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May 17, 2024
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お袋の7回忌をする為にはるばる長崎まで弟と行くことにした。
両親とも亡くなったので実家はもう売ってしまい、
親戚も父方は父が末弟なので全て鬼籍に入っており、
母方は長寿系の一族なのでみんな生きているが90歳に近く、
末妹の叔母と次男の嫁さんが来てくれた。
次男の嫁さんは92歳なのに元気で助かる。

例によって、せっかく長崎まで来たので、あちこち回って歴史の真実を探ることにした。
一日目は法事なので長崎市に宿泊したが、近くで面白いものを発見した。
長崎防衛支局の入口にヘリコプターが有った。何で?



説明文を読むと、
1990年11月から1995年2月まで続いた雲仙岳の噴火活動雲仙普賢岳の際に活躍したヘリらしい。
もう34年もたつんだなぁ。
多くの人はもう忘れているかもしれないけれど、
大勢の方が亡くなり、島原など周辺はその後も大変だった。
雲仙は何回も爆発して、江戸時代寛政4年(1792年)の爆発では1万5千人も亡くなったらしい。
地震だけではなく、あらゆる災害に対して準備と対策が必要だと思う。
よく自衛隊不要論を言う人がいるけれど、
そう言う時は人員及び機材が必要で、自衛隊はとても役に立つので絶対に必要だと思う。
アレルギーが強い人の為に、名前を「災害救助予備隊」とかに変更したら良いのかも?

翌日、西九州新幹線で福岡県の二日市に向かう。

なので奮発して新幹線を使った。
二日市には大宰府が有る。
目的は大宰府参りではなく、都府楼跡なんだけれども一応お参りはしていく。
参道は修学旅行?の女子高生でいっぱいだったのでうれしかった。
そこでちょっと珍しい「スタバ」を発見した。




さすが太宰府だと少し感心した。

本宮の方に進んでいくと御神牛がおいでになる。
牛は道真公と縁が深く、天神様のお使いなんだそうである。
これが外国人観光客に大人気だった。福岡は韓国や中国に近いのでかの国の旅行客が多い。


下の写真はこの御神牛様の左手から進んだ先の楼門の隋臣像。
お雛様の隋臣と同様に、若い隋臣と老人の隋臣がセットになっている。
この隋臣が居る楼門が面白い。


入る方(太鼓橋側)から見ると屋根が2層になっており、
帰りは(本殿側)から見ると屋根が1層になっている。
言われないと気がつかないけれども、気がつくと面白い。
この手の込んだ楼門の設計は、近代神社建築の重鎮である安藤時蔵によるものだそうだ。

楼門から中に入ると本殿があるのだが、
今は令和9年の菅原道真公1125年式年大祭に向けて改修中で仮宮が設けて有った。


仮宮なのに、通常の神社の何倍も立派。さすがは大宰府天満宮。
屋根の上に自然の山があるみたい。え?もしかして古墳?

帰りに右手を見ていたら絵馬堂が有り、前でオジサンが芸をやっていた。


この絵馬堂は文化10年(1813)、奥村玉蘭の発願によって建てられたもの。
九州に現存する最大最古の絵馬堂。
様々な時代の人々の願いが込められた絵馬がご奉納されています。でかい絵馬!

鳥居を出た所の社務所裏に浮殿が有った。


今は水は張っていないが、水を張った際に水面にその影が映る建物を浮殿と呼ぶ。
建物の中を覗くと、写真右上の面白いモニュメントが有った。芸術的。今風。

さてここを出ると、いよいよ目的地の都府楼跡へ向かう。
途中に戒壇院がある。


まぁ、現代で言えば佛教大学だな。
次は学校院跡。


学校と行っても今の大学とは違い、政府の役人養成所だったのらしい。
そう言えば今だって、政府各機関は専門の学校と言うか養成機関をもっているな。
建設大学校とか税務大学校とか防衛大学校とか。あれと同じだな。
今も昔も偉くなるのは日々勉強が必要だったんだなと思う。

学校院の次は官衙の跡。簡単に言えば古代九州の霞ヶ関。


うん?官衙跡?政庁跡とは違うのか?
つまり都府楼跡(政庁跡)には大宰帥がおられて、今で言えば皇居と同じで、
下級機関(実務を司る機関)がここに有ったんだな。
だって政庁跡とすぐそばだから。今の皇居と霞ヶ関の関係と同じだ。

そしていよいよ都府楼跡(大宰府政庁跡)に着く。


広い。
ここは大宰府の南側の政庁部分の南門だけなので、都としてはこの南にさらに伸びていた。


ジオラマで言えば、中央の大きな道(朱雀大路)の奥の突き当りがこの「南門」である。
つまり写真の数十倍の広さがあったのである。

造られたのは7世紀後半。
その後も大きく造りかえられて、
都合3回と言うか3期造りかえられた跡が発掘調査で分かっている。


663年10月に韓国の白村江の戦いで日本が敗北して、その後に造られたらしい。

都府楼跡の右手には「大宰府展示館」が有る。上のジオラマや写真はここに有る。
そして南門正面からは分かりづらかった政庁跡の奥行きはこの展示館脇から見られる。


やっぱり広いよ。官衙跡よりもずーっと大きい。

太宰府が大きいと思っていたら、条坊制について考えさせられる展示が有った。
条坊制(じょうぼうせい)とは、中国・朝鮮半島・日本の宮城都市に見られる都市計画で、
南北中央に朱雀大路を配し、南北の大路(坊)と東西の大路(条)を碁盤の目状に組み合わせた
左右対称で方形の都市プランであり、日本では藤原京が最初である。
ほとんどが京都や奈良で、藤原京・平城京・長岡京・平安京がそうだが、
地方には大宰府と多賀城にしか無い。


展示を見ていてふと気がついて、あれ?っと思ってしまった。
確かに大宰府は大きさでは平城京には及ばないが、平城京よりも先にできているじゃん?
じゃぁ太宰府よりも前に有ったはずの藤原京はどうなっているの?

調べてみた。
藤原京は天武天皇の時代に造り始められたらしいが、
その前の飛鳥浄御原宮(倭京)から宮を遷したのは694年らしい。
えー!大宰府の方が先に造られたのでは?日本で最初の条坊制の都市は藤原京じゃないの?
なんで日本の首都である奈良の藤原京の方が後からできたの?
しかも藤原京は上の写真の唐の長安城や平城京及び大宰府とは違い、
京のほぼ中心に内裏・官衙のある藤原宮を配しているらしい。えー!形が変じゃん!
どうも天武天皇が唐に対抗して、長安城とは違う形にしたかったらしい。

うーんなんか変だな?
本当に大宰府は「奈良時代の日本の地方機関」だったのだろうか?
奈良や京都の「日本の中心都市」よりも先にできているし、
当時としてはものすごく大きい都市だし。
本当はここは「日本」とは別の国の首都だったんじゃないのか?
実はこれが今回の旅行の最大の秘密なんである。
それは次の訪問地「水城」に続く。
明日書く。





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最終更新日  May 28, 2024 03:11:12 AM
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