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11世紀の町 私の上に見えるのは最近こぼれ落ちたしっくいのしたから壁画を発見、いま、学者達が保存しようとプロジェクトを始めた 11世紀、オリジナルの壁画
2018.07.28
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16世紀のまち、Trouvre. 祈る人あり
2018.07.28
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シャ~ロットのだんなのルイスの灰をまいた海辺にバラの花を投げに行く途中の町。辺鄙な場所でナチスの攻撃を免れた場所 花を投げてから、ごった返した海水浴場へ ブリタニアに来ると何時も食べるマッスル。今回はつぶ貝も
2018.07.28
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客が来るというのに、テ~ブルセットを始めたのは7時過ぎ やっと皆さんがやって来た。 まず最初に見えたのは 山田御夫妻。ミチコさんとアキトシさんは、フランスもう30年以上になり、お互いに、不思議な言葉を使っては笑ってしまうのだが、わたしが17年日本に帰らなかった時代がある。といったら、彼女は、30年帰ってなく、もう帰らないとの事。お二人とも画家で、色々話すとグレッグゃわたしの状態にもにていて、とても親しみを感じた。 まず、シャンパンと前菜で乾杯し、メロンから始まり、メインが出て、おわると、サラダ、チ~ズ、最後にデザートと、カフェに甘いものがついてくる。そしてその間、ワインを飲み 続けおわるのが12時過ぎ。9時には寝る私としては驚くべきタフさで、ビ~ル、赤ワイン、白ワイン、を沢山飲み良く笑い、しゃべり、寝たのは1時だった。 そしてまた、新しい日が始まるのだが、シャ~ロットが起きてきたのは昼過ぎ!
2018.07.25
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今夜は驚く人を招いてパ~ティをするから、まず買い物!と出かけました、 この街おぼえてる? と聞かれ、覚えてるわよ。ベティゃバ~ナ~ドのホテルで食事した事も、その息子と哲学を話したことも。 シャ~ロットは、10過ぎにおき、一日2食。私はお昼抜きはむりだからと、一人で昼食。彼女はカフェだけ。 ほら、40年前若い頃はエネルギーがあったから、あれこれしたわね。と、彼女が言うと隣に座っていた二人の若い男の子が、(今だって、二人とも若いじゃないか!)と言ったが、イタリアでも若い男が(貴方の目、大好き。でも結婚してるんだろうなあ。)とかこの婆さんにお世辞をいうので、笑ってしまう。 今では、彼女まで携帯に凝っている。 もと、この辺の殿様だった人の館は、市役所と公園になってるが、この街は16#17世紀に出来て未だにそこで生活してるから時代錯誤をおこす。 次に、ス~パ~に行った。30年くらい前からこのアイデアを、アメリカのス~パ~の主任にも広めてるのだが、カ~トはコインを入れないと取れないし、元に戻すとコインが戻るシステム。カリフォルニアでは、道のあちこちに置き去りする人がいるから真似すべき。 流石フランス、カマンベールのセクションだけでこんなにある。
2018.07.25
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一昨日まで、ちょいと動く度に汗かいていたのに、今朝起きたら17度ちょっとで湿度も低いらしく、肌はさらさら。 キッチンのコ~ナ~の棚も、リビングの花も、ゴ~ガンのプリントも、お金をかけずにチャ~ミングに飾る シャ~ロット、 前に来た時、蚤市に彼女も店をだすので手伝った事あるが、骨董品とイケアを上手くミックスしたインテリアは落ち着いている。
2018.07.24
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ここは、自動車も殆どこないし飛行機のおともしない辺鄙なノルマンディーの森の一部。聞こえるのは、鳥の鳴き声や、餌をねだるペットのポピーのなき声と、トイレを流す音くらい。 毎月曜は友達と森の町を12キロ歩くから一緒にこない?と言うので、ウォ~キング シュ~ズを出したら崖あり、川あり、 沼ありだから無理だと言われ断念。ではメディテーションをしようと思ったら、誰かがゲートをあけて入って来た。なんとかの塔の宗教の勧誘だった。 こんな片田舎までやってくるのだな?ついカリフォルニアを出る数日前に、日本人の女性二人が日本語で勧誘に来たばかりで、うんざり。 夕食は、ライスカレー見たいなものと、キ~シュ、サラダはチ~ズのまえに食べるのが習わしといった。 あれ?そうだったかな? 離婚後 グレッグに出逢う5年間は毎夏ここに来て使っていたフランス語も、今回は15年振りだったので、情けない程出てこない。グ~グル辞書に感謝。記憶が少しずつ戻ってきた。
2018.07.24
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イタリアで1泊し、のんびりと朝食をとり空港に向かいロ~マ経由でパリへ。どの国も税関チェック無し。パスポートに判もおさない。出口でシャ~ロットと、オレリアンがまっていて、三人で抱き合って子供のように、飛び跳ねて再会を喜んだ! オレリアンは3歳の時から知ってるが今回は可成長い事会ってなかったから、随分おじんになったと思った。私も婆さんになってるわけだからおあいこ。 彼が買った小さな4次元に入り込んだようなアパートに立ち寄り 先ずは腹ごしらえ。私のおごり!だったのだが、ハンバーグ、水、ワインで$100したのでおどろいた。 パリは、5年間夏になると遊びに来てたから見なくても良いので、そこから元は別荘だった家で、現在はシャ~ロットがすんでるノルマンディーに向かった。彼女の家は昔の豪農の家で、土地も大きい。 思い出がいっぱい詰まったこの家は、どちらにカメラをむけても絵になる。 私の好きな紅茶を良く覚えていてぬれ、朝食にはどうぞと言ってくれた。今朝は 12マイルのハイクに一緒に行くつもりだったが、かなり重いハイキングブ~ツが必要だと言われ断念した。 近所のダニエルと一緒に歩いてる間に、ブログを書くことにした。この辺は、国立公園の一部で川あり、崖あり、泥ありの森の中を歩くので、ただのスニーカーでは無理らしい。
