所)に移監される。白鳥はこの小菅で小林良蔵戒護主任と出会う。小林は白鳥を普通の囚人として扱った。白鳥は小林戒護主任に恩義を感じた。しかし、当時は第2次世界大戦の最中であり、戦時罪囚移送令に基づき秋田刑務所へ送られた。 白鳥の名は脱獄をした男として知れ渡っていた。秋田刑務所では白鳥を不良囚として厳重にあつかった。鎮静房という特別な独房を用意していた。鎮静房は、明かり取り天窓があったが、昼間でも光が射ささず、照明は薄暗い20ワットの裸電球がひとつ。璧には銅板か張られ、扉には食器を出し入れする小窓すら無い完全な密室。手錠を外すのは、食事とトイレの時だけ、白鳥は、何度も手錠を外してくれるよう、鎮静房から出してくれるように申し入れたが、看守は聞き入れなかった。 冬になると手錠は外されたが、コンクリートの床は凍りついていた。 「毛布をもう一枚下さい」という要望も無視され、やむ終えず看守の制止を聞かずに体操をし、暖を取った。 昭和17年、白鳥は過酷な扱いと、看守の横暴な態度を直訴したいと考え、再度の脱獄を決意する。白鳥は看守相手に「脱獄するぞ」と小声で言う。その低い声の迫力に看守は威圧された。 鎮静房の璧も扉も破る事は不可能だった。 白鳥は天井に目をつけた 天窓には鉄格子が付いていたが、腐りかけていたのだ。白馬は璧の隅を使って、璧をよじ登る事を考えた。角に立って壁に手と足を踏ん張り、登ろうとした。看守が寝静まってから何度も練習して、登れる手応えを得た。練習している時、天窓のワクに取り付けられていたブリキ片と錆びたクギを見つけた。ブリキをクギで突き刺して、ギザギザに尖らせ、即席のノコギリを作った。白鳥は天井に上り、足で体を支えながらノコギリで天窓のワクの四方を切った。看守の交代時間を狙い、1日に10分ずつ地道に作業を進める。ノコギリとクギは敷物から抜き取った糸で天窓の木枠にくくりつけた為、看守に見つかる事はなかった。 地道な作業により鉄格子を切り離す事が出来た。白鳥はワクを元に戻し、時を待った。脱獄当日午前0時、暴風雨にまぎれて、白鳥は脱獄を決行する。看守の交代時間で15分の隙があった。璧を上り、天窓を外して屋根に出る。地上に飛び降り、刑務所の裏手に回って中庭を飛び越え、刑務所の工場の丸太を足場にしてレンガの塀を越え脱獄した。 その後、白鳥の行方はまったく知られなかった。だが、脱獄から3カ月後、白鳥は、東京の小菅刑務所官舎の小林良蔵戒護主任宅に姿を現した。小林は白鳥を家に上げ、熱い茶と芋を出した。白鳥はうれし泣きした。白鳥は小林に秋田刑務所の状態を切々と訴え終わると、翌朝、小林戒護主任に付き添われて小菅警察署に自首した。昭和18年、東京区裁で逃走罪に対し懲役3年の判決が下った為、網走刑務所に移管された。網走刑務所でも白鳥に対する扱いは最悪だった。白鳥は四舎二十四房に収監された。そこは凶悪犯用の特別房だった。白鳥は看守達の横暴な態度に激怒し力まかせに手錠をひきちじった。人並み外れた力により、そんな事が度々あった。その度に手錠はは丈夫なものになり、4回目には足かせをはめられた。手錠も足錠も鎖玉がつき、ボルトで溶接止めされていた。手足の自由を奪われて独房の床に転がされた。食事は食器を口でくわえて食べねはならなかった。夏は厚い綿入れの服を着せられ、冬は夏物の服一枚にされた。網走の冬は死ぬほどの寒さだった。用便も垂れ流しで自らの糞尿にまみれていた。1週間に一度、看守が体を水拭きするだけで、風呂には一度も入れてもらえなかった。その後の札幌高裁の判決文に「身体の自由か効かず、手錠は手首に食い込んで腐蝕し、骨が露出し、糜爛(びらん)した液の下からウジが湧き出る有様であり、冬が来ても単衣一枚のままという冷遇であった」とある。手錠が食い込んだ傷か膿んで、そこからウジがわいたというのである。人間扱い・・・いや生き物としての扱いではなかった。この間、白鳥の脱獄計画は着々と進んでいた。獄舎は木造だったが、秋田刑務所よりもてごわかった。白鳥はまず、手錠を根気よくぶつけ、かみつき、ゆるめるのに成功した。次に、白鳥は扉についている監視口に目をつけた。監視口は鉄格子がはまっていた。白鳥は毎日、根気良く鉄格子を揺さぶっていた。3ヶ月が経ち、鉄格子はガタつきはじめ、脱獄の時を待った。ある日、停電があり、看守の交代か遅れた。白鳥はこのチャンスを逃さなかった。10時頃、白鳥は事前に緩めておいた手錠、足錠を外し、ふんどしひとつになると、監視窓の鉄格子を腕力で外した。 白鳥脱獄の知らせが伝わると、街は大騒ぎとなった。軍隊が出勤し、民間人も召集され、海岸線の捜索と山狩りが行われた。だが、2カ月にわたる捜索にも関わらず消息はつかめなかった。脱走した白鳥は2年の間山にこもった。昭和21年学校から新聞を盗み、日本の敗戦を知った。日本が戦争に負けるなど信じられなかった。白鳥は自殺を決意し札幌に向かう。 札幌を目指す途中、米兵にべったりとくっついている女を見て死ぬ気が崩れて行く。その頃、砂川ではスイカ泥棒が多発しており、そこの農家の人も畑を見張っていたのだ。札幌に向かう途中目立たないよう畑沿いを歩いていた白鳥がスイカ泥棒と間違えられた。棍棒をふりかざした男に問答無用で殴られ続けたため、白鳥はついにこの農夫を殺してしまい、殺人として逮捕される。 札幌地裁において殺人、加重逃走罪で死刑判決を受ける。白鳥はこれは正当防衛であって殺人ではないと控訴する。 札幌刑務所では2人1組の2組交代の看守が、つきっきりで白鳥を監視した。ここでも白鳥を制圧の方針だった。看守は拳銃を携帯し、逃げるそぶりかあったら、射殺しても良いとの指示も下っており、緊迫した状態だった。白鳥の頭には脱獄の文字しかなかった。札幌刑務所の独房は、扉、天井、採光窓、鉄格子を補強してあった。その上に24時間の監視であった。白鳥に残された道は床しかなかった。白鳥は、床に敷かれたゴザの芯を抜き、先にツバをつけて床板のすき問から床下を探った。芯の先に土がついていた。板を外せば逃げられると確信した白鳥は、洗面用の桶の鉄タガを引きちぎった。そして、検事の取調の時に部屋のドアのクギを抜き取り、房に持ち帰った。このクギでタガに穴を開け、ノコギリを作った。白鳥は、これで床を切って行った。独房点検時には、クギと鉄タガは便器の裏底に隠し、床板の切り跡にはホコリと飯粒をまぜて塗りつけ目立たなくした。決行の日、床板を切って、床下におりた。白鳥は食器と手で士を掘り進み、2メートル掘った所で外に出た。雪が積んであった為、中塀は簡単に越えられた。外塀も、看守に気づかれずに越え、脱獄は成功した。 白鳥は、山中で9カ月あまりの逃亡の後、札幌市琴似町で職務質問をした警官の態度がよかった為自ら脱獄囚「白鳥由栄」である事を名乗り、逮捕される。 札幌高裁で砂川町の殺人を傷害致死とし、加重逃走罪と併合で懲役20年の判決か下る。正当防衛ほ認められなかったが、死刑判決はくつがえされた。 昭和23年、GHQ札幌地方軍政本部の命令で、府中刑務所に移送される。府中刑務所では所長が白鳥を普通の囚人として扱う方針を出した。白鳥はこれに応え、模範囚となる。刑務所内で働くのは、府中がはじめてだった。昭和36年、刑期を勤め上げ、仮出獄となった。
2007.03.27
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女満別空港行きのバス時刻表は存在するのだが、女満別空港発の時刻表が曖昧なのだ。飛行機の到着に合わせて出発しますと案内されているのであった。軽い眩暈を覚えた私は、網走行きの(30分程度)のバスを見つけたが、前を歩いている女の子が、誰も乗っていないバスに不信感を抱きながら迷っている。私はそれを横目で乗るのだが、乗客は2人と、飛行機に乗っていた数十人は地元民かパックツアーのようで、彼女もどうやら荷物がいっぱいで、友達を訪ねるのだろうか状態で、個人旅行者は、どう見回しても私しかいないという状態であった。(結構、そういう状態になることは多いのだが) そんな訳で、凍った網走湖(上記写真)脇を走りぬけ、網走駅で降りるのだが、閑散としていて、寒さのせいなのか、人が歩いていない。昨日のヤフー天気情報は-4度、機内での発表は-5度だったので、重装備をしてきた私は、うなづくのであるが、道沿いの温度計が7度を示しており、ムワーっとするのであった。 とにかく、駅(上記写真)にある観光案内所に入ると、満面笑顔で、客が来たという感じで、3人の職員の鋭い視線を浴び、私は、地図を所望し、最近流行っているレンタル自転車を希望した。そこで、若い少しはにかんだ職員さんは、「この季節はやってないねえ。駅裏(上記写真)の民宿ランプ亭さんがやってるよ」と、地方の言葉で説明してくれた。バスが少ないこと、行きたいところが、3キロ、5キロ、4キロとばらばらに離れているということから、最も効率的なのは自転車であるということを悟ったのであるが、確かに1台の自転車も走っていないのであった。そんな訳で、5,6分歩いて、ランプ亭に向かい、主人に尋ねた。「あ・・・・ああ、うーん、無理だわ」と主人はにこやかにいい、ほらここにあるんだよと、自転車の格納されている倉庫を指差した。その格納庫のシャッターの前には雪ががちがちに凍った高さ約1メートルのアイガー北壁が聳え立っていたのである。「これを除いてくれるならただで貸してあげるけど、1時間はかかるよ。自転車はだいたい5月でも早いぐらいだよ」と言われ、涙を飲み、主人の歩き観光の説明を受け、私は、多分、もうよっぽどのことがなければ、一生来ないと思い、断腸の思いで、もう一度、駅に戻り、駅レンタカーを借りたのであった。こんなことなら空港から借りれば良かったと思いながら、元気とやる気のなさそうな1人しかいないレンタカー屋の女性の方の説明を軽く聞くのであった。 道脇は雪だが、道は乾いているので、大丈夫だと判断し、まずは、刑務所に続く第2の観光聖地目玉である、流氷を見に、流氷船を求めて、港に車を転がすのであった。港について、見渡すと、船(上記写真)が見えた。埠頭沿いに車を更に走らすのである。しかし、暖冬の波はアムール川にも押し寄せており、海は、まったく流氷のかけらも見えず、例年の半分以下しか流氷がないという情報は確かだったということが判明した。団体旅行のバスが数台駐車場に横付けしている横に、渋く軽自動車を止め、あと3分しかない発車時間に向かってダッシュしたのであった。切符売り場のにちゃんも自然現象には勝てず、申し訳なさそうに、「流氷ないんです」といい、流氷のない日は500円引きということで、チケットを受け取り、いまいちそうだなあ、と思いながら、クリオネ燈台(上記写真)を抜け、オホーツク海に出たのである。右手には知床半島(上記写真上)と、その山々、左手には能取岬(上記写真下)でその裏側には日本3番目の広さのサロマ湖。その名前から、小学校の時に一番行って見たい湖であったことは、公然の秘密である。流氷のない砕氷船は、コーヒー豆の入っていないコーヒーのようで、味気なく、乗船しているほとんどの皆と同じように、退屈気味であった。 せめて、かもめが慰めか。(上記写真) そんな訳で、港に戻ってくるや、一番に船を出て、一番に車に乗り、オホーツク博物館で流氷をとりあえず、一気に確認しなおしたのである。山の頂上にあり景色はよろしかったのである。(上記3方向の写真)人口4万人の山に囲まれた網走市内をぐるぐる意味なく渡り(上記写真上中はクリオネ通り、下は旧刑務所専門通り)、バスの発車10分前に車を返却し、弁当を買って、バスに乗り込むのであった。観光客以外の外を歩く若い女性は2人、若い男性は0人であった。商店街も1人も歩いていないのが、気がかりなのであった。
