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偶像礼拝を禁止するのは「イスラム」ではあるが、案外、シーア派は緩いのですわ。だからホメイニ肖像はは許された。ハメネイ肖像画は許された。自分歴史初ルームサービス。闇両替のおかげで宿泊料5ドルであった。イランリアル
2012.03.31
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旨い、しかし、高いのは、旨いは当たり前。それでいて安い、そうすると、もうひとつの称号が与えられる。「えらい!」である。確かに、マッコリ100円なら、毎日飲む。私の財産を全く脅かさない。そうは言っても、自動販売機で水やコーヒーをそう買わないのである。もったいないからである。しかし、酔っ払ってたり、急いでたりするときは、まあ飲むこともあるが、基本、マイデカダンス、300円のコーヒーを飲む。かといって、100円でマッコリ買って、フタしかkりしめて、重い思いして、日本に持ち帰り、満足して、1日で飲んで終了。そんなことでいいのか。マッコリとホンオフェは相性がいいとはいうが。机に座ってマッコリ飲んで、東北の復興が遅いということに関して、遅いのは当たり前だということに遅ればせながらに気がついた。役所の策定がノンビリペースなのは、相変わらずだが、復興を急いではいけないのである。復興を急いでいるのは、民間であり、個人家族であり、そこに住む人々である。もし早急に復旧してしまえば、政治家の票がとれなくなる。役所は、予算が取れなくなる。だから、いつかよくなりますよ、と期待させることが大事なのだ。だから新幹線も土地買収もあるが、開通4,50年たっても、まだいっているし、リニアモーターカーも重要なのは、完成しないことだ。新幹線やリニアが完成したら、停車駅は勝手にやりだし、むしろ、流入より都会にでていってしまい、停車駅でない駅は、取り残される。人口減少しているので、人口移動しかないのだ。同じだろう。復興してしまったら、先はないんだ。神戸をみよ、つまらん市になった。むちゃくちゃになった長田は、すぐに復興させなかったから、人は出て行き、一生懸命シャッターアーケードを作った。東北も無理に掲げているように、これを期に震災復興以外の、それ以上のことをしようとする。神戸は、ポートアイランドを広げ、空港を作った。震災とは関係ないのに、それに乗じて作ったのである。同じように、政治家や役所に任せていては駄目になる、おまけに、原発を切り離して考えていない。始末悪い。いつも、間違った方向に導いてくれる、エーメン。人口減ってんだ、まずは復興以上のこと考えるなバロー。いけない、酔っ払ってきた。 韓国パクリ商品。でも韓国の方々は自国の商品と思っている。
2012.03.30
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日本にその最高指導者、じゃなかった、けーえーしゃが来ている。それが知り合いとの関係の維持だったら、何だかよく分からないけど、私の目的とは違うような気がする。小中学校の頃の友達や旅先で出会った人、どうしてるかなー、まあ、そのくらいは興味あるけど、もう違った道を歩き始めているので、ゲンキー、おう、それ以上に何かあるのか、よく分からない、まあ、それがビジネスにつながるとでもいうのであれば有効なのかも知れないが、お互いまた親交を深めましょう、そんな気になるのかなあ。そのあたりは私も、寂しくもないので、そんな気にはならない。何十年も十何年も音信普通で、久しぶりに会ったり、話しても懐かしいねえ、で終わりなのかもしれない。数人いれば、それでいいじゃん、と面倒な私は思っちゃうんだよね。そうやって忙しく慌しくするより、のんびり本でも読んだりしてたほうがいいんですけど。まあ、そう思うならそうしとけやってことですね。ましてや、友達の友達、特に興味ないなあ。必要な情報以外はいらないよ。弊害もあるじゃろ。今のところ、欲しい情報も過去と親交を深めたい希望も特にないので、匿名で開設しているものの、必要性は感じないなあ。(まあ、偽名でアカウント停止になるかも知れないが、まあ、それでもよかろう。でもその前に、本人確認なんか何もされてないけど。)
2012.03.29
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風任さんの日記にはそういえば俺がガキの頃は・・・って思うことが多い、というか、俺にはガキがいないから自分に投影するしかないというわけか。 中学校のときに卒業していった友達の家に高校の時に泊まりに行ったのだが、実は題目に書きながら、友達の家で飯を食ってこうだったという思い出はそうないのだが、この家で初めて納豆を食べた。食べた感想は、「これが納豆というものか。うまくもまずくもないな」という感想を抱きながら、「あ、納豆食べないか」と友達の父は言った。父は関東出身だったのかもしれない。それからまたずっと納豆を食べていなかった。 そして15年程度の月日が流れ、東京に長期出張となり、毎日、吉野家で納豆定食を食べ、安い納豆が大好きになってしまい、納豆中毒になった。納豆定食は、安い納豆に、生卵にネギである。そういう変遷を経て、今も安い納豆が大好きなのである。多分、死ぬ最期に何を食べるかというと300円納豆定食かもしれない。小学校のある日、たまたま女の子の同級生と同じ帰り道(1回も一緒に帰ったことないがたまたま)、「家寄っていく?」といわれ、なんとなく、ついて行くと、小さな平屋の家で、お母さんがアイロンを縁側でかけていた。部屋はそこしかない小さな家で、この家いったいどうなっているんだと思った。小学校低学年の頃は、みんな同じ水準で暮らしているものと思っていたのだ。よくよく考えると、いつも同じ服を着ているヤツもいれば、いかにも育ちの悪そうなやつもいたし、いつも小奇麗にしていたお嬢さんもいたが、その頃はそんなに気にならなかったというか、それが家庭や経済状況とは気がつかなかった。何故なら、幸いにも、私はお金に苦労したことがないというか考えたことのない程度の家に育ったが、単なるずぼらで毎日同じ服(ジャンバーという上着だけだけど)を(冬は)来ていたからだ。私がジャンバー着たまま寝て、起きてそのまま学校に行っても、親は何も言わなかったのが原因なのかも知れないが、その友達の家に行ったときに、何か世の中違うのかもと思い、その後、違う男の友達の家に行ったとき、そいつもいつも同じ服を着ていて、ガムをいつも片一方の歯で噛んでいて、そして、家に行ったら親父がいた。平日に家に親父がいて、おかんがいなかったのだ。不思議に親父が貧相で覇気がなかった。小学校高学年のときにも、女の子の家に遊びに行った。勿論、性的な意味はなかったのだが、その女の子はお嬢さん的な雰囲気があり、小学校のとき、一番うまいラーメンは「本中華だ」という意見で二人だけ盛り上がり、なんとなく親近感を持ったのだ。家に行くと、ゴルフのなんていうのかな、網の中のウチッパシがあり、池に鯉が泳いでいる。でもそれを、あら、そうという感じで何とも感じなかった。感じていたのは、子供ながらに彼女のお嬢さん的なおっとりした「振る舞い」だけだった。子供には、池もゴルフも、ああ、親が好きだから家の庭に作っているんだよね(誰でも趣味におかねかけるよね)と思っただけだった。 男友達の家に小学校1年のときに遊びに行ったら、優しい、どっしりした親父が、でっかいステレオにクラッシクを大音量でかけた。僕はいつも、これを聴いているんだ、といる感じであった。音が澄んで綺麗であった。へえ、こんな大きな機械で聞くと綺麗んだなあ、うちには音楽誰も興味ないからな(小5でステレオの山水が入った。トリオやサンスイが低音得意とか、クラッシク向きとか聞いた)でも、家は団地だった。 転校生には、何だか、割と仲良くなるほうだった。当時は何も分からなかったので、転校生の家に遊びにい行くと、新築で綺麗な家とそうでない家(賃貸や中古購入)があった。勿論、新築や中古のことは分からないし、何も知らない。しかし、我々のような都会の新興住宅地では、総じてガキどもは代わり映えのしないガキたちだったな。
2012.03.28
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陸続きの国境を、何度か超えたことがある。理屈詰めの国家と取り決めを。国境では、イランリアルの札束を積んだ両替商が砂漠の砂の上に何人も座っている。パキスタン1ルピーを51イランリアルに両替する。噂どおり、闇両替は正規の10倍以上だった。入国カードがない。税関は厳しいという話は聞いていたが、荷物も開けられず、外貨申請が必須で、荷物の奥に分からないように隠していたドルも何ら関係なかった。砂漠の右側には壁が続く。砂漠の左側にも壁が続く。厳格な荷物検査があるとは聞いていたが、いつも通りの通過。笑顔のイミグレーションにカスタム。砂漠の中に申し訳なさそうに建つ建物。その向こうにザヘダン行のバスが1台停まっているだけ。満員になるまで出発する気配がない。国境の壁には落書きが。「くたばれアメリカ。くたばれソビエト」インドパキスタンと左側通行が、この国から右側通行に。道は、石油大国、何の揺れもない綺麗なアスファルトとなった。バスが出発したのは、国境を越えてから3時間後であった。(塩湖がみえる)ザヘダンまでバスは90分程度だが、その間にパスポート検問が5箇所あり、何かいちいち言われる。さすが、イラクと戦争をしている戦時中の国。若干緊張する。(当時は、日本人だけノービザであった。バブルの頃、日本にイラン人が多くやってきて、ビザが必要になったのだろう。イランで西洋人はビザが出ないので一人も会わなかった)ザヘダンでは30分もしないうちに、シラーズ行きのバスに乗ることが出来、17時に出発。道は快適であった。しかし、出発して2,3キロ行ったところでチェックポストがあり、怒鳴られて、バスは街に引き返す。何故だかは分からない。再び暫くしてチャレンジするが、また同じところで追い返される。そして3度目、少しチェックされただけで、通過できた。何故追い返されたのか、何故通過できたのかはまるで不明。 夜行バスは、その後朝までにチェックポストは5箇所あり、そのたびに、荷物を降ろしては、何か小言を言われながらチェックを受けた。 バスは90キロで走りながら、朝を迎える。石油が有り余っているのか、どのバスもドライブインではエンジンをかけっぱなし。 昼12時頃にアケメネス朝ペルシアの本拠地シラーズに到着。ようやく、闇両替したものの、激安なのはバスと宿だけだということに気がつきつつあった。シラーズにまずまずのホテル(=ホットシャワー有)に行くと80円足らず。先ほど19時間乗ったバスも120円であった。しかし、飯やタバコは、50円とか100円とかかる。シラーズからバスで70キロほど進み(7円)、そこから6,7キロをタクシーに乗って(12円)ダリウス1世の待つペルセポリスへ。酔っ払って、ペルセポリスに火を放ったアレキサンダー大王は、翌日後悔したという逸話を残す(梁や屋根はレバノン杉だったので燃えた)。ちなみに、ペルセポリスとは、ギリシア語で、栄華を誇っていた頃は何と呼ばれていたのか不明である。シラーズに戻り、屋台で飯を食う。100円。ズボンが破れたので生地のしかりしたズボンを買いに行くと、500円。そんな夜だった。おまけ