2018.07.23
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(最後の日、泳ぎたい?ロビーニャにいきたい?♥)と聞かれ(ロビーニャ)と、即答。何度来ても楽しい港町だが、20年前のつもりでいったのが、失敗だった。港もわボ~トでいっぱい。駐車場は満杯、人の波、 どこにカメラを向けても 絵になるまち 夜は、私の奢りだから、何処のレストランでも選んでねといったら、海の上に突き出てるシ~フ~ドレストランを選んだ。素敵な眺めで、最高に新鮮な食材で美味しかった。
2018.07.22
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私の旅はツ~リストと違い、知人を訪ねるのが主なので、土地の人々の生活に紛れ込んで一緒に同行するかたち。無論ツ~ リストが行く所に行く事もある 今夜の食事の食材な買い物に行く途中、時計屋で電池をかえてもらったり、 バスの回数券を買ったり する。日本のスイカ見たいなカ~ド。 野菜、果物、 肉も、とくに魚はその朝取れたものばかり。戦争中に来た時は、悲惨なくらいなんでも、ガラガラで粗悪品ばかりの上誤魔化されたが、平和が戻って来たら 人々も正直になり、品物豊富で良いものが溢れてた 20年前に、ここの市長だったトニ~が、(あれ~ジュリーとヒロコじゃ無いですか?)と近ずいて来たのでおどろいた、グレッグと巡り会う前の5年間 毎年ヨ~ロッパに来てたので顔見知りがいるが20年振りだったからおどろいたわけだ。 街にはあちこちから、音楽が聞えてくる。この二人は民謡を奏でてた。 午後から、プラに来ると何時もあっていた、ドイツ人のフリ~ダ夫婦が海の家をかって、クロアチアとドイツに半々住んでるから、お昼に来いと招待状された。 素敵な家だった。昔は、キャンピングカー出来ていた。 夜は、オルガの、ユ~ゴスラビア風、ピ~マン 肉詰め私が 彼女から習ったのがお分かりだろうが、自然に、私のは私風の味になってるのがわかった。オルガの懐かしい味を楽しんだ。
2018.07.20
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あの雨はなんだったのだ?大雨がザンザン降って、ケロリと晴れたので 昨日は透き通るアドリア海で存分泳いだ。 砂浜はないので、石畳の上だが、マットを持っていくので座り心地は悪くない トウモロコシ売りが来た。 今朝も一人で散歩。コロシアムは、何度も見てるのでツ~リストの通らない路地を散策、フランツ ・カフカや、ジ~ン コクトウの訪問記念のベンチや、アグスタのテンプルに繋がる地下道などを歩いてみた。午後、また泳ぎに行こうと言う事になったが、今度のビ~チは、芋を洗うような混雑、その上石ころだらけで マット敷いてもゴツゴツであった。海水も濁っていたし、泳げる範囲が狭かった。 夕食後散歩に誘われたが、ベランダで夜景を楽しみながらブログを書く事にした
2018.07.19
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昨夜は、テニスマッチを見に行った子供達、けさはジュリーの息子のレッスン見学。暑いのにご苦労さまなこと。 オルガは、料理の名人、今日はシ~フ~ド オンパレード。 カラス貝に始まり、カラマリに、頭付きのさかな、何れも今朝取れたものばかり。昔の日本のように、その日のたべもよは、その日に買いにいくから、新鮮なものばかり 午後は泳ぐつもりだったが、急に雨!雨のないカリフォルニアに住む私は、慌ててカメラで、パチリ
2018.07.17
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このコロシアムはロ~マのより前に出来たものだがこの街では現在でも色々な行事に利用していて、今は 映画祭開催中である。 午後は、ジュリー1家の海の別荘のエアコン修理に出かけた。夏の間は イタリアやドイツからの客に貸している。クロアチアは7.8回目だが、今回は泊まれない。 庭には、沢山実をつけたイチジクや葡萄、ビワの木もある。 1988年に来た時は無かった浜辺が5キロな浜辺となっていた。
2018.07.17
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ドイツでフランツに(日曜日は、クロアチアとフランスのサッカー決定戦だから皆テレビにかじりつくよ)と言った。 前にパリでも経験してるのでその興奮度を知ってるか、ここでも、大変な騒ぎであった。 のんびりと、美味しいコ~ヒ~のあと、懐かしいダウンタウンをあるいたが何処も彼処も、赤白のチェックの旗、Tシャツ、帽子を売っていてその話しでもちきり、 オルガはいつも何か働いている。 2階に住んでるイネのおかあさんの79の誕生日だから一緒にいこうとさほわれた。イネは耳鼻咽喉科の医者、マ~ガレットは婦人科の医者で高校時代から親友。 お母さんは、朝から自分でシュウクリームを作りイネはカステラのようなものを作ったそうだ。兎に角 ヨ~ロッパの人は、良く飲みよく食べるから折角のダイエットも台無し。 テニスマッチが始まり重なるように、クロアチア対フランスのマッチが始まり家族全員テレビにくぎずけ。 残念ながらクロアチアはまけたが、夕方浜辺を歩きに行く途中のみちは、旗を振ったりクラクションを鳴らしっぱなしの、車でな工事だった
2018.07.16
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あさ、ミュンヘンの フランツ一家に別れをつげ、イタリアのトゥリエステに飛行機で一時間で到着。ロマナが迎え出てくれた 彼女の街をちょいと紹介してくれ クロアチアに向かうと、家族が迎え出てくれ、私の娘もどきのジュリーが目に涙を浮かべてハグハグ さっそく、パ~ティ場へ ジュリーの誕生祝い、ひと月おくれで一族や親友が集まった。大半の人を知っていたのでキスキス、ハグハグで凄いことになった。 オルガと私は姉妹と呼ぶ
2018.07.15
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朝ごはん ブルーが私のひざに頭を乗せるのは、私が食べてる間だけ フランツのアトリエの壁には、沢山の記事や写真がかざってある 彼のデザインした眼鏡のフレ~ムが、流行った時代の名残り 夜は、彼も混ぜた6人展覧会に、ヨランダの娘もやってきた。 展示場に犬?考えられない