2007.03.26
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開拓の為の釧路集治監にどうぞ。各地刑務所。懲罰一覧表。歌いましょう。ムショ歌。みなさん、どうぞ、裁判でも何でもしてくれ。面会に来たのですが・・・網走から生きて帰れるか分からない。いびる奴リストを作成せよ刑務官の家にお邪魔遠出して帰れなくなったら小屋でエンジョイ。ランチ。鍛冶屋もオープン。おててつないでなかよくあるこうぴっちり服が気になります。拘束しないでください。あしかけ。しかし、世の中、見えないてかせあしかせの人がいっぱい。健康食。マスコミにとっては臭い飯でなければならないが、実際は栄養バランスがよい。正月超豪華囚人弁当。カンナがけにそんな顔しなくても・・・つるはしも。力持ち大会優勝者。いろいろあるよ、税金もったいないよ、立派な建物、地震が起きても頑丈だから囚人守るのダイジョウブ、マイフレンド。独房もあるよ。共同浴場。遊んで帰ってね、本当の網走刑務所。
2007.03.25
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そこそこ、最近歩いていると、大學も卒業式の形相である。何を隠そう、私は友人知人が多岐に亘るため、誰一人として、卒業式行こうや、と誘ってもらうこともなかったのであった。何せ、私の通っていた大学はマンモス校で15,000人ばかりの人数を数えるほどであったので、私が、いちいち全員の名前と顔を覚える暇はなかったのである。それどころか、学年があがるにつれ、学部では知り合いがいなくなり、大學5年に至っては、後期試験のときに、ふと、隣の奴をみると、大学1年のときと同じゼミの奴だった、4年ぶりに会ったということも、何度かあったのである。勿論そのときは、お互いの勉強のし過ぎを意気投合、叱咤激励、青色吐息、烏合之衆であった。 それに、2年以上になると、授業で知り合いもないので、勉学に身が入り、学校に行ってから帰るまで一言も喋らないという日常茶飯事、日々是毎日、本来無一物、五十歩百歩なのであった。 最近では、いや、当時かもしれないが、大学卒業式には父兄母妹も参列することがあると聞いているのだが、私は、すっかり、誰にも聞くことを忘れており、卒業式というのは、誰も出席しないものなのだと、思い込んでいた。そんな訳で、ホエホエとボルネオ島の山奥で優雅なジャングルリゾートして、日焼けで無茶苦茶になった皮を剥くのが、日課となっていた訳である。もしかして、これって卒業旅行って言う奴なのか?私は、腕を組んで、考えるフリをするのである。何故だが、灼熱のジャングルの中で、「クリスマスカロル(ディッケンズ)」を読んでいたのであった。 しかし、何故、仰げば尊しとか蛍の光とか、スコットランド民謡なのか。まあ、ここだけの秘密だが、高校の卒業式は、卒業写真、中学校は、・・・忘れた。 何とも、気の抜けた本日の日記である。気の抜けたといえば、「ブロークンフラワーズ」全編通して気が抜けっぱなし。それでいて、飽きないのは、ジャームッシュ監督のなせる業なのか・・・
2007.03.24
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中学校3年の担任は、我々の学校の地祇の赴任先で、校内暴力に破れ、故郷四国に帰り、そこで讃岐うどんを打っているという真実味の高い噂が流れてきたのは、まだ高校の頃であった。幸か不幸か、その先生が我々の担任をしていた年齢に、我々生徒自身が達したとき、つまり、AGE25になったとき、つまり卒業してから10年たったとき、つまり先生の頭が若白髪になったとき、我々は、四国から先生を招いて同窓会を催した。そのとき、初めて先生は、讃岐うどんでなく、まだ四国で先生をしていることが判明した。 私は、先生に会うやいなや、当時の先生に教わった「だろだっついいけれ」「かろかっくいいかな」と叫び、「先生はまだ五段活用をこうやって教えているのですか?先生私が誰だか分かりますか?最近の子供たちはどうなんですか?親はどうなんですか?何故先生は皆さん授業中にじゃーじというカジュアルファッションだったんですか?本当に、美術の先生と用務員さんは結婚したんですか?先生は子供から見たらみんな同じ先生に見えてたのですが、職員室で、体育の先生Kが、先生のこと呼び捨てにしているのを聞いてびっくりしましたよ。私が志望校を落とすことを希望したら、先生は何だかえらく満面笑顔でしたね。」程度の半分ぐらいの質問と感想を述べたことは、記憶に新しい。 前置きは長くなったが、さぬきうどん巡りをする旅行者が多いようである。レンタカーの車にも「うどん巡りレンタカー」とペインティングされていたし、店で隣に入ってきた30代の女性とその母の2人連れ旅行者は、私よりも弾丸よりも早く、うどんをバキュ~ムし、「さて、次行こか、次の店」といい、行き急ぐかのごとく、さっさと店を出て行ったのである。私のおわんには、まだ150円のス饂飩が半分残っているというのにである。もしかして、うどんのはしごが、四国観光お遍路さんに並ぶ2大観光目玉なのかもしれないと、やがて悟るようになってきたのである。そんな特殊事情もあり、私も、うどんやをはしごすることにしたのである。最初からどこの饂飩屋に行くのか、つまらぬ迷いなどしながら、人生で無駄な時間を過ごすのではなかった。思い立ったら、すぐ、そこで食え!そう30代の女性とその母の2人連れ旅行者が教えてくれたのであった。 前置きが長くなったのだが、私が高松に来たのは、4,5歳の頃におじいちゃんにつれてこられたことと、瀬戸大橋ができた頃、因島や、金毘羅さんに行ったこと、それと、もしかして徳島だったかもしれないのだが、剣山、石鎚山に登るために、一泊、早朝電車に備え、夜便のフェリーでやってきては、城のほとりでテントを張ったことが一回。まあ、そんなところだろうか。前置きが長く本題に入る前に、今日は前置きだけで終了なのである。 ちなみに、神戸港から船に乗る先生に尊敬の意味を込めて、我々は、エロ本とあんぱんを先生にそっと引渡し、また10年後お会いしましょうということで別れたのであった。10年後、まだ、第2回恩師を囲む会は催されていない。もしかして先生は讃岐うどんを作っているかもしれない。
2007.03.23
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前提としてですね、震災から12年の神戸からのリポートです。神戸空港借金はほんの2000億円、空港島埋め立ての土地売却全然できず、また、ANAは新潟鹿児島便、JALは熊本仙台便廃止。神戸空港-関西空港の海上船便、120人乗り1日20往復合計4800人乗せられる便利な海上アクセス、一日平均搭乗者数14人。震災復興もばっちり、16兆円のうち、被災者生活支援に2.3パーセントも割きました!そういう事情を鑑みて、とは全然関係ないのだが、鯨食った。食する前に、神妙な鯨講義が展開され、我々は、黙々と、正座して拝聴する。 店長の写真入り鹿児島産焼酎。自慢のクジラリーゼント。 はりしゃぶ。3秒つけて食する。ところで、関西では、呼子饅頭イカ饅頭の宣伝をやっているが、イカを一番食べるのは、日本人でなく、まっこう鯨でっすという軽快なCMソングが流れ、ほぼ、感心するのである。 北洋に生息するマッコウ鯨約10万頭(2000年調べ)1匹が1日に食べるイカの重量200kgから500Kg(個体差による)イカが1匹2kgぐらいとして100匹から250匹、全体で1000万から2500万匹を一日で食している。鯨の各種刺身「クジラは絶滅の危機に瀕している肉。」「国際社会のなかで日本人が嫌われ者になってまで捕鯨を継続するメリットがない肉」 「クジラなど、日頃、食べていないから今後も必要ない。牛や豚で十分ではないのか肉」 「クジラたちは、かしこく、心の優しい、清らかで聖なる動物である。汚れきった現代社会に生きる我々日本人がこれを殺して食べるなどもってのほかである肉」などがある。勿論全部出鱈目である。鯨の骨グッズも満載だよ、彼女にいかがですか?イカスよ。渋いよ。はいくじゃん。 財布の中身もからっぽという特殊事情と、始発が走ったという諸事情により、電車で帰るのであった。しかし、各種事情があり、自分の住む駅で降りることは遠く失敗し、西方の彼方まで行ってしまった早朝であった。よく考えれば、鯨は、魚ではなく哺乳類なので、魚の刺身でなく、肉の刺身を食ったということか・・・どおりで腹が緩くなった訳だ。
2007.03.22
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高松駅の一番高いビルに登ると、まあ、こんな漢字である。何故、はりぼて人形に、じつと手を合わせる?琴電で栗原公園へ。日本の三大庭園といえば、偕楽園、後楽園、兼六園といわれている。金沢の兼六園と岡山の後楽園には行った。何せ、岡山の後楽園については、岡山の友達の所に学生の時、遊びに行ったら、急にバイトが入って、「後楽園で一日中昼寝しとけや」といわれ、昼寝していたのんびりした時代であった。小田実の古い本を読んで芝生に寝転がっていたのは、憶えているが、その他については憶えていない。スイカでもイコカでもない。それは、イルカである。スイスイ行くか?どっかへ行こか?海豚なんかいるか?交通的弱者とはだれか。高松上跡こんなところに放浪達人節が・・・ガタンゴトンガタンゴトン。瀬戸大橋を電車で往復するのであった。岡山-takamatu1時間かからず。親切な青鬼くん。女木島までの船上。
2007.03.21
