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「岩倉具視幽棲旧宅」放送中のNHK大河ドラマ「西郷どん」でたびたび登場した屋敷です幕末から明治維新へ 下級公家でありながら強い意志と行動力で活躍、ひときわその存在感が光った王政復古の立役者・岩倉具視 公武合体を唱え孝明天皇に進言し、徳川幕府14代将軍・家茂(イエモチ)に天皇の妹・和宮(カズノミヤ)の降嫁に尽力したが、その後次第に尊王攘夷論が高まり幕府と通じたとみなされた岩倉具視は蟄居の処分を受け、文久2年(1862年)9月から慶応3年(1867年)迄の五年の間ここに幽棲を余儀なくされる 岩倉具視 昭和26年に新しく発行され、平成6年までの間私どもの手元で流通した五百円紙幣にその肖像が登場しています ↑邸内緑多い庭園です1864年に禁門の変(蛤御門の変)が発生し、京都の攘夷派が一掃され嫌疑は晴れるも赦免はなくそのまま岩倉村で過ごす、屋敷にはその後大久保利通(一蔵)・西郷隆盛(吉之助)・木戸孝允(桂小五郎)・坂本龍馬らが訪れるようになり、やがて倒幕へとその立場を鮮明にします ↑茅葺きの屋敷ですその後1866年孝明天皇崩御、1867年明治天皇即位、同年徳川慶喜の二条城での大政奉還の諮問と勅許を経て、その後漸く赦免されますすぐさま大久保・木戸・後藤象二郎らと「王政復古の大号令」を明治天皇に奏上し新政府が誕生する事となります ↑表門より中木戸を通り屋敷に出ます新政府では参与等要職に就くも直後、1868年徳川慶喜が反旗を鮮明にし所謂「鳥羽・伏見の戦い」を挑みましたが、徳川討伐を先導し「錦の御旗」を掲げ新政府軍を勝利に導きその発言力は大きく増し、その後右大臣・副総裁として新政府の主導権を握ることとなります ↑座敷内部「鄰雲軒(リンウンケン)」と呼ばれています ↑大久保や西郷など倒幕派と密議を重ねた座敷です 要職での功績は、行政改革「廃藩置県」に尽力し欽定憲法や天皇制の確立に大きく貢献、1872年には不平等条約改正を求め所謂「岩倉使節団」の全権大使として欧米各國を歴訪、留学交渉や鉄道視察等の産業開発に多くの実績を残しました ↑雅号を対岳と称し、後に邸内に「対岳文庫」が建てられました ↑文庫内には、遺品や維新志士連の多くの遺墨が陳列されています ↑庭青々と茂っています、遺髪碑が設けられその側にはアカマツが大きく元気よく育っていました1883年7月 岩倉具視 57才にて没す 葬儀は日本で初めての「国葬」として執り行われています ・・ 岩倉具視旧宅 京都市左京区岩倉上蔵町.....同じく岩倉・実相院の近く ・・・・・ (写真は、H25.4月に撮影したものです) ************************勝海舟 京都での常宿 「萩の寺・常林寺」常林寺 正式名称は浄土宗/光明山摂取院(コウミョウサンセッシュイン)・常林寺です 1573年(天正元年)念仏専修僧・魯道(ロドウ)により開創、1591年豊臣秀吉により寺町・梨木町にある御土居側の寺地が与えられ建立されています江戸時代に入っては、知恩院の役番として寺務をこなしていますが、1671年(寛文11年)同町付近からの出火により焼失し現在地に移転、長い年月をかけ1698年(元禄11年)第七世英譽(エイヨ)上人によって現在の本堂が建立されました 秋九月にもなれば萩の花が咲き乱れ、京都では昔より「萩の寺」として知られてきました ↑山門です 表札には萩の寺とあります 勝 海舟(通称・麟太郎) 