2012.03.27
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日本人として育ってきたから日本庭園が好きかといわれると、子供の頃から慣れ親しんでいるというわけではないので、そのあたりは、分からないが、普通の外国人と同じように、小さな庭を見るとファンタスチックってな感じで、心が澄み、そこに座って眺めるというのは、さすがにいい感じだ。回遊式より、庭に下りずに鑑賞式のずぼら方がよろしい。水を使わない枯山水であろうと池泉庭園式であろうと。広大な庭園というと、ここ数年では栗林庭園 とか浜離宮とか近くでは須磨離宮(あ、日本庭園じゃないわ)、ではあるが、どこをみていいいのか、焦点がボケるのだ。いや、そんな気がしてしまうのだ、どこを見ればいいのだと思ってしまう貧乏性なのか。万博公園は、昭和の庭園で、万博の際に政府が出展した作品のようである。案外、外国のアジア人が多かった訳で、「トイヤー」と中国語が飛び交う。先ほどのファッションショーの出演者らしき方々も、解放されたのか、歩いている、が、時間的に早すぎるので、もしかしたら違うかもしれない。同じようにみえるようになったら、オッサンの第一歩か。いや初老か。 地形を利用したりして築山作ったり、川の流れや池作ったり、そんな感じなのだが、回遊式で広大な面積があると、なんとも、せっかちなので、はやく次に行きたいという気分になってしまう。池で鯉見てはしゃぐのは、ガキのみ。白い砂庭は雲だ。そこにある岩は、山の頂だ。人工物であり、ある程度型にはまったまま、制約の中で、世界観や宗教観を現すのであるが、それに、自分自身が楽しめるかどうか、という当たり前のことだ。和みですか。なんだか、よく分からないうちに、散歩は終わる。というか、その日が終わる。それは、不安である。世界が。
2012.03.26
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まあ、大きなことは言えないが、帰る。どこに帰るかというと、大それたことは言えないが、日本である。何で帰るの?と考えると、なんと仕事があるから帰るだけだ。じゃあ、仕事がなかったらどうやねん。お金がなくなるから帰るのである。じゃあ、仕事もせんでええ、お金も自宅でじっとしているよりかからないよ、ということになれば、あれっ、帰ることないじゃん。あ、そらそうだよな。ほんと、毎月の年金10万円になったら、もう多分、日本にはいれないだろうあな。でもそうなったら、インドあたりをうろうろする不良老人だ。まあ、ぼやぼやしているうちにバスに1分差で木浦行きに乗り遅れ、40分、ただただ珍島中央バスターミナルで次の便を待っている。朝飯をここで食べるか少し迷ったが20分で食べるのもなんだかなと思い、辞めつつ、若い女性が2人ほどバスを待っているのを見ると、多分同じバスに乗ってソウルとか、まあ、そちら方面に学校だか仕事だかに帰るのだなと想像できる。(勿論想像通りであったが)それで、帰りは何となく空いていたのだが、途中でジジババが乗ってきて、一人煩かった。ソウルに行くみたいだが、今バスじゃ同じ列車だよな、近くに来ないでくれ。ちょっと時間あるからか、ジャージャー麺食おうなんか行っているけど、久しぶりに会ったババは、拒否しているみたいだ。嫌がられる老人になりたくないなあ・・・しみじみ。昨日買ったマッコリのフタが甘く、水が入っていたペットボトルに入れ替え、万全にして列車に乗る。ダンキンドーナツでコーヒーも買うが、あれ、日本に、今ダンキンドーナツなかったっけ?状態である。韓国のコーヒーは、いやはやアメリカンコーヒーで、大きな声では言いたくないが、薄い。これじゃあ、カフェインが効かない。アメリカでは、ダンキンドーナツは、制服で勤務中に来た警官はドーナツとコーヒーをただにすると宣言しているので、まあ、治安がよいとされている。いいんじゃないか。うっ、豹柄が眩しい、大阪と韓国の共通点というか、気質だ。ちょっと意味なく応援する。もうソウルでは、急いでお菓子とかガムとかマッコリとかショーチューとかビールとか買ってから空港に向かう。また同じところで写真撮ってすみません。韓国の空港は、面白いのは老若男女、ペアルックが多いことだ。今回もペアルック集を撮りたかったのだが、時間なく、今度は2時間前にはチェックインしようかと思った次第。実際、違うことができますか。疑問を呈しつつ、飛行機に乗る。歩いて帰ってもよかったんですけど。 2012 韓国、珍島、海が割れるのよ~ 日本→2回目のカンジャンシジャン gourmetの旅 ソウル→木浦 木浦の涙 木浦到着 韓国海沿いgourmetの旅(珍島や木浦) 珍島 海割れまで 珍島 海割れを歩き回る 珍島 海割れ個人旅行 珍島の夜 珍島犬 珍島の朝 珍島→日本
2012.03.25
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大阪場所、相撲前を歩いた。相撲については詳しくないが、この数秒から数十秒の勝負の世界を文章で表現する特訓をすると、文章がうまくなるといわれたものだ(本当か)。はくオウモンゴル、琴欧州ブルガリア、バルトエストニア、えーっと・・・ハワイ系・・・以上、知らないんです。ごめん、面白いと思ったことが、子供時代からないんだ。でも、寒い冬に薄着で草履はいているでっかい力士を街角でみると、スゲエなと思う。小松左京を見た。昨年亡くなった。 しかし、一番日本人を地獄に陥れたのは、ニッポンチンポツだよね。でも、私も当時、怖がりながら、結局、海外旅行中に沈没するようになるんだよね。バンコクとかバリとかカトマンドゥとかバラナシとかで。うどん、ドーナツみたいなコロッケ乗っているだけ。マア、イロイロしこうさくごして何かが生まれるものだよね。結婚式に出席。取引先の男女共に知り合いとなのだが、結婚式も久しぶりだな~。最近は葬式の回数と争うようになってきた年頃だからさ。伝統ある日本家屋にお邪魔する。AKB見る。ちょっとおどろおどろしい。入ってはいけないのか。まあ、写してみただけ。道沿いに歩く。こんなの懸命に作って、大変だわ。何のために、それはゲージツにはタブーである。では、何のために生きていると問い返されると、返答に困る。これは少なくとも先週ではないですね。20年以上前ですね。このラクダもきっと死んでますよ。これが私の一週間です。
2012.03.24
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リコー館三菱未来館ペプシ館松下館ペプシ館。いよいよ、ファッションシューの始まりちゅう訳や。テーマ館。アメリカ館。オランダ館。ガスパビリオン。自動車館。住友童話館。生活産業館。せんい館。タカラビューティー。テカエリマス館。電力館夏服。東芝IHI館夏服。日立グループ館。あかんどれがどれか分からなくなった。特に贔屓しているわけでもありませんが、うっかり、2枚Upしてしまいました。これは着物に似せた2ピースだそうです。三菱未来館。リコー館。この人だけは、制服がブカブカで、当時の人は、今に比べてふっくらしていて、足も太かったなあ、当時の写真みて思いました。日本館。ここからは小学生だったので、変態野郎から身を守るため、匿名です。とにかく、近所の小学生です。鉄鋼館。写真を横にしても入るようになりました。サントリー館。みどり館サンヨー館。このショー見てて凄いなーと思ったのは、この栄枯盛衰時代、当時出展した企業が未だ、40年後残っていることだたったが、残念、サンヨーだけは、松下(現パナソニック)に吸収されてなくなったよね、といっても、名前は子会社に残っているか、というか、元々、松下からの派生だよね。エスコートガイド。70年代、サイケだよね。前に座っている人も何となく70年代。今日のコンパニオンの皆様方。皆さん、既製品で、ダブダブとか、靴があってないとかで苦労している様子が分かり微笑ましかったです。それにしても、みーんな辛いかったなー。まあそんな訳で無事帰りました。
2012.03.23
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人類の進歩と調和、ほんの40年前までは、日本も、こんなに前向きだったんだ。70年代の幕開け、あくまでサイケでおしゃれだぜ。着せ替え、ってこんななんか、ぴゅっと折り目の部分ができたよね。ブリテッシュコロンビアってバンクーバーのカナダだよね。コートジボワールだよね。あれから40年たちました。特に、昔、美人の人は、化粧が変わらない。どこの馬の骨とも分からん人は雇えまへん。アストロラマ!おたくどちらさん?青年料金でいいすか。人生訓そのものである。