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女木島行き船。鬼のマーク。女木島港に10分15分程度で到着したラ鬼ではなく、モアイがお出迎え。いやいや、港にも鬼おるよ。鬼退治に出発。鬼のいるところまで歩いて行ったら、またも鬼がお出迎え。鬼は何を望遠鏡で見ているのか。鬼の砦から高松市内が見える。高松市を見張っていたのか。桃太郎の事跡は、岡山県の吉備津彦・温羅伝説の他、香川県や愛知県犬山市等全国に多数あり、本家争い等舞台に付いて熾烈な争いを展開しているために、あたしはどこに行けば分からないのである。 もとより、私は、この桃太朗が嫌いであった。何故なら、平和に鬼が島に住んでいる鬼を侵略し、財宝を略奪して帰ってくる桃太朗に帝国主義を感じたからであった。まるで、南米を滅ぼしたスペイン人のようである。1.桃太郎さん、桃太郎さん、お腰につけた黍團子、一つわたしに下さいな。2.やりませう、やりませう、これから鬼の征伐に、ついて行くならやりませう。3.行きませう、行きませう、あなたについて何處までも、家來になって行きませう。 4.そりや進め、そりや進め、一度に攻めて攻めやぶり、つぶしてしまへ、鬼ヶ島。最近のモモタロウは以下の模様。現在では「暴力的な話」だとして、絵本や子供向けの書籍では「鬼退治」ではなく「話し合いで解決した」などと改変されている。しかしこの場合、どこからどうして金銀財宝が出てくるのか、判然としない。また「金銀財宝」の獲得、つまり経済的成功こそが正義とする思想も、価値観が多様化する現代においては受け入れられ難くなっている。 (現実に目を向けて欲しいわ)「桃太郎」というネーミングはジェンダーバイアスを押し付けるものだとして主人公が「桃子」になっているものも存在する。だが、現在男性名によく使われる「~太郎」がジェンダーバイアスの押し付けであるとすれば、現在女性名に良く使われる「~子」も同じく押し付けになり矛盾している。なお「桃子」のストーリーは前述したような、話し合いによる解決となっている。これは「男性=暴力性・攻撃的、女性=穏やか・平和的」との日本におけるフェミニズム的な性主観からストーリーが改変されたと思われる。その一方で、桃子が鬼と肉弾戦を行う女性の活躍を描いたものも存在する。 (昔話ではないねえ、これは今話になるねえ)最近の例を挙げると、NHK教育テレビの番組「おはなしのくに」で放映されたものでは桃太郎は「乱暴者で親の手伝いをしない怠け者」であり、村を襲ってきた鬼に育ての親のおばあさんが襲われたことで目が覚め、鬼ヶ島の鬼たちを懲らしめる。現代的な問題提起要素を加え、「やればできる」という教訓付きのストーリーになっていた。 (まあ、がんばりな)顔ハメに着せ替え。鬼を退治した罪悪感で疲労感、ガラガラの船内にて。
2007.03.20
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ただのトランクルームの案内と平家物語館の案内が同一看板上にある道まで高松駅から30分の徒歩の道程であった。車で5分なんて書いてあるから歩いて10分かと思えば、遠いじゃないか。おまけに、入口が閉鎖され、出口に、紙で入口と書いてあったので、入ってみると誰もいない。入場料を払いたくても払えないので、もう仕方なく、中井喜一の案内により、先へと進む。”祇園精舎の鐘の声、 諸行無常の響きあり。・・・” お馴染みの名文句で幕を開ける「平家物語」は、800年前の京都を舞台に繰り広げられた、まさに、栄枯盛衰の物語である。そして、源平合戦の一つ、一の谷の戦いは、まさしく、我が実家の裏の谷のことなのである。子供心に、ほんまにこんなところを馬で走りぬけたのかとびびった記憶もかすかにあるのである。『平家物語』によれば、義経は馬2頭を落として、1頭は足を挫いて倒れるが、もう1頭は無事に駆け下った。義経は「心して下れば馬を損なうことはない。皆の者、駆け下りよ。」と言うや先陣となって駆け下った。坂東武者たちもこれに続いて駆け下る。二町ほど駆け下ると、屏風が立ったような険しい岩場となっており、さすがの坂東武者も怖気づくが、三浦氏の一族佐原義連が「三浦では常日頃、ここよりも険しい所を駆け落ちているわ。」と言うや真っ先に駆け下った。義経らもこれに続く。大力の畠山重忠は馬を損ねてはならじと馬を背負って岩場を駆け下った。なお『吾妻鏡』によれば、畠山重忠は範頼の大手軍に属しており、義経の軍勢にはいない。崖を駆け下った義経らは平氏の陣に突入する。予想もしなかった方向から攻撃を受けた一ノ谷の陣営は大混乱となり、義経はそれに乗じて方々に火をかけた。平氏の兵たちは我先にと海へ逃げ出した。屋島の戦い奈良の大仏も焼き討ちである、とほほ。平清盛高熱で死ぬ。そういえば川柳あったね。清盛の医者ははだかで脈をとり壇ノ浦の戦い。まあ、今では平氏や源氏というが、当時の武士は別にそんなのどうでもよかった感じもあって、平氏でなければひとにあらずというような貴族と結びついた平氏に反撥した関東武士連合軍って感じだったようですな。それに源氏は、当時ルール違反の船頭を拘束したり、戦争中に弓で船頭を狙ったりしたために、船がすすまなくなった平氏をやりこめるというなかなか卑怯な方々だったりもするわけですね。平家物語は琵琶法師が語り継ぐのであった。今日はじめての見学者を発見。なあ、 カップルく~ん。あれ、返事がない!ケリ入れたれ!ブルータスよ、おまえも蝋人形かい!ついでに、ローマにケリをつけておくぜ!結局、平家館、見学者他になし!ついでに、受付の人もおらん!でも好評開催中!イエイ。
2007.03.19
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昨晩は、東京に住む大學の後輩が、「鬼嫁の全て発表会」があるというので、飲みに出掛けたのである。鬼嫁の目を盗んで、こそっと帰阪していると主張するKは、毎日、キッチンのぬめりを取る仕事に従事している。彼の給料は、給料当日に、鬼嫁によって引き出され、鬼嫁の口座にすべて入るというシステムを採用しており、カードの1枚も持っていない彼の口座残高は800円という噂もある。しかし、環境とは恐ろしいもので、彼にとってはもうそれは当り前となり、感覚も麻痺しているのである。 学生時代から、そういいった兆候はあり、バンコクで知り合った自称香港人に睡眠薬をまんまと飲まされ、ルンピニ公園に真っ裸で捨てられたようである。2日間意識不明のままだったため、蚊にやられまくり、体はぶつぶつだらけになったどころか、お尻の強烈な痛みより、ルンピニ公園に住む浮浪者にカマを掘られた可能性も大という実績を持っている彼である。 そうやって、彼をいたわる会は無事終了し、2次会、3次会、4次会へと流れ、お開きは午前4時であった。 翌日(詳しくは本日)の朝遅く、すがすがしく目覚めた私は、気分の優れぬまま、超高級車を転がして、マイビジネスへと勤しむのであった。しかしながら、まだすがすがすぎて、志半場で、またもや、自宅近くまで戻っては来るのだが、ちょっと近くの海浜公園に車を止め、暫くまどろむのであった。 やっと、体調が復活し始めた為、またもや、今から、張り切ってマイビジネスにしばしの間勤しむ所存なのである。 まあ、そんな普通の日のひこもまなのであった。
2007.03.18
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宅急便、エレベーター、ポリバケツ、ホワイトチョコレート、シャーペン、プラモデル、カンパリ、プリンスメロン、ペロペロキャンデー、サランラップ、シーチキン、マジックペン、ウオッシュレット、セメダイン、ほかほか弁当、セロテープ・・・こういったものは、登録商標である。ほとんど普通名詞化している。勿論、大学生になった私が、海外旅行をして、一般的な名詞が全然分からなかったということに気がついたのは、あたりまえのことだ。灰皿や爪切り、栓抜きなどの身の回りの品、ナスビやきゅうりなどの野菜の名前分からなかった。それに、勿論英語のつもりでまったく通じなかったのが、サランラップとかセロテープ。さて、ここからは、明日の日記(先取りダイジェスト版)。昔、ゴールドタワーというのに寄り道したことがあり、今はないようだが、世界の便所館というのがあって、金のトイレやなにかとあった。香川県の大企業、ユニチャームの経営であった。この前白浜行ったが、勉強不足で一番重要なここに行くのを忘れていた!知らなかった! 今インターネットで、綿密な調査をしているところである。もうほぼ30分の調査により、珍スポットほぼ決定である。詳細は明日を待て(誰も待っていない)全国に先駆けて明日行くナイスプレイスを紹介しておくと鬼が島と平家物語歴史館である。明日、いち早く情報を察知して、報道陣が待ち受けないことを祈りのみである。さて、朝が早いのでこの辺で寝るとするが、移動中も寝ることとする。
2007.03.17
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飾り窓道運河沿いの道運河沿いの道
2007.03.16
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8年ぶりにではあるが、東大阪市の荒本に出掛けた。数ヶ月通ったことがある。前市長が汚職で逮捕され、いろんなバブリーな計画が頓挫したのだが、役所の移転、カルフールの誘致は終わっていた。当時は府立図書館しかなかった。それもぽつんと巨大な図書館だけがあり、文化的とは言いがたいものであった。この辺りは、十数年前まで、トラックターミナルなどの工場地帯で、地下鉄も延びておらず、陸の孤島であった。今は、マンションも町工場の間に建ち始めたのだが、まだ人気がない。車社会ゆえか?新しくなったバブリー役所の最上階に行ってみる。何故か、景色を見ながら、弁当食べてる行儀の悪いカップルが2組もいた。生駒山が見えるのである。 学生の頃、まだ中央線の終点が長田で、近鉄がつながっていないときに、10数万円するゴムボートをメーカーまで買いに行った覚えがある。まさに、倉庫だらけという印象だったのだが、それはいいとして、公園があり、子供ぶりにぐるぐる回転する鉄の乗り物に乗り、調子に乗って回りすぎて、子供時代でもやらかさなかった失態を披露してしまった。ゲロを吐いた。 東大阪市・・・デジャブではない。あ、そういう映画があるんだねえ。舞台は、ペルーだったか。ペルーにまだ行っていない。ペルーといえば、フジモリ大統領を思い出す。いろいろいわれているが、年間7000パーセントのハイパーインフレを抑え、インディオの教育に重点を置き、3000校の学校を山間に作り、非識字率を半分以下にし、全国の下水道などのインフレを整え、テロリストを制圧して治安を安定させたという功績を持つ。東大阪市は、日本共産党が与党の自治体東大阪市は近年、人口が微増している。特に老人人口が増えている。というのも、奈良県奈良市の学園前や生駒市に住んでいた人たちが老後の生活を東大阪市で望むケースが増えているからだそうだ。都心回帰もどき現象だろうが、大阪市内までいかず、東大阪市で停まっている。(東京以外に都心回帰はないのだが)その理由はどうも不動産の価格と、物価になるらしい。それと土地勘である。東大阪市も再開発などで結構、町並みも少しずつ変わっているとはいえ、大きくは変わっていない。奈良市や生駒市、生駒郡に住んでいる人の多くは、昔、東大阪市に住んでいた経験者が多いらしい。そこで、懐かしい昔に住んだ町に帰ってくるのだそうだ。多いのは、九州出身や四国出身、中国地方出身、北陸出身で、大阪に出てきた当時、家賃が安く、大阪市内に利便のよかった東大阪市に住んだ人たちで、ある程度、収入が増えてきたら、マイホームが欲しくなって、地価の安い奈良市や生駒市のニュータウンに引っ越していった人たちだ。年金暮らしとなると今までのように贅沢な暮らしは難しいし、どこに行くのもタクシーというわけにはいかなくなる。そして、医療も整っているし、物価も安いし、平坦で自転車で簡単に買い物にいける東大阪市に戻る決意をするらしい。それに、東大阪市には結構な数の大学がある。近畿大学、大阪商業大学、大阪樟蔭女子大学、東大阪大学・・・そんな訳で、歩けば分かるが、若者と老人が多いのである。まあ、そんな訳で、かる~く、東大阪市のお勉強ご紹介の時間を終わります。
