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01. 乾為天 5爻 日清戦争占話考 10 甲申事変4 清国との談判交渉 「新型コロナウィルス巣ごもり企画」の続きです。 さて、前回の続きであり、甲申事変の後始末についての占例となります。 【背景】前回ご紹介したとおり、甲申事変の後始末のための交渉の日本側の大使には伊藤博文が任命されました。清国側の全権大使は全北洋通商大臣の李鴻章です。 日本と清国とのこの交渉がどのようになるかは、当時の国内世論の超注目ニュースでした。そして、前回ご説明のとおり、日本国内では「清国討つべし」の強硬で主戦的な国民世論が沸騰していました。しかし、当時の日本が清国と戦をするということは国力の差から見て、到底考えられることではありませんでした。 高島嘉右衛門の親友、伊藤博文も清国との戦争は極力避けるべきという考えであることを高島は知っていました。 しかし、かといって、もし伊藤博文が清国に妥協した交渉をすれば、日本国内からすさまじい非難を浴びることは容易に予想されることでした。 そこで、彼は密かに一人この談判の成否を占いました。結果が悪ければ、自分の心の内にとどめる予定だったのでしょう。 【結果】乾為天(けんいてん) 5爻 ―――――― 〇―――――――――――― これ以上ありえない良い結果です。 【高島の判断】 まず、前提知識を説明します。 ■前提知識の説明 乾為天と陰陽について この卦を乾為天(けんいてん)と呼びますすべて爻が陽(―――)で構成されています。その中には一つの陰(― ―)もありません(純陽の卦)。[i]。 古代では、世界は、二つの要素、陽(プラス)と陰(マイナス)で成り立つものと考えます(陰陽二元論)。陽の究極のもの、すべてが陽のものを天と捉えました。逆に、陰の究極のもの、すべてが陰のものを地と捉えました[ii]。また、世界の始まりもこの陰陽二元論から考えました。すなわち、世界は混沌(カオス)からはじまり、それが純陽である「天」と純陰である「地」に分かれ、動き出したと。そして、歴史はまず神々の歴史から始まるのでした[iii][iv] 天も地も究極のもの、理想であり、現実のものではありません。現実世界は常に不純物が含まれます。あたかも100%の善人、100%の悪人がいないように。 乾為天が出たら、この存在する、理念的「天」のメッセージを、読み取る必要があります。天の意志、天の理念です。天の意志に従った生き方には二つのパターンがあります。一つは、天の意志を実現するように主体的に努力をする生き方。もう一つは、すべてを天にゆだね成り行き任せとする生き方[v]。 乾為天における天の意志に従った生き方とは、この前者の天の意志を実現するように主体的に努力をする生き方を言います。[vi]。 以上を前提に高島嘉右衛門の判断を説明します ■卦の判断高島嘉右衛門は、この乾為天から、易の神様が、伊藤博文に天の意志を実現するように精一杯に努力しなければならないとのメッセージを与えたと判断しました。象伝には「天行は健なり。君子以て自ら彊めて息まず。」とあります。これは、太陽が運行して少しの間の休むことがないのと同じように、君子は休み事無く努力しなければならない、という意味です。 ここから高島は、交渉は先手必勝、先に進む方が勝つと判断しました。今回、大使を日本から清国へ派遣する。これは、日本が先手を打っているということである。このように日本から進んで談判を開くのは乾の精神、「天の意志を実現するように主体的に努力をする生き方」を実行するものであるから、勝算は日本にある。勇敢に進んで談判すれば万事良いことが得られると高島は判断しました。 ■爻の判断爻は、5爻でした。 (1)爻辞易経には「飛龍天にあり。大人を見るに利あり」とあります。飛龍、つまり龍が時と処を得て思うがままに力を発揮し飛んでいます。大人、つまり徳も位も立派な人と会えばいい結果となるよ、が訳です。 時と処を得て思うがまま力を発揮するのは伊藤博文です。その伊藤博文が、大人(李鴻章)と会うのがいいよ、というのが爻辞の当てはめとなります。 (2)応爻による分析一般に易の卦は6つの棒(爻)により構成されます。この六つの棒には、お互いにパートナーが居りまして、下から一番目と四番目の棒(爻)、二番目と五番目、三番目と六番目はお互いに相応関係があり、その関係によって事の良しあしを判断します。 易の世界では陰と陽が結びつくことがよしとされ(「応」といいます)、陽同士、陰同士はいまいちとされます(不応)ただし、これには例外があって、乾(全部陽)の二爻と5爻はお互いに陽であるが、応じる(よい)とされています[vii]。 5爻のパートナーは2爻。5爻は伊藤博文で2爻は李鴻章。これはお互いに応じうる関係です。高島は、それを次のように説明します。 5爻(伊藤博文)と2爻(李鴻章)は、共に陽爻である。本来は陽と陽ではなく、陰と陽が応じるものであるが、今回は、乾為天の陽爻同志だから、応じると判断される。これは、いずれも国家を思う情は同じであって応じないということはないという易のメッセージである。我が国の大人伊藤博文と清国の大人李鴻章とが会見して談判を開くのであるから、きっと遠い将来を配慮し目先の小事などを顧みることないであろうと判断しました。 (3)坤為地からの分析そして、遠い将来を配慮し目先の小事などを顧みることない、ということを坤為地の5爻をヒントに、さらに敷衍します[viii]。 つまり、乾の裏卦(陰陽をすべてひっくり返した卦)の5爻は「黄装元吉」とあります。直訳すると、「黄色いはかま。大いに吉」となりますが、この黄色いはかまを、黄色人種とかけて解釈しました。つまり、伊藤博文、李鴻章ともに、各国を代表して交渉に臨むが、それは目先に小事である。内心にはともに黄色人種としてアジアの未来を考え、欧米に対する危機感を共有するので、お互いに助け合いアジアの独立の観点から交渉は上手くいくと。 【その後の展開】1.高島嘉右衛門、鑑定書を伊藤博文に渡す「これはいい占い結果がでた!」、高島嘉右衛門は小躍りして喜びます。「さっそく伊藤博文に知らせ励ましてやらなければならない!」明治18年(1885年)2月28日、伊藤博文は横浜港から清国へ向かうということは新聞にも書かれており高島嘉右衛門も知っていました。そこで、彼は、占い結果を鑑定書にしたため、伊藤博文に渡そうと、横浜港まで見送りに行きましたが、見送り人は数百人も居て、結局渡すことができませんでした。 がっくりして帰宅し数日過ごしたところ、高島嘉右衛門の知り合いの横浜弁天通りの商人 立川磯兵衛が、天津に渡航する予定があると聞きました。そこで、彼に伊藤博文に自分の書いた鑑定書を渡してくれと依頼したところ、立川磯兵衛は、「まったく、この時期に物好きな」と思いつつも、高島の熱意に押され、渋々、渡すことを引き受けてくれました。立川は、渡航後、天津にて、伊藤博文に随行していた書記官、伊東巳代治[ix]に頼みました。伊東巳代治も「まったく」と思いつつも、伊藤博文がときどき高島嘉右衛門の占いを頼っていることは知っていたので、渋々引き受け、伊藤博文に、高島の鑑定書を渡したのでありました。 2.伊藤博文の発奮伊藤博文が、高島嘉右衛門の鑑定書を受け取ったとき、李鴻章との交渉は、まさに暗礁に乗り上げた時でした。「もうダメだ。」と伊藤博文は荷物をまとめて帰国しようとしていました。 この交渉について、ここまでの清国 李鴻章と伊藤博文との交渉経緯を遡りながらご紹介します。 (1)清国と日本との交渉の目的(前提知識)この交渉の目的は甲申事変の後始末にありました。具体的には、甲申政変の事後処理と、この事変により生じた日清両国の緊張状態の解消でした。甲申事変の事後処理は、朝鮮国との間では漢城条約により合意されていましたが、日本国と清国は武力衝突をしているため、清国との交渉も必要でした。しかし、日清の交渉が、武力衝突が清国軍隊の勝利で終わっていたため、日本は交渉上非常に不利な立場でした。 交渉の課題は、なおも朝鮮半島で睨み合う日清両軍隊を撤兵させることと、甲申政変中に在留日本人が清国軍によって加害されたこと(日本商民殺傷事件)の責任の追及でした。特に、この日本商民殺傷事件については、国内マスコミも注目しており、交渉担当者である伊藤博文には安易な妥協は許されませんでした。 しかし、日本は武力衝突で負けた立場です。そのような中で、清国に日本商民殺傷事件の責任を認めさせ、さらに日清両国軍の同時撤兵を主張するのは難しい問題であり、交渉決裂の可能性がかなり高いのではないかと、交渉前から日本政府首脳間では予測されていました。 (2)日本と清国との交渉(高島嘉右衛門の鑑定書を受け取るまで) 横浜を発った伊藤博文一行政府交渉団は、約1か月後の3月21日に北京入りししました。清国側は交渉の席を天津に設け、交渉が日本国と清国との交渉が開始されました。 まず、日本側は、朝鮮国王要請によって王宮内に詰めていた竹添進一郎公使と日本公使館護衛隊が袁世凱率いる清国軍隊の攻撃に晒されたことはまったくの遺憾であると主張し、さらに漢城市街で清国軍人によって在留日本人が多数殺害・略奪されたとして清国を厳しく非難しました。そのうえで、朝鮮からの日清両国の即時撤兵と、日本商民殺傷事件に関係する清国軍指揮官の処罰を求めました。 これに対して清国側は、まず日本は朝鮮国のクーデタに協力した疑いがあるとして、軍を出動させた竹添公使の行動を強く非難しました。そのうえで、漢城における日本商民殺傷事件は、暴徒化した朝鮮の軍民によって引き起こされたものであり、清国軍の関知しないところであると関与を否定しました。 それをスタート地点に両国の交渉が始まりますが、両国の朝鮮半島の撤兵問題に関しては、アジアの平和の早期回復の観点から、早い時期に合意を得ることができました。しかし、撤兵後、どのような場合に半島への両国の軍隊を派遣するかについてが食い違いが生じ、議論が平行線をたどったままでありました。 これ以上続けても妥結の見込みない、と伊藤博文は交渉継続を諦め、まさに荷物をまとめ始めたときに、高島嘉右衛門の鑑定書が届いたのでありました。 (2)伊藤博文の発奮鑑定書を受け取った伊藤博文はこれを読み大いに発奮します。鑑定書の隅から隅まで舐めるように読み、易経の言葉を思い出し、これまでの交渉を振り返ります。たしかに、ここで日清両国の交渉が決裂し、アジアで日清朝鮮がいがみ合っていたら、もっとも得をするのは北方の国ロシアのはずでした。そして、このロシアの脅威は、1881年にロシアと国境紛争をおこなった清国も重々承知しているはずです。(→「25.无妄(むもう) 2爻 日清戦争占話考 2 東トルキスタン イリ地方をめぐる国境紛争」参照)清国も日本もお互いに喧嘩している場合ではなく、目先の小事に引きずられずに、アジアの平和のためにともに協力し合うことべきであり、これが天意と、伊藤博文も感じました。 たしかに、この交渉は武力衝突に負けた日本には分がない。しかも、国内では、日本がクーデターに関与していたことを国内では隠しているため、国内世論も強行であり、交渉はますます進めづらい。 しかし、だからといって、「本当に一身を擲って、天下国家のために交渉力を尽くしたと言えるだろうか?」と伊藤博文は、この交渉を振り返り自問自答したのでした。 もっともっと苦しい外交交渉が明治期の日本にはありました。