日本海軍の創始者徳川幕府御家人の父を継ぎ、二十歳で兵学者佐久間象山と出会い学び10年、広く知識を得て1855年長崎に海軍伝習所が作られた折その伝習所取扱(総責任者)に任ぜられ、また1858年咸臨丸(カイリンマル)艦長として米国へ渡航後、老中安部正弘に進言神戸に海軍操練所を造り軍艦奉行として赴任、長崎・神戸への役務の際ここ常林寺を拠点として活動していたようです ↑本堂が正面の石畳、両側の萩の花がせり出し通路が狭く見えます 勝海舟、幕府内の立場であるも時にはそれを越える共和政治(一藩一府でなく日本国としての政治)を称え危険分子とされ蟄居の時期もあり、又自分より意見が通らない時は潔く職を辞した事も数あり、しかしその後また復職を依願され職に戻ること一二度ではなかったようです ↑膨らんで咲いています 海舟が西郷隆盛に初めて会ったのが、1864年(元治元年)9月神戸開港是非で揺れていた時、共和政治を熱っぽく語り合い、西郷は海舟称賛の書状を大久保利通宛に送ったとされています、この折の話し合いが、のちの重大局面で歴史に残る成果を導いたのかも知れません ↑本堂正面です ↑ご本尊は来迎阿弥陀三尊像です ↑世継子育地蔵堂(ヨツギコソダテジゾウドウ)祀られている地蔵尊は、常林寺が建つ以前から若桜街道に面するこの地にあって、広く遠国までその霊験が知られ香煙が耐えなかったと謂われています ↑庭にある石碑「念ずれば花ひらく」 ↑本堂に掛かる「常懺悔 」常に省みること 海舟の姿勢に通じるところがある様ですこの地にくる前の常林寺は寺町・梨木町でした、ここにはもう一つ京都で萩の花が有名な「梨木神社(ナシノキジンジャ)」があります、ここには前の項に記した岩倉具視と同じ公家の出身で共に維新政府の重鎮となる 三条實美(サネトミ)が祀られています、岩倉は維新政府成立に三条は新政府成立後それぞれなくてはならない存在となります萩の花 同じ地域で育ちお寺と共に移ってきたと思われます 1867年徳川慶喜の朝廷への「大政奉還」の奏上から「王政復古の大号令」で新政府が誕生し、政治の流れが定まりかけた翌年慶喜は反旗を翻し「鳥羽・伏見の戦い」にうって出ます、しかし数日戦い形勢悪しと見るや兵を置いたまま船で江戸へ逃げ帰ります、幕府の要職を罷免され江戸で閑居させられていた勝海舟が海軍奉行から陸軍総裁の職を与えられ、新政府軍との対峙を背負う事になります ここからは萩に花のアップです 海舟は迫り来る有栖川親王を総大将とする新政府の大軍から江戸市中と市民を守ることと、圧力をかけ目前に迫る外国勢に対し国内二分する戦いは避けるべきだとの考えで慶喜を説得し、和平提案を政府軍参謀西郷隆盛と交渉する、江戸総攻撃を3月15日に控えた前日、互いに主君をも恐れず直言実行を実践する二人、互いに相手の人格と実行力を理解していた二人、共和政治と慶喜は隠棲蟄居ただ徳川家は安堵をもって早期停戦・江戸城開城に同意し、江戸市街戦と江戸の住民150万人の生命と財産が戦火から救われました、いわゆる「江戸城無血開城」歴史に残る会談でした 西郷側から見れば、江戸城には皇女・和宮と薩摩出の天璋院・篤姫の存在があったのも一つと考えられますが・・・ ↑早やススキの穂が大きくのび風に波打っていました 勝海舟その後請われて明治政府の外務大丞、海軍大輔、海軍卿を歴任しましたが........ 明治26年没、享年77才 臨終のことば 「コレデ オシマイ」 ・・・常林寺 京都市左京区田中下柳町33 ....... 京阪電車・出町柳駅南・・・・・・・(写真は、H24年9月に撮影したものです)
2018.10.01
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