2012.03.22
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日本は何故世界でただ一国、植民地に対して国家予算を持ち出した国なんだろうか。そんなんならワザワザ海外植民地化することなかったじゃないか、おまけに後年、ずっと恨まれて(台湾をはじめとするアジアのジジババ知識人たちは日本に多くを学んだと、国としてはいえないが、個人的には感謝したり尊敬してたりするのだが)しかし、よくよく考えれば、実は、脈々と続くタカリと特権、利権構造に過ぎないと、気がつく。国や税金を食い物にする奴らが多いだけである。満州や韓国でも、日本から金を持ってこさせ、利権にむさぼりつく、戦後もODAなどで金をばら撒く窓口となり、結局は自分の懐に返ってくるようにする。原発もまったく同じ構造だ。政府が金をばらまき、多くの特定のものだけが利権にしがみつく。国民全体としてはマイナスでも、そんなの知ったことか。そして国は危うくなる。まあそんな訳で木浦の涙韓国語で読んでも、日本語で読んでも、もっぽ。全裸、あ違った全羅南道の多分中心地。日本とは因縁というか、昔、日本人が多く住み、中国との貿易の拠点だったようだ。金大中の故郷でもある。まあ、前置きはそのぐらいにして、木浦を紹介したいところだが、駅の中の観光案内で、いきなり「日本語できません」といわれ、地図をもらった。実は、海沿いで飯を食ったのと、バスターミナルに行っただけで、まったく分かっていないのだが、ここで木浦を紹介しようというのだから、無茶な企画である、というか企画にはなっておらん。とにかく、大きい声では言えないのだが、タクシーで、アグちム通りとかソンチャン刺身センターとかニベ刺身通りにイカンカイワレ、といいたいところだが、地図見せてココッコココというだけさ。駅のインフォメーションセンターでバスターミナルなら駅前から○番バス乗りなさい、まあ、それで終わりだ。駅を降りたら、ああ、いい感じの田舎町で、最近都会しか来てなかったからね、と思い、それで終わり。1985年韓国人が海外旅行が自由に出来ない頃、韓国から招いた学生たちに教えてもらった曲が流れる、チョーヨンピル、トラワヨープーサンハンヘ~。釜山港へ帰れだった。1980年代に韓国に2回行ったことは覚えているけど、風景が思い出せない。風景でなく、地図で思い出せないのだ。断片でしか。 2012 韓国、珍島、海が割れるのよ~ 日本→2回目のカンジャンシジャン gourmetの旅 ソウル→木浦 木浦の涙 木浦到着 韓国海沿いgourmetの旅(珍島や木浦) 珍島 海割れまで 珍島 海割れを歩き回る 珍島 海割れ個人旅行 珍島の夜 珍島犬 珍島の朝 珍島→日本
2012.03.21
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ホテルから門が見える。昔はこんな感じだったのか。あさめしはおかゆである。あ、あれ、独立門通っていた。日本は何故世界でただ一国、植民地に対して国家予算を持ち出した国なんだろうか。白人らはの植民地支配は殺戮と搾取、無学化がその基本であった。宗主国に対する反抗しないように、自国語の禁止、自国教育どころか教育の停止、集会や団体の禁止などを徹底し、その土地で得られた作物や工業・工芸品、鉱物などは搾取したというのに。いったい、何の目的があったのだろうかといいつつ、地下鉄乗り換えて、龍山駅に到着し、昨日ネットで申し込んだ3日間特急乗り放題ガイコツジン切符をプリントアウトしたバウチャーと交換する。KTXというから、昔乗った新幹線かと思いきや、いわゆる駅をノンストップでいく特急であった。私には景色と読書である、本を開くと目が閉じる、というか、睡眠時間3時間では、列車なんか乗ってしまうと気を失うに決まっている。自然現象である。時刻表も勇んでプリントアウトしたが、それは5年前のものだった。鶏龍って、怖そうだ。早い昼飯は、昨晩の市場で買ったまやくきんぱである。まあまあ、空いている。昔は12時間バスも24時間バスも尻が痛くなるだけで平気だった、というより、金がなかった、というか、貧乏ごっこが好きだった、というかちょっとでも長く遠く旅行したかったので節約した。今は選択の中でののんびり紀行だ。ほんまか?最寄の空港であるムアン空港(ドンムアン空港じゃないよ)は開店休業状態1日発着0便。食べたらまた寝てしまう3時間15分はすぐで、木浦に着き、なんだか、みたことのない英語フレーズであった。そういえば、日本入国の外国人のところ、昔、エイリアンだったな・・・。ありゃ、映画のせいだな。 2012 韓国、珍島、海が割れるのよ~ 日本→2回目のカンジャンシジャン gourmetの旅 ソウル→木浦 木浦の涙 木浦到着 韓国海沿いgourmetの旅(珍島や木浦) 珍島 海割れまで 珍島 海割れを歩き回る 珍島 海割れ個人旅行 珍島の夜 珍島犬 珍島の朝 珍島→日本
2012.03.20
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大きな声では言えないが、会社を定時に帰ることはないのだが、定時に出ると、関空には19時頃に着くのである。よく分からないが、国際線40分前チェックインルールはここ1年ぐらいに、1時間前に変更されたのかも知れない、それに注意しつつ、1時間前、それも並ぶことを想定してチェックインしなければならないの法則なのである。それが、おれ自身さけではなく、世間のルールなのである。最低限のルールは、みんなが従うなら、本当の不条理でない限り従うに越したことはないのである。といっても税金とか選挙制度とか放射能撒き散らしとか不条理でも強制的に常にやられているのである。多分、原発は終わる。経済的理由で。10万年の廃棄物閉じ込めますか、皆で死にますか。多分死ぬだろう、経済的理由で。電気料金に転嫁できない、国や政府は助けない、そうするだけで、採算が取れないので、自ら原発をやめうであろう。アシアナ航空のカウンターの方は親切というか、日本、韓国、シンガポール、タイ、台湾は基本親切である。香港は、無愛想だがやっぱりアジア系的親切である。ヨーロッパ系は親切とは言いがたいかもしれないが、アバウトで機能的である。アメリカも何だかおばちゃんとホモが多いので、俺にはかなり親切である。どうもありがとう。そんな訳で、すみません、メクチュチュセヨ~でビールを取り寄せるのである。原発ゴミ、10万年どこに捨てるのだろうか。まあ、福島を捨てることにして、福島県そこから50キロとか100キロを捨てるところにして、無人地帯にしないといけないね。どうするの?政府はそういわないと。すみません、福島県はなくなります10万年だけ、と。22時頃金浦空港に到着しても、最終リムジンバスは22時50分代にあるのである。6001番バスは。ホテルに着いたのは、まあ大雑把に12時である。しかし、飯は食いに行くのである。その前に両替の率がいい東大門周辺に行くのである。南大門市場のおばちゃんも両替率はいいのである。7ぶん7ぶんいい気分24時間である。じゃなくて12時間か?韓国でそれはないな。それにしても、芸能人とは縁が薄いのだが、ゆうこりんとは別である。多分、親和性が高いのである、何との親和性かは不明である。ただし、今回もゆうこりんとアポ取りはしていないのである。さすがにコメントは厳選、取捨選択、意味ないコメントが100も羅列、まじすごい。ま、私も意味ないことを書いているのだが。さすがに夜中に広蔵市場に行くと、ほとんど閉まっているが、刺身、鉄板、など10件程度の屋台は薄暗く空いており、椅子には電気で暖かくなっている、なってはいるが、外である。外ではあるが、呼び込み激しい。いや、激しいのは1件だけであった。そのおばちゃんに負ける。心優しいのである。日本人は。負けじとおばちゃんも優しい。ここは、一挙にマッコリとピンデトク(緑豆お好み焼き)を注文。前菜にキムチと、たまねぎが出る。ネギが好きだということは、おばちゃんには明かしていないのだが、ネギがなくなったにをすばやく察知し、玉葱の追加を黙って入れてくれる。前来たときは、石臼で、豆をゴリゴリ挽いていたが、今回は夜、既に出来たのを鉄板で暖めるのみ。といってもはるばる840キロ彼方から来たのを察し、こんな夜中の1時にしらふでやってくる外国人背広会社員には、サービス品をつけてくれるのである。まあ、店も終わりかけだからであろう。因みに大阪沖縄は1200キロ、札幌1080キロ である。ピンデトクには、そのものには、そう味付けされているわけではなく、まあ、そりゃそうだろうなってところで、玉葱ソースにつけて食べるのである。それは何よ、というと「トーフー」というので焼いてもらうと、まったく豆腐であった。東南アジアで食べるTOFUを期待したのだが、まあ、いわゆる豆腐である。そうこうするうちに韓国人カップルがやってきて、チヂミを頼み、そのあと、インスタントラーメンを頼んだ。どうやって鉄板でインスタントラーメン作るのだと思ったら、銀紙でなべを作った。ほう、すごいな、これが韓国式かと感心(今回の海割れぐらい感心した)していたら、韓国人カップルも、へーえ、っとびっくりしていた。ああ、メジャーじゃないのか。でも、これはすごいと、作る過程をぢつと見ているのであった。値段は、ピンデトク5000、トーフ1000、マッコリ3000の9000ウォン、600円ぐらいであった。安い、と私がいうと、カップルの女の子が日本語が分かったのか、彼氏に「安い」だって、とつぶやいた。3時のソウルをブラブラ歩いている。セブンイレブンでマッコリを1500ウォンで買い、ホテルの1階にある無料ネットを接続する。 2012 韓国、珍島、海が割れるのよ~ 日本→2回目のカンジャンシジャン gourmetの旅 ソウル→木浦 木浦の涙 木浦到着 韓国海沿いgourmetの旅(珍島や木浦) 珍島 海割れまで 珍島 海割れを歩き回る 珍島 海割れ個人旅行 珍島の夜 珍島犬 珍島の朝 珍島→日本