1871年 台湾に漂流した宮古島54名殺害事件の後始末に関する清国と日本との交渉です。そのとき、政府責任者 大久保利通は、大国清国を相手に一歩も引かず交渉を治めました。 「今こそ踏ん張るべきだ。」伊藤博文は気持ちを持ち直し、李鴻章に、交渉の再開を打診します。 (3)交渉の再開腹をくくった伊藤博文は、再度、両国の朝鮮半島の撤兵問題を議論します。伊藤と李鴻章のあいだの交渉は6回におよびました。伊藤は第三国の侵攻など特別な場合を除いて、日清ともに出兵するべきではないと主張したのに対し、李は朝鮮が軍の派遣を要請すれば清国は宗主国として軍を派遣しないわけにはいかないと反論し、壬午軍乱や甲申政変といった内乱であっても出兵はありえると主張しました。しかし、伊藤も一歩も譲らず、結局、両国の永久撤兵案は退けられたものの、出兵に関する相互通知を取り決めることで合意に達しました。また、同時に、日本商民殺傷事件に関する関係者処罰も取り交わすことに合意に達します。結果1885年4月、なんとか日本側の面目もたもつ形の条約(天津条約)が締結されるに至りました[x]。この条約により、日清両国は朝鮮半島から完全に撤兵することとなるとともに、以後出兵する時は相互に通知すること(「行文知照」)が義務付けられることとなりました。 なお、この通知(「行文知照」)の意味のとらえ方は、日清両国で違いがあり、これが日清戦争の直前に顕在化します。 ※なお、このブログに出てくる高島嘉右衛門は、易占の名人であり横浜の実業家でありますが、彼の著書である「高島易断」と、似たような名前の団体とは関係がありません。甥にあたる高島徳右衛門氏が証明しております。「周易学占(三)」老園卓昌より 【参考文献】訳注高島嘉右衛門占例集 鴨書店 竹中利貞高島易断(仁、義、礼、智、信) 八幡書房朝日選書「易」(本田済)易学大講座1~8 紀元書房 加藤大岳日清戦争 大谷正著 中公文書いっきに学びなおす日本史(下) 東洋経済 安達達郎詳説世界史研究 木下康彦他 山川出版社易経 明治書院 今井宇三郎他易占の要諦 武隈天命周易学占(三)老園卓昌古事記 角川ソフィア文庫 中村啓信聖書 日本聖書教会 [i] これに対して、すべてが陰の卦(純陽の卦)を坤為地(こんいち)と呼びます。[ii]易経の解説書 「繋辞伝 上」は、次のようにはじまりす。「天は尊く地は卑くして、乾坤定まる。」(天は高くあって上に在って万物を多い、地は低くして下にあって万物を乗せている。この天地の定理に従って、純陽の卦である乾と純陰の卦である坤との二卦が定立された)[iii]古代日本の易の大家である太安万侶が書いた古事記の序文は次のように始まります「それ混元既に凝りしかども、氣象いまだ敦《あつ》からざりしとき、名も無く爲《わざ》も無く、誰かその形を知らむ。然《しか》ありて乾と坤と初めて分れて、參神造化の首《はじめ》と作《な》り、陰と陽とここに開けて、二靈群品の祖となりたまひき」(宇宙のはじまりの混沌がやっと固まってきた。気も形のくまどりも現れず、名もなく、作用もなく、したがって、誰もその形を知らない。しかし、混沌は、二つに初めて分かれて天と地になった。その天に三人の神が天神の初めとなり、陰と陽も初めて分かれその地に男女二神が万物の祖先とおなりとなった)[iv] 西洋の古典、旧約聖書 創世記は次のように始まります。「初めに、神は天地を創造された」[v] すべてを天にゆだね成り行き任せとする卦は、以前、ご紹介しました天雷むもうです。[vi] そこから、君主たる道という意味も「乾為天」が指し示すと言われます。[vii] 本田済 「易」乾2爻の解説。程氏。[viii] 一般に、乾為天が出たときは、坤為地を加味して解釈すると判りやすいといわれます(「易占の要諦」武隈天命)[ix]伊藤巳代治は、伊藤博文の側近。英語に堪能で伊藤博文が工部卿の時から仕えていた。明治17年(1884年)3月からは、憲法起草のため、宮中に極秘に設けられた制度取調所に出仕し、議長である伊藤博文の下で、井上毅、金子堅太郎とともに、憲法の起草にあたっていた。[x]清国が譲歩した背景には、フランスとの清仏戦争がなおも続いていたことや、交渉が長引くことによって日本がフランスに接近することを防ぎたいイギリス側からの働きかけがあったといわれます。
2020年05月31日
「新型コロナウィルス巣ごもり企画」の続きです。さて、本日は、前回からの続きの甲申事変の後始末についての占例です。 日本政府は甲申事変の後始末として、朝鮮国へ井上馨外務卿を特派全権大使として派遣し、1885年(明治18年)1月、漢城条約において、朝鮮政府に日本公使館が焼失したことと日本人が殺害されたことを謝罪させました(前回ご紹介のとおり)。 さて次の問題は、清国との交渉をどのように進めるかです。当時の新聞マスコミも清国との談判について様々な議論がなされます。大きな論点は、誰を清国との談判の使節に任命すべきかということでした。 この議論が世論を賑わせていた1885年1月、高島嘉右衛門は例年通り避寒のため熱海温泉の温泉におりました。 囲碁仲間からまた所望されたのでしょうか。世論をにぎわすこの問題につきミーハー根性丸出しで占ったのであります。 【結果】高島の占筮の結果は師の5爻でした。 ― ―― ― 〇― ― ― ――――― ― 師とは、軍隊、戦争を意味します。現在でも、師団という言葉は陸軍部隊の一つの単位として使用されています。 【高島嘉右衛門の占断】高島は、爻辞を素直に解釈して結論を出しています。そこで、まず地水師5爻の爻辞をご紹介します。 ■爻辞の紹介 「六五、田有禽。利執言。无咎。長子帥師。弟子輿尸。貞凶。」(六五は、田に禽[とり]有り。執言に利あり。咎无し。長子は師を帥ゆ。弟子は尸を輿す。貞凶なり) 訳すと、前半。田んぼに実る穀物を荒らしに鳥がやってきた。相手の非を鳴らして討っても咎はない。後半。長男の場合は、軍隊を統率する。次男以降は死人を車で運ぶので凶。もう少し説明します。 ■前半部分六五、田有禽。利執言。无咎。(六五は、田に禽[とり]有り。執言に利あり。咎无し。) (1)田有禽(田に禽有り。)田というのは穀物を作るあの田んぼ。朝鮮国のことなのかもしれません。日本にとり、清国は、朝鮮という田んぼを荒らしにやってきた害鳥なのかもしれません。 (2)利執言。无咎。(執言に利あり。咎无し。)「執」は、もとは取る、捕まえる。「執言」は、鳥を捕まえるのですが、直接手で捕まえるのではなく、「言葉(言)」で捕まえる。転じて、言い分を立てに取り、相手の非を鳴らして討つ。 この相手の非とは、高島は、清国の軍隊がやってきて日本人を殺したことと捉えました。だから、清国の日本人殺害について、出かけて行って詰問する。十分理に適っていることであり、清国としても反論できない。 ■後半部分長子帥師。弟子輿尸。貞凶。(長子は師を帥ゆ。弟子は尸を輿す。貞凶なり) 長子は長男、弟子は次男以降を指します。 高島は、誰が談判交渉にあたるべきかをこの後半部分から読み取ります。 (1)日本政府内の権力闘争(背景知識)前提として当時の政府内の権力闘争を整理します。 当時は藩閥政府と言われていたことからもわかるとおり、伊藤博文を領袖とする長州閥と黒田清隆を領袖とする薩摩閥が政府を牛耳っていました。そして、伊藤博文をリーダーとする長州閥は、朝鮮問題については平和路線を主張し、清国との戦争をなるべく避けるべきと主張していました。対して、薩摩閥は、朝鮮問題についての見解が一致していませんでした。薩摩閥の中堅官僚(高島鞘之助、樺山資紀、仁礼景範、野津道貫)は、対清開戦を恐れずに強硬策を突べきと積極策を取っていましたが、リーダーの黒田清隆は明確な態度を取っていませんでした。また、緊縮財政を進めていた大蔵卿(現在の財務大臣)松方正義は主戦論に反対していました。このように薩摩閥は、朝鮮問題について意思統一が図れなかったため、政治力で長州閥に後れを取っていました。 その結果、外交問題については長州閥である伊藤博文、井上馨が主導権を握り進めていました。しかし、政府内において、甲申事変の原因が次第に明らかになり、長州出身の竹添公使の稚拙な内政干渉が原因であったことが明らかになると、長州閥の外交上の失敗に対する批判が高まり、薩摩閥の発言力が次第に増してきました。さらに景気のいいことが大好きなマスコミの好戦的なムードが薩摩派・主戦派の背中を後押しします。 それまででしたら重要な外交交渉は文句なく伊藤博文が進めることで落ち着いたでしょう。しかし、薩摩派閥の発言力の増大と好戦的世論の煽りによって、日本政府内で議論されている交渉方針はかなり強硬なものへとエスカレートしていきす。 その交渉方針を談判するに適切な者はだれかが問題となったわけです。好戦的な交渉路線に反対する伊藤博文か。好戦的な薩摩閥の誰かを交渉担当とすべきか。 (2)長子。。。弟子。。。高島は、長子を、当時の日本政界の老練な政治家で、長州出身である伊藤博文であると判断しました。 これに対し、弟子が誰を指すかについては、高島易断には明示されていません。 しかし、おそらく当時の次官レベルの人物、薩摩閥の高島鞘之助、樺山資紀、仁礼景範、野津道貫のいずれかを指していたのではないかと推察します。 (3)長子帥師。(長子は師を帥ゆ。)交渉とはいえ、日本政府内の基本方針は、かなり強硬なものへとエスカレートしております。事実上、戦争、まさに「師」と言えましょう。この基本方針を背負って談判するのだから「長子は師を帥ゆ」。 爻辞を説明する象伝は、「長子帥師」の説明として、「以中行也」(中行なるを以てなり)といいます。伊藤博文は、強硬論の政府方針、世論を背負いながら中庸の立場を進み、緩急宜しくを得て平和的解決を図ると判断しました。 (4)弟子輿尸。貞凶。(弟子は尸を輿す。貞凶なり) 爻辞を説明する象伝は、「弟子輿尸」の説明として、「使不當也。」(使うこと当たるざる也)といいます。 清国との談判は、日本の国益の立場から、自国の国力と国際情勢、日本の将来を視野に入れ冷静に考え柔軟に対応しなければならないが、次官レベルの人間は、世論や政府内の体面に引き面れ硬直的な対応しか取れずに談判が決裂してしまいかねない(貞凶なり)。このような難しい談判をこなす器ではない(使うこと当たるざる也)。 弟子、つまり当時の次官レベルの人物(薩摩閥の高島鞘之助、樺山資紀、仁礼景範、野津道貫のいずれか)はいずれも今回の難しい談判をこなす器ではないと判断したのでしょう。[i] そこまで明確に、高島易断には言い切っていません。次官といえでも政府高官であり、悪口を言うに憚れたのでしょう。 高島易断には「詳しく説明することはできないが、爻辞を推察すればさらによく吉凶を知ることができる」とのみ記載します。 【その後の展開】その後まもなく伊藤博文が全権大使に任命されました。 次回は、この伊藤博文の清国との談判の行方に関する占例をご紹介します。 ※ なお、このブログに出てくる高島嘉右衛門は、易占の名人であり横浜の実業家でありますが、「高島易断総本部」や「高島易断総本家」が発行する書籍とはまったく関係がありません。【参考文献】朝日選書「易」(本田済)易学大講座1~8 紀元書房 加藤大岳日清戦争 大谷正著 中公文書訳注高島嘉右衛門占例集 鴨書店 竹中利貞高島易断(仁、義、礼、智、信) 八幡書房 [i] ここで思い浮かぶのは太平洋戦争勃発時の政府首脳です。冷静に判断すればだれもが無謀な戦争とわかっていたのにかかわらず、政府中枢の人間は、自らの体面や政府内の地位にこだわり引きずられて芯の持った柔軟な対応ができませんでした。まさに「貞凶なり」、「使うこと当たるざる」で戦争指導をできる器の人間がだれもいなかったといえましょう。結果として「弟子は尸を輿す」とたくさんの犠牲者を出す結果となったわけであります。
