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カテゴリ: 易経勉強ノート
【はじめに】

歴史をまとめる際の態度ですが、本田済先生の「易」の考え方と同様、
実証的に整理するのではなく、
易が古来の人々にとって何であったのか、どのようなものであったのかという観点から整理します。
易経及びそれを解説した十翼、春秋左氏伝、国語、その他著名な占例をメインとし、易学そのものの歴史は必要な範囲にとどめます。

目次
1. 神話時代:易経の中の繋辞伝、説卦伝を参照。包犠、神農。
2. 五帝時代:夏王朝までの時代。史記五帝本紀による。黄帝、尭、舜など。


■包犠(ほうぎ)の時代
1.包犠について 。
・包犠あるいは伏羲(ふっき)とは中国古代神話の帝王。姿については、頭は人間であるが体は蛇であったとか(「古代中国」講談社学術文庫 貝塚茂樹著)、頭は人間で体は丑だったとか言われる。封神演義にも登場する。
・包犠は、易の八卦のほかに、文字や結婚の制度を定めた。

2.包犠、人の性、天の命を貫く理屈を追求しようとして、神様に助けられてメドキを用いて卦を立てる方法を作る(設卦伝)。具体的には
(1)まず八卦(乾、兌、離、震、巽、坎、艮、坤)を作る(易経繫辞(けいじ)下伝)
 ・上を向いては天の日月の象徴を見て
 ・下を向いては地の山沢などに手本を見て
 ・鳥獣の羽毛の文様とそれぞれの土地に宜しい草木金石を観察して
 ・近いところでは身体の眼や口から祖型をとり
 ・遠いところでは雷や風などのものから祖型をとった

(3)以上を以て万物の実情を類型を以て示した。
3.八卦を重ねて64卦(以下「大成卦」という。)を作る。
 ∵八卦だけでは複雑な変化の世界を表現しえないため
4.64の大成卦の「離為火」から「縄を結び付けて網を作り出す知恵」を編み出し、民に教える。これにより獣を狩で仕留め、魚を採る方法を教えた。

離為火は下記の卦。

―  ―
―――
―――
―  ―
―――

つまり
―――
―  ―
―――
が二つ並んでいる。これは目の形に似ている。
つまり目が二つ並んでおり、網の目が連続する形に等しい。

さらに離為火は、徳として「麗く(つく)」特性を有する。
これは獲物が網にかかる意味を暗示する。

■神農の時代
1.神農について
・神農(しんのう)とは中国古代神話の帝王。姿については、頭は牛で体は人間であったと伝えられる(「古代中国」講談社学術文庫 貝塚茂樹著)。
・神農は、農耕のほか、医薬、商業を伝えた。
2.さらに、64の大成卦から様々な知恵(鋤の使用、市場の発明)を民に教える。
(1)神農は「風雷益」から、木から鋤を作る方法を教え、鋤で草を切り耕す便利を民に教えた。この頃には鉄はなく、木を鋭く削って鋤の頭とし、木の棒を撓めて鋤の柄とした。

風雷益は、下記の卦。
―――
―――
―  ―
―  ―
―  ―
―――

上の2つの陽爻は柄の取っ手に、
中間の3つの陰爻は柄の曲がった部分に、
下の1陽は鋤の頭に相当する。

風雷益の上卦「風」は入るの徳をもち、
下卦「雷」は動くの徳を持つ。
つまり、桑が動いて土に入るの象を持つ。
(率直に言って強引な解釈と感じますが、繋辞伝にはそのように書いてあります)。

(2) 神農は「火雷噬嗑(ぜいごう)」から、太陽が日中にあるときに市場を開いて天下の民を招きよせて、天下の財貨を集め、交易した後に退散させ、各人が欲しいものを得られるようにした。