2018.07.14
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今日はヒットラ~が住んでいた建物、こよなく愛した劇場と、悪魔が甚大な犠牲者をつくった歴史を見学しよう。と、先ず連れてってくれたのが ダカウ収容所、数多くの命が消え去った地獄の修羅場が今では一見平和に見えるのどかな場所。写してきたが見せたくないものは公開しないが、頭の中は真っ白っったのに出て来る頃はかなり重くなっていた ガスシャワーの部屋とは知らずに入った時に、体中が寒く感じたのは何だったのか。 この建物の2階全部をヒットラ~が使っていた、どうせ家賃などはらわなかったろう!と、フランツが苦々しくいった、 ヒットラ~がかょった劇場
2018.07.14
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ヨランダと モデルをやってる息子のオスカーと、フランツの画廊でパチリ お城を見たいかいと聞かれて、いつ?と聞くと、今すぐ!と、その場で車に乗って100キロ。 工事中で、三日前から予約らしい ちょっとお腹すいたねと立ち寄ったビストロで [rblog-img-01] [rblog-img-09]スナック [rblog-img-00]
2018.07.13
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マッスル・ムル・カラス貝I don’t have time to write this morning, so I’ll show you what I made for dinner last night. When I go to France, my friend and I go to a fishing village by the Bretagne coast. I always order “Des Mulls”, or Mussels. I’m pretty good at recreating the dish. Last night I served this with garlic bread and Brussels sprouts。今朝は書く時間がないので、昨夜の夕食に何をつくったかご披露します。フランスに行くと友達とブリタニア・コーストの漁村にいくのですが、いつもカラス貝を注文します。この味の真似をするのが結構上手になってきました。昨夜はこれと、一緒にガーリック・ブレッドをつけ、メキャベツを添えて出しました。オンフラーという漁村(数年前です)三回くらい行ってますが、何度でも行きたい場所です。ベティーと一緒に。彼女はちいさいホテルを経営していたことがあります。題二巻に出てくる「とっておきの話」のホテルですが、シェフでもあります。昨夜の写真 [エッ!もうアメリカに41年!]第二巻【とっておきの話から】何ヶ月かが過ぎ、その兵隊の傷も癒えていましたが、同時にこの若い二人は恋に陥ってしまっていたのです。でも、その内にその兵隊は村人に見つかって、殺されてしまいました。終戦の一歩手前でした。 嘆き悲しむ娘は、「敵を匿っていた」と言う事で、村八分にされ、路頭をさまよいました。彼女の体内には赤ん坊が宿っていたのです
2007.02.21
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友情に国境はない(アイルランド・最終編)「マム、帰る前にマアテンの大学見ていって」ジュリーとだんなのマアテンは二人とも音楽博士なんですが、ジュリーは今母親業で忙しいので、マアテンが大学の教授をして、ジュリーは週に数時間ピアノを教えてます。最後の日は、夜の7時半に出発だったので、昼間は家族全員で散歩かたがた、大学や園芸ガーデンによって、お茶の時間にカフェでスコーンを食べながらお茶を飲みました。 ベルファーストは、小さな町で、ジュリーたちは車が無いけどどこでもバス、タクシーと徒歩でOK。また、その散歩道も素敵で、桜並木があるのにはびっくりしました。サクランボはならないのですが、オーナメンタル・チェリーといって、花はどっさりついてます。ガーデンには、ありとあらゆる色のチューリップが咲いてました。 かくして、私のアイルランドの旅は幕をとじます。今度は又いつあえるか分かりませんが、私はその時その時を、精一杯に楽しむのが上手なので、悔いが無い旅でした。 昔ボランティアーとして、何度か、よその国の子供のホストマザーとなった事が、このように面白い人生を作ってくれると同時に友情には国境はないことを教えてくれました。政治家が話し合いをするより、よっぽど世界平和の手助けとなっている筈です。貴方がたも将来チャンスさえあったら、交換学生のホストとなって見てください。楽しみながら平和の使節になるのです。 ↓マアテンが教えてる大学。ケンブリッジをまねして建てたそうです。毎回ポチと押してくださると書くエネルギーになります。たまごっち・みたいなもんです・・・・感謝!人気blogランキングへ
2006.05.19
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つり橋(アイルランド・5) 子供の頃、つり橋が上下左右に揺れるのが怖くて何度もチャレンジしたことがありますが、体ごとばねをつけたように歩けば良いのだと発見してそれからは、走ってでも渡れるようになった思い出があります。キャリッカ・リードゥのつり橋は絶壁にありますから、高僧恐怖症の人には無理です。「マムはカリフォルニアから青い空を持ってきたのね。マムが来る前の日まで、雨が降り続けて冬みたいだったのよ。こんな暖かで青空なんて久し振り」とジュリーが言ったように、私の滞在中は良いお天気で半袖でした。でも北アイルランドは、さすがにジャケットや襟巻きが必要な寒さです。 この日も、晴天で景色がよく見えました。吸い込まれるような紺碧の海をバックグランドに、高山植物がかわいらしく咲いています。ここは、国立公園ですから、きっと今後もこのままの姿が見られるでしょう。 日本の中年のカップルに出会いましたが、彼女はロングスカートをはいてました。坂の上り下りには歩きづらいだろうなあ、と同情しました。毎回ポチと押してくださると書くエネルギーになります。たまごっち・みたいなもんです・・・・感謝!人気blogランキングへ