2020年04月26日
本日は、占い愛好家 風鈴としての投稿です。新型コロナウイルス感染拡大をうけての政府の自粛要請で家にいる時間が増えています。ずっと中断していた日清戦争占話考をすこしずつ更新して参ります。 前回は、かなり遡りまして2019年1月6日の日記「28. 沢風大過 5爻 日清戦争占話考7 甲申事変の勃発」からの続きとなります。【背景】甲申事変の後始末として、日本政府は、井上馨外務卿を特派全権大使に任命しました。その交渉のため、1884年12月24日井上馨を横浜から出港し朝鮮へ向かわせました。 この交渉は難航が予想さました。 というのも、甲申事変で日本人居留民の殺害がありましたが、そもそもこのクーデターに日本の竹添公使や軍隊も関与していたからです。この事実を日本政府は伏せていました。もしこれを公開すると日本政府の失策により日本国民の殺害を招いたことが公となり、マスコミによる責任追及がなされますし、朝鮮政府との交渉でも不利となるためです。しかしその結果、国内では無垢の国民が朝鮮政府に殺害されたという形で理解され、「戦争か謝罪を要求すべき」との強硬な主張が世論を覆っていました。 朝鮮政府も日本政府のクーデター関与を疑っています。さらに、たとえ日本政府がクーデターに関与していなかったとしても、クーデター後の、金玉均らも求めに応じ朝鮮政府への通達なく兵を率いて王宮に入ったことを強く非難しました。 もしこの交渉が決裂すると清国の介入を招き、日本と清国の戦争に発展する恐れもあります。当時の日本の軍事力・経済力では、清国との全面対決は回避すべきと、政府内では考えていました。 そこで伊藤博文は、12月25日、井上馨の横浜から出港の日の翌日に、高島嘉右衛門を訪ね、この甲申事変の事後処理に関する交渉はうまくいくのか、占うように依頼をしました。 【結果】履 4爻―――――― ――― 〇― ――――――― 【判断】甲申事変は、日本政府がクーデターに関与していましたが、これは国家の張重要機密事項であり、高島嘉右衛門も知りません。高島易断では、それをベースに判断が書かれているため、周辺部分についてはピントはずれの内容となっています。つまり、高島易断では、4爻の一つ手前の3爻から背景説明が延々と描かれていますが、ピントが外れていますので省略し、4爻について、本田済先生のえ易(朝日選書)も参考にしつつ、噛み砕いて説明したいとおもいます。 ■4爻の解説 4爻は「九四、履虎尾。愬愬終吉(虎の尾を履む。愬愬[さくさく]ついに吉なり。)」とあります。そして、象伝では、それを解説して「象曰、愬愬終吉。志行也(象に曰く、愬愬[さくさく]終には吉なるは、志行われる也)」と説明します。 「虎の尾を履[ふ]む。」諺にもありますね。危険が差し迫っています。普通ならば当然噛まれてしまいます。でも、結論としては噛まれません。 4爻は陽―――であり、これが4番目の位置、ここは陰の位置におります。 強い力を持ちながら従順な態度を保持する。このように噛まれないように恐れて(「愬愬」とは、おそれるさまを言います)慎重に進めるならば、目標を達することができ、吉をえる。 これが爻辞の解釈となります。 そこで高島は、交渉は平和のうちに決着すると判断しました。 なお、高島嘉右衛門は追加説明として、履の4爻―――――― ――― 〇― ――――――― を変じると中孚 ―――――― ― ― ― ――――――― となる。 中孚は、平和、当方は喜び、先方も従うとなると補足しました。 高島嘉右衛門は、この占断を12月25日、伊藤博文に伝えました 【その後の展開】1.高島嘉右衛門、マスコミに占いを説明。 この甲申事変については、日本政府の関与にかかわる事実は伏せられていました。その結果、不十分な情報のまま、国民が他国の野蛮な軍隊により殺害されたとクローズアップされ、和戦いずれかの議論がマスコミで沸騰していました。 12月27日、交詢社という実業家の社交クラブから、高島嘉右衛門に、井上馨の朝鮮政府との交渉成り行きについて、説明してほしいと依頼がありました。依頼主は福沢諭吉。交詢社というのは慶應義塾大学出身の実業家を中心に結成された社交クラブだったため、福沢諭吉が創立者でした。 高島嘉右衛門は、この交詢社で、履4爻の解説を行い、和平は決裂せず、平和のうちに決着する。よって、戦争には発展しない旨を説明しました。それを聞いた、福沢諭吉をはじめとする聴講者は、「野蛮な軍隊が、勝手に日本国民を殺害し、軍隊の伴わない話し合い交渉で解決するということがありうるのか?」と疑っている表情だったとのことでした。 ジャーナリストの福地源一郎が、高島嘉右衛門に、交詢社でも講演を新聞に寄稿してくれと依頼しましたので、翌年1985年1月1日付の東京日日新聞に掲載されました。この記事を読んだ、時事新報の記者は「そんなことありうるか。」と馬鹿にし、「文明開化の時代に易占などというあやしげな迷信じみたものはあてにならない、近代の時代、力による武力討伐でなければ抑えきれない」と嘲笑したのでありました。 2.井上馨による朝鮮政府との交渉と漢城条約の締結 1月2日より、日本政府と朝鮮政府による交渉がはじまりました。日本側が井上全権大使、随員の井上毅、朝鮮側が左議政(副首相相当)全権大臣金弘集等でした。 まず、日本政府と朝鮮政府との間では甲申事変の事実認識について、食い違いがありました。 朝鮮政府は日本政府のクーデター関与を疑っています。また、日本軍が、クーデター後に、金玉均らの求めに応じ朝鮮政府へ通達なく兵を率いて王宮に入ったことを非難していました。日本政府は、日本軍が王宮に入ったのは、朝鮮国王による依頼があったからだと、国王の親書と玉璽の押された詔書を示し自らの正当性を主張します。これにより日本軍の王宮に入った事への朝鮮政府の追求は後退しますが、両政府お互いに自身の正当性を主張して譲らず、平行線をたどる状態は変わりありませんでした。 井上馨は、まず、今回の課題は日朝両国関係の速やかな修復であることを強調します。確定できない過去の出来事について議論をしても埒はあかないのであり、双方の主張の食い違いを全て棚上げにし、明白は事実を対象に交渉をまとめ上げましょうと提案します。 そのうえで日本政府のクーデタへの関与を否定します。これは竹添公使と日本軍が関わっているにもかかわらず嘘、詭弁にも近い行為であり、非常に危険な交渉態度と思われます。嘘ということになれば朝鮮政府との交渉が決裂するのみならず、清国との関係も悪化し、国際社会での信頼すら失われてしまいます。 易経「虎の尾を履む。」というのは、まさにここを言っているのではないかと思います。 しかし、慎重に丁寧に議論を進めた結果、最終的には朝鮮政府側の金弘集全権は井上の提案に同意します。 まさに「愬愬[さくさく]ついに吉なり。」「愬愬[さくさく]終には吉なるは、志行われる也」であり、従順な態度を保持し、虎に噛まれないように恐れて慎重に進むことで、目標を達することができたのでした。 1月9日漢城条約が締結されました。その条約には、朝鮮国王の謝罪、日本人死傷者への補償金、日本公使館再建費用の負担などを定めました。 3.高島嘉右衛門のドヤ記述マスコミは、「戦争だ戦争だ」と騒ぎ、高島嘉右衛門の「交渉は平和のうちに決着する」との判断を馬鹿にしました。 でも、結論は高島の言うとおりになりました。自分の事を馬鹿にしていた福沢諭吉をはじめ、様々なジャーナリストや新聞記者の顔が浮かんだのでしょう。 高島易断には、「どうだ!思い知ったか!」とでも言わんばかりの記述が記載されています。 「しかるに天理の定数はすこしも過たず、ついに私の易占の言葉は一つも違わなかったことは、まことに絶妙であるので記してその証拠とするものである」 ※ なお、このブログに出てくる高島嘉右衛門は、易占の名人であり横浜の実業家でありますが、「高島易断総本部」や「高島易断総本家」が発行する書籍とはまったく関係がありません。 【参考文献】朝日選書「易」(本田済)易学大講座1~8 紀元書房 加藤大岳日清戦争 大谷正著 中公文書訳注高島嘉右衛門占例集 鴨書店 竹中利貞高島易断(仁、義、礼、智、信) 八幡書房いっきに学びなおす日本史(上下) 東洋経済 安達達郎詳説世界史研究 木下康彦他 山川出版社
2020年04月18日
あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。 連載も滞りがちとなってしまい申し訳ありません。 本年中の連載終了を目標にこれから日清戦争に突入し、さらに下関講和条約までと、頑張っていきますのでどうぞよろしくお願いいたします。 本日は、1884年12月に起こりました甲申事変についての占例をご紹介します。まだ、日清戦争勃発(1894年)の10年前のお話ですがどうかお付き合いくださいませ。 【背景】1880年代当時、朝鮮政府内において、朝鮮の近代化の進め方について二つの勢力がありました。 一つは日本の明治維新を見習って急進的に近代改革を進めようとする金玉均、朴泳考らの急進開化派。もう一つは、清との宗属関係を維持しながらゆっくりと改革を進めようとする金弘集ら穏健開化派です。 壬午政変後、清国の宗主権が強化されました。金玉均、朴泳考らの急進開化派は、この清国の宗主権の行使に反対し、清の影響力を排除しようとする動きに出ます。 1883年、ベトナムをめぐって清国とフランスとが対立を深めたことは前回の日記でご紹介したとおりですが、これにより、84 年4月、清国は、朝鮮に駐屯した軍隊の半数を引き揚げます。そうすると朝鮮では、今までいた清国の軍隊がごっそり減り、不安な空気が漂い始めます。動揺した朝鮮国王 高宗は日本に接近するようになりました。 当時、日本はフランスからも清国に対抗するための同盟の誘いかけがありましたが、それを断り中立的な立場をとります。[i]しかし、清仏戦争が進行し、清国の劣勢が伝わると、日本外務当局の一部には、朝鮮半島での清国の影響力排除を意図する勢力が現れます。 84年10月30日に漢城に帰任した竹添進一郎公使もその一派でした。彼は漢城帰任すると対朝鮮積極政策を行い、急進開化派に接近するとともに、対清戦争を公言するなど朝鮮政府内の親清派を刺激するようになります。これが金玉均、朴泳考らの急進開化派の前のめりな気持ちを刺激します。 【甲申事変の勃発】1884年12月4日、金玉均、朴泳考らの急進開花派は、郵征局(中央郵便局)の開局記念祝賀会を機としてクーデターを起こします。 彼らは、祝賀会に出席していた閔氏の最有力者である閔泳翊(みんよんいく)を襲い、国王を昌徳宮から景佑宮(きょんうぐん)に移します。そして急を聞いて景佑宮(きょんうぐん)にやってきた閔氏政権の有力者を殺害し、翌5日には国王高宗を擁して新政権を樹立、6日には政治綱領を公布しました また、彼らは竹添公使に日本公使館警備兵の出兵を求め、王宮の護衛を求めます。これに対して、清国側も反撃に転じます。