火雷噬嗑(ぜいごう)は下記の卦。

―――
―  ―
―――
―  ―
―  ―
―――

火(日)、
―――
―  ―
―――
すなわち太陽が上にある。

―  ―
―  ―
―――
すなわち雷は、動き回る意味を持つ。
日中に人々が動き回るので市場の象がある。

【五帝の時代】 
歴史というよりも、伝説の時代ですが、史記本紀はここから始まります。

【日本史】

〇日本への伝来
513年(継体天皇7年)百済から五経博士 段楊爾が来日。五経には易経も含まれる。
516年 五経博士 段楊爾が五経博士 高安茂と交代。日本に易経を講義。
天武天皇、陰陽寮(中国の占術、呪術関係の官職をすべてまとめたもの)の設置。
奈良時代の養老律令によると、陰陽寮では陰陽博士が易経の教習を受け持った。平安時代においても易経の研究が行われた。
〇宿曜師 仁海(藤原道長の時代)
・1032年日照りが続く。6月6日宿曜師 仁海が易筮で占うと、龍が地底に伏しているため雨が降らないと出た。仁海が祈祷を行い龍が天に上がったので雨降るだろうと、源経頼に予言する。はたしてその予言通り7日、8日に雨が降った。
・三条天皇の眼病の原因を易筮で占った。仁海、物の怪のたたりではなく、薬を用いれば治るといったが、藤原道長は受け入れず、三条天皇を病気を理由に退位を迫り、自分の外孫の後一条天皇を立てた
〇藤原頼長
頼長は関白 藤原忠実の次男。学才あり天才肌の人間で、24歳の時に易経に出合い嵌りこむ。易経を学びしきりと筮竹で占いを立てたが、当たるときもあれば外れる時もあった。
頼長はその後、藤原氏の氏の長者となる。保元の乱で敗死。
〇源頼朝
・1180年平家全盛の時、以仁王の命令で源頼朝は挙兵したとき平兼隆を討つ出陣を易占で行った。具体的には頼朝母方の伯父 藤原邦通と、筑前国住吉社の神官に生まれた佐伯昌長に命じたところ、二人とも8月17日の寅の刻(午前4時)を吉とした。頼朝はその薦めに従い挙兵し勝利した。
〇後醍醐天皇
・1321年、元の国から俊明極という禅僧が来朝。彼は後醍醐天皇とあった後「帝のご運勢には「亢龍の悔いあり」という卦が表れている。また二度帝につく相が出ている」といった。
「亢龍の悔いあり」とは、乾為天 6爻で「あまり高く上りつめた龍は降下のおそれがある」という意味の卦。この占い通り、後醍醐天皇は二度帝位についたのち、足利尊氏の離反によりその地位を失った。
・元弘の変により後醍醐天皇は鎌倉幕府から隠岐に流された。その後、楠正成等の活躍で次第に鎌倉幕府は劣勢になり、後醍醐天皇は沖から伯耆の船上山に移った。その状況を見た足利尊氏は、鎌倉幕府の六波羅探題を攻め落とし、後醍醐天皇を京都に迎えようとした。しかし、鎌倉幕府はまだ健在であったので京都に入ると幕府軍の逆襲に合う恐れがあった。そこで後醍醐天皇自ら筮竹を取り占い「地水師」がでた。これは「正義を貫くための戦いはやむを得ないのだから、迷わず万事強気に進め」というもの。そこで天皇はすぐさま凶へ向かった。占い通りに、それから間もなく鎌倉幕府は攻め落とされた。
〇足利学校
〇武田信玄
・武田家家臣の長坂長閑が武田信玄に徳厳なる占者を推挙。武田信玄は「占いは足利学校にて伝授か」と問うと、徳厳はそうではなく、ある文殊堂に籠り夢相で八卦を会得したとこたえた。信玄は、目に見えない夢で易学がわかるかといいぷいっと横を向いた。(「甲陽軍艦」)
〇徳川綱吉
1693年~8年間自ら易経の講義を行う240講に及び易経の全般に及ぶものだった。
儒教を好み湯島聖堂を立てる。
〇江戸時代以降、朱子学教育が幕府により力がそそがれたため、筮竹を用いた占いが盛んとなった。
〇真勢中洲
・ある武士が友達に借りた脇差をなくしたため、中洲をたずねた。葬礼に出るため脇差を借りたが、脇差を返して20日も経ってから、友達が「これは私の脇差ではないから元の脇差を取り戻してくれ」と言ってきたとのこと。
 中洲が占ったところ、「水雷屯」とでて「地雷復」とでた。
中洲の判断。屯は衆に通じる。「衆」はあつまる意味だから、葬礼で人が集まるときに脇差を取り違えたのだろう。そういって方角を見ると「葬式の家より西方で借りた脇差が、葬礼の家の北方にある」と出た。それを聞いた武士が葬礼の参列者を調べて訪ね回ったところ、なくした脇差が出てきた。
■参考文献
呪術が動かした日本史 武光誠 NESCO





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最終更新日  2017年07月29日 19時16分27秒
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