2012.03.19
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珍島ではサンナクチ(蛸の踊り食い)を注文する。日本人にとってか、私には、ちっとも気持ち悪くはないが、いやむしろ、口の中で吸盤がひっつくと、笑える。カイコ。ちょっと食べるぐらいなら問題ない。20匹ぐらい食べた。サンナクチは、割と価格がはるもので、ソウルよりは安いが、1,500円ぐらいする。あはは、あはは、と踊り食っていたら、目玉がぎろりときちらを向いていて、ゴメンと謝る。罪深い人間の性よ。あわび汁。残念なことに、何故か、ふりかけがかかってたりなんかして、何故なんだ。内臓が溶け出して、緑色になっているが、こいつが、イケルのだ。どうやら、ビビンバえらい高いと思っていたら、ウニビビンバでした。空港では、代わりに野菜ビビンバ食べときました。ケランチム(たまごやき)がうまい。機内食木浦バスターミナルからタクシーで、アグチム市場に行った。アグとはアンコウのことである。そのほかにも、なまこ、ほや、そして、ユムシ、これは魚の餌だが、これはイカン。ぶらぶらして、飯を食うところ探す。太刀魚煮つけ海鮮ビビンバ貝スープ木浦の名物は、タコとホンフェだ。アンモニア臭が強烈なホンフェは、エイの切り身であり、今のところ、臭さ世界ナンバー2。食べるか?いいえ、食べません。 2012 韓国、珍島、海が割れるのよ~ 日本→2回目のカンジャンシジャン gourmetの旅 ソウル→木浦 木浦の涙 木浦到着 韓国海沿いgourmetの旅(珍島や木浦) 珍島 海割れまで 珍島 海割れを歩き回る 珍島 海割れ個人旅行 珍島の夜 珍島犬 珍島の朝 珍島→日本
2012.03.18
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チンドケ。ケとは犬のこと。島にいるその辺の犬も一応珍島犬というか珍島の犬。純血は外では飼えないと聞いた。私には、よく分からないのだが、雑種は、安くなるのは、珍しくなくなるからなのだろうが、いろいろ混じるほうが強くなるのではないか。希少性がなくなり、価値がなくなるのだろうが、まあ、それは人間の都合なのか、よく分からないが、人間も混じるほうが美しくなるからねえ。顔が変になちゃうからねえ、○○家みたいに・・・まあ、よそから血いれてるけど。まあ、その辺は私にも詳しくは分からない。昔、ダックスフンドかなんか、トモダチが家に連れてきて私になつくから、よっしゃよっしゃと、刺身とか食べさせたらぺろっと食べるから笑いながら、よしよしとどんどん与えていたら、友達が真っ青な顔していた。明日下痢すると。素直に謝ったが、確かに何でも食べるから面白いので手当たり次第与えていたことを素直に反省した。トモダチがでかい犬を飼っていて、この犬はなあ、今まで一回も人を噛んだことがないんだ、でかいくせになあ、と言って笑ったので、手を出したらカプっと噛まれた。血がピュヤーと出た。私は苦笑いをした。友達は、1年たっても2年たっても、あの犬が人を噛んだのはおまえだけだ、はははと俺をあざけるのであった。母の弟が変な犬を飼っていた。どんなに親しみを込めても吠えるのだ。飼い主にも吠えるし、はっきりいって雑種の貧弱で醜い犬であった。この犬どうしたのと聞いたら、虐待されていた犬を2匹俺が引き取っただけだよ、ははは、と笑って、だからもう人間に慣れることはないからなと、また寂しそうに笑った。母の弟は兄弟の中で一人だけ浮いており、すぐ仕事をやめたり、結婚を何回もしている風来坊みたいな人だが妙に私とも気が合い、何だか冗談のように生きているが、優しいヤツなんだなと思う。何年かぶりに会ったら、いきなり、「お、昨日アラファト死んだな」と挨拶抜きに交わし、何年かぶりに親の葬式(私からはおじいちゃん)で会ったら、「お、暇やな、コーヒー飲みにいこか」とちょっとずらかったり、親が死んで悲しいはずなのに、一切親の話はせず、「先週、沖縄行って来てな」と話し始め、ぶらっと、家に寄ったら、昼間なのに「ビール飲もうや」といきなり飲み始めるし、何度目かもうよく分からん奥さんも出てきて、ビールを開けてくれた。イギリス人の義弟を連れて行ったら、彼を指差し「マリッジワンタイム」俺を指差し、「ツータイム」そして自分を指差し「スリータイム」と言って笑かせた。すかさず、「スリータイム」と言った瞬間に私は、「モア」といったのだが・・・。 2012 韓国、珍島、海が割れるのよ~ 日本→2回目のカンジャンシジャン gourmetの旅 ソウル→木浦 木浦の涙 木浦到着 韓国海沿いgourmetの旅(珍島や木浦) 珍島 海割れまで 珍島 海割れを歩き回る 珍島 海割れ個人旅行 珍島の夜 珍島犬 珍島の朝 珍島→日本
2012.03.17
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早朝、特に意味なく散歩する。風は冷たいが、いつもの大陸の風、島とはいえ、内陸部、湿気も少なく、日本と違う。ソウルと変わらない大陸の風が続いているという感じだ。人は、ほとんど歩いていない。土曜日ということもあろうが、朝からどこかに出かけようという人はいない模様だ。どこをどういう歩こうかというのは、特になかった。路地を歩き、学校にで、公民館を過ぎ、役所前に出て、広い道を通った。すれ違う人も少なく、静かな休日の朝という感じである、が、もしかしたら、平日もこうかも知れない。 散歩に出かけたとはいえ、結局、家(宿)から離れつつもあり、回りまわって宿に向かって帰るのが、目標だ。ガキの頃のあっち寄ってこっち戻って結局は家に帰って行ったという学校からの帰り道と同じだ。いや、宿に着き、帰る準備をしてバスと列車と飛行機とバスと電車を乗り継いで自宅に帰るのだ。いや、自宅に帰っても、また会社とか遊びとか野暮用とかに出かけては、結局は道草しながら死に向かって向かっていくのだ。よく死ぬことは、よく生きることだというではないか。いうのか?生まれたときは自分は泣いて、周りの人は笑っている。だから周りの人は泣いて、自分は笑って死んでいく、それが自然に戻っていく良い生き方だというのがインディアンの言い伝えにあるが、私は、生まれたときも泣かなかったらしく、既に目を開け、見えもしないのにきょろきょろしていたと母が言っていた。生きてから死ぬまでふらふらしてんだ。その一瞬に珍島があるんだ。思えば、インドのダーマンの駅まで向かう乗り合いタクシーで客が満席になるのを待っていたときに、これからバピ駅に30分程走って、そこから4時間列車に乗り、ムンバイに着き、空港に向かい、ダッカ、バンコクを経由して日本に向かうなんてマジックだ、と思った。韓国とはいえ、9時に宿を出て、自宅に着くのは夜の9時を過ぎる。ここの祭りは今年は4月上旬である。祭りは混むので、そんなに出かけないのだが、祭りは祭りの特殊性があって面白さがあるのだが、考えたら、世界3大カーニバルといわれるひとつの、ヴェネチアの仮面カーニバルには宿を取るのに苦労しながら、行った。ん、リオのカーニバルと、あとは?諸説いくらでもあるようだ。おお、個人日記なのに、脱線してしいそうだ、イカンイカン。まあ、それはそれとして、日本の一番の友はアメリカでも韓国でもなく、台湾である。そんな台湾を冷遇するなんて、なんて情けない国なんだ。私たちはなんて恥ずかしい人たちを政治家に選んでしまっているのでしょうか。 2012 韓国、珍島、海が割れるのよ~ 日本→2回目のカンジャンシジャン gourmetの旅 ソウル→木浦 木浦の涙 木浦到着 韓国海沿いgourmetの旅(珍島や木浦) 珍島 海割れまで 珍島 海割れを歩き回る 珍島 海割れ個人旅行 珍島の夜 珍島犬 珍島の朝 珍島→日本
2012.03.16
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ここが、島の中心部で実際、島の中心部であり、33000人あまりの人口の島の3分の1がこの周辺に住んでいるとのことだ。島と言っても韓国では3番目にでかい島である。3番目だが、本土と橋が架かったのは1980年代だ。(ちなみに日本の場合、ウキペディアによると、市となるべき普通地方公共団体の要件(市制要件)は地方自治法第8条に以下が示されている。・原則として人口5万人以上・中心市街地の戸数が全戸数の6割以上・商工業等の都市的業態に従事する世帯人口が全人口の6割以上・他に当該都道府県の条例で定める要件を満たしていること だが一度市になると、人口の減少などにより市の条件を満たせないようになっても、市のままでいることができる。まだ日本で、市になった都市が町村になったことはないが、分立により町村になったケースはある。ということである。まあ、そのぐらいの人口ではあるが、何とも想像しにくい。そんな訳で、飯を食った後、夜の町を歩くのであった。今年は韓国も大統領選挙、世界の強欲な国の多くがTOP交代だ。先日はプーチンがお約束どおり、大統領に返り咲き泣いていた。プーチンは北方領土返還に意欲的だが、そこまで子分のメドベージェフ首が邪魔しないかということだろうか。(それとも更迭されちまう?)アメリカでは、頑張って欲しいが暗殺されないかなあロンポールさん。この老人が大統領になったらどうなるのかそれは、頑張って欲しいものだ、とにかく、支配層が彼以外なら誰が大統領になってもいいといっているぐらいなのだから。老人が大統領になったらどうなるのか。結構、いい線いってて、もしかしたら、共和党の大統領候補に残れば、大統領になるかもしれない。まとめると、このリバタリアンの主張は、ざっとこんな感じだ。FRBの廃止、金本位制の復活、TPP反対、WTO脱退、NAFSA脱退、海外軍事基地撤退、海外軍事援助と経済援助廃止、海外との戦争中止、減税、政府の大企業優遇策反対、それからマリワナ解禁などだ。風任さん息子の将来気になる。まあ、そんな感じで、夜は更け行く(と思う)。それにしても、天童よしみの「海が割れるのよ~」は、サザンのツナミなどと同様、マスコミで流すのは自粛されるるんかいな(と思う)。 2012 韓国、珍島、海が割れるのよ~ 日本→2回目のカンジャンシジャン gourmetの旅 ソウル→木浦 木浦の涙 木浦到着 韓国海沿いgourmetの旅(珍島や木浦) 珍島 海割れまで 珍島 海割れを歩き回る 珍島 海割れ個人旅行 珍島の夜 珍島犬 珍島の朝 珍島→日本