2006.05.18
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世界八不思議 世界の七不思議でなく、八不思議のひとつがアイルランドの北の方にあるのですが、そこにオルガと二人でバス旅行をして来ました。 Giant‘s Causeway:ジャイアンツコーズウェイという海岸に何万と言うおなじ太さの石柱が立っています。何十億年前に火山の爆発で出来たものですが、古い言い伝えでは「フィン・マッククールと言うアイリッシュの巨人が、スコットランドと戦うために歩いて行けるように道をつくろうとしたのだ」との事。 波が押し寄せる場所は削られて段々平たくなって来ているので、タイルの床みたいなのです。しかも一つ一つが六角形なんです。まるで、型にはめて作ったように、サイズもほぼ同じ。驚いたことに、真ん中の丸い石を囲むパターンをあちこちで見ました。溶岩がどうしたら、このように同じ太さの六角形の石柱になるのでしょうね。どう考えても不思議でしょ? 山の中腹にも、天辺にもやはり何千本と立っていたり埋まっていたりするのです。六枚目の写真にオルガが写ってますが、その石柱を見てください。大体同じ間隔でヒビが入っているのでのみでコンコンと叩いたら六角形の同じ大きさの敷石が出来そうです。毎回ポチと押してくださると書くエネルギーになります。たまごっち・みたいなもんです・・・・感謝!人気blogランキングへ
2006.05.17
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破壊された町(アイルランド・3) 「ベルファーストに行ったら、あの内乱のあったところを見て来いよ」と、グレッグに言われていたので、彼への土産にベルファーストのツアーに行ってきました。 カトリックと、プロテスタントがぶつかり合った所にイギリスまでがちょっかいを出して長い間お互いを破壊し合い、めちゃめちゃになった町も、徐々に復活してきましたが、まだ傷跡が、あちこちに残っていました。 こういう争いで誰が一番の犠牲になるかと言うと自分達なんです。それも、特に貧乏な人たち、子供達や老人教養もない人達。宗教の喧嘩、しかも同じキリストを信ずる人間の争い・・・・なんと虚しいことでしょう。 まだまだ、ガレキの教会やらワイヤーフェンスに囲まれた工場などが残っていましたが、戦争とか、戦いは天に向かってツバをはいてるようなもんで、無駄なエネルギーを使い、尊い人命をなくし自分達の血と汗の賜物をアッと言う間になくしてしまうのです。(アメリカだって同じことしてる・・・ブツブツ) 毎回ポチと押してくださると書くエネルギーになります。たまごっち・みたいなもんです・・・・感謝!人気blogランキングへ
2006.05.16
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オルガとの再会(アイルランド・2) ほんのちょっと会っただけで気が会っちゃう人っているでしょう?オルガが、ずばりそう言う人なんです。1986年にジュリーを一年預かった時には、まさかこの子の家族と一生付き合うことになるとは、夢にも思っていなかったのですが、ジュリーがユーゴスラビアに帰国してからも私は毎年のように会いにいってました。 そのうちに内乱が始まって、旅も途絶えてしまったのですが戦争中も、ちょっと静かになった時に、私は食料品や衣料品をいっぱいかかえて行ったのですよ。戦争を経験してる私にはそれがどういう意味か良くわかってましたからね。(詳しい事は、私の「エッ!もうアメリカに40年!」を読んでください) そのうちにグレッグと一緒になったのでヨーロッパにはあまり出かけなくなってしまったのですが、ジュリーの結婚式にエジンバラまで出かけたのが5年前なんです。 ユーゴスラビアは内乱後にまた、昔の6っの国に戻ったのでオルガの町は、いまでは、クロアチアと呼んでいますが、未だに経済困難で国民は貧富の差も大きく苦労をしています。それで、オルガは時々イタリアのベロナと言う町で、体の不自由な人のヘルパーをして小遣い稼ぎをしています。2月の末に少ない収入なのに、そのベロナから電話をしてきました。「ハッピーバースデー・ヒロ~コ。又若くなったわね~。いつ、プラ(彼女の住む町)に来るの?親戚も、顔をあわせるたびに、ヒロコはいつくるのって、聞くのよ。早く来てよ」と言うのです。それで、ジュリーの双子も来月で二歳になってしまうから、急いでいかないと、大きくなってしまう!と思ったのです。でも、今はグレッグをサポートしているので、先立つものがありません。所が上手く出来たもので、飛行機のマイレージ・カードを見たら、ロンドンまで往復できるだけあったので行くことに決めたのです。ジュリーは、私がついた翌日オルガが着くように計らってくれたので、再会できたのです。「カコシ!ドラーゴ・モヤ・セストラ・ヒローコ!」と、ハグ、ハグ!感激でしたよ!★★訂正事項Luisaルイサのことを、昨日はエリサと書いてましたね。やっぱり、時差ぼけだったんだ。何を考えていたのだろう?オルガとは、一生の友達です。ヨーロッパでは、カフェーに行くのが習慣です。お茶の時間ですね。こぎれいなモールがありました。毎回ポチと押してくださると書くエネルギーになります。たまごっち・みたいなもんです・・・・感謝!人気blogランキングへクリックで、私のデジブック・サイトにとびます
2006.05.16