2007.03.15
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多分ですが、虐待されずに済んで良かったです。最終的に殺されてしまう子は、勿論、突然殺されるのではなくて、いつも暴力を受けたり、無視されたり、邪険に扱われたり、そのうち殺されるのではないかと憶えていたことでしょう。しかし、抵抗する体力はもとより、抵抗する言葉を持っていません。子供は、自分では生きていけず、この親に頼るしか生きていけないので、大人の考える以上に、親に気を遣って生きているものなんです。 特に、虐待を受けている子ほどそうなんです。子供は、1人では生きていけないので、何とか気に入られようと何でもします。しかし、努力の甲斐なく、殺される瞬間、「ああ、やっぱりな」と思うことでしょう。 この前、片道4時間電車に乗りましたが、小学校1年生ぐらいの子供が1人で電車に乗っていました。きっとおばあちゃんのところに行くのでしょう。親は、いまどき珍しいのか、1,2時間の一人旅をさせてあげたのでしょう。子供の手には、1枚の紙があり、彼の乗る、御坊-紀伊田辺間の全ての停まる駅名が書かれていました。特に景色を見ているわけでもなく、駅に停まる度に、時々、紙で駅名を確認するのです。野球帽に、顔に擦り傷がありました。 思えば、私も、小学校1年の時に、1人でおばあちゃんの所に行きました。1時間少々の旅行です。大人が、私の胸にあるバッチを見て「○○小学校○○君か」といいました。今では、自分の名前を明かすようなバッチなどないのではないでしょうか。 考えれば、母の妹に子供ができるまで、私が3歳までの記憶のない頃。思えば、私も、ひさぼんや、顔にいつも傷がついていた。何か、親戚の集まりがあって、医者の人が私の顔を覗き込んで、にやけながら「その傷治したろか?」といわれたよなあ。 昔は、お行儀の悪い子供は嫌いで、親の躾はなってないと思っていた。私は、恥ずかしいので、大人しかったのだが、考えれば子供は疲れやすく、復活しやすい。子供を優先的に座らせるのは決して間違っていないということに気がついたのも大人になってからだ。でも私は、席を大人に譲るのが恥ずかしくて、初めから座らない子供だったなあ。
2007.03.14
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私「えー、父へのインタビュー第2弾予定だったのですが、父は面倒なのでもう勘弁してくれということで、母に初めてインタビューを試みることにしました。よろしくお願いします。その前に、今まで育ててくれてサンキューモンキーベイベーと、御礼申し上げます。」母「いえいえ。本当に、子育ては大変だったからねえ。もう辛くて辛くて、でも、2000回ぐらいしか放り投げようかと思いませんでしたよ」私「そういえば、私や妹が小学校に入ってから、だんだん、子供の世話が離れてきて、年々楽になって元気になっていきましたねえ。私が小学校4年からは、毎日登山をするようになって、まあ元気になりましたよねえ、吉宗さん。」母「まあ、私の自慢は、学校の体育の授業を全てサボったことだからねえ。体を動かすのが嫌いな子供時代だったよ。おまけに、一度海で溺れかけてからは、もう体育祭は臨時休業。」私「頭、まっしらはまです。」母「もう新婚旅行のことは忘れたよ」私「それにしても、いのちの電話で救われたわ。こういうの立て看板あったら死にたくなりませんか」母「子供が先に死ぬのは、最大の犯罪やで」私「ハリボテ絶壁に並ぶ絶叫系観光客。こういうところきてよかったですか?」母「まあ、父さんは私が何をしようと何も言わないから、いい人ですね。お陰で今も、山ごもりに海外旅行に働きに出るのも、何もいわれなかったのがよかたわ。無視されているともいえるかも知れないけど。自分にさえ、そんなに関心ないのよきっと」私「そういうおかんも私に勉強しろといったことないねえ。受験勉強してるのに、一度も何処受けるか聞いてこないし、受験料請求して、あんたここ受けるの?と初めてきいてきたやん。でも、感謝してるのはあのとき「まあ、東京の医科大学いってもいいくらいは何とかお金用意しとるから」といわれた時は感謝したよ」母「アホか、私は、留年代まで考えてなかったわ」私「温泉に入ってきましたよ。 岩に埋もれる温泉で弛緩する茹蛸男を写してきました。」母「もうどこに泊まったか忘れたネエ」私「反対温泉たまごのばあさんに人生を諭される、否、悟られる。「なんだい、この自転車は?ああ、駅で借りたの?ああ、今日返すの?ああ、泊まらないの?ああ、バカだねえ」といわれたよ」母「あんたは、昔からあまのじゃくだったからねえ。バカだね」私「それはねえ、ボーイスカウトで、武者の格好して大声で自分のつけた名前を叫ばされた時、おかんは、「あかんの介」と私を名づけたことは恨んでますよ。それに、ボーイスカウトのクリスマス会で、クリスマスプレゼントに何で、おかんははくさいなんか持ってきたのですか?」母「アンタかって、ボールペン1本を新聞紙でぐるぐるに巻いてサッカーボールぐらいの大きさにしてたやないか」私「 石田、手や足、売ってます。」母「高校の帰り道の途中の駅で降りて、時々、私の店に顔出したなあ。あの頃、あんたが声を出すゆうたら、金くれだけやったな」私「梅干の産地だからといって、動く人形がありました。家で1度しかスパゲティ作ってくれませんでしたなあ。喫茶店のナポリタンがどんなにうまかったか・・・」母「私は散らし寿司が好きなんや。中華が好きなんや。あんた、一回も、ステーキに手つけたことなかったな。肉嫌いやったんやな」私「仕方ないので梅そば食べる。そういや、ソーメンはよく作ってたな。あんなに簡単に出来るとは知らんかったわ」母「なんか疲れてきたわ。もうインタビュー終わっていいか?もう今までどおり勝手に生きてください。あんたなんかの世話にはならんから。それからはよ便利なとこで家探しといてや。」私「では、仕方ないので、地ビールしばくよ」私「白浜駅、ちょっとパンダしていいかい?まあ、そんな訳で、本日はインタビュありがとうございました。長生きしてください、それではアディオス」
2007.03.13
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私「何故、新婚旅行は、普通電車で行っても4時間、特急で行けば3時間足らずの場所が新婚旅行の地だったのですか」父「1960年代は、現在60代以上の人で海外への新婚旅行は珍しかった。今70代以上は熱海か箱根、60代は宮崎か別府というのが通り相場。特に宮崎は新婚旅行先として人気があり、空前の観光ブームになった。1960年に島津久永・貴子(昭和天皇の第5皇女)夫妻が新婚旅行で訪れ脚光を浴びたためだった。地元の交通会社も日南海岸にフェニックスを植えて南国ムードを演出したのだよ。分かるかね。1964年といえば、海外渡航が自由化された年だったんだけど、外貨の持ち出しは年間1人500ドルまでに制限されたから無条件だったわけではない。当時は1ドル=360円の固定相場だったから、1年間で18万円まで持ち出せたわけだ。この年の渡航者数は15万3000人だったと言うから、大卒初任給2万円のこの時代に海外旅行はまだまだ、ほんの一握りの人たちのものだったのだよ。去年1740万人が海外渡航したというが、私はまだ渡航していないのが、私の自慢だよ、ハッハハハ。遠くに行くのは面倒なんだよ、母さんは毎年取り付かれたように行っているが、父さんとは関係ないんだよ。おそらく、父さんの出不精、母さんの遠くに行きたいの妥協の産物が白浜だったという訳なんだよ」私「前置きが長いので、早速、父上に観光案内をお願いしたいのですが宜しいでしょうか?ちなみに、白浜駅から白浜まで5キロもあり、宣伝してないレンタル自転車を目ざとく見つけた私は慧眼というべしかと思うのですが、どうやって白浜に行ったのですか?」父「そんな昔のことは覚えておらん」私「20年来のクマグスファンなんですけど、この博物館にも行かれたのですか?」父「忘れた。」私「なんかさあ、すごくフツーの男女カップルもたまたま見に来ていて、感銘を受けたのか、受付でクマグスの本買っていたんだよねえ。何だか、嬉しい気分になったんだよねえ。」父「そうか」私「そこを出ると、円月岩というのがありましたね。憶えてますか。ここに場所によっては、穴の中を通して夕日が見える、という触れ込みです。夕日までに私は自転車を返さなければならないし、雨も降りそうだったんです。」父「そうかい」私「次は、白浜所以の白浜です。ワイキキビーチと提携されたそうです。何が提携かよく分かりません。ビーチニ混浴温泉が突き出ているんですよ。父上の時代もそうでしたか」父「覚えてない。」私「私なんか、前の日にネットで調べて、海水パンツを忍ばせ、意気揚々と言ったのですが、皆さん、足湯しかしてなくて、其の中で孤高の入浴人になるのは、栄光の恥辱なので、尻込みしてやめてしまいました。」父「根性がないんだな。そんなに人目が気になるのか。」私「そんでもってはいるのは止めて、更に自転車を進めたのですよ。確かに道路沿いにビーチはワイキキに似ているんだけどねえ。そこに温泉がいくつかあってなかなかいいんですねえ」父「ハワイにいってないので分からん。何故、皆、ハワイハワイっていうのだ?バカじゃないのか?」私「それから白浜海中展望館というところに寄りました。こういう値段設定むかつくんですよね。もう2度と来ないだろう、観光だから財布の紐もゆるくなっているだろうから、ぼったくるだけぼったくておけばいいよ。不満持たれても、リピーター期待してないもんね、ケッケケ、という思想が丸見えでムカムカするんだよねえ。ある家族とすれ違いざまに、「これでこの値段かよ」というのが聞こえてきて、戦慄が走りましたが、まさにそのままでした。」父「これだけ?ってか。だからワシは観光地と観光地プライスが嫌いなんだ。」私、「更に、上り坂を登って、下って、千畳敷という所に行きましたよ。ここの写真を子供心に憶えているんですよ。で、実物みたら、結構、小さい規模なんですねえ。同じ千畳敷でも駒ヶ根とはエライ違いでしたわ。」父「わしゃ、そんな写真憶えてないぞ」私「ほら、寝室の箪笥の中に新婚旅行の写真は行ってたジャン。私ももう30年ぐらい見てないから忘れたけど・・」父「そうか・・・人の持ち物を勝手に漁ったのか・・・」私「まあ、それは置いといて、其の跡、三段壁というのに行きましたよ。香港人観光客一段も到着して、結構賑やかでしたよ。何故かガイドは北京語と広東語を話してましたけど」父「おお、そんなところにも行ったかも知れないなあ」私「それで、疲れたので、今日のメインイベントその2、(その1はホテル川久荒し)温泉に入ることにしました。先程、失敗したので、次は、岬の先端にあり、波まで数メートルという温泉にいきました。行かれましたか?万葉時代から唯一残っている崎の湯」父「ワシは泊まったからなあ」私「そうでしたか。今日は、私の頭の中だけインタビューありがとうございました。こんなに父と話したのは初めてでした。またよろしくお願いします」