2012.03.15
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17時、海割れ絶頂マイナス19センチ。珍島 個人での行き方はこちら。海が割れるまでの無駄な時間の使い方はこちら。観光バスで来ている観光客は、海割れを見に来たというより、実際は、潮干狩り昆布狩りである。懸命である。そして、17時、海はまだ割れていなかったのだが、少しずつ、引いているのが分かる。昆布採りの方々が遠方に行きつつあり、岩が多く見え始めるのであった。しかし、向こうの島までつながるのであろうか、あと1時間もない。2.8キロも離れているというのに。私も、岩わかめを採って食べてみる。17時半過ぎ、おお、遠くで陸が見え始めている。しかし、私は革靴であり、会社帰りであり、何かHPで見た長靴売りも出ていない。(祭りの日だけのようである)というか、韓国人、一人の海割れ観光客もいない。いる人は地元の昆布採り人か、観光で来た昆布&貝採り人だけである。モーゼのエジプト脱出のように、海が割れる!というのにである。しかし、革靴でモジモジして、もうぼーっと見て、バス探して帰るかと再びぼーっと見ていると、声を掛けられた。「日本からの方ですか~?」それは珍島市役所観光課にお勤めの唯一の日本人(というか、この島の人と結婚した人)であった。これを作ったりあるいは、知らなかったけど、海割れの日を教えてくれたHPを作っている人だった。(プリントアウトして持ってきていた)「田んぼ用長靴ありますよ~」偶然、明日団体客が来られるそうで、こちらに持ってきたようであった。大変ラッキーであった。「本当ですか!助かります」といいつつ、レンタル長靴に履き替えるのであった。スーツの上からですが、似合いますか。海が割れつつあり、18時前になりはじめ、このまま泣いて帰る予定が、急遽、海に入るのであった。やっぱり普段いいことをするものである。あ、いいことしたかな?既に、全員を抜き去り、先頭ランナーである。というか、皆さんは潮干狩りである。500メートルぐらい海を進む。結局、海割れを楽しんでいる韓国人0人、日本人私を含め4人。私に続いてやってくるのは日本人だけである。地獄耳の私は「あのおっさん、どこまで行くつもりやねん。もう既に100メートル以上先歩いとるやないか、テンション高いオッサンじゃ」と言っていた(と思う)。暫く10~20センチの海の深さの中を歩くと、あと2キロぐらいは道が続いていた。皆さん、アサリを採っていたが、偶然私はカキのような大きい2枚貝を採り、韓国人に上げると、感謝された。絶頂の18時10分を過ぎ、そろそろ戻る時間である。必死のパッチの潮干狩りの皆様も、そろそろ、戻るぞ、やばいぞー、みたいなことをリーダー格の人間たちが口々に叫び始めた。名残おしそうに、熊手の速度は増す。(何せ、深いところで6メートルぐらいの水深になっちゃうのである)急速に潮が満ち始め、塩の流れが逆になり始めた。まさに、みるみるうちにである。海が割れるのよー、道が出来るのよー、海の神様、カムサムニダー。コマッスムニダー。丘の上にあるピエールランデ公園。一本線が海割れして見えている陸である。ピエールは名のとおりフランス人であり、大使であり、東洋でモーゼの奇蹟を見た!と海外に喧伝しまくり、世界中で有名になったという次第。まあ、結局は、個人で勝手に来た訳ではあるが、結局は観光局の方や、その他いろんな方にお世話になりながら、スタックもせず(ちょっとバスが遅れたぐらい)、海を歩くことが出来、ありがとうございました。昆布は買いませんが、現地マッコリ買って、現地に泊まってお金を落として帰ります。祭りでない日でも、結局海に入ってなかった人を含めて海割れを見に来た観光客は韓国人0人。日本人6人(個人的に来た人)でした。あまり来ないんだねえ。長靴はドロドロになって、申し訳ございませんでした。おまけに観光局の人に、中心部まで送ってもらったのですが、報酬は珍島を広めてくださいということだったので、まあ、このHPで数名の方に紹介しておきます。(しかし、多分、検索、個人、珍島、行き方などで、今後割と検索されると思う。何せ、私の過去HPで検索度の高いページは、イスラエルの出入国に関してと済州島のラブランド、エロチカミュージアム、モルジブ個人旅行の仕方などであるのである、要はビデオが流行る要因を作ったえろと、旅行方法である。あと、何故か分からないが台湾のカオシュン(高雄)観光も多いのである。この意味は分からない。よく分からないが、珍島、若い人は来るのだろうか。そうえば、海に入ったときには風が止んだ。その時間、風は北から吹き、そのため、風は止んだが、海は完全に割れなかったようであった。まあ、それでも歩けた歩けた。まあ、幅は40メートルあるとはいうものの。まあ、こういうのを喜ぶのは、おっさんとはいえ、子供心なんかねえ。ちなみに祭りの日。もうちょっと暖かくなたらまた変わるみたいね。 2012 韓国、珍島、海が割れるのよ~ 日本→2回目のカンジャンシジャン gourmetの旅 ソウル→木浦 木浦の涙 木浦到着 韓国海沿いgourmetの旅(珍島や木浦) 珍島 海割れまで 珍島 海割れを歩き回る 珍島 海割れ個人旅行 珍島の夜 珍島犬 珍島の朝 珍島→日本
2012.03.14
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それにしても、パキスタンのバスは派手である。やりすぎであり、フィリピンのジプニー並みであった。 インドの街角で、世界地図を眺めていた。「ペシャワール」何だかいい響きの地名だ。カイバル峠の入口でもある。ここには絶対行くぞと、これからパキスタンに向かうことにした。 23時、ラホールを乗り合いバンは出発した。車体には「竹内商店」と住所が書かれていた。うとうとしているうちに朝8時前にペシャワールに到着し、馬車に乗り換えて、ホテルまで行く。 ホテルを一歩出ると、偶然、日本人2人に声を掛けられた。「あ、はっしし持ってませんか」と。私の顔を見るなり、安全なヤツと思ったのだろうか。アフガン産というのは、その筋の人には、有名な産地である。巨大な迷路状のバザールの中を歩き、直ぐに迷子となる。それも、果物筋、金物筋、履物筋と分かれているにも関わらず。ペシャワールでは、まだ一人も時勢を見ておらず、すべて男でごった返していた。久しぶりにスプリングの効いたベッドで寝たため、よく眠れた。翌日は金曜日で、昨日ごった返していたバザールも全て閉まっている。情報がなかっただけに、私は、カイバル峠の途中にあるアフガニスタンまでの国境ランディコータルまで行こうとした。電化製品や銃、麻薬などの禁制品が売られまくっているというのを昔読んだことがあったからだ。しかし、散々、バスを探したり、タクシーと交渉したが駄目であった。仕方なく、夕方にホテルに戻り不意に眠ってしまい、起きると自分がどこにいるかまったく分からないぐらいボケていた。すぐさま、ぼんやり街を散歩する。裸電気がおぼろげにあちこちを照らし、人々が蠢いている。ハンバーグを焼いている。ミルク入りカキ氷にドギツイ原色の甘い寒天のようなものをちりばめてシェイクしたものを食べる。時計を落とす。屋台で時計を買う(直ぐに動かなくなった)ホテルは、旧市街のバザールから便利なところにしていたが、最後は、かつてのヒッピーの溜まり場、GPOの前にあるカイバルホテルに移る。世界地図を開くと、ペシャワールから更に西に行けば、イランへ続く街クエッタがある。列車で直ぐかと思い、夜発の夜行列車に乗ると、朝起きると、ラホール駅に停車していた。あ、戻ってきてしまった。ベッドが木製で硬く、インドに比べて幅の狭い中、30時間かかり、難民キャンプが見え始め、クエッタに到着。車内からの風景は、砂埃と荒涼地帯であったが、クエッタは、それが街になっただけという感じである。10時にクエッタに着き、ツーリストホテルにチェックインする。なんか、変な日本人のおばちゃんが部屋を訪ねてきて、ドア越しに「私は、一人で旅行しているんです。ビールさえあればいいんです」と主張するだけして帰った。パキスタンとイランでは、アルコールは1滴もなかった。(探してなかっただけだけど)何もない街で1泊したあと、イランを目指す。安定した列車は週に2本で、明後日まで待つか、世界3大地獄バスといわれるこのルートをバスで行くか。あと2泊するより、バスでジャンピングしたらんかい、私は思ったのであった。
2012.03.13