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アイルランドからただいま! 14日の午後(日本時間の15日朝)アイルランドの旅から帰ってきました。留守中、タマゴッチのお守りをしてくださって、ありがとうございます。ちょっと、やせたようですがおかげ様で生きてました。あはははは! 私の本の代一巻の最後の部に、交換学生として一年預かったユーゴスラビアの娘ジュリーと、その一家との友情のエッセイを書きましたが、もう20年の付き合いになります。最後に会ったのが、スコットランドのエジンバラでの結婚式の時ですから5年も過ぎていました。時のたつのは早いですね。 ジュリーが男女の双子を生んだのですが、もう来月で二歳になります。余り大きくならないうちに是非あっておきたかったのですが、なかなかチャンスが無かったので無理にチャンスを作っちゃいました。双子でもステファンはエリサより一回り大きく、何でも食べ、エリサは可なり好き嫌いがはげしく、性格もかなり違うので興味深いです。ジュリーが私の写真を額に入れて「これが、ヒロコよ、ヒロコおばあちゃんが来るのよ」と毎日子供達に見せていたらしく、私を見たとき、「オコ」「オコ」と呼んでました。 エリサは自分のことを「リサ」ステファンのことを「イアム」とよんでいるので、ステファンも真似して自分のことを「イアム」とよんでます。ステファンは、早速、私の土産にかじりついてます。ルイサは、近頃すぐ泣くくせがついて~~、とジュリーママが文句を言ってましたが、泣くとすぐ抱くから何時までもなおりません。何処に行くのも、何をするのも同じに取り扱わないと喧嘩になるからくたびれるそうです。この写真を毎日みせて、私を覚えさせていたみたいです。おかげで二日目からは抱っこさせてくれました。毎回ポチと押してくださると書くエネルギーになります。たまごっち・みたいなもんです・・・・感謝!人気blogランキングへ↓クリックで、私のデジブック・サイトにとびます
2006.05.15
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もう、20年も前の写真ですが、ドイツの画家のともだちです。赤いティーシャツが、フランツですが、絵でなくサングラスのデザインで一躍有名になり、カラヤンの住んでいたお城のような家に住んでいるとききました。(その・3) ドイツでは、画家の友達の家に何泊かしたから、お礼に夕食につれて行きたいといったら、寿司が食べたいというので、日本レストランにつれていったのです。皆に「M」が一番いいよと、すすめられ、ミュンヘンでは名の知れた「M」(昔の日本の大スターの店です)という寿司やにいったのです。店内のデザインは渋いし、従業員も殆ど日本人で<なかなかヨロシイ>と思ったのですが、いざカウンターに座って、お絞りで手を拭いて、出てきた酢の物を食べ、「マグロを下さい」と注文したら、「先に注文して下さい」と板前さんが言うのです。「はい、ですからマグロをお願いします」「違いますよ、先に注文してくれなかったらこまります」って、イライラした顔で言ったので、こっちもこまってしまって、「じゃ、もう一度言います。マグロの握りをお願いします」「お客さん、あのね、さっきから言ってるでしょう?先ず初めにオーダーしてもらわないと、何回いわれても出せませんよ。ウェートレスに注文して下さい」 かれは、後ろに兵隊のように姿勢よく並んでるウェートレスと、ウェイターを包丁で指しました。<なんだ?、これ、へんな店>と思ってると、ウェイターが来ました。「はい、ご注文をお受けします」 「いちいち、あなたに言ってから、彼がにぎるの?」「はい、先にご注文を。。。」「じゃ、マグロ、フランツは、何にするの?」って、友達をみました。「僕もマグロ」「え、それで、何個で?」「え?普通、2カンで一組になってるけど、昔から。。。」「いえ、当店では、一個、とか、二個とか指定していただかないと」「じゃ、四個」「以上で?」「以上って、まだ食べるわよ」「じゃ、先に全部、ご注文を。。。」 ウェイターは、手に持ってるエンピツで伝票をカチカチならして、もうじれったい顔をしてたのです。「あなたね、カウンターで食べる理由ってのは、一つずつ注文する楽しみがあるからでしょう?先に注文するなら、何もカウンターに座ることないわ、食堂の方だっていいじゃないの?大体、何個食べられるかなんて、食べださなければ分らないわよ。飲むつもりだし」 私は日本語ですからフランツが、横で、ナンダナンダ、と、聞いてます。「はい、でもこれが、当店の方針なので。。。」「じゃ、マグロを四個、ハマチを二個」「ハマチは、ございません」「あ、そう、じゃ、みる貝二個に、うにを二個」 わたしは、目の前のメニューをみながらいいました。「それも、ございません」「じゃ、何があるの?」「メニューの方をどうぞ」「これ、メニューじゃないの?」目の前においてあるすしの写真がのってるものを指しました。「いえ、それは、ビール会社が勝ってに置いていったもので、当店のではありません」 もう腹がたってきたので、出ちゃおうって、二人で目配せして、「じゃ、もう、結構です」「アイン、ツバイン、ドゥライ!」 わたしは、掛け声をかけて、パーッと逃げ出しちゃったのです。カウンターを離れるとき、フランツは、わるがって何がしかのチップを置いてたみたいですけど。。。「まるで、コメディーの映画の主人公みたいね」ってもう二人で大笑い。 でも、メキシコではもっとひどかったのです・・・・・(続く)
2005.05.15
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昨日の写真のすし屋にいく途中にある教会 (その・2) 離婚してからグレッグにめぐり合うまでの、毎夏3ヶ月は、パリとかユーゴスラビアにいたのですが、ともだちのアパートにいて昼間はひとりだったので、まいにち散歩で、面白半分にあちこちのすし屋を、探しまわりました。どこでも日本語のメニューや看板があって、内装も日本人の店だとばかり思って入っていくのですが、ラテン・コーターの近所にあったすし屋にはいったら、おすしをお醤油につけたとたんに、パラパラくずれちゃったのでスプーンで食べました。きゃはははは!そこは、ベトナム系の人の店で細長いくっつかない米をつかっていたのです。 もう一軒のシャトレーという駅のそばにあった簡易すし屋では、燻製の鮭と、ピクルスのニシンと太巻きだけだったんです。それでも、パリジャンは、寿司をたべてる気分だったのですね。ま、それから10年たちましたから、今ではパリジャンのなかにも、つうがいますがね・・・・ 10年のうちにどのくらい変わったかなと、去年(2004)ウクライナに息子の結婚式に行ったとき、二週間ちかくフランスにいたのですが、ずっとノルマンディーの、友だちの別荘でのんびりしていました。 ウクライナに飛び立つまえの二日だけパリにもどってきて凱旋門近くのホテルにとまっていて、散歩の途中、コンコルド・ラファイエット・ホテルのそばにある「天慶しなの」という店のまえをとおりかかったのです。でもまえの経験から日本人のシェフ以外はいきたくなかったので、どうしようと思いました。まさか、「あなた日本人ですか」などと聞くのはしつれいですからね。 開店30分まえで支度中なのでなかをのぞいていると、「あ、まだなんですよ~、すみませんねぇ~」とマスターがカウンターのうしろでどなったので、本物の日本人だと知って安心しました。そういうわけで、今回は本物の寿司をたべたんです。美味しかったので二晩つづけていきましたが、値段はカリフォルニアの約3割り増しでした。 ま、これらの経験はごあいきょうですが・・・・・・ドイツでは・・・・(続く)◎◎ジョー・グラントのお葬式にいってきました。教会は満員で、入れない人がおおぜいいました。そのはなしは、またのきかいに。