2007.03.12
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1日で、拠点を決めて、行って戻ってくるのは、4時間までというのが、私の実感である。それは、おそらく、19歳の時、インドのウダイプルという町から、4時間かけてバスで、チットルガルというラージープート族の遺跡城壁を見に行って培われたものかと思う。往復8時間、現地4時間から8時間でまずまず楽しめるのである。 そんな訳で、両親の新婚旅行の心情はいかがなものだったのだろうか。両親の侵攻旅行は、何を隠そう、南紀白浜であった。1,2枚だけ、その当時の写真を憶えている。時は、1965年頃かと推測される。そのことは諸事情により明日以降の日記に記することにする。 まあ、それは、明日として、今日はホテル川久の紹介である。1991年、バブルの産物、全室スイート高級ホテルである。昭和天皇も宿泊したことのある「旅館川久」を2代目がバブル絶頂期の1989年に全面改装を始め、約300億円を費やして1991 年冬に「ホテル川久」完成。会員制で、個人会員が一口2,000万円、法人会員6,000万円という法外入会金だっただ。しかし95年夏に402億円の負債を抱えて会社更生法の適用を申請。98年にカラカミ観光チェーンに30億円で買い取られたそうで、カックンである。突然現れる要塞なのだが、すぐ横に民家があったりして、何だか変なのであった。 白浜駅で1日500円で自転車を借りたスーパルエグゼクティブの私は、自転車で川久に向かうのであるが、道に入ったドン詰まりにホテルがあり、エントランスの所に女性従業員が2人、じっと待っている。まっすぐ、彼女目掛けて自転車でいくのは、結構恥ずかしいのである。自転車置き場はどこだ!そんなものはない。 仕方なので、自転車を降りてエントランスに行くと、中国人の研修女性従業員であろうか、向こうもえらくはにかんで、こちらにどうそ、といいながらも、自転車で来る人はいないようで、どこに自転車を置けば良いのか、支配人に聞きに、フロントに行ってしまい、手持ち無沙汰の私は、タバコの1服でもしたい気分になった。アジア人に見られるはにかみが何となく好意を持ちながらも、隅の隅のほうに自転車停車を案内されたのであった。 45mの棟庇は土佐漆喰(高知城)に使われた古典的左官技法仕上げ。 ■ロビー天井 フランスのアトリエ ロベール・ゴアール氏が手掛けた金箔の天井。5センチの正方形サイズの金箔を1枚ずつ手作業で張り付けてあります。金箔の純度は、22.5金で、この純度は、太陽の光に当たった際に、一番美しく輝く色だそうです。エントランスに入ると、ホテルのパンフレットを支配人がくれた。11時台という中途半端な時間だったからだろうか。客は1人も見受けられなかった。エントランスもまさしくバブルの塔である。 ■柱 「シュトックマルモ」と呼ばれる擬似大理石技法で製作された柱は、かつてヨーロッパで発達した技法でウィーンのオペラハウスにも見る事が出来ます。「花咲団」を主宰していた久住章氏がドイツで技法を習得し再現した直径1.6m、高さ6mの列柱がロビーのドーム天井を支えています。 昔、建築の本で、この大理石の柱が、1億円と書いていた。数えてみると、柱だけで20~30億円ぐらいかかってる。元取れるとは思えない贅沢さである。その分、今や、椅子が汚れていたりなんかする。 ■ロビー床 床面積は、約1,500平方メートル、ローマンモザイクタイル(約1センチ角のモザイク)イタリアのフリウリ州モザイク学校のアルチザン(職人)が、一枚ずつ手作業で床に埋め込みました。■ロビーラウンジ 四季折々、朝な夕なにその表情を変える白浜の海を一望出来るように、6mの天井まで一枚ガラスで仕立てています。暮れなずむ海の表情と共に輝きを増すムラノのシャンデリア、過ぎゆく時を魅了する空間です。世界一、重量のあると言われているエレベーター。大理石がむっちゃ重いらしい。チョと見て帰ろうかと思ったのだが、一応、田辺で取れたからすみパスタを食する。パンが上手い。パンが上手い店は納得できる。ホテルなのにチャージもなく、ホテルにしては安いと感じた。但し、客は、私のみ。 ともかく、贅の限りを尽くしたこの建物、頑張って維持して欲しいものである。合掌。
2007.03.11
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学問だと思えば小間違いである。マニアとしての私は、あと、訪問していない都道府県が茨城県と福島県だということに気がついた。というか、綿密に人生を調査した結果判明したのである。 いかにそこいらに行くかが目下簡単な課題でもあるのだが、本当は、勝手気ままな旅行がいいのだが、短い旅行では下調べは重要である、といいながらも、何てインターネットは便利なのだろうかと思う。飛行機の空席情報、空港からの時刻表または、一番安いレンタカー屋の検索、観光も「○○(地名) 邪悪」とか「○○(地名) 危険」とか「○○(地名) 裏」とか検索してみては、使用済みコピー用紙などの裏にメモ書きするのである。そして、旅行ガイドブックは、古本屋に行った際に、105円なら購入するという算段である。とにかく、105円なら日本中、世界中とりあえず買ってみたりなんかもしておくのである。(先日、上海、カンボジア、ドバイ、ブラジルを買った。)全国制覇まであと2歩だ(自慢大会とつまらない自分史まとめ。征服記念年)· 北海道 (1993) · 東北地方:青森県 (2005) - 岩手県 (2005) - 宮城県 (2006) - 秋田県 (2005) - 山形県 (2005) - 福島県 (未) · 関東地方:茨城県 (未) - 栃木県 (2004) - 群馬県 (1987) - 埼玉県 (1986) - 千葉県 (1986) - 東京都 (1978) - 神奈川県 (1978) · 中部地方:新潟県 (1987) - 富山県 (1987) - 石川県 (1987) - 福井県 (1987) - 山梨県 (1992) - 長野県 (1978) - 岐阜県 (1975) - 静岡県 (1978) - 愛知県 (1975) · 近畿地方:三重県(1978) - 滋賀県 (子供) - 京都府 (子供) - 大阪府 (子供) - 兵庫県 (生まれ) - 奈良県 (子供) - 和歌山県 (子供)· 中国地方:鳥取県(1974) - 島根県 (1991) - 岡山県 (1973) - 広島県 (1975) - 山口県 (1975) · 四国地方:徳島県 (1973) - 香川県 (1973) - 愛媛県 (1990) - 高知県 (2005) · 九州地方:福岡県 (1973) - 佐賀県 (1981) - 長崎県 (1981) - 熊本県 (1981) - 大分県 (2005) - 宮崎県 (2006) - 鹿児島県 (2008) · 琉球諸島:沖縄県 (1994) 駄目だ、飛行機と青春18キップであと2県を征服しようと画策したが、タッチアンドリーブしかできない・・・2006年スポーツ界高収入ランキング、ベスト10 1位:タイガー・ウッズ (ゴルフ) 7450万ユーロ(約113億6800万円) 2位:ミハエル・シューマッハ(F1) 6100万ユーロ(約92億9900万円) 3位:フィル・ミケルソン (ゴルフ) 3510万ユーロ(約53億5100万円) 4位:シャキール・オニール (NBA) 2590万ユーロ(約39億4800万円) 5位:コービー・ブライアント(NBA) 2570万ユーロ(約39億1800万円) 6位:カールソン・パルマー (MLB) 2410万ユーロ(約36億7400万円) 7位:バレンティーノ・ロッシ(MotoGP)2290万ユーロ(約34億9100万円) 8位:ロナウジーニョ (フットボール)2220万ユーロ(約33億8400万円) 9位:レブロン・ジェームス (NBA) 2180万ユーロ(約33億2300万円)10位:デレク・ジーター (MLB) 2140万ユーロ(約32億6200万円)ベスト50以内には20位:デイビッド・ベッカム(レアル・マドリー/1750万ユーロ(約26億7100万円))、25位:ロナウド(ACミラン/1650万ユーロ(約25億1800万円))、31位:クリスティアン・ビエリ(アタランタ/1530万ユーロ(約23億3500万円))、33位:ウェイン・ルーニー(マンチェスター・ユナイテッド/1520万ユーロ(約23億2000万円)、42位:ジネディーヌ・ジダン(元レアル・マドリー、引退/1430万ユーロ(約21億8200万円))らもランクイン。フットボール界からは計6選手がランクインしたが、トイモイ選手も1万ユートコ(約1円置く)も散歩界からランクアウトした。
2007.03.10