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李舜臣像が見えてきたら珍島である。島の真ん中あたりが、島の中心であり、そのバス停から更にフェドン行きのバスに乗り換える。土葬のお墓が田畑の横に点在する。白菜をよく作っているようだ。海沿いということもあり、2階に根昆布を干しているご家庭もある。やがて島が2つ見えてくるが、その右側につながるようである。海が見えたと思えば、また山道を登って行ったりと、バスは進み、徐々に人は降りて行く。アーチ型ゲートが見え、ここか、と思うのだが、バスとか、個人で来た車が入るところなのか、降りるのを躊躇してたら、バスは更に走り始め、海岸沿いを離れ、山を登って行ったのである。そして、山を折り、左に曲がって海に出たので、降りた。ほぼ終点であろう。インフォメーションセンターも右に見え、乗客も全員(といっても島民1人)が降りたので、もうこれ以上先はないな、というか、折り返して戻っていくのだろうなと思いつつ、時間を見ると、4時であった。あの島までつながるというのだ。そのピークは本日は18時10分となっており、まだ2時間あり、まあ、割れ始めるには1時間はあるなあ、と思いながら、まだ誰もおらんな。まあ、海は年間に40日ぐらい割れるが(ほとんどが冬)、祭りでない日は、そんなに観光客もいないのかも知れない。インフォメーションセンターは、ずばり閉まっていた、というか、周辺に誰もいない。1件だけ半開きの店があったのだが、そこで暖を取ればよかったのだが、割れ始めるところに行けば、店もあるだろうと思いながら、風が吹いて寒いので、公衆便所で上下とも下着ヒートテクを着込む。ネクタイは外す。革靴は、足が冷たくなるが、まあ、それも、長靴を3000ウォンぐらいで買えると言う情報があったので、それで海に入るとする。民間バスを、観光バスが2台抜いていったので、どんどん観光バス来るぞと思いきや、2台の観光バスは止まり、それ以降バスはもう来なかった。そのバスも、韓国人ツアーバスで、きっと海割れを待っているのだろうと思った。早く着きすぎたのだろう。中には人が暖をとっていた。(しかし、それは、海われというより、潮干狩り昆布狩りツアーのようであった)これは、どこかで暖を取って控えるしかないと思い始め、ぶるぶる震えだす。ポンおばさん伝説ちゅうのを注意深く読むが、それでも2,3分もあれば終わり、どうしようか18時10分まで時間が限りなくあるように見えた。この地点から海が割れるのだが、そこにはまだ長靴売りも、海割れ待ち観光客もおらず、昆布売りのおばちゃんが数人座っていただけである。そうか、2時間近くあれば、まだ誰も来ないものなのか。海が割れるのよ~。さすがにここに1時間以上風に吹かれて待つと、猛烈に風邪をひくかもしれないので、更に歩いて店を探しに行く、がない。何もない。人もいない。唯一、海洋センター(珍島海洋生態館)のようなところの風除室部分が空いていたので入る。風がなくなると、寒くはない。ここで、30分程、意味なくぼーとしていようと心に固く誓う。中から職員さんが出てきて、何か御用ですかみたいなことを着てくるので、寒い寒い、と体をすぼめる格好を自分ながらに間抜けにジェスチャーしたら、分かったとうようなことをいい、また中に戻って行った。そして、今度は、暖かいコーヒーを持ってきてくれた。そして、ここで待っていても、バスは通らないよ、6時に仕事が終わるので、車で送ってあげようか、のような親切なことを言っていただくのだが、またもや私は、ゼスチャーで、海に向かって、引っ付けた両手を左右に分け「ミラクルシーを待ってます」というと、何となく分かってくれたようだ。さて、17時になり、海の割れる地点に戻ることにした。1時間ほど前からゆくり割れ始めるのではないかと邪推したのであった。 2012 韓国、珍島、海が割れるのよ~ 日本→2回目のカンジャンシジャン gourmetの旅 ソウル→木浦 木浦の涙 木浦到着 韓国海沿いgourmetの旅(珍島や木浦) 珍島 海割れまで 珍島 海割れを歩き回る 珍島 海割れ個人旅行 珍島の夜 珍島犬 珍島の朝 珍島→日本
2012.03.12
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地震から1年たちました。せめて、村山の時みたいに、もう俺には手に負えませんと、万歳すればまだマシだっただろうか。東電やマスコミも弊害になった。海が割れるのは、年にそんなになく、3年前から私もいこうとしてなかなか行けなかったところである。何せ、ズーパー普通のサラリーパーソンとしての私は毎年3月というのは、どうも厳しいのである。休みを取るのがである。それでも、会社から通達が出ていて、3末までに強制的に有給を消化せよという天命に、仕方なく従うのであった、というか、無理矢理、海に道が出現する日に併せて仕事のスケジュールを持っていくのである。まあ、そういう個人的事情は、まあどうでもいいのだが、仕事を終えというか、無理矢理強制終了し、空港に、背広のまま向かい(っていつもか)、ソウルに行くのである。 さて、いきなりであるが、木浦駅である。あのモッポの涙の木浦である。駅を降りると、構内には木浦を称える音楽が流れ、北朝鮮にはいっていないが、そんな感じの軍歌調の音楽である。元気が出るかといえば、すごく田舎に来た気分を倍増させてくれるのである。ソウルからKTXの特急列車である。9時20分発の12時35分着であり、まあおおまかにいえば3時間15分である。料金は大きな声では言えないが片道3000円弱である。大きな声ではいえるが、おおむね5時20分発を先頭に、21時40分までおおむね2時間おきに、1日11本である。まあ、老婆心ながら2012年3月のタイムテーブルでは、520、725、820、920、1055、1320、1520、1650、1820、2010、2140発の11本である。 木浦駅からバスターミナルまでは、結構離れている。歩いていくのは無理である。バスで550ウォンであり、まあ、そうだねえ、15分ぐらい乗っただろうか。帰りはタクシーの乗ったのだが、5000ウォンぐらいである。まあ、会社員なので、300円400円は、くるしゅうないのである。タクシーの運転手は、福島はどうですか、ってな感じで、やはり海沿いの町、魚はどうですか、ってな感じで、日本へのイカの輸出が増えていますてな感じのことを言っている。単語がいくつかと、何だか運転しながら手をぐるぐる回しているので、魚が回遊してんだな、とか、手振り言ったり来たりで輸出入かな、いうことが想像されただけで、単語3つぐらい(フクシマ、オジンオ=イカ、ムルコギ=魚ぐらい)と身振り手振りでここまで理解した(多分随分理解していない)のは素晴らしい。 まあ、それはそうとして、12時35分に木浦に到着して、バスに乗ってバスターミナルに着くと(バス停を降りて信号を渡り、バスの行ってしまった進行方向に50メートルぐらい歩いたところにバス停あり)、ちょうど13時10分のバスが出発したところで、次は13時50分である。自由席である。チケットでチンドー、あるいはジンドーと叫べば買えるのである。1日23本あるので、まあ30分に1本あるので、まあ、1本逃しても心配ないのである。しかし、ハングルだけなので、チケットとの文字あわせである。大きな声では言えないが6000ウォン1時間のバスである。ま、4,500円である。コーヒーを自動販売機で買い(300ウォン)、ぼさーっと待つのみである。長距離は席を選べるようであり、自動販売機でも買えるようであり、しばらく見ていたら近距離は席を選べないということが自動販売機でも判明するのであった。席を選んでいたのは、長距離便であることが分かり、ほっとする。5番からバスは出る訳である。バスが来たら、電気が点灯するシステムのようである。バスは、まあ、いわゆる満席での出発であった。(少し、故障で遅れた。バスが番線に入ってくるまで、外に出るなと係員に文句を言われるのである。バスが入って、人が押し寄せ、ほんの5分も停車しないうちに出発。)島に入って、10から5分、全部で1時間ぐらいで、珍島の中心のバスターミナルに到着するんどえあった。大富豪なので、タクシーで行ってもかまわないのであるが、ここは、海が割れるフェドンまで16時20分のバスで行くのである、料金はチケットを回収されたので忘れたが、2300ウォンであったであろう。とにかく、バスが到着すると、暫くしたらバスが来ることが判明した次第であるが、1日9本は心もとない。 バスは、田舎に帰る若い人間も数名含みながら、途中学校終わりのガキ共も多数乗ってきた次第。歩いてでもいけるかなーなんて甘い考えはまた無謀で、バスは、20分か30分ぐらい走ったような気がする。終点までいくと、島に渡る船もあった。ドドーンの1日4本である。島に行けば、海の割れているほんの1時間ぐらいに渡ってこちら側に辿り着けるという算段だ。(2.8キロにわたり海が割れるので、1時間程度で往復するのは、ちょっと厳しいのである)英語では、うーん、ミラクルシー。何だか厳しいな。ホテルは、まあ、行く前に予約サイトいろいろ検索したが、ネット予約できそうなところはなく、当日、まあ、おそらく、祭り以外なら大丈夫か、いや、祭りでもほとんど、ツアーなので、さくっと団体バスは帰ってしまうのであろう。珍島泊まる客は少なそうだ。宿は、まあ、たくさんある。温泉マークのところを行くだけだが、太平旅館はその中でも綺麗ということで、そこに泊まるが、行くと、スペシャルルームしかないよ、と一番高い部屋になる。料金は驚きの5万ウォン(まあ、3500円)。料金表には3万、4万、5万ウォンの部屋があった。勿論、宿帳もなんもなく、鍵をもらうだけ。何となく、その場で、先払いしておく。4階は不吉なのでFである、なんだか4レターワードのようである。オンドルが厳しく効いてそれなりにナイスである。それなりにいかがわしくてナイスである。珍島を勉強しながら、珍島産マッコリをグイギイ飲む。帰りは9時とか、9時40分とかのバスに乗れば、木浦に1時間後に着き、12時のKTXに乗れ、関空行きの最終飛行機には間に合う算段なのである。 肝心の海が割れる実況中継は、後日に譲るのである。 2012 韓国、珍島、海が割れるのよ~ 日本→2回目のカンジャンシジャン gourmetの旅 ソウル→木浦 木浦の涙 木浦到着 韓国海沿いgourmetの旅(珍島や木浦) 珍島 海割れまで 珍島 海割れを歩き回る 珍島 海割れ個人旅行 珍島の夜 珍島犬 珍島の朝 珍島→日本
2012.03.11
