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May 13, 2024
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カテゴリ: カテゴリ未分類
邪馬台国=宮崎県小林市論を考える僕は、同時に卑弥呼=天照大御神論でもあるので、
魏志倭人伝と古事記・日本書紀を比べてみている所である。
そして今日、面白いことを見つけた。

八咫鏡って鉄鏡じゃん!

それは古事記の次の記述を見れば分かる。天岩戸の部分である。
(原文)
故於是天照大御神見畏開天石屋戶而刺許母理
坐也爾高天原皆暗葦原中國悉闇因此而常夜往
於是萬神之聲者狹蠅那須滿萬妖悉發
是以八百萬神於天安之河原神集集而高御產巢日神之子思金神令思
(意訳)
(この前に素戔嗚命が高天原を去るに際して天照大御神に挨拶に来たのは良いが、大暴れして、
 忌服屋=天照大御神の機織り屋に天斑馬の皮をはいで投げ込み、
 そこに居た機織り女が亡くなると言う出来事がある。)
天照大御神はその出来事を見て恐れ、天石屋の戸を開き立てこもってしまいました。
天照大御神が岩屋に閉じこもってしまったので高天原は皆暗くなり、
葦原中国はすみずみまで暗くなり、常夜になってしまいました。
そこで(不安になった)万の神の声がざわめき満ち、
たくさんの妖気があちこちに発せられました。
そこで、(これは大変だと)八百万の神は天安河の河原に、みんなで寄せ集まり、
その中で高御産巢日神の子である思金神に考えていただきました。

(原文)
​集常世長鳴鳥令鳴
而取天安河之河上之天堅石取天金山之 ​鐵←ここに「鉄」と書いている!​
而求鍛人天津麻羅
而科伊斯許命賣度理令作鏡科玉祖命令作八尺勾璁之五百津之御須麻流之珠
而召天兒屋命布刀玉
而內拔天香山之眞男鹿之肩拔
​(意訳)
思金神は常世長鳴鳥を集めて鳴かせ、
天安河の川上の天堅石(天上にある硬い石)を採ってきて、
天金山(天上の金山)から ​鉄​ を採取して、
鍛冶をしていただくために天津麻羅の神(鍛冶の神)を探してきて鋳造させ、
石凝姥命に担当させて八咫鏡を作らせ、
玉祖命に担当させて八尺勾瓊之五百津之御須麻流之珠(八尺瓊勾玉)を作らせました。
また、天児屋命·太 玉 命を呼んで、
天香山の真男鹿(牡鹿)の肩甲骨を取り、天香山の波波迦(ウワミズザクラ)を取り、
占いをする準備をはじめました。
(昔は亀の甲羅や動物の骨を焼いて占いをしていました。)

上の原文に赤く書いてしまいましたが、
はっきりと「天金山の鉄」で「伊斯許命賣」が「鏡」を造ったと書いてあります。
つまり「八咫鏡」は「鉄鏡」だったのです。

ここで気がつくのは大分県の日田のダンワラ遺跡から出た、
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう)=国重要文化財です。
これについては過去のブログで概要を描きましたが、

邪馬台国はどこにあったか(その16) ​​

日本で鉄鏡が出土するのは珍しく、
また中国の先生は魏の曹操の墓から出土した鏡と同じ?だと言っています。
もう卑弥呼の鏡の匂いがぷんぷんなのですが、学者先生は認めていません。
学者先生の推す三角縁神獣鏡なんて、本当に魏志倭人伝にある鏡ならば百枚しかないのに、
既に600枚以上も見つかっているし、
学者先生が卑弥呼の鏡だと主張するきっかけになった黒塚古墳でも33枚も見つかり、
全然貴重な鏡には見えません。
黒塚古墳では枕元には画文帯神獣鏡が見つかり、三角縁神獣鏡はあたりにばらまかれ、
誰が見ても画文帯神獣鏡の方が大事にされているのに、
なんで三角縁神獣鏡が卑弥呼の鏡?と思うのですが、先生方の理論は分かりません。

ちなみに金銀錯嵌珠龍文鉄鏡はこんな感じです。


対する三角縁神獣鏡はこんな感じです。


とてもじゃないけれど、勝負になるとは思えない。
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡をダイヤモンドとすると、これは屋台のネックレスレベルだと思う。
つまり三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡とは思えないレベルなんだと思う。

卑弥呼=天照大御神ではないとしても、
天照大御神の時代にすでに鉄鏡が有ったのならば、卑弥呼の時代にも当然鉄鏡は有るし、
そして金銀錯嵌珠龍文鉄鏡のように立派だったのならば、鉄鏡を選ぶのが普通だと思う。
学者先生はなぜ変な所にこだわるのだろう?不思議だ。何か理由が有るのだろうか?
​​ ​​
​​​学者先生​​​​​​達の最大の欠点は自分達の専門分野以外のことを勉強しないと言うことである。
恐らく学者先生達にとっては鉄鏡は滅多に発見されないことから研究の対象外だったのだと思う。
なので、古事記に「鉄鏡」と書かれていることは知ってはいたが、
「神話だから」と無視していたのだろう。