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平日の午後の冬風は足早にさせる。駅から10分弱歩いたところに昼間は寂しい今里新町はある。 大阪市生野区は、西成区と並んで、人口減少の1,2を争う区であり、生野区は、日本で一番朝鮮人割合の高い地域(約3割)である。その中で、今里新地の歓楽街には、ハングル文字の看板が並び、メインストリートを離れると、そこには、昔ながらの置屋がある。大阪の現存する置屋は、飛田新地、松島新地、信太山、滝井、そしてここ今里新地の5つ程度である。昼間は、飛田松島と違い、やっていないようである。 説明: この辺りは昔「白鷺の里」といわれ、白鷺が群れ遊んだ景勝の地であったといわれています。旧大和川と平野川にはさまれ、葦などが茂る低湿地帯で入江に船着場があったことから、古くは片江(模江)、浜江と呼ばれていました。 聖徳太子に破れた物部守屋の子孫が、没収された領地のひとつに模江があげられています。 町名の由来ともなる「今里新地」は、区画整理事業がおこなわれるとともに、昭和4年に開業し、遊興街として発展しました。 今里とは、その地が新たに開拓された所であることを意味し、さらに、新たに市街地化されたことで、新の冠称が付され「新今里」となりました。町名成立は意外に新しく、昭和13年になってからです。 昭和48年、新今里町1丁目から8丁目は新今里1丁目から7丁目と中川西1丁目の1部となりました。 別に、ここで事をいたそうという気にはならないのだが、こういう特異な地域を何となく、歩いたことを面白く感じてしまう。1件だけ、準備で玄関先を掃除しているおばあちゃんにめんちを切られ、「なんだい、あんた冷やかしかい」といった光線を浴びせられ、スゴスゴと猫背の早歩きになるのであった。 そこから暫く環状線方面に向かって歩くと、いかいのはしを通る。昔、このあたりは猪飼野と呼ばれていたのだが、地図から抹消されてしまい、猪飼野の名称が残るのは、平野川に架けられている「猪飼野新橋」、市バスの「猪飼野橋」停留所、桃谷3丁目にある「猪飼野保存会館」にその名を残すのみとなっている。偶然にも3つとも同日に見た私は、何て幸せなんだろう。説明:コリアタウン(御幸通商店街)が現れる。「オイソ、ボイソ、サイソ(来てえな、見てえな、買うてえな)」。客を迎え入れる門にはハングル文字が踊る。朝鮮半島の食材を扱う店が百以上並ぶ。肉屋、キムチやチジミを店頭に並べた店などが延々と軒を連ね、すれ違う人々が「ここは別世界やな」と感嘆の声をもらす。 四人に一人が韓国、北朝鮮の国籍を持っている生野区。戦前、この一帯は町工場が多く平野川の改修工事もあって、労働力として多くの朝鮮の人々が移り住んだ。一九二三年には済州島と大阪をつなぐ直行船「第一君が代丸」が就航。移住者は激増した。 だが、この町と朝鮮半島との結びつきは、もっと古い。古代、この一帯には百済からの渡来人が多く住みつき、「百済郡」と呼ばれていたこともある。商店街に近い御幸森天神宮の由緒略記によれば、「この地に居を構えて先進文化を伝えた百済の人たちと、難波に都を定めていた仁徳天皇が交流を深めていた」という。 橋が架かる平野川を南下すると、百済コリアンタウンの商店街があり、チジミにキムチにトッポギ、韓国おでん・・・ミニソウル、ミニプサンの市場のようになっている。買い物する地元民の会話を聞いていると、日本語ではない。ほんの少しだけ観光客らしき人を見かけたが、あとは、地元の人に、何だか料理研究家というか学者というか郷土研究家というか差別解放運動家というか、そのあたりの人々が歩いている。コリアンタウンの色は、キムチ漬物の原色であり、チマチョゴリの原色を彷彿させる。この横にある御幸森小学校は、外国人比率50パーセントというなかなか愉快な学校である。それにしても、ここも鶴橋や桃谷からの最寄り駅からは遠い。説明:『そもそも在日コリアンが大阪に数多く住んだのは済州島と大阪の間に定期船が運行されていた事が大きい。 関東大震災以後の大阪は東京の混乱を尻目に産業規模が一気に高まり、特に1920年代後半から30年代前半にかけては、全国一の興行生産高を誇っていた。生活の糧を求めてやって来る人が職がある地域に住み着くのは当前の事であり、しかも定期航路でたやすい交通手段があるなら渡りに舟である。大阪が朝鮮から来る人たちを吸収したのも自然なことであった。一方、平野川は度々水害をもたらす暴れ川だった。その改修工事に狩り出された大勢の朝鮮人労働者達が、そのまま平野川の周辺に住み着くようになった。それが今の御幸通商店街のあたりだった』 いつしか、そのまま、抜けていくと、鶴橋である。鶴橋は、日本最古の橋とされている。説明:むかし、このあたりに鶴が多数飛来したことから橋の名となったようです。一説には、西暦323年に百済川に架設された橋で猪甘津橋の古跡ともいわれ、『日本書紀』仁徳天皇14年11月の条に『猪甘津に橋を為(わた)す。即ち、そのところを号(なず)けて小橋という』と記され、文献にでている橋ではわが国最古のものといわれています。『つるのはし』は、旧桃谷街道・鶴橋街道が旧平野川を渡る地点に架けられ、古くは河内・大和への交通の要所。新平野川の開削により、昭和15(1940)年に廃橋、石碑と当時の親柱4本を記念に保存し、平成9年4月に『つるのはし跡公園』として再整備されました。 少し、南下すると、桃谷商店街である。桃谷は、環状線鶴橋の次の駅である。知人が住んでおり、何度か歩いた商店街である。そして、この温泉街商店街にあるバーには何度か行ったのだが、トイレがなく、尿意を催すと、大将に駅前のスナックビルの鍵を借りるという、非常に合理的で面倒なシステムを採用しているのである。特に始めてのときなどは、女将さんと一緒に行くのである。そうして場所を教えてもらうのだが、トイレに入っている間、じつと女将さんがドア一枚越しに待っているのである。何だか緊張して出るものも出ないのであるというのは嘘で、歩いている間にだんだん我慢の限界が近づきつつあったので、少しもよおした頃合に鍵を借りるのが正しいトイレの行き方ということを学んだのであった。区の境目
2007.03.09
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唐突であるが、私の最近の悩みを聞いてください。それは、外でトイレ(小)をする際に、オートマテックで水が出る蛇口以外で、間違って不運にもひっかけて液体を手につけてしまった以外のことである。最近、私は、1、小便をする前に手を洗うか、2、全く手を洗わない。2は何故か?だって他人が自分のもの触ったすぐ後で、蛇口をひねるのだよ。水道を止めるときにキレイな手でもう一度ひねり戻すといっても、次回、私が、その前の男がそいつの眠れる獅子を触りたてほたほやの蛇口を触るのは、正直言って嫌だ。ずっと何で嫌でなかったかというと、気がついてなかっただけだ。勿論、前提条件がある。私のビッグジョンが他の男の肉棒と比較して、汚くない、或いは少なく見積もっても同等程度の汚さであることだ。多分、基本的には毎日念入りにとまではいかないまでも、体中の凸凹部分を洗っているので、物理的にはきっと、毎日体を洗っている人間とそう汚さは変らないと思われる。多分、気持ち悪いだけだ。蛇口を触る感覚的汚さに比べれば、洗わない方がましである。1は何故か?だって、私のグレイトジャンはそんなに汚いものではない。少なくとも、蒸れるということも考えられるが、冬場は、外気に肌を出している手や顔よりも、しっかり衣類で守っているエクセレントジャックのほうが、その他の体の部分と同様にキレイなのである(足裏を除く。足裏は、冬でも蒸れるし、室内では、床を掃除しているので)なので、汚れた手でピーナツを汚すのではなく、手をちゃんとあらってから優しくモンキーバナナを取り出すというのは理に適っているのである。但し、2のことを考えると、1もなかなか成立しないのである。しかし、今や全世界に向かって暴露してしまったので、後悔しているのであるが、1,2を実践すると、他人からしたら嫌なことなのである。手も拭かないで、他のものを触ったものを、(例えば書類や電話機やパソコンキー。一応会社では、個人専用電話機、専用パソコンになっているが)触るのは、知らなかったら済むが、やはり嫌だろう。私は、基本的に、ボディタッチとうかタッチコミュニケーションというか、頑張れよと肩を叩いたり、外国人みたいに握手したり普段はないので、まあ、あまり問題ではないのであるが、手も洗っていない奴に「おつかれさん」と肩を叩かれるのは、やっぱちょっと抵抗があるのである。自分のこととなれば。トイレ以外のところに(例えば給湯室や公園)蛇口があれば、そこで、洗えばいいのかと今思ったが、その蛇口を私自身が汚染することになる・・・何か、ハンカチなどで、蛇口をひねるようにする・・・不特定多数が利用するトイレを利用しない・・・持参のウエットテッシュ又はおしぼりを使う・・・靴で蛇口をひねり、絞るときはキレイに洗っておいてあげる・・・などいろいろ方法があるのだが、いまだ悩んでいるところである・・・・手を洗うのが面倒な言い訳を考えてみただけである。しかし、そこにある唯一の真実は、私の愚息は、そんなにばっちいくないということだ。
2007.03.08
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そうなんですよ。でもあの声は全然聞こえてきませんでした。両隣夫婦者なのですが、さっぱりです。どうしてなんでしょうか。1、 外でした。2、昼間にした。3、夫が早い。4、不感症。5、口にハンカチ。6、室内防音室。7、単純に声が出ない。8、きむちよくない。9、体外受精・・・妄想は膨らんでいくのだが、小泉節で短い口調で断定口調でいうと、おかしくても、変でも、間違っていても、納得してしったり、理解したと勘違いしてしまったりするから、何とも愚衆の一味である。現某安倍首相は小泉の尻拭い、何だか、惨めだよ。小泉節で世相を斬る!なーんちゃってカクカクカク。●「赤ちゃんポスト」というのが設置されるそうですねえ。小泉節・・・匿名でも、ポストの前に24時間、人を置いてまず話し合いしろよな。●国家はもう破産しているけど、個人破産も増えてますが。小泉節・・・そら、無人の金貸しをまず廃止。簡単に借りれなくせよ。●記者クラブで情報を口を開けて待っているだけなんですが・・・小泉節・・・廃止せよ。●防衛省になりましたね小泉節・・・何を守っているか分からん。国防省に更に変更だ。こんなこというとったらとまらなくなるよ。罵詈雑言であるが、最近、面白がって、BBSのエロお誘いコメントに罵詈雑言を浴びせようと試みているのだが、私自身、そう悪口を言うたちではないので、語彙がないことに改めて気がつく。私は、普段も、そう悪口をいうわけではない。それは、私が、鈍感ということもあるが、悪口を発すると、自分を落とすような気がするからだ。路上にツバや淡を吐かないのと同じ。あんな行為は自分の品位を落としている気がするから他ならない。それはそうとして、日本語は、なかなか、歴史においても、横一直線思考なので、コソコソ陰口にしても、喧嘩をおおっぴらにやってこなかったためにであろう、罵詈雑言の語彙が少ないし、クリエイティブでもない。英語、朝鮮語、中国語・・・それはそれは悪口の語彙は無茶多い訳である。口げんかしたら日本人は、まず、負けるのである。あんまり関係ないかネタ。「磯野カツオ」=イタリア語で“私はチ○ポ”・「加賀まり子」=スペイン語で“オカマのウ○コ”or“もっとウ○コしろ”・「もしもし」=ドイツ語で“女性器(×2)”・「熊本」=スワヒリ語で“発情中の女性器”・「閣下」=フランス語・イタリア語・スペイン語などで“ウ○コ”・「ほい、さっさ」=ロシア語で“アレをしゃぶる”・「爺」=フランス語で“男性器”・「ジャージ」=韓国語で“男性器”・「運河」=韓国語で“ウ○コ” ・「河野(こうの)」=スペイン語で“女性器”・「こうた(孝太、浩太など)」=スウェーデン語で“どスケベな”・「千賀子」=イタリア語で“私はオシッコをする”・「福留」=英語で“私を犯して”「竹下」の「Take a shit!」、「麻生」の「asshole」・・・
2007.03.07