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学生時代、知人友人から一番に仕事を辞めるといわれていた私であるが、同じ業界を彷徨い続ける。というか、多くの人間が結局は転職とは言え、同じ業界を、特に年を取ればそうなってくる。アル相手と何年ぶりかに仕事をすることになった、といっても向こうの勤務先が変わっている。 これが、業界の中堅どころってやつか。今日も、たまたま一緒に仕事をした人が、同じような経緯を経て、同じ年で、何だか昼飯を食って同じようなものだなと笑ってしまった。でも、もう、中年、何も残してないけど次世代へ続いていく。 政治で言えば、自民党のような昔からの権力者は、余裕があるが、頭が固い。そして、偶然の権力者である民主党は、やっとつかんだ権力、見苦しいほどに手放したくない、変革改革を叫んでいても、いざ、権力を握るとそちらの維持がメインとなり、手放したくない。今後は、20代30代の未来の権力者を育てていかねばならないのに、食い散らかしている。20代30代が将来を担い、自民党や民主党には、まあ基盤だけは担保してあげ、安心して去ってもらう、そういうふうにいかないかねえ。企業も、今の大企業トップといえば、戦後、戦争に負けて、上層部が一掃されて、偶然繰り上がった若い奴らが権力を握って、大丈夫かよ、と思われながらそれなりにやった、というか、それが結果的によかったってことでしょ。老害を取り除いてくれたのだ、敗戦が。(でも使い物にならなくて、戻ってきたけど)官僚のおかげで、日本の経済成長があった、そりゃ、嘘だ。そんなのいなくたって、経済成長できたんだよな。
2012.03.10
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ラホールに入った。パキスタン、ラホールとな名前からして、勝手なイメージで古臭いイメージがあったのだが、街は緑の公園に囲まれていた。沙漠の民にとって、天国オアシスのイメージは緑だ。まるで、デリーにコンノートプレースのようだ。インドからいきなりイスラム一色の街に入った。実にイスラムである。ネパールと同様、外国製品の流入も見受けられる。マルボロもコカコーラもある。汗も滲む。ここも暑い。空気が悪く、オートリキシャーに乗ると風で眼が痛い。信号が町中に多くなり、大抵の人々が守っているのには、インドではないと実感できる。デリーで買った安物の布のクルタパジャマズボンの尻の部分が早速破れ、ミシン一台置いた道端のミシン屋台で直してもらう。とりあえず、作業は10秒程度で終わり、1ルピー出すと、断固として受け取りを拒まれた。何でも、金で解決しようとした自分が恥ずかしくなった。何故だか、そんな普通の光景を、好奇心いっぱいの人々は集まってジロジロみている。ラホール駅。駅前には宿屋が多く存在する。素朴な感じだと、思いながら、ラホールの宿は、YMCAとサルベーションアーミー以外は全部泥棒宿ということで有名だった。特に駅前のホテル群は、すべてやばいと、いうのは旅行者の間では有名な話であった。それで、私もYMCAに宿投となった。椅子とテーブルと箪笥があった。その配置は、フィリピンのセブ島のYMCAと同じであった。ラホールで2泊したが、よく分からないままに、この都会の何かに驚き、何かよく分からない感動もありながら、何かが残念な肝してくるという旅行特有のアンビバレントな感覚がモゾモゾと起こり、移動したくなってきた。 出発の前に、街を歩いていると、小さな女の子に「チノーチニー」と吐き捨てるように言われた。もう、私は「ノーノージャパニ」と言い返すことは辞めて久しかった。言い返すと、後味が悪いのだ。ここでは、インド北部と同じパンジャップ語圏内であるが、母語であるウルドゥ語も話される。噴水の前で、涼んでいたら12時前となり、帰る。帰る途中で、またズボンが破けた。内股で帰る。翌朝窓から注ぐ直射日光に耐え切れず9時に起床。目の前にある植民地時代に建てられたGPOに行くと、建物の前の道端には多くの代筆屋が座っていた。目の前には、インドネシアのコルトににた乗り合いタクシー。タクシーといっても日本車のバンであり、竹内商店横浜市・・・とか京浜何がし株式会社と書かれているままである。葉書を出した後は、鉄道の予約オフィスに明日の予約をしにいくが、明日はあいにく1等席しかなく、諦め、バスで行くことにして、バスステーションに行く。チケットは夕方に売るといわれて、やたら町中に警察が立っている中、歩いて戻ってくるが、途中、カラマンシージュースだの、ガバジュースだのサトウキビジュースだの立ち止まっては飲み、素直に乗り合いバンで帰ってくるほうが安くつく。それにしてもパキスタンのバスは派手すぎる。夕方、乗り合いタクシーで駅前のバスステーションに行くと、明日のいつ来ても良い、予約なんかないと言われ、また、歩いておおよその方向を定めて歩き出すが、午前中はバイク屋や家具屋やホテル街を通ったが、今度は鉄の部品ばかり売っている楽しくない通りを歩いてしまったが、やたら人出が多く前に進まない。途中、道端で無料給食があり、焼き飯の激辛のものをもらってそれを夕食としたあと、呼び止められた人と、少し肩身の狭いヒンドゥー教寺院に入り、見学してみる。ラホールの入ってからもう何度握手したことだろうか。知り合った人のバイクでイスラムフードを食べた後、YMCAまで送ってもらうと、宿の人が「気をつけろ、パキスタン人の友達を作るんじゃない」と警告されたのだが、人を信じないということは、難しいことなのだ。ベッドに寝そべり、アジアの象徴である天井ファンを見つめる。その後、彼が来た。日本に。
2012.03.08
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貨幣のない村に銀行がやってきました。1万円をお貸ししますので、1年後利子がついて1万100円返してくださいね。これで通貨を流通させてくださいね。村人は、ハイ、交換価値のあるお金、便利だね、とそれを受け入れました。1年後、銀行は1年たったので、利子つけて返してくださいね、とやって来た。そうだねえ、と村人は全部お金を返すことにした。あれれ、銀行さんよ、おたく1万円しかお金刷ってなくて、それしかくれてないじゃん。100円なんかどこにもないよ。印字するだけだ。 これ世界規模でおこっているとしたら、あれれ、誰かが架空の借金をするということだよね。インフレとかで誤魔化しても、誰かが借金をするということだよね、複雑化しているように見えているだけで。みーんな金返せいわない限り、分からないよね。それで、ただの紙切れで担保つけて、土地建物会社貴重品の財産を強奪するにむかっていく。国境は関係ない。人は、単なる数字だ。
2012.03.07
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不安のまま列車に乗る。1週間もデリーでぼやぼやした。 デリーからの夜行列車は、やがて涼しくなりつつあり、3時間程度眠ったら、朝となり、ジョードプル駅を降りると、ホームに原色の女性達に、目がくらむ。色が、本当にぶれていて、涙を流しながら風景を見ているように輪郭がぶれる。私は何ともいえず、この瞬間を見に来た、という感じになった。インドでは、こういった美しい瞬間が予期せず、不意に訪れることがある。夜明け過ぎに、涼しく、暖かいチャイをずたずたに破れた幌の下で飲む。ジョードプルからバスの乗る。暑さで死ぬかと思った。城壁内を歩いていると、土産物屋に声を掛けられ、あんなのどうだ、こんなのどうだ、と言われるが、何もいらない。すると、主が、取って置きのやつがあるぜ、これどうだ?とニヤニヤ奥から隠すように出してきたのが密造酒。そんなものいらない、目が潰れたらどうするんだ、吸えるようなものはないのかと聞くと、なんだそんなつまらないものいるのかと、ポイと寄こされた。それより、酒、これどうだよ。細密彫刻の家を出る。ゴールデンシティとはいうが、岩石で作られたモノトーンの街は、砂漠の中にポツンとある2万人都市で、そのオアシスぶりの立ち位置が面白い。帰りのジョードプル誰も起きない屋上。朝方ようやく涼しくなり、風が吹き、眠り始める。太陽が昇ってくるまで。マルキャー
2012.03.06
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2月初旬、過疎化が続くオールドニュータウンにあった40年間住んだ実家を売り払い、隣の駅近くに引越ししたので、見に行くことにした。駅から近いので、電車で向かう。 隣の駅は、小学校時代から高校時代にかけて塾や、買い物のために何度も寄った思い出の地でもあるような気がするが、まだ懐かしさはない。駅前は、震災前後の頃から再開発が始まり、随分様変わりした。商店街を歩いてみたが、まだ震災以降人口は減ったとはいえ、20万人以上の区であり、閑散感はなく、それなりに、ぎりぎり賑わっているかなあという感じである。しかし、神戸市のベッドタウンとして、高齢化は避けられず、この調子もいつまでも続くとは思えない。それは、全国的にいえる問題であろうが、そう見えてしまうのである。 そして、頭の中にある地図を頼りに、歩き出し、少し迷いながら新しい家に到着。途中、厄神さんがあり、挨拶をばしておく。 親父は、振り出した雪を見ていた。そして、一通り、案内され、快適となった生活に満悦しているようで、引越しで環境の変わったストレスのようなものはあまり感じられず、それはそれでよかったと思いながら、幾許のお祝い金を残して去るのであった。 駅前のダイエーはなくなり(2005年閉店)、業務スーパーになっていた。大学1年のときにダイエーの店の前で1日だけ、何かキンチョールとかそういうのを販売するバイトをして、「らっしゃいいらっしゃい」といいながら、何か、売りまくるのだが、たまに店長が出てきて、お金だけ確認して去っていくという奇妙な光景に、商売って大雑把なときもあるねんなあ、と思っていたら、高校の同級生でありながら、3年生卒業前になってから、まあまあ知り合いになった女の子が通りがかり、近況報告しながらも、何か彼女は蚊取り線香だか何だかを買って帰った。もしかしたら、適当振りに、3倍ぐらい多めに商品を渡したかも知れない。その後、居酒屋で偶然彼女を見かけてからは見ていない。「今日は二人で同窓会してんねん」ともう一人の女の子を指差した。彼女も高校の同級生でどうもと挨拶をした。何せ、私自身は大変大人しく、目立たない存在ではあったが、高校内では、さすがに、学年1位の成績では、誰もが嫌でも私の存在ぐらいは知っているという隠れた有名人であったことは、遠く大学生になったころに知るのであった。まあそれはいいとして、そのどうも、と会釈した女の子が2年後ぐらいに、電話してきて、何かいろいろ旅行行っているらしいですね、一度話聞かせてくださいな、と言われ、何だか、海外志向が目覚めたようで、一度話をすると、長い手紙が来て、留学するとか言って、結局、アメリカ人と結婚して、トイモさんの影響で海外に住むことになりましたということになって、そうなんだで、終わり。そうやって、あんまり関係ない人に、多大な影響を与えたり、与えられたりすることもあるんだよなあ。 昔行ったことのある喫茶店「ブラジル」も珍しく健在であった。何で入ったのかは覚えてはいないが、あって安心。浮き沈み厳しい本屋も1件は健在、嬉しくなちゃうじゃねえか。でも、他、思い出のある店はことごとくこの20年でない。昔ながらにありながら1回も言ってないところはいっぱい残っているのだろうが。よく行ったパン屋も金魚屋も毛糸屋もない。まあ、そんな感じ。