2005.05.15
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パリ、凱旋門の近くにある「天慶・しなの」という日本人けいえいのおすし屋さんで2004年の夏です。 わたしは戦後の貧しい時代の日本で育ったので、幸せの対象といってもかわいらしいものでした。「食べたい時に、好きなだけお寿司がたべられて、バブル・バスに毎日入れたら幸せ~」という程度だったのです。 何しろ、本物のお寿司なんて、めったな事では、口に入りませんでしたからね。自家製のチラシの他には、たまに大事な訪問客が来た時、ちょこっとオコボレをいただくって、程度でした。 自分で働き出しても、月給なんて微々たるものでしたから、そうめったには行けませんでした。ですから、宝石も、ブランド品も、幸せの対象にはなりませんが、入りたいときに、洋式バスタブにあわをブクブクさせる事もできるし、行きたい時におすし屋に行けるようになった今、幸せにひたっているのです。 でも、その寿司狂の為に、あちこちで失敗をやらかしてるので、その沢山ある思い出のなかから、日本や外国のおすし屋さんの経験をいくつか書いてみます。 世間知らずの頃でした。一度、東京の銀座のおすし屋で、カウンターにすわった時のことです。「どこにも、値段が書いてないわね~」まだ、二つくらい注文して、ともだちと話しました。「うん、じゃ、もう一つたのんで終わりにしよう」と本当に2,3種類のお寿司を食べただけなのに、6千円だっていうじゃないですか。それも、40年以上も前のことで、大学卒の従兄弟が外資系の会社に勤めていて、高給取りの月給が2万円の頃で6千円なんてとてつもない金額でしたからね。幸い、友達と合わせてその位あったので払えましたが、おかげで宝塚のショーも、買い物もあきらめなければなりませんでした。 もう一つは、カウンターに座ったとたんに怒鳴り声をきいて、食べ終わるまでオロオロした経験があります。何で、こんなに怒鳴られる所で人が並んでるのだろうと思ったら、そこは、そこの主人が怒鳴るので、有名だったらしいのです。 ある男性の客が座って、「今日、美味しいのなに?」と聞いた途端にその主人が爆発して、「なんだって~こんにゃろ~。今日おいしいだ?おれんとか~、いつだって、うめ~んだよ~。そんな事聞くやつに食わせられっか!とっとと出ていきゃ~がれ!」ってなあんばいなんです。 私は怒鳴られませんでしたが、いくらネタが良いと言っても、私は、怒鳴られて、あやまって、お金払うなんて全くあほらしいと思って、ちょこっと食べてでちゃいました。 それから、ヨーロッパと、メキシコの寿司屋ね。これまた、曲者です。(続く)◎◎あなたも、かわった経験おありですか?◎◎ジョーのお葬式にいくので、明日の更新は半日おそくなります。。。。
2005.05.13
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アムステルダムの、ゴッホ美術館でみた靴では、ありませんが、これも、ゴッホの絵です。私がみたのは、ブーツです。(後編) 美術館は日本のように(これ以上近付かないでください)とかいうさかえもなく、もう身近に作品が見られたのです。行列の横っちょで、イギリス人らしい5,6歳の女の子が、お母さんのスカートを引っ張って、「ネー、ママー、もう、いこうよ~。つまんな~い」って言ってます。「我慢しなさい、まだまだ見終わってないから。ほら、あなたも見なさい。これは有名な絵なのよ。世界中から見に来るんだから、凄い絵なのよ」「そんな、汚らしいブーツが、なんで有名なの?そんなの、世界中から見に来るなんてバカみたい!」って言ったので、周りの見学者からも笑いがもれました。そして、裸の王様の話みたいだと思って、その子に相槌(あいづち)するようにニタリと笑いかけました。 意味も教えないで、「有名な絵だから見なさい」って言うような母親に対する、幼児の的確な答えだったからです。「この絵は凄く高くて、私達なんかじゃ一生買えないんだから、よく見ときなさい」「私だったら、もっと、きれいに描ける!」と、そのこが言いました。 その時、<母親の説明いかんで子供の態度がこうも違うものなんだ>と、私がその子位だった時のことを思い出しました。もちろん絵に興味ある無しは、その子によりけりでしょうが、説明のし方で、子供の態度も少しは変わると思ったのです。 私の母は金銭的でない物の価値を教えてくれました。その絵や歌にまつわる物語を、子供にわかるように説明してくれたから、私にも、一つ、一つものごとを見る理由や価値が見えてくるようになったんです。母のやり方は、子供に深く考えさせる教え方でした。 考えてみれば、私は、母が19歳の時の子ですから、母は、24,5歳だったんですね。しかも高校しかでていません。洋の東西を問わず、現代そのくらいの歳の母親で、そこまで説明出来る人って、一体何人位いるだろうかと思ってます。そして、あらためて素晴らしい母親を持った幸せをしみじみと、感じたのです。(おわり)◎◎私の本を読んでくださったかたは、もうごぞんじですよね。母は絵描きになり たかった人ですから、絵の事はくわしかったのです。「歌をわすれたカナリ ヤ」 の話しもごぞんじですよね。すべてが、このような教え方でしたよ。◎◎私の母は自称「めだちたがりやさん」だったので、大勢の方がよんでくださる 場所をえらんで載せました。 ******** これは、わたしから、あちらがわにいる母へ「おか~ま!ありがとう!母の日にささげま~す!あちらの国からでもみえるでしょ~?大勢の方がよんでくださってるわよ~」
2005.05.08