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学生時代から比較すると、例えば、バンコクでは社会人1年目にして、大富豪になったので、いきなりホテルもグレードアップして、学生時代の10倍もするホテルに泊まるようになった(約3,000円)。それにしても、私の聴覚が非常に優秀なせいなのであるのか、もしかして、アスベスト入りのスーパーハリボテ壁が非常に薄い為であるのか、時折、隣室の奇妙な悦びの叫びが聞こえてくることもある。 こういうときは、当然、明日早く起きなければならないという使命を帯びていようが、五月蝿いと思うのが、半分で、あと半分は、やはり面白がるのである。強いていえば、歯も見せずに、にやりと唇の片一方だけ上げて笑い、眉毛は、完全ハの字型になるのである。 うとうと、寝ぼけていると、女性の懇願する大悲鳴で私は目を覚ました。これは、事件だ大変だフロントに通報しなくてはなるまい!と正義感と常識が一瞬芽生えたのだが、それが、次の瞬間、発情した化け猫のエロティック悲鳴の大音量であることを悟った。アクロバテックな挿入姿が頭を過ぎったが、お楽しみもまあ良かろう、暫くすると、やがてクライマックスの後、治まり、闇夜の静寂が再び訪れるであろうと、それまで少しの間だけ、我慢もし、少しの間だけ面白がっておればよいとたかをくくっていたのである。 やがて、リズミカルなノックの音がしてきた。おお、フロントの人間が、激しい行為をしているのが私だと勘違いして文句の3つでもいいにきたのでは、勘違いされては困るのだと一瞬思ったのであるが、また或いは、ルームサービスが部屋を間違えてきたのかもと一寸思ったのであるが、それは、明らかにドア方面からのノックではなく、隣室につながる壁からの等間隔ノック音であった。大型ハリケーン型ピストン運動をしていることを理解し、その勢いがベッドを激しく揺らし、ベッドの先頭部分が、突き刺す毎に、壁に猛攻アタックを繰り返しているということを理解した。外国なので、アンダスタンと呟いた。大型サイクロンは、天井をも落とす飛ぶ鳥をも落とす勢いであった。前後の見境があるはずもなく、私は、うろたえ、私は決して覗き屋ではないぞと今や言い訳まで考え始めていた。といって、部屋から逃げ出すような不用意なこともできないし、フロントに文句をいえば、おまえは1人で可哀想だなそんなに人のアレに嫉妬するなよなと、とフロントに同情され呆れられるのも嫌であったので、私は、相変わらず、静観を決め込む。 「マイクル、アーマイケル~」やがて、盛りのついた野獣は、さらに激しいエクササイズを繰り返し、遂に、固有名詞(人名)を出し、単に野獣と化した人間であることを証明した。ライオンの食べ残した生肉を必死でくらいつくハエアナのように感じてはいたが、遂に、聞いてもいないのに、彼氏の名前をご丁寧にも私に教えてくれたのである。おお、彼の名前はマイクルか。おおマイクルよ。 やがて彼の名前を呼ぶ女性の声が、更に大きくなり、はっきりいって西洋型エクササイズブルーフィルムと化したのであった。「おお、マイクルー、そこよ、マイクルー、きてきて、ううううーん、マイクル・・・カモーン」(以下自粛、以下多分、きっと、日本語に直すとそのようなことを言っていたに違いない、私が理解できるのは、マ・イ・ク・ルの四文字だけで後は、名前の間に何かを叫んでいる) 苦痛とあえぎとうめき声と快感がミックスされた絶叫は、やがて、やがて・・・・ちっとも、終わらない・・・。こいつら、きっと薬物やっているのではないかと思うぐらいに終わらないのである。女性をあそこまで長時間夢中にさせるマイクルよ、その終わらないエンドレス格闘技に、何だか、隣室にいる私でさえ、何と言うか、感化されたというか、感心したというか、正直にいうと、ちょっと興奮した。 「マイクール、マママアッマママッマッマッママッマイクールーーーーーーーーーーーーーー」共振で壁が壊れる寸前に、最後の雄叫びが轟き、そして、エンジン音の切れたモーターボートが、真夜中の波のない海上に浮かんでいるようになった。至福の静寂が訪れたようだ。勿論、私は至福でもなんでもない。やっと終わってくれたか・・・真夜中にゼンギ時間を除いて、合体時間は概ね4、50分続いたのである。感心するのである。今きっと、タバコでもくわえて、余韻を楽しんでいるのであろう。 私はそう思いながら、またうとうとし始めたのであった。そのときである。カーン!しかし、第2ラウンド大型タイフーンがはじまったのであった。しかし、私は、もう寝た。
2007.03.06
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タミフルの問題であるが、薬というものは、薬好きでも薬専門家でないので、詳細なコメントは差し控えたいが、薬というものは、必ず副作用があり、人によっては、パーセンテージや体調体質の問題で意識障害が出る可能性も当然ある。安全な薬は効かないのである。市販の薬が万人向けである為、医者に処方されたものより効かないように。 要は、医者の処方と、保護者なりの看護と、何もしなかった場合の死亡確率(なんか分からないか)と、服用した場合の危険度を量りにかけることが、必要であり、タミフルは危ないだから駄目!という方向にまたもやバカどもがひっぱっていきそうな勢いに危惧するのである。日本では、確かにインフルエンザかどうかよく分からないうちに、安易にタミフルを処方している面もあって、使用量は世界一である。しかし、このままでは、禁止ってな方向にもいく可能性だってあるのである。 おまえどっちやねん、そういった0か100といった議論が多い・・・議論???何か日本の議論って、最初に結果があり、それに向かって収斂していくってのが多くないかい?確かに根回しは必要なんだろうが・・・。あるいは、議論ってたって、何だか曖昧に終わることも多いんだな。別に戯言なら曖昧でいいんだけど、その後に解釈や言い訳の余地を残す。だいたい、議論は建前が多く、本音がないため、やはり、あやふやになる。建前と本音、その狭間に利権が生じるのである。小さな所では、例えば、会社での相手先採用のプレゼンテーションでの建前と、初めから決まっている本音、鶴の一声で皆の採点が覆る、何か利権がからんでいるのではないかという疑問。大きな所では、例えば、憲法違反と自衛隊の矛盾、ないことになっているから、武器購入や周辺事態(なんじゃその言葉)やイラク派遣、いろんなところに利権が入り込む余地がある。マンション耐震偽装、牛肉安全偽装、原発安全偽装、ケーキ期限切れ偽装、車のリコール偽装、給湯器安全偽装、政治改革言うだけクラブ・・・・利権まみれやのう・・・ 0か100かで思い出したのは、大學生の頃だった。私の女性友達Aを介して親しくなった女性友達Bと何気なく、Aのことを話していた。Bは「AとC(Aの彼氏。私の友達でもある)って、すごいよねえ。ずっとプラトニックな関係を保ってさ」私「えっ?なにそれ?そんな話聞いたことないよ。そんなことありえないよ。そういうことをいたしたという詳細な話をしたことはないけど、プラトニックな関係なんか聞いたこともないしけど・・・」B「えっ?夜通し、プラトニックな話ずっと聞いてきたのに・・・そういえば、一度だけ変なことがあったの。電話していると、電話の向こうから『オイ、パンツぐらいはけよ』と彼の声が聞こえてきたの。私、騙されてきたのかしら」私「あまりしないということなんかな」B「いや、ゼロか100よ」
2007.03.05
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僕は、今日は早起きして、ここではないどこかに行きたかったのですが、僕は、仕事の鬼、仕事の鬼畜、社蓄でもあるので、早速仕事に出かけました。勤め人らしく痛勤といきたいところですが、土曜日なので、車内は空いていたので、年もとってきたということもあり、座ることができました。 でも、僕の場合、今日は、諸事情がありまして、午前中はずっと立ちっぱなしでした。勿論、修学旅行で夜中騒いで、廊下に立たされたのでもなく、宿題を忘れて廊下に立たされたのではなく、自発的に立っていたのです。でも、ボクノバアイ、歩くのは平気なんですが、偏平足の為、立ちっぱなし状態を1時間もしていると、足の裏が猛烈に痛くなってきます。そんな訳で、同じ所を行ったり来たりの、歩く哲人のように、腕を後ろに組み、考える振りなんかをしていました。 でも、夕方には、仕事も一段落終えたので、今日は、早く自由な時間になりました。仕事から解放されると、不思議なことに、生き返った気分になるのですから、現金なものです。現金といっても、自腹を切って、会社の仮払いのようなものを数万円立て替えているので、あまり現金の持ち合わせがなかったのも事実です。僕は、昔からご飯食べる選択がある場合は、「今日は、インディアン?タイ?イタリアン?そば?メキシカン?ベトナミーズ?うどん?チャイニーズ?」などと決めるのですが、会社の人たちは「肉?魚?」という感じです。僕は、そのときちょっとだけ気がついたのですが、性格や外見や興味なんかよりも、食べる好みが一致することがより重要であるのです。僕は、もし、彼女や友達に毎日「肉、焼肉、鉄板焼き、ステーキ、にくーたべにいこう」と言われたとしたら、とっても付き合っていく自信がありません。 まあ、そういうことは置いといて、とりあえず、家路には向かわず、駅近くの安チケット屋を物色して、美術館に行きました。モディリニアニとかディシャンとかピカソとかウォホールとか、出鱈目に名作を並べた美術展でした。何せ、当美術館とサントリーミュージアムと、大阪市の近代美術館準備室の3つの所有物をまとめて公開しているものだったんです。何せ、詐欺なのは、大阪市の近代美術館準備室なんです。既に更地の土地を手当て済みなんですが、予算がないので建物が建たないのです。でも、こっそり、計画もたてずに勝手に高価な絵画美術品を買いあさっていて、顰蹙だったのです。置く所もないので、倉庫に眠っているものなんです。まあ、絵画といっても、ほんの150億円分なんだけどね。まあ、大阪市の8000億円の赤字のほんの一部です。 僕は、そんなことを思いながら、足が疲れた疲れたと思いながらも、結構賑わっている美術館を出たのですが、入った時からずっと一緒だった美大生カップルの解説に勝手に引っ付いていたのですが、出たときも同時だったので、こりゃ何かの縁かも知れないと思い、時間もあったので、ちょっとストーカーチックだけども、しばらくついていってみようかなという気分になったのですが、すぐさま自転車に乗ってどこかへ、消えて行きました。急いで、2人を写しておきました。そのあと、もう一枚400円だったので、ピカソ展というのも買っていたのでそのままはしごしました。もう足は、棒のようになっていました。僕は、大根足なのに、ゴボウと間違われるのではないかと危惧したぐらいです。心なしか、絵を見る速度は速く、歩く速度も見違えるほど誰よりも速かったのでした。どういう訳だか、今まで、何度、ダリ展とかピカソ展だとかメジャーな展覧会を見たことでしょうか。まあ、それはそうとして、私は、スターバックスに入ったのですが、疲れもピークに達していたので、チャイティーフラペチーノコーヒーベースなんかオーダーしてしまい、紅茶とコーヒーのミックスとなり、なかなかまずく、店員が怪訝な顔をした理由を一口目で理解したのでした。 スターバックスで、僕は「朝日カルチャーセンター」の冊子を紐解きました。英会話やパッチワーク、刺繍やフラダンス、フラメンコ、ヨガに俳句だけでなく、結構、興味深い講座も発見した一日でした。腹話術講座、カジノ講座、南京玉すだれ講座、キムチ講座、金光教の教え講座、チャンバラ講座、口笛講座、大道芸講座・・・軽チャーとかいってバカにしていましたが、結構魅力的なんだなあと反省した日でした。おわり。PSちなみに安チケット屋では青春18切符を7550円で買いました。頑張って鉄道旅行もしたいと思います。