2012.03.05
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5時30分、バスは、国境の町ソウノリ着。飯を食ったり、歯ブラシ等の日用品を買い込み、僅かなネパールルピーを使い切る。7時、歩いてインド入国。バスは10時45分、ゴラクプールに到着。イミグレおっさんに難癖をつけられ賄賂攻撃される。懐かしいなあ。戦うことから始まるのインド。13時半、列車は出発。ラクナウに17時20分に到着し、暑くてイライラしている。22時ラクナウ発。7時40分ニューデリー駅着。1987年8月10日、一人旅が基本の大学生同級と奴隷2名は、インドのニューデリー、ボンベイロッジにて集合であった。しかし、8月10日にボンベイロッジに来たものは0人、律儀な後輩は、1人が1日遅れ、もう一人が2日遅れで、タイ経由カルカッタインにて、それぞれが、やってきた。しかし、中国チベットネパール経由で、陸路でやって来た私は、ほんのだが、1週間遅れただけだった。大学同級にも、偶然、カトマンドゥの安宿街を歩いているところを発見。一緒に、インドに下ってきたのであった。私は、彼がネパールにいることを事前に知っていた。チベットからネパールに入り、ボーダー付近で通過するものは記帳していかねばならなかったのだ。そこで、2,3日前に彼が通過していったことを偶然知ったのであった。ボンベイロッジには後輩奴隷2人の姿はもうなく、奴ら逃亡したのか、と思ったのだが、近くにある、当時の日本人溜まり場ホテル、ハニーゲストハウスに鍋を借りにいくと、奴隷二人は、ドミトリーベッドで眠っていた。彼らは、何ですか、やってきたんですね、遅刻ですねといったのだが、彼ら奴隷を再度引き連れボンベイロッジに戻ったのであった。別段、ボンベイロッジに義理があったわけではないのだが、シクのマスターが大変気さくな人であり、そこのサーバントが何とも愉快だったし、同輩と私は、屋上のペントハウスの部屋をあてがってくれたし、奴隷2人には窓のない部屋をあてがってくれたに過ぎないのであった。 しかし、窓のない部屋では煙の漏れていく箇所がなかなかなく、「おまえたち、フロントまで煙とニオイがくるではないか、屋上でやってくれ」といわれ、我々は毎日、屋上で、緊急ミーティングと称して、1日数回の緊急ミーティングが行われるのであった。勿論、議題は後回しである。
2012.03.04
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ホテルの窓から。 日本を出てから初めてズボンを洗う。インド大使館に行くが、月曜まで休みだ。インドと違い外国資本が入っており、冷たいスプライトを飲む。太鼓屋に入ってポコポコ鳴らしても、売り込もうとしない店主にインドとの違いを感じる。というより、何もかも違う中国からやって来たばかりの私は、相対的に、心底、資本主義っちゅうやつを気に入った。どこをどう歩いて、どう休んだのか不明だが、7時間ぐらい散歩をしていた。本屋では、これから始める旅に備えて、WEST ASIA ON SHOOSTRINGを買う。 それから、貸し自転車でボダナート行ったり、スワヤンブナートに行ったり、火葬場に行ったり、祭りに出かけたり、モモ食ったり、何だろう、意味なく気持ちよく毎日が過ぎていく。ポリタンク買う。ブレスレットも買う。毎日ホットシャワーも浴びている。ホテルの屋上からカトマンドゥを見る。人々は歩き、そして、みんな手ぶらだった。当時のカトマンドゥを一望。とにかく、毎日、部屋の外でも中でもフラフラしているうちに1週間以上が過ぎ、先を急ぐ。デリーで後輩たちとの待ち合わせにすでに1週間遅れている。バスに乗れ。
2012.03.03
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ローマは栄えてきた。今も、一応、大都市でもあり、イタリアの政治の中心ではある。しかし、世界で見れば、発展する注目都市ではないが、観光で世界中から人が集まる。サービスも悪く、ぼったくりやスリが多く、観光業にアグラをかいていると非難されながらも、過去の為政者、制圧者は、知らない間に未来投資をしていたのであった。放浪さんのいうように先見の目があったわけだ。未来の多くの人間を観光業で食わせ、今後も長年にわたり、食わしていく。そういう地力のある都市は、まさにローマは代表である。 自分や身内の為だけに豪華絢爛なものを造ったりして、民衆を圧迫したものは悪名を後世に残しつつも、それをネタに飯を食う土産物屋やタクシー、宿泊施設、食堂などの観光施設で庶民を何百年も潤すとは皮肉なものだ。 地理的条件もある。現在も大都市があり空港があるような都市か、その近くでアクセスがよくなければならない。昔はすごかっても、もう廃墟となったり、大変不便なとこにあったりすると、集客力は厳しいのである。まあ、それは、おいといて、ミケランジェロのことをメモっておこう。天才は変人の例に漏れず、サンピエトロ寺院もシスティーナ寺院の壁画も一人で作ろうとしたし、他人への批判はガンガンするため、一生残るような顔面パンチを受けて鼻が歪んだり、一日睡眠時間以外は仕事をし、飯も毎回パンとワインだけで、30過ぎるともう体調不良ボロボロ状態だったようだ。おまけに、メジチ家の気まぐれ作品納期に振り回され、やりたいこともできねえ!と一般的サラリーパーソンと同じようなことを天才にして愚痴ってたのであったそうだ。もう限界だ、死にたいを繰り返しつつ、仕事ばかりで飯もろくすっぽ食わず、ろくすっぽ寝なかったくせに、いつ死んでもおかしくない状態のまま何故か、90歳近くまで生きたのだから、人生って分かんないねえ。それか、神は、珍しく歴史に有用な人間を長生きさせたのか。
2012.03.02
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9時。中国最後の村、ザンムー(ダム)は、山にへばりついている。そこから国境を抜け、ネパール側の村コダリに向かう。道が決壊しているので、12キロ歩く。50キロ以上の荷物をバンドを頭にして歩く裸足のシェルパに抜かれまくる。しかし、コダリの村までは、交通機関がなかった。2ヶ月前の土砂崩れで車道が無くなっていたからなのだ。おまけに、大雨も降っており、崖崩れの後の岩の後を歩くが、岩の間にも水が流れていた。どうせならと、崩れた道を横断するだけでなく、道なき道を垂直に降りて行き、ショートカットもする。中国ネパールフレンドシップ橋。13時50分。ネパール最初の村、コダリ。ザンムーでは茶を飲み、ここではチャイを飲んだ。驚いた。時間も3時間以上20分時差で進んだ。思わずカレーも食べる。3杯も。コダリからバスが出ているかと思いきや、同じように道は切断されまくり、カトマンドゥ行バスは40キロ先であった。切断された端から切断された端まで偶然閉じ込められたトラックやタクシーは独占状況で、ピストン運転の繰り返し。まったく道がなくなっているところは、山道ができ、ポーターや動物が歩く。ポーターに荷物サービスはどうだと、何度も声を掛けられる。西洋人は、ザックを子供に2つ、3つと与え、歩かせている。子供は裸足だ。足の裏はカチカチで靴は必要ないのだが、誰か外国人にサイズの合わないぼろぼろの靴を貰ったのだろう、歩きにくそうに履きながら笑顔であった。要らない靴ないの?というのも裸足の子共ポーターによく聞かれた。ピストン運転でやってくるトラックを待っている。だいたい、進める距離は2,3キロ。そこまで行けば、また土砂で道がふさがれている。土砂崩れと土砂崩れの間の道にトラックや乗用車が閉じ込められてなかった場合には、歩くしかない。夕方になり、今日の泊まるところ。勿論宿屋ではない。交渉、5ルピーで民家に泊めさせていただく。電気は通ってないので夜になると、外は1歩先まで見えない。闇がすぐそこに。旅行者必携のヘッドランプをつけ、川沿いに行く。そしてヘッドランプを消す。南京虫にやられる。聞こえるのは虫と川の流れのみ。見えるのは怖いくらいの星の明かり。それはそれは、最高の野グソであった。今でも人生上、最上の野グソである。子供達はかわいい。どこか素直に見える。まさしく旅情。2日目5時40分出発。タクシーで17キロ進み、その後山や田のあぜ道を3時間歩く。温泉のあるタトパニを通過。その後2回トラックに乗り、歩き、バラビセを通過してから2時間半。ついに、道が続く地点に到着。道の端にバスが止まっていた。カトマンドゥ行きだ。あと70キロ。14時45分に出たバスは、バスの上にも人がいっぱいで、到着は19時半。時速20キロ。カトマンドゥはホットシャワーが出て、3泊4日の移動後、ここは天国じゃないかと思った。(実は、3週間ぶりのシャワー)資本主義に乾杯であった。マルクスは人間がついていけなかったことを見抜けなかったのか。飯を食いに行き、サービスがおせっかいに見え、ビールを買って帰り、3時就寝。最高に気持ちいい。
2012.03.01
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