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◎◎日本は今日「母の日」ですが、アメリカは明日ですので、前後にわけて 今は、いない母の育て方をご披露します。恐らく、私の子供のそだてかた は、ここから来たものと思われます。 2,3年前に買ったゴッホの本です。 戦後、青山にあった祖母の家の地下室に焼け残ったものの中で、めぼしいものは全部ぬすまれてたらしいですが、大きな分厚い英語の辞典と、同じ大きさのバン・ゴッホの本だけはのこっていました。両方とも全部英語だったことが幸いしたのかもしれませんが、それは祖母の兄にあたる大叔父が明治時代にアメリカに留学したときに持ち帰ったものでした。 その本は疎開さきを我々と一緒にテンテンとしました。小さい頃からその本が好きで、暇さえあれば、じぶんの体重くらいありそうなそのゴッホの本を抱えて、何時間でも眺めていたのを覚えてます。かいてある意味は、わらなくても、絵だけは全部覚えていて、大人になってからもゴッホの絵だけは、直ぐわかりました。「これ顔に包帯してる。歯医者に行ったのかな~」「あのね、自分の耳をチョン切ってね、それで、包帯してるの」「なんで、耳をチョン切ったの?」「女の人に愛の証として、あげたんだって」「そんなの、もらったら、きゃ~って逃げちゃう」「その、女の人も、逃げちゃったわ」「ゴッホって、普通じゃないね」「そう、それでね、精神病院にいれられたの。で、その時に描いた絵がこれよ」と、スターリー・ナイト、とか、糸杉の絵を見せてくれたのです。「星って、これ、グルグル巻いてるね」「星ってね、一箇所にジットしてないでしょ?その動きを描いたんじゃないのかな~」「どして、こんなに、汚いブーツを描くの?」「絵ってね、きれいな物だけを描くってわけじゃないの。その人の心とかね、生活を表す事も描くのよ。この影の色の使い方を見て御覧なさい。この絵の具の使い方を見て御覧なさい」 やがて、疎開さきから東京に戻ってきた時、ご近所の足立さんという方の息子さんが、芸大に入ったと聞いた母は、惜しげもなくそのゴッホの本をあげてしまったのです。私は、もう十五、六歳になっていたから、良い人にあげたとは思ったけど、何となく自分の一部をむしりとられたみたいな寂しさを感じました。 それからというものは、いつか本物のゴッホの絵を見たいとズーット夢見ていたので、ついにアムステルダムのゴッホ美術館で、存分に見たときは、あの、ゴッホの本に再会したようで、もう大変な感激でした。(続く)
2005.05.07
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ルピです。自分は人間だと思ってる犬です。(最終回・一昨日のからよんでね) で、娘の所にも、ルピっていう名の、シェパードがいるんですけど。彼女は、散歩のたんびに、ちゃんとビニールでルピのフンを拾ってます。アメリカは、衛生法で、動物を、レストランや、スーパーにつれて行けませんから、ショッピング中は、犬は車の中とか、ドアの横につないだりしてます。その上、法律で、犬が人に危害を与えたら、飼い主の責任になりますからねエ、ヨーロッパの様な不愉快な事は、先ずないです。 ある日、「マムに見せたい店がある。でも、絶対看板を見ちゃだめよ。」と、いって、娘がしゃれた、ベーカリーにつれてってくれました。ヨーロッパの高級ベーカリーそのものでね、ショーケースには、色とりどりのケーキやクッキーがならんでいました。で、「バースデー・ケーキの特別注文承ります」なんて、宣伝もカウンターに置いてあって。。。とっさに、「わーおいしそう!」っていっちゃった。そしたら。。。「ね、おいしそうでしょう?でも、これ、皆、犬用なのよ。中は肉類」って娘が言うじゃないですか、まさにドテッです。で、気が付いたら、周りに犬を連れた客が並んでいました。この店だけは、犬を連れて入ってもよかったのです。 娘の住んでる辺にも、私の家の辺にも、犬の美容院もあれば、ホテルもある、犬公園もあちこちにあります。お犬様々ね。五代将軍、徳川綱吉が泣いて喜びそうな時代ですね~。http://blog.with2.net/img/banner.png ←クリック感謝します人気blogランキングへ
2005.03.01
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ルーブル前〈昨日のからよんでね) 兎も角、右足を上に向けて水から抜け出し、糞を取り除こうと、カーブになすりつけていたら、人々が気の毒そうな顔で、通り過ぎていきます。「メァードゥ・くっそー!」と私に対してか、犬の糞に対してか、捨て台詞をする男もいました。口に手を当てて、クスクス笑う子供もいました。犬好きの私でも、こういう場合になると、飼い主の首を絞めたくなりました。 又、ヨーロッパの人は、平気で、犬と一緒に公衆の乗り物にのってきます。レストランでも、デパートでも、犬を連れて来ます。で、ある日、モンブランが美味しいので有名な、ルーブル前のベーカリーで、コーヒーを飲みながら、そのモンブランを楽しんでいたら、あい席で、隣にすわった白髪のオバーチャンのハンドバッグから、「ウー」と、うなり声が聞こえてきて、チワワが顔を出してネ、その内キャンキャンと、後ろの客のかごに入っていた犬と、喧嘩を始めたのです。飼い主は、怒鳴る、犬は、吠えるで、ゆっくり楽しんでなんかいられない。と、マア犬にまつわるエピソードは、沢山ありますヨ。(あと一回続く)http://blog.with2.net/img/banner.png ←クリック感謝します人気blogランキングへ
2005.02.28
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ルー・レピックに、シャーロットが40年すんでます。 ジャック・シラックが首相になる前のパリは、道という道が、マロニエの並木ではなく、犬の糞に覆われてました。ハエがたかって、何が、ロマンチックなものか、って思いました。「歩く時は、背筋を真っ直ぐ伸ばして、うつむかずに、堂々と歩きなさい」と母に躾られて育ったのですが、その糞をよける為、パリではついついうつむき加減になってしまったのです。可なり気をつけていたにもかかわらず、ある雨の日にルー・レピック(ムーランルージュの裏側で、サークレ・カーに行く道)の坂道を横切ろうと、右足を車道に下ろしたその刹那、タイミング悪く犬の糞が流れて来て、ツルリ!と滑ってしまいました。:ウヒャー 幸い運動神経が良い方なので、ひっくり返りはしませんでしたが、右の靴は、ドップリと太い糞にうずまっていて重く、急流は容赦なく、くるぶしまで水しぶきをピチャピチャと浴びせたのです。足を持ち上げようとすれば、その重さで靴がぬげかけ、汚水がかかとの部分に入って来るという按配で、もう、文字通り、ふんだりけったり。(続く) 人気blogランキングへ「あ!また来たい」と思われたら、来るたびに、クリックしてください。まだ、仕組みがよくわかりませんが、よろしく。