朝鮮在住清国軍の責任者である袁世凱は朝鮮政府に進軍緒出兵を要請させ、軍隊を王城に迫り、日本軍に発砲するとともに、兵隊に命じて日本の商人を殺させました。 甲申事変の失敗が明らかになると、竹添公使は、事変の首謀者である金玉均や朴泳考の日本への亡命とともに日本に逃げ帰ってきました。 日本国民が清国軍隊に殺害されたという事実は当時の新聞によりセンセーショナルに報じられました。日本政府は、この甲申事変のクーデターに日本が関与していたという事実を国内では伏せていました。もしこれを公開すると日本政府の失策により日本国民の殺害を招いたことが公となり、マスコミによる責任追及がなされるためです。しかしその結果、国内では無垢の国民が朝鮮政府に殺害されたという形で理解され、「戦争か謝罪を要求すべき」との強硬な主張が世論を覆っていました。不十分な情報をもとに無垢な国民が殺されたということだけがクローズアップして、マスコミの議論は沸騰します。突発的な事件だった、原因は清国と日本軍のいざこざ、発砲の責任者は誰か議論されました。「発砲したのは清国軍からだった。」「いや日本国民が殺害されたのは、日本軍が先に清国に発砲したからだ。」などといった記事が新聞を賑わせます。「悪いのは清国であり、迅速に日本軍を派遣すべき」と日本の新聞の大勢ですが、仮に日本軍を半島に派遣すれば清国との戦争のおそれもあります。 そこで、高島嘉右衛門は、この甲申事変の結果はどのようになるか占いました。 もちろん高島嘉右衛門も、日本政府がクーデターに関与していたという事実は知らされていません。【結果】大過 5爻― ―――― 〇―――――――――― ― 【高島の判断】■まず高島は、当時新聞の議論の中心であった清国軍、日本軍のどちらが発砲したかの議論について、卦の判断から読み解こうとします。 1.上卦と下卦からの分析 大過の上卦 兌と― ―――― ――― 下の卦 巽が――――――― ― 見てわかりますように― ―が一番下と一番上に在り、あたかもお互い口をそれぞれ外に向けているように見えます。二人が背中合わせで互いに納得しない象です。 どちらが悪いかについては容易に回答は得られないと判断しました。 2.似卦の観点から さらに― ―――― ―――――――――― ―の卦は、 坎(水)― ――――― ―の卦に似ています。 そこから、清国と日本は水掛け論をしているが、そこからも結論は容易に得られないと判断しました。 ■談判の行方次に談判の行方について変爻(五爻)を中心に読み解きました。 ― ―――― 〇―――――――――― ― 1.日本側から見た談判の行方五爻を変じると― ―― ――――――――――― ―となります。 これは恒久の「恒」の卦です。そこで談判は長引くと判断しました。 2.清国側から見た談判の行方さらに恒の卦を上下をひっくり返すと、咸― ――――――――――― ―― ―の卦となります。 この卦は、本来は、男女がお付き合いを開始する前の卦です。下卦 若い男―――― ―― ―が、下に遜っている。しかし、気持ちのみでありなかなかアプローチできず身が止まっている(艮)。上にいる(上卦)若い女、― ―――――――には、想いは伝わっており、喜び待っている(兌)。 本来はそういう意味の卦です。 この若い男を清国と見て、清国は降参して和を求めていると見ました。 3.大過5爻陽爻が陰爻に変わることについてさらに、高島は5爻の陽爻が陰爻に変わることに着目し、さらなる背景を読み解きます。5爻の陽が陰に変わるところをもって、清国は本来は戦いたくないと考えていました。 しかし、5爻が陽→陰と変わっても、その下の4爻は陽のままです。この4爻をもって、朝鮮における日本公使館公使 竹添公使が動かず虚勢をはって降参しない象とみました。 そして、この竹添公使の虚勢について危機感を抱いています。 4.談判についての日本側の取るべき方針その上で、日本としては平和に処理をすることを基本方針として、戦争につながることのメリットデメリットをよくよく考えるべきであると警告しました。 ■日本と清国が戦争に発展する場合のメリットデメリットについて易経の辞から読み解きました。 1.彖辞からの分析彖辞はつぎのようにいいます。「大過、大者過也。棟橈、本末弱也。剛過而中、・・・」 (大過は、大なる者の過ぎたるなり。棟橈むとは、本末の弱きなり。剛過ぎたれども中し、・・・) 以下、分けて説明します。 (1)「大過、大者過也」(大過は、大なる者の過ぎたるなり)。今日本が清国と戦争することは、大過、つまり大きな過ちであるといっております。 (2)「棟橈、本末弱也」(棟橈むとは、本末の弱きなり)なぜならば、今の日本には遠く海外へ出兵し、長期の戦争の耐える実力を持ってはいない。軍備は完全ではなく、勝利することを確実ではない。したがって、清国と戦争することは、あたかも材木の根元と上端が弱く撓んでいるようなものだというのです。 とはいえ、この大過をひっくりかえしても大過なので「本末の弱きなり。」の状態は清国にとても同様であると判断しました。 (3)「剛過而中」(剛過ぎたれども中し)過激に走らず、中正で万全の策をとるべきであると警告します。 大過の象は下記のとおりです。― ―――――――――――――― ― これは上と下は陰(― ―)であり穏やかであるが、間が陽(―――)で剛に過ぎています。ここを警告します。 当時、日本政府内でも日清両国関係に関する対立路線がありました。対清開戦を恐れずに強硬方針を取るべきという積極派と、対朝鮮、対清開戦は極力避け、平和的解決を図りながら外交政策を図るべきであるという消極派の対立です。 外交政策を主導している政府首脳(井上馨、伊藤博文宮内卿)は消極策を取っていました。 これに対して、政府の実務を担う次官以下の中堅層(陸海軍内の薩摩派閥である高島鞘之助(たかしまとものすけ)、樺山資紀、仁礼景範(これかげのり)、野津道貫(のづみちつら))は、積極策を取っていました。積極策の立場の人は、台湾出兵以来、清の対日感情は悪化し、早晩回線は避けられない、そして軍事力は時とともに清側に有利となる。したがって、いまが開戦のチャンスであり、交渉は無意味であるとの立場でした。 民間知識人も、強硬論を唱えていますが、さらに下層の平民は日々の生活でいっぱいいっぱいです。 この状態、つまり政府首脳と下層平民は戦争に消極的だが、その間の層である政府中堅層と士族が積極策を取っている状態が、「上と下は陰(― ―)であり穏やかであるが、間が陽(―――)で剛に過ぎている」大過の象と同じというのです。 そして、これと同じ状態は、15年前の征韓論と西南戦争に到る日本の状態と同じだというのでした。そのことを想起し、過激に走らず、中正で万全の策をとるべきであると警告しました。 2.象辞からの分析象辞はつぎのようにいいます。「澤滅木、大過。君子以獨立不懼。遯世无悶。」(澤の木を滅[つ]くすは、大過なり。君子以て獨立して懼れず。世を遯[のが]れて悶うること无し。) 過激に走らず、中正で万全の策をとるべきということは、象辞からも読み取れます。 象辞「獨立不懼。遯世无悶。(獨立して懼れず。世を遯[のが]れて悶うること无し。)」 中間層(政府中堅と士族)が形成する強硬論に対して、政府首脳としては孤立を恐れず世論から受け入れなくとも気にすることなく、政治の大道を歩むべしと諭します。 当時、大政奉還後の改革(廃刀令、秩禄処分)により、旧武士たちのアイデンティティーは傷つき、失業問題が深刻化していました。西南戦争によって西郷が破れ武力による反乱は亡くなりましたが政府への不満は言論による攻撃に変わります。ジャーナリズム形成の萌芽ともいえ望ましいことですが、そのために国家百計を誤ってはなりません。世論に評価されなくとも、政府首脳は君子の道を堂々と歩むべしと伝えたのでした。 3.序卦伝からまた、談判が不首尾に終わり戦争になった場合について、卦の順番に基づいて、日本も清国も救いのない象となると警告します。 卦の順番を説明する序卦伝によると、大過の次は坎為水となります。坎為水は大艱難の卦で、もし不幸にして戦争となれば両国とも大艱難に陥るとしました。 4.得爻(5爻)の爻辞から5爻の爻辞は下記のとおりです。「九五、枯楊生華。老婦得其士夫。无咎无譽(九五は、枯楊華を生ず。老婦其の士夫を得。咎も无く譽れも无し。)象伝は「枯楊生華、何可久也。老婦士夫、亦可醜也。(枯楊華を生ずとは、何ぞ久しかる可けんや。老婦士夫とは、亦醜ず可きなり。)」といいます。 楊とは、柳のこと。爻辞の大意は下記のとおり。 枯れた柳(枯楊)に花が咲くが、花は一刻のあだ花、久しからず枯れる(何可久也)。老女が若い男を見つけるが、子供はできず恥ずかしい結合である。たとえ一時の愛を得ても、遂にその子を生じるという利を得ない。 以上の大意を踏まえ、高島は、一旦、戦争となれば華々しいこともあろうが災難ともなって、その後に親和しようとしても、日本には頼みとする利益はない。 5.以上要するに、戦争につながることについてはデメリットしかないと高島は読み解きました。 ■談判の際の心構えそれでは戦争を避ける方針で談判するとして、留意点は何か。 当時の朝鮮国の行使は、対朝鮮積極政策を主張し推進している竹添公使でした。甲申事変の失敗により、彼は日本に逃げ帰ってきましたが、今も、朝鮮外交の責任者はです。 1.上爻から談判は、1884年12月の翌年(あるいは翌月)となりますので、高島は、得爻の一つ上の爻、上爻で判断しました。 上爻の爻辞は下記のとおりです。「上六、過渉滅頂。凶。无咎。(上六は、渉るに過ぎて頂を滅す。凶なり。咎无し。)」それを解説する象伝は下記のとおりです。「過渉之凶、不可咎也。(渉るに過ぐの凶は、咎む可からざるなり。)」 上六というのは大過の一番上の爻、身の程が過ぎるの極致と言えます。爻辞の大意は下記のとおり。身の程過ぎる人間が、天下など救えることはないのに飛び込めば、頭までずっぽりと沈み込むようなもので凶。ただし、国家のために行う以上、義としてはとがめだてできない。 もし竹添公使が再度朝鮮に行って万が一異変が起きれば、いよいよ国力を尽くして征討しなければならなくなり、大艱難に陥る。 もちろん、竹添公使も危機を承知で乗り込むのであり自らの栄達や一身のためではなく、日本国および自分の仕事のために行う以上、咎めだてはできないが、、、というのが易経の答えになります。 2.その他高島易断には、「日本国と朝鮮、清国の談判には、先方が必ず自らの非[ii]をごまかそうとする動きがあるから、そこを指摘したうえで我が国の政府が開戦と決心すれば、易の上では一つの良策といえる。しかしこのことは機密に属し多聞を憚るので、担当者以外にはこれは陳述できない。」との記載があります。 一体これが、どの根拠に基づいた判断なのか判然とはしませんが、ひょっとしたら高島は、自らの秘策を友人である伊藤博文あたりには知らせているかもしれません。 【その後の展開】日本政府は、事の重大さから、竹添公使ではなく、井上馨外務卿を特派全権大使として朝鮮との交渉に派遣することにしました。※ なお、このブログに出てくる高島嘉右衛門は、易占の名人であり横浜の実業家でありますが、「高島易断総本部」や「高島易断総本家」が発行する書籍とはまったく関係がありません。