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2005.11.16
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( TAKEさんが昨日書いた老画家をさらに詳しくご紹介します

自然と同化し、虚に惑わされることなく実を見出す。かっては自然と共に生きてきた日本人。しかし、利便性を追求した文明の発展の結果、我々は自然の実を感じることすらかなわなくなった。だがそんな「日本の魂を表現し続ける画家が今も存在する。 カネや権威に毒される画壇を嫌い、ひたすらに心を見つめ続けてきた老画家・ 矢谷長治氏(85)
「あの垂れ桜を写生し続けて14年目になるが、ようやく仄かに見え始めたかなと、最近思うようになった」  花開いた桜を写生するにはわずか5日程度しかない。14年見つづけても70日、たいした月日ではないという のである。
矢谷が画題に選び、眺め抜き、描き続けて完成した末の柿。初の画集「矢谷長治画集」(求龍堂刊)に矢谷が文を寄せている。
『だいたい11月15日頃から柿がとれる。テーブルにたくさんの柿を並べる。1週間くらい経つと水分さがって柿の形がおちついてくる。その中の何個かを選んで描き始める。 描き出したら、その柿には指一本もふれない。ふれると、ふれたところから腐ってくる 不思議なことは、モデルにした柿だけが最後まで残る。毎年、何十年も描き続けるが、例外はない
「柿を沢山並べて1,2週間見ていると、その中になんともいえない気品を持っている柿があることを知ります。この柿をさあ描こうとすぐに思う。しかし、見ているうちに最初に見たときよりも柿を深く感じる。そうすると写生しても、まだ感じ方が足りない自分を知り、また見続けることになる。こうして見ているとどんどん深く感じるようになる。だからその柿が駄目になるまで追求するようになるんです」冬瓜も柿も矢谷の本質を知ろうとするエネルギーを受けて、絵が完成するまで崩れるわけにはいかなくなるのだろう。
1946年、矢谷長治は、「冬の山」を日本美術院主催の院展に出品。 横山大観 前田青邨 奥村土牛 ら日本画壇の重鎮らと共に入選する。矢谷の初入選は『自然の実相を衝こうという意欲が見える。筆致の粗さはあるが、新旧出品中で圧巻』(同年『三彩』三号)と 高い評価を得、画家として活躍の場を得たかに見えたが、まもなく中央画壇から姿を消す
矢谷は1915年(大正4年)子浦で生まれた。「小学校時代何になるかと訊かれ、坊主になりたいといった。鎌倉の建長寺に坊主志願の手紙を出したら親の承諾を得ればと入門許可の返事が来た」驚いた両親は「坊主にだけはならないでくれ」と説得したという。子供の多い矢谷家では、長治もまた重要な働き手であったのだろう。やがて結核の転地療養で子浦に来ていた男が代用教員になり、矢谷に絵の才能があることを見出す。絵一筋になるのはそのときからだった。19歳で家出して上京、日本画界を背負う一人だった田中青坪に師事する。
22歳で召集を受けるが、敗戦。画壇は戦争協力の責任、新団体設立などを巡り混乱していた。
その頃、矢谷は額を分解して背中に4升の塩を背負うと、同じく塩を背負った弟と上京し、院展審査のある上野美術館に絵を出し、その足で埼玉に向かった。物資統制で塩は貴重品である。漬物用に要るだろうと農家を回ったが売れず、宿賃もなく田圃の畔で野宿したという。翌日売れて、自分は小遣い程度を取ってあとは弟に持たせ子浦に帰した。ようやく荻窪の田中青坪に行ってそこで院展入選を知った。
「栄養失調の痩せた身体で描いた絵でした。私より周囲の者が驚いたり喜んだりしていました。朝日新聞で大きく取り上げたいと連絡が入ったのもその頃です」テレビがない時代、新聞は巨大なマスメディアだった。しかし矢谷は即座に掲載を断った。まだ納得出きる絵が描けたと思ってないし、 新聞に載り増長する自分が厭だった
「私は戦後30年間は下田の郊外、蓮台寺に住み続け、1年5千円の会費を出して下さる支援者およそ30人に支えられて描き続けてきました」
「絵会」という。これと思った画家を複数の人々が支援する、画商と違い描く絵に注文をつけない。描きたくない絵の要求もない。
26歳で結婚したが、当初から子供を社会に送り出したら、50歳で妻とは別れ、絵一筋の生活をすると宣言していた。それを51歳で実行する。あまりの「暴挙」に妻は長く病に臥せったという。
「知り合いから見舞いに行ってやれと云われたが行きませんでした。辛いが行ったら終わりですから。家族と一緒だと逃げ場がいくらでもあります。 絵描きはひとりで絵だけを描いていればいい のです」
画商を頼るな。絵を教えるな。パン絵(売り絵)を描くな である。
もうこれ以上簡略化するものがなくなったときに、内部の奥行きが見えてくる 。そのとき本当の仕事をしていないと、何もなくなって空白しか残らない」 「対象を本当に掌握していれば、ひと色だけで表現することもできる」「頭だけでいくらやっても『まだ届かん』と自然の一喝が聞えてくる」「画家にとって一番厳しいことは、人に見えない、自分でも分らないところの鍛錬をしなければならないことである」(二人展語録より)
こうして描かれた作品は、自然を、美しさを超え、いのち溢れるバイブレーションとなって見る者の心を揺さぶる。
認められることはむしろ害になります。黙って放置してもらった方が勉強ができます。 桜の写生も14年続けて、ようやくゆたかな気持ちで描けそうな気になっています」


厳しく恐い人である。まさに修行僧のようである。


(いの字)

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Last updated  2005.11.18 00:12:44 コメント(1) | コメントを書く


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