では何故鉄鏡は発見例が少なく銅鏡は発見例が多いのだろうか?
それは多くの人が知っているように「さび」のせいである。
多くの金属は2種類の錆を察生する。
被膜化して内部への錆の浸食を防ぐさびと、そうでない錆である。
銅では
被膜化して内部への錆の浸食を防ぐさびとして「緑青」が有名である。
なので銅は自然状態でも緑青の発生により内部まで錆が進行しづらい。


では鉄鏡ではそう言うことは起こらないのであろうか?
鉄にも「黒錆」と言うのが有り、これは
被膜化して内部への錆の浸食を防ぐさびである。
但し自然状態では発生しない。
相当に高い温度、数百度の熱により発生する。
「南部鉄びんの黒皮」がそうである。
なので普通は黒錆は発生せず、鉄は錆びて自然に帰る。
なので鉄鏡は滅多に発見されないのである。
自然科学を勉強しているならば誰でも分かることである。

ただ、この鉄鏡の発見に関しては少し特殊だったかもしれないので、
あまり先生方を責めるのは良くないかもしれない。
この鉄鏡が発見された「ダンワラ遺跡」は大分県日田市に有り、
隋書に書かれた「筑紫の東に秦王国有り」と言われる地に比定される場所である。
その事には色々な説が有るので確定ができないが、
鉄鏡が千数百年にわたって保存できたのには訳があり、こちらは学術的に証明できる。
ダンワラ古墳はアカホヤと呼ばれる、水はけの良い火山灰の上に作られており、
この火山灰は特殊なガラス質で、これが保存に役立っていたらしいのである。
(誤解を恐れずに簡単に表現すれば)ガラス瓶に密閉されたような状態だったのである。
だからかなり特別だったのであろう。

もしかすると魏からもらった卑弥呼の鏡は「
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」以外に残っていないのかも?

​​ だから学者先生にはもっと勉強して欲しい。
地位にあぐらをかいて欲しくない。
例えば、何故朝鮮から渡って来た船は「末蘆国」で上陸して陸行するのか?
末蘆国などに寄らずに、そのまま伊都国に行けば良いのでは?
こんな簡単な問題にまともに答えられる学者先生がいない。
僕は過去のブログで書いているので参考に。

邪馬台国はどこにあったか(その18)

中ほどに写真を載せているように「海王丸」程度の小舟でさえも砂浜では着岸が難しい。
潮の満ち引きまで考慮すると、洗掘により常に削られる波打ち際では港は造れない。
日本では鎌倉時代位まで人工の港は恒久的には造れなかった。(一時的には可能)
そのよい例が北条泰時の造った
「和賀江島」で、
泰時は何としても貿易港を造りたかったのだが、
あまり役には立たず、結局は伊豆や三浦半島(例えば横浜の六浦)に頼っている。
海水に浸かっても大丈夫な木材ならば「材木座」でも陸揚げできたが、
貿易品では到底無理なので自然の良港が作りやすい呼子(末蘆国)で上陸したのである。
学者先生の邪馬台国論争は机上の議論なので、この手の議論は見たことが無い。

と言うか過去の学者は「倭人が乗る舟」と「中国の使者が乗ってくる船」の違いが、
まったく議論されずに今に至っている。
角川の「野生号」や大阪市の「なみはや号」である。
両者は日本で発見された舟の絵や埴輪の舟を参考に「現代技術で作られた」。
現代の技術で作られても対馬海峡を渡れなかった。韓国には届いていない。
対して三国志の「赤壁の戦い」に出てくる船は比べられないほど大きい。
中国の使者は倭国に来る時に「命がけの航海」はしない。
逆にそのような大きな船は砂浜には着岸できない。
でも学者先生は自然科学が分からないので議論できない。

同様なのが「纏向は
​3世紀半ばの遺跡なので邪馬台国の都である」と言う理論である。
学者先生には「集合と写像」について勉強して欲しい。高校で習う簡単な理論である。
卑弥呼は3世紀半ば頃に居たので、邪馬台国の都は3世紀半ば頃に有ったはずである。
これは正しい。
しかし、その逆命題である、
だから3世紀半ばの遺跡は邪馬台国の都である。
これは間違いである。
よく「3世紀半ばの都だとしても、何故他の国の都ではいけないのか?」
これに答えられないのは論理的に間違っているからである。
「集合と写像」を勉強すればすぐに答えが分かる。
3世紀半ばの都市で邪馬台国の都だと言えるのは「邪馬台国以外に国が無い時」だけである。
でも邪馬台国は狗奴国相手に苦戦している。つまり邪馬台国以外に狗奴国も有る。
つまり論理的に誤っているのである。

学者先生は自分達の専門外の勉強もするべきだと思う。







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最終更新日  May 14, 2024 10:16:09 PM
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