【参考文献】「世界史リーフレット 人 袁世凱」 山川出版 田中比呂志朝日選書「易」(本田済)易学大講座1~8 紀元書房 加藤大岳日清戦争 大谷正著 中公文書訳注高島嘉右衛門占例集 鴨書店 竹中利貞高島易断(仁、義、礼、智、信) 八幡書房いっきに学びなおす日本史(上下) 東洋経済 安達達郎詳説世界史研究 木下康彦他 山川出版社[i] フランスと同盟することは、朝鮮半島での日本の支配権を強化することに有利です。しかし、日本がフランスの影響下におかれる危険があり、新たな火種が生じる恐れがあります。それが日本が、フランスの同盟の誘いかけには応じず中立方針を取り続けた理由です。目先の戦いに勝つことに引きずられず大局観を失わないこの当時の日本人の感覚は、本格的な戦争をせずに(戊辰戦争等の小さな内乱はありましたが)大政奉還をして国家の改革を最優先としたことにも現われますが、見習うべきものがあります。[ii] ここで「自らの非」について思い当たるものがあります。当時、清国の朝鮮防衛責任者は袁世凱でした。甲申事変勃発直後、閔妃ら事大党は密使を清国へ送り軍の出動を要請します。当初清朝は清仏戦争など内外ともに多事であったこと、また中朝間にはまだ電信線が開通していなかったこともあり、意思決定をするに多くの時間を必要としていました。ところが袁は下命を待たずして直ちに軍を差し向けてクーデターを鎮圧し宗主国としての体面を保つことに成功します。上司の李鴻章は袁のこの活躍を大いに賞賛します。しかし、袁のこの行動が日清間の風波を起こしたことも間違いなく、袁世凱は継母の病気を口実に一時的に朝鮮を離れて帰国していました。したがって、交渉の際に日本側が、清国軍の迅速な対応を指摘し、あるいは「朝鮮進出の野心があったのではないか、甲申事変を予想していたのではないか」詰めれば、袁世凱、李鴻章を攻める口実となり清国内の政治抗争をつなげれば、日本は有利に交渉を進められる可能性がありました。に
2019年01月06日
1883年(明治16年)5月に高島嘉右衛門が、清国がフランスに戦争をしかけるかについて占った占例です。 予め結論だけ申し上げますと、高島は、清国から戦争は起こさないと判断しています。しかし、1884年清仏戦争が勃発してしまいました。 清仏戦争発生までの経緯は複雑ですが、高島のこの占いは外れたと考えていいかと思います(違った考えの方がある場合はコメント願います)。 高島易断は、正直に自分が外れた占いは、外れたと紹介しています(地水師四爻 軍艦「畝傍」の安否)これに対して、この占例については外れたとは明示していません。しかし、あたった(はたして占いのとおりの結果となった等)との記述もありません。※ちなみにここで「高島易断」とは、本の名前であって、占い師の集団である高島易断とは無関係です。私も、高島易断とは無関係ですので念のため。 しかし、判断そのものについては水風井の理解にも役立ちますし日清戦争前のアジア外交の事情理解にも役立ちますのでご紹介させていただきます。 【背景】 当時のベトナム王朝の阮(げん)王朝は、1802年に成立した王朝ですが、成立時は、清国よりもフランスと親密な関係を築いていました。阮王朝の成立の際はフランスの支援を得ていたためです[i]。 しかし、王朝成立後、ベトナム政府のキリスト教への排外政策が激しくなる中で、フランスとベトナムの関係は微妙になります[ii]。 ベトナムは、フランスとの関係が微妙になると、今度は清国へ軍事支援を求めるようになります。歴史的にベトナムは永い間中国の強い影響下にありましたので[iii]、清国は、これ幸いと、ベトナムへ軍隊を派遣します。そうしますとフランスも、これに軍隊に対抗するために追加軍隊をベトナムへ派遣します。そうしてますます、清国、フランス、ベトナムは緊張は高まっていきました。 そうした中1882年4月、フランス派遣軍の隊長アンリ・リビェール海軍大佐は、突如、ハノイ城を攻撃します。突然の事だったため、ハノイ城はすぐに陥落しそこを守っていた阮王朝の総督ホアン・リュは自殺します。阮王朝は、このフランスの行動に激高し、清国にさらなる援軍を求めます。清国は、その要請にこたえ、軍を派遣し、ベトナム内の重要拠点(バクニン、ソンタイなど)を占領します。フランスは、清国のこの行動を受け、対抗措置として増援軍750人を派遣し1883年3月ナンディンを占領します。ところが、このナンディン占領後、フランス軍隊長リビェール海軍大佐は、ハノイへ帰る途中の同年5月、太平天国の乱の軍の残党 黒旗軍と交戦し戦死します。黒旗軍は清国軍ではありませんが、この黒旗軍もベトナム政府が、フランスと対応するために招聘していた軍隊でした。 リビェール大佐の戦死の報を受け、フランス国内の世論も沸騰。今まで、アジア辺境地域の出来事として、何の興味も持っていたかったフランス国内の世論も、ベトナム討つべしとと盛り上がります。 フランス、清国、ベトナムの対立と、フランス世論の強硬な盛り上がりは、日本の新聞でも報道されます。「すわっ、戦争か!」、日本の世論も沸き立ちます。 この世論の沸き立つ1885年5月、高島嘉右衛門は、清国がフランスに戦争を起こすかについて占ったのでありました。 【結果】水風井の4爻でした。 ― ――――― ― ○――――――― ― 【高島の易断】高島は結論として、清国はフランスと戦争に起こさないと判断しました。 1.卦卦辞は次のように言います。井、改邑不改井。无喪无得。往來井井。汔至亦未繘井。羸其瓶。凶。 (井は、邑を改むるも井を改めず。喪うこと无く得ること无し。往くも來るも井を井とす。汔[ほとん]ど至らんとして、亦未だ井に繘[つりいと]せず。其の瓶[つるべ]を羸[やぶ]る。凶なり。) 井とは、井戸のこと。 井戸は、そこから汲み上げる水によって、人とモノを養うものであり、これは清国そのものを意味すると考えました。 以下、卦辞を分けて説明します。 ○井、改邑不改井。无喪无得。往來井井。(井は、邑を改むるも井を改めず。喪うこと无く得ること无し。往くも來るも井を井とす。) 現在のように水道設備が整っていなかった時代、日本においても中国においても、井戸は人間生活の基本でした。人々はそこから水を汲み、その水で咽喉を潤し、作物を育てていました。今の時代でいえば、井戸の卦は水道と捉えればイメージが近いでしょう。 井戸を中心に田んぼが作られ、人家が並び、それがひいては村になっていきました。井戸は生活インフラです。ですから王朝が変わり、行政単位が変わっても、井戸が変わることはありませんでした(「改邑不改井」)。 井戸から汲み上げられる水は汲んでも汲んでもいつまでも尽きることなく、逆に井戸に汲みに行く人がいなくとも水があふれることもありません(「无喪无得」)。人が来るときも、井戸から帰るときも、井戸はその姿を変えることなく静かに佇んでいます(「往來井井」)。 このような井戸を高島は清国の象徴ととりました。清国は大国で物産が豊富であり、他国はみなこの国と貿易をし、その恩恵を受けています。水を汲むものが去ればまだ汲んでいないものが来るように、貿易の品が尽きないことは丁度井戸水が枯れることがないのと同じであると捉えたのでした。 ○汔至亦未繘井。羸其瓶。(汔[ほとん]ど至らんとして、亦未だ井に繘[つりいと]せず。) 井戸はこのように生活の基盤、多くの恵みをもたらす豊かさを持ちますが、水を汲むための釣瓶や縄がなければ役には立たないという欠点があります。この井戸の欠点という性格の象徴についても、清国の現状から見てとっています。 つまり、清国は航海術がまだ巧みではなく、船舶も堅牢ではないから、自国の船舶を持って自国の物産を輸出することができません。いつも他国の船舶が来て搬出するのを待っており、そこが丁度井戸水が自分から外に出て用を足すことができず、人に汲みだされて後に物を潤すことができるのと同じととらえました。そして、このような航海術、船舶の弱さから、フランス国と戦争を起こそうとしても戦うことができないと判断しました。 ○羸其瓶。凶。(其の瓶[つるべ]を羸[やぶ]る。凶なり。) 易経の卦辞では、その水を汲む釣瓶が切れたといっています。ここから、もし清国が自国の国力を量らずに戦端を開くことがあれば、その開港地も動揺して貿易上の障害になると判断しました。そのため、フランスとの戦争を清国が起こすことはないと、念押し判断しています。 2.爻 4爻の爻辞は下記のとおりいっております。六四、井甃。无咎(六四は、井甃[いしだたみ]す。咎无し。) 井戸は、生活インフラとして人々に飲み水を提供するものですから、濁っていない清らかな水を提供できることが重要です。井戸が壊れ、井戸水が土で濁るようなときは、井戸を修理しなければなりません。しかし修理すれば、井戸は、また清らかな水を提供できるようになります(「井甃。无咎」) 高島は、清国がフランスと戦争を起こした場合を、井戸が壊れ、井戸水が汚れるイメージととりました。 清国がフランスと戦争を起こせば、船舶の交通が阻害され局外中立の各国政府は貿易上の障害がおこることを心配することとなる。また、仮に、フランスが清国を侵略して領土を広げた場合、列国平等の均衡を失い、あたかも井戸水をフランス国に専用されうことを心配し、仲裁に入って和睦させられることになる。 このことから清国はフランスに対して自ら戦端を開くことはなく、フランスと戦争をしてトナムを救済するゆとりもない。フランスもまた各国に妨げられて十分な力を伸ばすことはない。 よって、フランスと清国との間に戦争は起こらないと判断したのでした。 ○沢火革との関係さらに易経の卦の配列でいうと水風井の次は沢火革となります。ここは高島嘉右衛門の特殊性がでた占法です。水風井4爻から沢火革4爻までは7つの段階をとおります。 この沢火革4爻は九四、悔亡。有孚改命、吉。(九四は、悔亡ぶ。孚有りて命を改むれば、吉なり) とあります。悔いが亡ぶ時期であり。信念を持って革命を起こせばいい結果が生まれるという意味です。 そこから、今から7年後、つまり1890年には、清国は革命の象があると判断しました。清国としては戦争をしてはならず、もし、今清国がこの事件に対処する策を誤り戦争を起こすときは、必ず変革を免れない状態に追い詰められるだろうと判断しました。 【その後の経緯】その後の経緯は次のとおりです。 1.条約締結とベトナムの植民地化 リビェール大佐の戦死をきっかけにフランス国内世論の高まりを受け、フランスは2000人の増員軍隊をベトナムのトンキンに派遣します。増員軍がトンキン到着後、フランスはすぐさま首都に向けて砲撃を開始、8月20日、首都フエを占領しました。 おりしもベトナムは、皇帝のトゥドゥック帝が7月に死去した直後、窮地に追い込まれます。その結果、8月25日、急ぎ暫定的な仮条約をフランスはベトナムと締結し、ベトナムがフランスの保護国であることを承認させることに成功します。 仮条約締結後、ベトナム国内では反フランス勢力があちこちで反抗の態度を示しますが、1884年6月 本条約(パトノゥトル条約)が締結されます。 この条約では、ベトナムはフランスの保護国となる事、ベトナムの対外関係はフランスが一切ベトナムを代表することなどが定められ、これによって、ベトナムはフランスの完全な植民地となりました。 この1884年6月までは、清国は、フランスに対して戦争を仕掛けていません。この時点までは高島嘉右衛門の1883年5月時点の占いは当たったとえななくはありません。しかし、占いから1年3か月後の1884年8月、清仏戦争が勃発してしまいます。 2.