曹操注解 孫子の兵法

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Oct 10, 2005
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カテゴリ: 戦略
『戦略の本質』(野中郁次郎・戸部良一・寺本義也・鎌田伸一・杉之尾孝生・村井友秀 共著 日本経済新聞社 2005年)は、学生時代に読んだ『失敗の本質』の続編ということだ。
しかし、その内容には本当にがっかりさせられた。

スターリングラードの戦いは、ナチスドイツ軍のバルバロッサ作戦に対抗した局地戦であった。
この都市攻防戦の逆転劇そのものは未だに不可解な点も多い。
それでソ連軍の天才的な狙撃兵がドイツ軍の将校をやっつけたという伝説(ロシア映画)も生まれるのである。
もちろん敗戦だったから、ドイツ側の詳細な記録は抹消されている。
これがどうして「逆転の戦略」を語りうるケースになるのだろうか。
まったく論理の瞞着と術語の混濁としか考えられない。

さて、最も閣下の神経を逆撫でしたのは、この『戦略の本質』の339ページである。



この「費留」は、『戦略の本質』が解したように、戦略レベルの話なのか、あるいは戦術レベル、作戦レベルの話なのか。

曹操は戦術レベルと解したが、同時に「功を修める」という意味を作戦レベルでも理解し、前線指揮官以下の賞与について「ケチケチするのも費留だ」と断言している。

これは曹操の解釈が正しい。
「修功」の意味は後漢時代(『漢書』・『三国志』)までには兵士の果敢な英雄行為、あるいはリスクをとった作戦行動にも用いられている。

軍事戦略だの、戦争目的だのというのは、古代の戦争の事情を理解していない現代の学者のマスターベーション問答にしか考えられない。
古代戦争の前線司令部や戦闘指揮の現場に外交問題やら戦略問題を議論する場があるわけがない。
遠征軍に伝令を派遣するたびに軍事秘密は漏洩の危機にさらされるからだ。
パールハーバー奇襲も第二次攻撃・第三次攻撃の待機部隊をのこしながら、南雲司令官の強引な撤収命令を誰も止めることはできなかった。

アメリカもイラク戦争では戦前の外交に失敗した。
湾岸戦争でも戦後の外交で失敗している。しかも成果だと考えられたサウジアラビアのアメリカ軍の駐留問題がアルカイダの反米化を招いたのである。
失敗したと気づいていても、アメリカ軍はまだサウジから撤兵していない。

駐留米軍幹部も、アメリカ外交官の家族も、サウジ当局の保護で外出するような状況では、おいそれと高圧的な外交姿勢はとれないだろう。
つまり、アルカイダが主張する「アラブの大義」、異教徒の軍隊による聖地の冒涜という一方的な価値観に何ら対抗策を持ちえていないのだ。
現代アメリカもなしえないことを、どうして野中研究室は、「『孫子』は述べた」と簡単にいえるのか。それは間違いだ。

古代文字と、先秦時代の山東方言の古文法の議論をしよう。
「功」というのは、「工+力」である。

また、「功を修める」というのは、作戦・戦術といった現場の尽力を調査して勘案するという意味であって、戦闘の勝利を外交的な国益増進にするという意味ではない。
「修」というのは、同じ山東方言をふくむ皇覧本『論語』でも「修学」と使われており、これも文書典籍を精査し、勘案するという意味である。
もともと「修」は、お祭りの犠牲の羊のバラ肉、つまり上質のカルビロース肉をアバラ骨から匙(ナイフ)でこそぎ取り出すことを意味しているのだから、当時の竹簡の巻物を紐解く作業を、この解体作業の意味に慣用的に使うようになったのだ。
大きな竹簡の束はまさしく子羊のアバラと同じ形状をしているからな。

つまり功績を聞き取り調査して竹簡の束に記録することが「功を修める」という具体的な内容だ。
これは戦術レベル以下の議論である。

それがどうしていきなり戦略レベルの話になるのか。
戦術的な成果が外交的な成果にもなるという理想形は、普仏戦争のビスマルクとモルトケの連携が挙げられるが、彼らも「たまたまそうなった」と後で証言しているのであって、そんなに大風呂敷に包んでうまくいく話ではありえない。

孫子兵法の時代、軍事戦略と外交戦略が一つに集まるのは君主の廟堂だけであった。これを「廟算」という。
電話があるわけではない。

ビスマルクはモルトケに電報を打った。
「外交とスパイでナポレオン三世をパリから国境の前線を視察させる。その時こそ開戦の好機だ」

しかし古代中国では外交使節が数ヶ月をかけて同盟諸国を訪問して、何を報告してくるか、そんなことは将軍にも知らされない。
アヘン戦争の林則徐の失策も、イギリス本国の情報がロシア駐在大使からもたらされていたのに、情報が皇帝側近の袖の下に隠れていたからである。
もちろん、その側近はアヘン戦争の勝利などということは眼中になく、大清帝国の敗北の結末なども夢寐だに信ずることなく、香港が奪われることも不利とは思わず、ただ漢族の林則徐が清軍の全軍事権を握り続けるのが嫌だったのである。

特に詳細な外交と軍事の分離は、漢の高祖・劉邦にあっては、韓信と張良という別々のパーソナリティで動かされていた。

孫子兵法の孫武も主に陸戦の戦略・戦術を論じたのであり、呉軍のロジスティックスは水軍戦略によるものが大きい。
しかし、実際の水軍の議論は孫子兵法はない。陸路のロジスティックスの困難を作戦篇で述べているだけである。
『左氏春秋』を精読すると、呉軍の侵攻ルートは長江水軍の補給を受けながら、五年以上をかけ、アミダ状に淮水流域を西進し、決定的な時期に楚軍主力が迎撃体勢にあった淮水最上流の直袁関を迂回し、大別山脈の隘路を越え、いきなり長江沿岸の柏挙に南進したのである。そこには水軍による援軍と補給が待ち合わせていたからだ。
直袁関に布陣していた楚の別軍(精鋭部隊)は、呉と同盟した付近の領主、唐伯と蔡侯にまんまとだまされた。
呉軍は直袁関の手前まで兵員のいない「空船」の偽装艦隊まで進出させ、楚の精鋭の動きを釘付けにした。
そこに「呉の主力軍が長江沿岸を西進している」という急報がもたらされる。これも計略である。
漢水西岸にいた楚の宰相は愕然とした。
宰相の緊急出動命令で、楚軍はあわてて漢水流域から柏挙の決戦場まで強行軍で到達したので、ほとんどの楚軍の兵力は疲弊し、正規の重装備もなく、戦う前に瓦解している有様であったという。

さて、この「費留」についての誤釈は、実に大戦略・戦略・戦術・作戦・戦法といった各レベルの相違点や見境を、野中研究グループが混同し、「戦略と戦術」をあるときには同義に使ってみたり、あるときには作戦を「戦略」と称してみたり、まったく論理の瞞着と術語の混濁としか考えられない。

あえていえば、日本の戦略研究のレベルの低さに、閣下は驚き嘆いているのである。
一橋大学大学院教授というのは、まあ象牙の塔の御雛様のようなものだから、そのまま座っていても特に害毒はないだろう。
恩人だし、勝手にやってください。

しかし、防衛大学という専門教育機関の教授がこんな低劣な見解だったら、学術的に自衛隊の無力化を促進しているといわねばならぬ。

これは忠告である。


戦略の基礎も理解していない防衛大学教授を恩師とあおぐ防衛庁幹部はペンタゴン・ギャングやネオコン・マリーンと同じ失策に陥るであろうよ。





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Last updated  Oct 10, 2005 01:28:17 AM
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