2007.03.04
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考えれば、小学生の頃から○曜ロードショーや、○曜映画劇場をよくみた。題名は覚えていないが、シーンシーンをちょこちょこ覚えている。あの頃は、題名やストーリーや俳優よりも、映画そのものを見たいという純粋なものであり、ビデオのない時代なので、それしか見られないということであった。それはそれで、先入観なくえり好みをせずに済んだので楽であった。前にも書いたが「ザルドス」を発見したのは偶然であった。 映画を見るのは、たいてい私がテレビの近くで、親が後ろのソファに座って見ているという感じであった。西洋人の映画はやたらチューチューキスをしたり、裸で抱き合ったりしていて、何だかそれが、とても恥ずかしくて、私は画面から目を逸らし、後ろを向き、親の顔を見るのである。「あんた、何、いちいちこっちみとんや」とけしかけられたものである。当時、小学校高学年でありながら既に塾に通っていた私は、(当時は、塾という言葉もあったがベツベンともいった。漢字で書けば別勉であろう。月謝週2回では3,000円であった。)別勉の先生は、「ほら、映画なんかで外国人がチュチュするだろ。あれはすごく汚いんだぞ。雑菌と雑菌を交換しあっているんだぞ」と言っていたのが印象的であった。勿論、私は、それが汚いものだと思わないおませさんであったが、先生は「エリートになれ」とも言っていたが、そのとおり、私は私だけの中でエリートをやっている。 中学校に入ってからは、意識的に映画を見るようになった。「サタデーナイトフィーバー」を家族4人で見ていたのだが、後半部分にある女がジョントラボルタに「これでやってよ」とコンドムを差し出すのだが、そこですかさず妹が「あれは何?あれは何なんおよ」と母親に詰問していた。母親は、妹の顔も見ず、テレビを見ていた。 正月は勿論、エマニエル夫人シリーズなのだが、私にとっては、ストーリーよりもバリやバンコク、ケチャダンスや水上マーケットが印象に残った。燃えよドラゴンの香港の風景、水上生活の風景と共に、もしかしたら、数年後、アジアに向かう原風景になっていたのかも知れないと思ったのであった。 私の家には、性という臭いがなく、母はとってもそういうのが嫌いであったような気がする。親がセクスしているのも見たことがないし、子供の頃、箪笥を漁っていてコンドムが出てきたこともない。勿論、別々に眠っていた。父親は、それでも、毎日、趣味もないし、そんなに飲めないので、まっすぐ家に帰っていて、たまに、飲み会に行くと、夜遅くまで帰ってこない。決まって駅のベンチで眠っていて、最終電車後に駅員に起こされて仕方なく帰ってくるのだった。母親は、私が22歳の時に一度だけ言ったことがある。「はやく結婚しなさい。子孫を残すのが人間の役目なんだから」と。人は子供を作る機械なんだな。もしかしたら、聞き違いかも知れないのだが、母がいるというのに、父は、私の前で、女の人が体を洗ってくれるお風呂があるんだと言ったような気がする。夢だったのか。ウーロンチャ何故背負う
2007.03.03
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実は、映画「ドアーズ」を見直した。ジムモリソンが精神病患者のように描かれているのが、変なのだが、俳優がとてもモリソンに似ているし、演技が上手い。封切の時は気がつかなかったのだが、モリソン君の恋人役にはメグライアンが演じていた。60年代やヒッピーにメグちゃん、似合わな過ぎで失笑する。オリバーストーン監督が是非やってみたかったのは、恋人のメグライアンと、アンディウォホールパーティに来ていたニコとの2回のぼろーじょぶシーンであった。笑える。驚いたのは、メグライアンが脱いだのは、インザカットだと思っていたのだが、2,3秒間、メグの乳首が見えるシーンがあって、正直、何だかほんの少し得した気分になった。 そんな訳で、ちょちょいと、映画のヌレヌレシーンを少し思い浮かべる作業にしばし時間を裂くことにしたのである。『ショーガール』内容はどうってことはないのだが、オモロイダンスにオモロイセクスというところもいいのだが、何か映像がピカピカのシーンという感じが印象的で楽しく、思わず数回観てしまっている。主人公にダンサーの主役をとられていくはジーナガージョンのでかい唇が良い。その口で、シャンペングラスで飲む姿は妙にエロチックで、はっきり言って、良い。 『カーマスートラ』好きな男と結ばれるのだが、合体シーンが足の指で表現、何となくイクときには、足の指がきゅっと曲がるのだねえ。思わず、ホホウと感心した私であるよ。『マルホランドドライブ』には、レズシーンがあるのだが、寝ても盛り上がったままの(てことは整形か?)乳房にびびる私であった。ストレイトイトーリーでほんわかムーヴィーを作っちゃったデビッドリンチ、危うくも復活って感じであった。リンチとアホセクスといえば、「ワイルドアットハート」。暴力と純愛、ピーナツとハニー、シュガーとベイベー。ニコラスケイジをはじめ登場人物が全員、バカ。いちいちキメルのが何ともかっこいいっていっていいのか分からないところが、カッコイイのであった。 まあそれにしても、「バニラスカイ」とか「ゲッタウエイリメイク版」とか実生活でも恋人、夫婦というのは、セクスシーンも演技かほんまか奇異の目で見てしまうのは、なかなかオツなものなんだよねえ。 それにしても、今までみた一番しょうもないラブ映画は、シンガポールで見たにやけ顔ミッキーロークの「ナインハーフ」であった。何せ、かの国では、上も下も出しては駄目なので、全くナニを何しているのか分からなかったのであった。困った事態である。それにしても日記をアップする時間になったので、この辺で終了するのである。
2007.03.02
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若かった頃、言葉の雪崩が舞い降りて、私を巡った。実は、今もそうだが、若かった頃は、それが詩的であった。詩、そう思ったのも、大いなる勘違いかもしれない。大人になれば、ただの人、ただの人になりたいのが大人であるということが分かった。 大人になれば、感じ方も変わるものだと思っていたが、鈍感になる、或いは、誤魔化すということが分かってきた。心の微妙なバランスも、面倒なので、ふっとばさなければ病気になってしまうことも分かった。病気にならない程度に、やり過ごすということも分かった。とにかく食えれば、大きな問題はないことが分かった。大人になれば、過去も人も変えられないということが分かった。同時に、自分と未来を変えられるのではないかとボヤボヤすることも分かった。 大人になれば、理性的になり、損得勘定で物事を考え捉えるようになると思っていたが、あまり深く考えないようになるということが分かった。何せ、精神的にも肉体的にも忙しい気がする。大人になれば物分りが良くなると思っていたが、モノが分からなくなって放棄するということが分かった。自分を客観的に見て、論理的に行動し(つまりゴルゴ13か)、自分に責任を持ち、空虚感に支配されるのが大人だとすれば、結局、年をとり、身体的にでかくなることが、大人ってことか・・・大人とは、でかいので、おばあちゃんが棚に荷物を置くのを手伝ってあげられる奴のことであり、大人はでかいので、重いドアを開けて、次の人のために開けて待ってあげられる人のことである。あと、男に関しては、半ズボンをはかないのも大人かも知れない。 大人になれば、強くなり、泣かなくなると思っていた。涙腺が退化するものだと思っていた。しかし、隠れて泣いていることが分かった。気恥ずかしさを憶えたのであった。 大人になれば、何でも分かると思っていた。子供が質問すれば、とりあえず答えるから。しかし、大人になれば分かるから、と言っているだけだということが分かった。知識が増え、本質的な疑問から遠ざかって行くことが分かった。分からないことに対して、諦めることも分かった。分かったつもりになっていることも分かった。人の幸せを通じて自分の幸せを感じることができるのだよ、と模範解答ができるのも大人であることが分かった。いい学校に行って、いいところに就職して、大人になれば、金を稼いで、好きなもの買って、結婚して、子供を産んで、夢を次々に実現・・・・・子供の頃、そういうことを想像したことがない。現実感がなかったのだ。大人になったら、現実味を帯びてくるというより現実に合わせるということが分かった。でも現実は、自分の思った通りになることも分かった。 私の場合、半分は父親の血が流れているということも分かった。父親は、全て何も面倒なことが起こらず、静かに人生を終えたいタイプであり、目立ったりするのが嫌いで、功名心も欲望もなく、人生が面倒なのであり、人と話をするのも面倒であり、私とも人生トータル30分も話をしたこともなく、私が子供の頃補導されても、決して迎えにくることもなく、妹の結婚式も面倒なので欠席し、子供にひとつのアドバイスもしたことはない。そんなことは面倒なのだ。そんな血を引いているので、出世欲もなく、議論嫌いであり、野心が少ない自分に少々腹立たしいのである。 私の場合、半分は母親の血が流れているということも分かった。母親は、とにかくじっとしていることが我慢できないようであり、今も趣味に生きている。毎朝登山をし、年間何週間も山に篭り、絵手紙教室を主宰し、展覧会なんかも開いている。ただし、地域コミュニティやPTAなど権力的なものには興味がない。そんな血をひいているので、落ち着きがない。凧の切れた糸のようになっている自分が腹立たしいのである。 その辺りがDNAというものであろうか。 そういえば、DNAの解析プログラムが終了してすぐに、禁煙キャンペーンが張られた。歩きタバコ防止条例とかが発令された。意図的な感じがする。タバコはスケープゴートにされた気がする。癌と遺伝の関係性を隠すかのように。
2007.03.01
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