パトノゥトル条約後~清仏戦争~天津条約締結まで ベトナムも、清国もフランツとベトナムで結ばれる条約を守るつもりはありませんでした フランスはベトナムとのパトノゥトル条約締結作業と並行して、清こくとの間で、ベトナムの支配権に関する法律関係を整理するための条約交渉を行います。交渉の結果、1884年5月(つまりパトノゥトル条約締結より前)フランスと清国との間で条約が締結されます(フル二エ条約)。ここにおいて・フランスは清国国境を尊重すること・清国は、ベトナムから撤兵し、フランスとベトナムとの条約(パトノゥトル条約)を尊重することを定められます。 条約交渉は清国側は李鴻章が行ったのですが、条約締結後、西太后が、李鴻章に、フランスに譲歩してはならないと訓命を発します。その結果、条約に定め(「清国は、ベトナムから撤兵すること」)に反し、清国はベトナムのトンキン地方からの撤兵を拒否します。 これをきっかけにフランスと清国との間で戦争が始まってしまいます。フランス政府が清国に宣戦布告をし戦闘が開始されました。そして、この戦争は清国の惨敗に終わります。海上では、清国艦隊は撃破され、陸上も清国国境に接する地域(ランソン、テュエンクヮン)をフランスは奪います。 その結果、1885年6月、清国とフランスとの間で天津条約が結ばれました。天津条約では、ベトナムと中国との関係は絶たれ、ベトナムはフランスの完全な植民地となりました。 【評価】さて、高島嘉右衛門のこの占いについてですが、冒頭にも書きました通り、外れたとみていいと思います。 ●1883年5月の占いで、1884年6月までは戦争は発生していないのでその限りでは、外れてはいないと強弁できないこともないかもしれませんが、占いの際に、「今後1年の間はどうか」といった問いがないのであれば、外れたといえると考えま。 ●また「清国からは戦争を起こさない」との占断に対して、戦争はフランスから起こしているので外れてはいないと強弁する理屈もありうるかもしれません。実際、易経は幸運のための行動の指針を示すもので、当てるものではありません。とはいえ、戦争は起きました。ここは潔く当たらなかったと考えるべきでしょう。 ●さらに、「清国は戦争を起こしてはいけない」と判断したのに、西太后が馬鹿だから、戦争が起きてしまったのだという強弁も考えられます。 もしもこの結果を高島嘉右衛門の友の伊藤博文が聞いたならば、戦争回避に全力を尽くしたでしょう。しかし、それでも当たったとはいえないですよね。 ●ちなみに、1890年には、清国は革命の象がありとの判断について。1889年に清国は、徳宗(光緒帝)の親政が始まります。光緒帝は後に本格的な改革運動として戊戌の変法を行いますが、それは日清政争敗北後の1898年からとさらに先のことです。しかも、この戊戌の変法は、保守派の反撃にあい、3か月で失敗に終わるものでした。 もしも1890年から改革を行って、それが成功していれば、日清戦争だってどうなっていたかわかりません。 しかし、清王朝による改革そのものが失敗に終わり、王朝そのものが消滅することは歴史が示した通りなわけです。 結局、この占いについては高島嘉右衛門は外れていると判断せざるを得ません。 ただ、だからといって高島の易経の意義をおとしめる者ではありません。易占いで重要なことは、「当てること」ではなく「幸運に導くこと、そのための指針をあたえること。」にあるためです。また、清国とフランス戦争は、日本にとって、そして、高島嘉右衛門にとっても所詮は他人事でした。易では、他人事、真剣みのない占いは当たらないというのが一つの教えとしてあります(「我童蒙求むに非ず。童蒙我を求む」)。これもそんな一例ということで(当たるも八卦、当たらぬも八卦。。。)。 ちなみにもし私だったら、4爻 爻辞を中心に見ます。 すると六四、井甃。无咎(六四は、井甃[いしだたみ]す。咎无し。)からみると、戦争はないと判断すると思います。 ではなぜここで紹介したかということですが。 当時のアジア諸国の外交は、欧米列強の植民地化を回避するということで、どの国も必死だったということです。この必死さが、清国、朝鮮、日本の国内各改革の原動力になるとともに、外交においても様々な火花を散らすことになるわけであります。 この火花の蓄積が日清戦争という沸点まで盛り上がっていくわけでありまして、さて、次回は、その火花の一つ甲申事変に関する占例をご紹介します。 【参考文献】朝日選書「易」(本田済)易学大講座1~8 紀元書房 加藤大岳物語 ヴェトナムの歴史 小倉貞男 中公新書詳説世界史研究 木下康彦他 山川出版社 [i] 阮(げん)王朝が前の政権であるタイソン(西山)王朝と戦った際に、フランス人宣教師 ニョー・ド・ベーヌの援助を受けたためです。ちなみに江戸幕府もフランスの軍事的支援を受けていましたので、もし明治維新が起っていなかったら、日本もベトナムのようにフランスの植民地になっていたかもしれません。[ii]阮(げん)王朝が、キリスト教の迫害を始めると、フランスはスペインと協力し出兵し、1862年に第一次サイゴン条約を結びキリスト教の布教の自由のほか領土の割譲を阮王朝に認めさせます。さらにその後もフランスは侵略を進め1874年に第二次サイゴン条約を締結しソンコイ川の航行権などの貿易上の諸権利を持ちます。そこで、阮王朝は、清国や黒旗軍(太平天国の乱の残党)と手を結びフランスに反抗しました。[iii] 中国のベトナムへ支配は紀元前111年の漢帝国の支配に始まります。その後ベトナムの各王朝は中華帝国との対立、交渉を繰り返します。清国にとっては、ベトナムは朝貢国の一つであり、中華帝国の辺境の一部という意識がつねにあったわけです。
2018年08月17日
前回の続き。 高島嘉右衛門は、壬午事変後の交渉について「厳しい交渉ではなく、辛抱して朝鮮が受け入れられる談判に留めるべき」とアドバイスしました。 これに対して、伊藤博文がいうには。。「今、厳しい交渉するのは、今後の清国との関係を慮ってのものなのです。 もしも、朝鮮半島をめぐる清国との勢力争いが激化して、戦争ということにでもなれば、それを見越して厳しい談判をせざるを得ないのです。 高島さん、日本と中国との関係を占ってください」と頼んだのでした。 伊藤博文のこの願いを聞き高島は日清両国の関係(戦争に発展するか)を占いました。 【背景の補足】どうして両国はそんなに対立するようになったのでしょうか。背景を補足説明します。 (読むのが面倒くさい人はここは飛ばしても構いませんよ) まず、日本側から。明治政府は江戸幕府と異なり、朝鮮半島への影響力拡大のための積極的な態度を取っていました。大きな理由は、朝鮮政府も独自に近代化を進め軍事力を高めロシアの進出に備えてほしいということにあります。 しかし、それだけではありません。そもそも日本は歴史的に朝鮮半島侵略の傾向を持っていたのです。[i] むしろ鎖国政策を取り、朝鮮とも友好関係を保った江戸幕府が例外であったといえましょう。朝鮮出兵に失敗し国力を疲弊させた豊臣政権の反省[ii]を踏まえて徳川幕府は、朝鮮侵略に消極的な政策を取りましたが、歴史的にはそちらが例外的な日本の外交戦略でした。幕府を倒した明治維新により、もとの海外への積極進出的傾向に戻っていったのです。 1879年、まず、日本は琉球藩を廃止するとともに沖縄県を設置します(琉球処分)。それまで沖縄(琉球国)は、日本(薩摩藩)と中国(清国)の両国へ朝貢を行っていたのですが、この琉球処分により、沖縄の清国への朝貢はなくなります[iii]。 清国は、このような日本の半島進出の傾向に危機感を抱きます。アヘン戦争での敗北によりアジア各国の清国離れが加速していました。そのような中、朝鮮は、この動揺しつつある伝統的なアジア外交秩序(清国との朝貢・冊封関係)における最後の優等生でした。その朝鮮だけは手放せないという想いが清国にあったのかもしれません。「朝鮮との朝貢関係だけはなくしてはならない!」 清国にとって、朝鮮は首都 北京の近くの国です。朝貢国たる朝鮮国の独立は、意気盛んな日本の独立と相まって、国家の威信の著しい低下を意味するものでした。 清国は朝鮮政府に対し外交アドバイスを行い、何とか朝鮮政府が清国への朝貢関係を解消しないように努めます。[iv] 今までの清国の朝貢国への態度は、宗主国としては無責任で放任的な態度でしたが[v]、壬午事変に対しては思い切った態度を取ります。 清国は、壬午事変につき駐日公使からの電報により8月1日に初めて知ります。朝鮮政府からは、その後、壬午軍乱鎮圧ため派兵を求められます。今までの清国でしたら、「そんな面倒くさい」とのらりくらりとした官僚的先延ばしをしたでしょう。しかし、今回は違いました。 清国は即座に、北洋大臣代理の張樹声が馬建忠と軍艦三隻を派遣します。つづいて馬建忠から事件の首謀者の大院君を捕えて軍乱を鎮圧すべきであるとの意見が届くと、呉長慶の率いる准軍を派遣します。そして、日本に対してすぐさま、「朝鮮は清国の属国であり今回の事件に関して清は朝鮮を査問して事件の処理にあたる」と通告します。 「あれっ?台湾の時と違う」と明治政府は思ったかどうか。 もし、このまま清国と日本の軍隊が朝鮮半島に集結すると、何かの間違いで戦争に発展するかもしれない。お互いに軍隊を背景にしている以上交渉も厳しいものであることが予想されます。交渉決裂をきっかけに戦争勃発ということもありうる。陸軍大臣山県有朋は、清国との戦争になった時に備え、福岡で混成旅団を編成します。 伊藤博文はこの流れに危機感を抱きます。高島嘉右衛門への占断の依頼には、そのような背景があったのでした。 【結果】高島の占筮の結果は艮為山でした(変爻は不明) ―――― ―― ― ―――― ―― ― 【高島の易断】 艮は二つの山が相対する卦。 ―――― ―― ― は、山を意味し、山が二つ並んでいると見るのです。 この二つの山は清国と日本でしょう。 この二つの山はどっしりと留まり、近づくこともなければ、お互いに応じあうこともない。 だから戦争はない、と判断しました。 卦辞は、「艮其背、不獲其身。行其庭、不見其人。无咎。」(其の背に艮[とど]まりて、其の身を獲ず。其の庭に行きて、其の人を見ず。咎无し。)とあります。 以下分けて説明します。 ・「艮其背、不獲其身。」(其の背にとどまりて、其の身を獲ず。)人体は動くものだが、もっとも動かない部分は背中。「其の背にとどまり」とは、止まるべきところに止まるという意味。 高島は、朝鮮海において清国の海軍と背中を向けあうと解釈しました。 「其の身を獲ず」とは、このように止まるべきところに止まっているのが本質であるので、動くことが本質である人体が、あってもないと同じであるという意味。 日本と清国の軍隊があったとしても、ないに等しい。 ・「行其庭、不見其人。无咎。」(其の庭に行きて、其の人を見ず。咎无し。)直訳すると人のいる庭に行っても、その人が目に入らないのであれば、咎はない。 朝鮮半島には清国人が増え、清国の軍隊も増えるでしょう。」でも、清国人を見ても、畑にかぼちゃを見るように思い、軍人と見なければ戦争にまでは発展しませんよ。 だから心配なさるなと、[vi]高島は伊藤博文に伝えたのでありました。 【その後の展開】高島の占い結果に安心したのかどうか。 日本政府は、清国が日本との対決を考えていないと判断しました。そのように考えた理由として、高島の占いの結果以外にも、清国の日本に対する態度が紳士的であったことがあげられます。 