2005.02.27
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ほんとうは、パリの話を書くつもりだったけど、本日は、ちょっとした余興にします。又明日、ヨーロッパの話をかきますからね。息子から写真をおくってきたので、三枚のせます。ちょっと皆様におみせしたかったのです。ルーマニアの友だちから、送ってきたのですって。 北海道の雪祭りではないですよ。じつは、私、去年ウクライナに行ったとき(ロシアの嫁さん連れてきた・参照)この黒海で泳いだのですよ。しかもヤルタという場所はルーマニアのすぐとなりですから、この写真からそれほど遠くないのね。この海の大半はトルコとウクライナに属してるけど、お隣のルーマニアそしてブルガリアもちょこっとシェアーしてるんです。一緒におよぎに行きませんか?きゃはははは!皆さん、これをみたら、いまいらっしゃるところが極楽でしょう??????人気blogランキングへバナーの添え方がわからないのですが、皆様がこれを、クリックなされば良いのかしら?まだ、よくわかりません。
2005.02.26
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凱旋門の中の螺旋(ラセン)階段をあがって一番うえから見下ろした写真(一昨日のからよんでね) 話がそれちゃったけど、それ位いつも同じコースで凱旋門まで歩いてたのですから、間違えるはずがないんですよ。ところが、その日に限って、行けども行けどもシャンゼリゼに着かないで、ドンドン見知らぬ路地に入ってしまいました。 気がついたら、イタリア行きの列車が出るリヨン駅についていたのです。どうやら、アジアが行きたがる方に自然に引っ張っていかれたようです。 時計をみれば、シャンタルはもう仕事から戻る時間じゃないですか。歩きなれた道を何で間違えたんだろーって、まるで、狐につままれた感じで帰宅したのです。 合鍵でドアを開けると、リビング・ルームのテレビがガンガン・ニュースを報じていて、シャンタルが涙で真っ赤な目ですっ飛んできて、いつもより大げさに抱きついてキスするじゃない!(断っておきますが、これ、あいさつですから、勘違いしないでネ、念の為)「どこ、いってたのヨウー。無事でよかったワー」って涙ポロポロ。“Pour quoi? 何故?”私、キョトンと彼女を見て聞いたら、「さっきからニュースで、テロリストが、凱旋門のそばのゴミ箱に爆弾をしかけて、その爆発で通行人が大怪我したって大騒ぎなのヨウ~。もう心配で、心配で。。。」と、今度は、アジアをだっこして、「オ~私のかわいこちゃん。無事だったか~」って又、キスキス、涙。それもその筈、私、いつもしないのに、その日に限ってダイニング・テーブルの上に書置きしてったのです。それには・・・アジアと凱旋門まで散歩してきます。五時半にはもどります・・・って書いてあったのです。 どうやらこの日、アジアに救われたってのは大げさかな? でも不思議でしょ? 凱旋門を、横から見た写真。http://blog.with2.net/img/banner_03.gif人気blogランキングへ
2005.02.25
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【去年シャンゼリゼを歩いたら、こんな、ゲテしゅみのルイ・ヴィトンの広告がありました。大きなトランクが、ふたつ、みえますか?シックなパリはいずこに?】(昨日からの続きです) そのマツゲ長いハンサムなギャルソンが私にウィンクする理由は、私にヒ・ト・メ・ボ・レって言いたいけど、残念ながら違うんです。そのヒミツは、まだ、来たばっかりで紙幣とコインの差別がアヤフヤで、金勘定が下手だった頃、紙幣ではらったおつりで間違えて一杯分のコーヒーと、同額のコインをチップにあげちゃったのです。ニッコリと歯並びのよい口で、「メルシー・マダム」って言った時はすでに遅しで、それからは、彼がいる時は見栄張って、必ず同額のチップを置いていくようになっちゃった、ってのが、ウィンクのはじまりなんです。 ついでに、“Je suis japonais、私日本人”って、本当はアメリカ国籍なんだけど日本人を宣伝しておきました。それからというものは、私の顔を見る度に、“J’adore japonais, ぼく日本人大好き”って言ってましたよ。(あと、一回続く) 左から、ジャクリーン、シャーロット、私、シャンタル。パリにいくと、必ず、一緒に食事をします。シャーロットとは、1982年にタヒチであってからの友だちです。シャンタルは、シャーロットのお姉さんで、英語が出来ないので、彼女のアパートにいたときには、フランス語の勉強になりましたよ。
2005.02.24
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シャンタルの犬【今週のトピックスから、ヨーロッパをひろって、フランスの話を書いてみます】 パリに三ヶ月いた時の話なんですが、友達のシャンタルが八時から五時半まで仕事にでかけてるので、日中私は途中で本屋によったり、昼食したりしながら、毎日五時間くらい、犬とゆっくり散歩をしたのです。 その日も、いつもの様に、彼女の愛犬アジアをつれて、アパルトマンからシャンゼリゼに向かって歩いてたんですネ。 もうパリに来てからカレコレ一月も経っていたから、ブーランジェリー(パン屋)のマダムや、果物やのお兄さんとも馴染みになっていて、「ボン・ジュール。サバー?(どう?)」「ウイー、ジェヴェ ビエン(うん、おかげさまで)」なんて手を振るなかになっていたのです。 通りがけの骨董品屋に置いてある古い楽器がすきなので必ず覗いて、ちょいとカフェーをのみに立ち寄る、大通りのレストランのギャルソンにもウィンクをされる所までになってたんです。 よくたちよった、アンティーク屋(続く)
2005.02.23
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