清国は日本に対して、軍隊の派遣は開戦の意図はなく、反乱鎮圧が目的であることを懇切丁寧に説明し、[vii]さらに、前々回占例でご紹介のとおり、壬午軍団の実質的責任者として大院君を拘束しました。 その結果、日本も、清国への対決姿勢を変え、交渉は柔軟な交渉路線へと転換したのです。高島嘉右衛門の占いでいうと「厳しい交渉ではなく、辛抱して朝鮮が受け入れられる談判に留めるべき」とのアドバイスにしたがった交渉(恒初爻)を行ったこととなります。 そして30日、日本と朝鮮との間に済物浦(チョムルポ)条約と日朝修好条規続約が締結されました。 済物浦条約では、今回の責任追及を第一にしています。つまり軍乱首謀者の処刑、日本被害者の葬儀挙行、日本人被害者遺族と負傷者への補償金5万円支払い、賠償金50万円支払い、公使館保護のための日本軍の漢城駐屯、謝罪氏の日本派遣です。 そして、日朝修好条規続約では、朝鮮半島での権益拡大は最小限にとどめました。つまり開港場(釜山、元山、仁川)の遊歩区域拡大、漢城南方の揚花鎮の開市、日本外交官の内地旅行権を朝鮮に認めさせたにとどめています。 そのおかげでかどうかわかりませんが、日本と清国の間には高島の占いのとおり壬午事変後10年間は戦争は起きませんでした。 日本にとってはありがたいことでした。しかし、清国にとってもありがたいことでした。 当時清国は日本と戦争をするゆとりはありませんでした。 というのも、当時の清国はベトナムの支配を巡ってフランスと戦争の危機になったためです(つくづく当時の清国政府の高官は大変だったろうなと思いますが・・・)。 次回は、このベトナムの支配を巡る清国とフランスとの争いに関する占例をご紹介します。 【参考文献】日清戦争 大谷正著 中公文書訳注高島嘉右衛門占例集 鴨書店 竹中利貞高島易断(仁、義、礼、智、信) 八幡書房いっきに学びなおす日本史(上下) 東洋経済 安達達郎詳説世界史研究 山川出版社 [i]古代、大和朝廷が西日本を統一した直後の四世紀半ごろから、日本の朝鮮進出の動きはありました。朝鮮半島南部は鉄が産出されるため、それをめぐり韓人と倭人が争ったという記述が「魏志」にあります。369年には、百済の要請に応じ半島に出兵し、新羅を攻めるとともに弁韓という地域を平定、任那と呼んで支配をはじめます。この任那を中心とした半島経営が古代日本の外交政策の主要テーマとなるわけです。これが聖徳太子の政治や大化の改新にも少なからず影響を与えます。[ii] 豊臣秀吉の死後の大きなテーマは文禄の役の事後処理でした。[iii]我々日本本土の人間は沖縄県は、たとえば千葉県や埼玉県と同じ日本の一つの県という捉え方をしています。しかし、沖縄県の方にとっては必ずしも同じ認識ではないのかもしれません。たとえば、千葉県は、日本政府とは別に独自に清国と朝貢関係を維持していませんでした。そんな歴史の話なんか今は関係ないじゃないかと我々は思うでしょう。しかし、現在だって沖縄県とそれ以外の県は、日本の政府から同じ扱いを受けているとはいえない。なぜアメリカ軍の基地が沖縄県に集中しているのか、日本政府は俺らの国を勝手に占領して、日本が過去に朝鮮国に行ってきたような圧政を敷いていると思っているのかもしれません。[iv]清国の考え方は、在日清公使館の役人である黄遵憲要の著書「朝鮮策略」によく示されています。その本には、「ロシアの進出を防ぐため、中国と親しみ、日本と結び、アメリカと連なり、自強を図るべき事」が解かれていました。朝鮮政府も、この本に基づき外交政策は定めます。[v]清国の宗主国として朝貢国への姿勢は、体面を重んじるものの朝貢国の面倒なことには干渉せず「よきにはからえ」という態度でした。このことが清国と日本との外交トラブルの一因でした。たとえば、1874年、日本人が台湾で現地人に殺されます。日本は宗主国である清国に責任を果たせ、と抗議しますが、清国は取り合いません。それがきっかけとなり日本の台湾出兵が起ります。[vi]さらに、彖辞には「上下敵應、不相與也。」(上下敵應して、相與せず)とあります。高島は、この彖辞からも、彼我相対しても事が起らない、戦争は起こらないと判断しています。[vii] 清国の軍隊の責任者 馬建忠は、朝鮮政府に、日本側の要求を呑む形で交渉するようにと指示をしました。
2018年07月03日
さて、本日は前回の続き。 1882年(明治15年)7月、壬午事変が勃発。日本は、8月に陸海軍を派遣し、花房公使に命じて朝鮮に行かせ、賠償の談判を行わせました。高島嘉右衛門は、日本の談判の行方を占いました。 【結果】高島の占筮の結果は恒の初爻でした。 ― ―― ―――― ――――――― ― ○ 【解説】初爻の爻辞は次のとおり。「浚恆。貞凶。无攸利。」読みは、恆を浚[ふか]くする。貞しけれども凶なり。利ろしき攸无し。 爻辞の解説である彖辞は、次のように言います。「浚恆之凶、始求深也。」読みは恆を浚くするの凶とは、始めに深きを求むればなり。 以下、分けて説明します。 1.「浚恆。」(恆を浚[ふか]くする。) 恆とは、恒。恒久、長い、不変という意味。 浚は、ふかくと読みます。しかし、「深く」とは意味がすこし違う。「深」はありのままの深さで、「浚[ふか]く」は、堀や川をさらって深くするという意味です。浚は、さらうとも読みます。 つまり、「恆を浚くする」とは、恒久なること望んで、その事のみを深く追い求めるという意味。正義の押し売りと本田済先生はいいます。 これを今回にあてはめると日本が追い求めている恒久、正義とは朝鮮の文明開化でしょう。 朝鮮が近代化を推し進め、清国の助けがなくとも独立する力を持つ、そのことが朝鮮のためにもなるし、ロシア進出の防波堤となるという意味で日本のためにもなる。これが日本の考えでした。 そして文明開化は世の中の流れであり必然であると日本政府は考えていた。だからこそ江戸幕府を倒し、明治維新を断行した。この世の中の流れを、朝鮮も理解すべきである、というのが[i]当時の日本政府の立場でした。 その世の中の流れ(情理)を強く望み深く追い求める、これが、「恆を浚くする」です。 2「貞凶。无攸利。」(貞(ただ)しけれども凶なり。利ろしき攸无し) この世の中の流れ(情理)を深く追い求めることは、正しいのだけども凶。 なんの利益もない(「无攸利。」)のだそうです。 3.「浚恆之凶、始求深也。」恆を浚くするの凶とは、始めに深きを求むればなり。 なぜならば、朝鮮としてもまだ近代化に向けて進み始めたばかりだからというわけです。 世の中の流れは順を追ってゆっくりと慣れていかなければならないというのが易の教えでありました。 したがって、朝鮮の近代化のためにと厳しい談判をやりたくなるかもしれないが、辛抱して朝鮮が受け入れられる談判に留めるべきであるというのが結論です。 高島嘉右衛門は、その旨を伊藤博文に、頼みもされていないのに、伝えたのでした。 【その後の展開】このように高島嘉右衛門としては、「厳しい交渉ではなく、辛抱して朝鮮が受け入れられる談判に留めるべき」とアドバイスしました。 これに対して、伊藤博文は、「朝鮮の事は心配するに足らないが、清国との関係は心配です。どうか日本と中国との関係を占ってください」と頼んだのでした。 「朝鮮に対する近代化を強引に進めるつもりはありません。しかし、厳しい交渉するのは、今後の清国との関係を慮ってのものなのです。 もしも、朝鮮半島をめぐる清国との勢力争いが激化して、戦争ということにでもなれば、それを見越して厳しい談判をせざるを得ないのです。」 伊藤博文のこの願いを聞き高島は日清両国の関係(戦争に発展するか)を占ったのでした。 次回、この占例をご紹介します。 【参考文献】日清戦争 大谷正著 中公文書訳注高島嘉右衛門占例集 鴨書店 竹中利貞高島易断(仁、義、礼、智、信) 八幡書房いっきに学びなおす日本史(上下) 東洋経済 安達達郎詳説世界史研究 山川出版社 [i] この考えは明治維新成立以来一貫しています。いわゆる征韓論が発生した原因も、日本の開国和親方針に対して、当時朝鮮政府の実権を握っていた太院君が、侮蔑の態度を取ったことが原因でした。明治政府は再三にわたり朝鮮との条約交渉を行っていましたが太院君は排外的な鎖国政策を変えず、明治政府を侮辱したのです。明治政府の高官も、もともと攘夷を主張しているわけで、大院君の気持ちはよくわかる。でも、清国さえアヘン戦争で負けている情勢で、現実を直視するならば開国を行い近代化を進め、欧米列強に対抗できる軍事力を持つことこそが、正しい道なのだと考えているわけです。この石頭の大院君をなんとかして朝鮮も教導しなければならない、これが日本政府の高官の考えでした。
2018年06月21日
本日は、1882年(明治15年)7月に発生した壬午事変についての占例をご紹介します。 当時、朝鮮国内では国王高宗の妃であった閔氏が勢力を握り[i]、日本の明治維新に倣い日本に接近して国内改革を進めていました。これに対して保守派の大院君がクーデターを起こしたものです。 直接の原因は、13か月も滞っていた兵士への米の支給をめぐるトラブルでした。 1882年7月19日、兵士たちが待ちに待っていた米がようやく支給されます。しかしその米は、倉庫を管理する役人の不正のために屑米や砂の混じる劣悪なものでした。「ふざけるな!」これをきっかけに兵士たちの不満が爆発しました。もともと閔氏の近代化政策のなかで在来軍隊の待遇は悪くなる一方でしたので[ii]、積もり積もっていた下級兵士の不満の爆発です。 「閔氏を殺せー!」7月23日、兵士たちの反発の行動が始まると、そこに零細商人、手工業者などの都市下層民も加わります。 日本の明治維新を見習い、改革を進めていた閔氏政権に対して、零細商人等の都市下層民も不満に感じておりました。1876年の日朝修好条約以降、日本と朝鮮との貿易は拡大しておりましたが、これにより米穀が不足し[iii]米価が高騰しておりました。その結果、漢城に居住する下級兵士、都市下層民の生活が苦しくなっていたためです。 彼らは、閔氏政権の高官の屋敷を破壊し、別技軍教官の堀本礼造少尉を殺害して、さらに奪った武器で武装し、西大門外の日本公使館を襲撃します。日本公使館は焼打ちにされ、公使館を脱出した花房義質公使らや死傷者を出しながら翌24日仁川に逃亡し、最終的にはイギリスの測量船に助けられて長崎に逃げ帰りました。 「閔氏はどこだ!」24日、兵士たちは王宮に向かい閔氏政権の高官を殺害します。しかし、彼らは、最大の攻撃目標であった閔氏を発見できませんでした。彼女は女官に化け王宮を脱出し実家のある、驪州(よじゅ)に身を隠していたのです。 国王の高宗は事態収拾の術を失います。そして、閔氏に引退させられていた大院君[iv]に政治を大権をゆだねることとなります。 復活した大院君政権は閔氏政権が進めていた開化政策を白紙に戻し、反乱に参加した兵士たちへの給料支払いを約束して事態の収拾を図りました。そして、行方不明の閔氏は死亡したとして葬儀を行ったのです。 日本政府は、7月30日、この事変を、逃げ帰った花房公使からの電報で知らされました。 翌31日に急遽、閣議決定を行い、井上馨外務卿は花房公使に、朝鮮政府に対する公式謝罪、賠償金支払いなどの要求を内容とする訓令を与え、軍艦三隻とともに仁川に向かわせます。この記事が新聞に載ると国民も大騒ぎとなります。 その中で某高官が、高島嘉右衛門に占筮を求めに来たのでした。 【結果】高島の占筮の結果は鼎の4爻でした。 ―――― ―――― ○――――――― ― 鼎(かなえ)とは、古代の中国で使われた調理するための器です。 写真で見るとこんな感じ ↓鼎の写真 下の、卦の形が、鼎を横から見た形に似ているからつけられました。 ―――― ― 鼎の耳――― ――――――― ― 鼎の足 【高島嘉右衛門の占断】鼎というのは、見た目もどっしりとして安定感を持っていますが、古代は、神様を祭るための器でした。複雑な文様が記されていますが、それが悪霊を鎮めるものとされています。 そこで、高島は、この鼎を朝鮮政府に見て取りました。政治とは神様を祭る、政(まつりごと)とされていたためです。 この四爻と出ています。四爻の辞は、次のとおり。 九四、鼎折足、覆公餗。其形渥。凶。(九四は、鼎足を折り、公の餗[あつもの]を覆す。其の形渥[あく]たり。凶なり。) 鼎の足は3つありますが、その一つが折れる(鼎折足)。その結果、鼎が倒れて、中にあった食べ物(餗)がこぼれてしまう(覆公餗)。この食べ物(餗)は、個人のため煮るのではなく、神様を祭るため煮るものだから「公餗」としています。 それをこぼしてしまったのだから罰せられる(其形渥)。形とは刑のことであり、渥とは部屋の中。つまり、「形渥」とは室内で重刑に処せられることです。 では、誰が罰せられるのか。これを高島は、今回の政変で実力を掌握した大院君と見ました。 この四爻は、易経の解説である繋辞伝にて、次のように説明されています。 子曰、德薄而位尊、知小而謀大、力小而任重、鮮不及矣。易曰、鼎折足、覆公餗、其形渥、凶、言不勝其任也。(子曰く、德薄くして位尊く、知小にして謀大に、力小にして任重ければ、及ばざること鮮し。易に曰く、鼎足を折り、公の餗[そく]を覆す、其の形渥たり、凶なりとは、其の任に勝えざるを言うなり。) 現在の大院君は、徳は薄いくせに位が高くなってしまい、智慧は少ない癖にはかりごとが多い。力が足らず重責を担いきれない。結果、身を誤り国を誤り、重罰に処せられる、というのが高島嘉衛門の占断でした。 なお、彼は、この壬午事変を、大院君の謀略によるものだと考えていたようです。根拠としては、繋辞伝に「謀大に」とあることまた、4爻が応じる初爻[v]の辞の解釈を踏まえてのことでした。 初爻の辞は、次のとおりです。 初六、鼎顚趾。利出否。(初六は、鼎[かなえ]趾[あし]を顚[さかしま]にす。否を出だすに利ろし。) 鼎の足を逆さにする(鼎顚趾)、そうすると、中のものが外に出て(出否)きれいさっぱりとする。その後に、食べ物の材料を煮てグツグツと煮ることができるのでよろし(利)というのが一般的な理解ですが。 高島は、鼎の足、尖って下に向いている鼎の足を逆にして上に向かうのを以て、兵隊が矛を逆さに向ける象ととらえます。そして、「利出否」を叛乱を計るものがある象と捉えます。まさに、不満を爆発させ閔氏政権に反乱を起こす兵士たちをあらわした象と見るとともに、これは大院君と、相応じて乱を起こしたと捉らえたのでした。 大院君に、当初からこのような謀略があったかどうかは不明ですが、少なくとも兵士たちの反乱を利用して、政権を獲得したことは事実かもしれません。 【その後の展開】日本では、井上馨外務卿の訓命を受け花房公使は8月10日下関を出発し12日に仁川に到着、8月16日に軍団を引きつれて入京し、20日に国王や大院君と会見、日本側の要求を示して3日以内の回答を要求します。 しかし、清国の対応も迅速でした。8月20日、呉長慶軍が仁川に到着し漢城へ向かいます。馬建忠は花房と会見し、清は日本と開戦の意図はないことを強調し、軍乱の平定と国王による執政に戻すことが目的であると述べ、さらに26日には一連の事件の実質的責任者とみなした大院君を拘束し天津に連行したのです。そして、清国の介入で再び大院君から高宗に権限が戻され、閔氏政権が復活し、死んだはずの閔氏も王宮に帰ることになりました 結果、室内で重刑に処せられるという高島の占いは当たったこととなりました。 清国の馬建忠は朝鮮政府に対して、日本側の要求を呑む形で花房公使と交渉するように指示をします。次いで呉長慶の配下の袁世凱と協議して軍乱を平定し、8月28日、日朝交渉が再開されます。 次回は、この日朝交渉の行方に関する占例をご紹介します。 【参考文献】日清戦争 大谷正著 中公文書訳注高島嘉右衛門占例集 鴨書店 竹中利貞高島易断(仁、義、礼、智、信) 八幡書房いっきに学びなおす日本史(上下) 東洋経済 安達達郎詳説世界史研究 山川出版社 [i]李朝では国王の信任を受けた王妃や皇太后の一族が政権を握る世道(セド)政治の伝統がありました。[ii] あたかも明治維新により軍隊の近代化の埒外におかれた武士たちのようなものです。[iii]当時の日朝貿易は、日本を介してイギリス製綿製品を輸入し、日本へは金地金と米・大豆などの米穀が輸出される構造でした。そのため米穀の供給が不足がちでした。[iv] この時期の朝鮮国王は第26代高宗(李戴晃 イジェファン)は、1864年、前国王の死とともに国王に選ばれました。選ばれた当初は12歳、そこでその後、10年間、幼い高宗に変わって実父の大院君が政務を握り、政治改革と鎖国・攘夷政策を行いました。しかし、高宗が成長して、1873年親政を開始すると大院君は引退させられ、王妃閔妃の影響力が高まります。このように当時の朝鮮政界のキーパーソンは国王高宗、大院君、閔妃であり、彼らが国内の勢力と協力・対立関係を繰り返すことで朝鮮の政治を複雑なものとしていました。[v] 易経には「応」という概念があります。易の卦は、二つの卦の組み合わせでなりたちますが(たとえば、鼎でしたら上卦が火、下卦が風)、この上の卦の第一爻、第二爻、第三爻は、下の卦の第一爻(初爻と普通は言います)、第二爻、第三爻と各々対応するとされます。そして、ただ、対応するのではなくお互いに陰と陽の場合に、「応じる」と呼ぶわけです。今回の鼎の四爻は陽爻であり、鼎の第一爻は陰爻であるため「応じ」ます。するとお互いに意味ある関係となるわけです。
2018年06月04日
本日ご紹介する高島嘉右衛門の占例は、日清戦争がはじまる1894年の13年前中央アジアのイリ地方で、ロシアと清国との間で発生した国境紛争に関する占いとなります。一見、日清戦争とは無関係の占いと思えるかもしれません。そう、無関係です。。。。しかし、この紛争の背後には中華思想(伝統的アジアの国際秩序)の動揺というものがあります。当時のアジアは次々に欧米列強の植民地にされており、その中でどのように自国の独立を維持するか必死に悩んでいた。 この悩みが日清戦争の隠れた要因ですので、この連載でご紹介する占いとしてあげました。 【背景】 現在も中国の東トルキスタン(新疆(しんきょう)自治区)でウイグル人による民族紛争が頻発しています。中国はテロと主張し、国際社会は中国政府のウイグル人への政治的抑圧や民族差別を問題としています。 さらに、ウイグル人の立場からは、そもそもの紛争の遠因は、中国が歴史的に内陸アジアの一部を無理やりに併合して自国領とした結果である、との議論も出てきています[i]。漢民族は、勝手に匈奴もチベットもモンゴルもウイグルも「我が国の古代の少数民族」だいうが、彼ら民族からすると、それはかなり歪曲されている歴史観だというわけです。勝手に蛮族扱いされて、国の一部にされて、挙句の果てに差別したうえで、弾圧して、テロと主張する。冗談じゃないというわけでありまして。。。 実際、東トルキスタンの中国政府の正式呼称は新疆自治区ですが、この新疆とは「新しい土地」という意味です。清帝国の最盛期の乾隆帝の時代の外征の結果、初めて手に入れた土地であり、それまでは中国王朝による体系的な支配はされていませんでした。要するに中国固有の領土ではないのです。 清国の支配下となった後もウイグル民族による抵抗運動はずっとありました。今回の占いは、このウイグル民族の中国(当時は清国)への抵抗運動に関連するものとなります。 日清戦争がはじまる1894年のさらに30年ほど前、1864年にさかのぼります。清国の支配下にあった新疆でイスラム教徒[ii]の反乱がおこります。彼らはウイグル人であり、清国に対する民族抵抗運動がおきたのでありました。 清国はすぐに対応し、左宗棠を、非常事態に任命される欽差大臣に任命、彼の奮闘により反乱は12年度の1878年に鎮圧されました。 しかし、話はそこで終わりにはなりませんでした。 実は、反乱勃発後の1871年、ロシアは居留民の保護を名目としてイリ地方に軍隊を駐留させていたのです(イリ事件)。欽差大臣左宗棠は、1878年、再度東トルキスタンを征服します。ロシアは丁度、露土戦争さなかで十分な対応ができず、清国の再征服はなるわけですが、その後も撤兵をしようとしませんでした。 そもそも反乱鎮圧された以上、ロシアが兵隊の駐留を継続させる理由はありません。しかし、ロシアは、居留民の安全はまだ確保されてないと主張し続け、清国の撤兵要求をのらりくらりと引き伸ばします。ロシアと清国の代表が国境に出張し交渉を続けるが、そもそも国境線をどこだったのかといった議論へ拡散し、収拾がつかなくなります。 そうこうするうちに、清国とロシアの兵隊たちの間で小競り合い始まってしまいます。ロシアと清国の戦争が起こるのではないか国際世論が注目する1881年1月の占いとなります。 舞台は、日本の熱海に移します。 高島嘉右衛門は熱海の温泉にいました。1月の寒い時期は、彼は熱海で正月を過ごすのです。当時、熱海は、暖かく景色がいいため正月には、高島のような避寒の客が東京横浜からたくさん来ていました。 高島が、温泉宿で、友人である島津忠義公爵(島津久光の子で島津家当主)と囲碁をしていたところ、大隈重信、伊藤博文、井上馨という政府の高官、成瀬柳北(当時の朝日新聞社長)や神奈川県令の野村某が合流し、皆でわいわいがやがやと、高島と島津の囲碁を観戦していました。 囲碁が一息つき、皆で雑談をしていたところ大隈重信が高島に占いを所望したのです。 「高島さん、最近、ご存じのとおり、中央アジアのイリ地方で清国とロシアの両国が国境争いをしています。戦争になるかもしれないという噂もありますが、ひとつ占っていただけないでしょうか。」 高島は、「そうですね、それでは」とおもむろに筮竹を取りだし(持ち歩いているのかいという突っ込みはさておき)、占いをしたのでありました。 【結果】高島は筮竹をさばいた後、算木を、次のように並べました。 ―――――――――― ―― ― ○――― 无妄(むもう) 2爻 【高島嘉右衛門の占断】算木をじっと見った高島は、自らの判断を伝えます。 大隈をはじめ座に居合わせた者は息をのんで彼のいうことに耳を澄ませました。 「ご存じのとおり[iii]、「无妄」とは、自然のなりゆきに任せることを意味します。また、災い[iv]という意味もあります。 「无妄」の下卦、― ―― ― ―――は、雷を意味するとともに「動く」とか、「木」を意味します。木が動くいわば木槌のようなものです。 上卦は天―――――――――で、天を意味し、金を意味します。 以上を今回の清国とロシアの関係に見立てると、下卦は、日本から近くにある国、清国と見ることができ、上卦は、日本から遠くにある国、ロシアと見ることができます。 木槌で鐘を叩くと木槌は壊れてしまう。 清国にとっては、ロシアの占領は災いであり、ここで積極的に清国から動いても、木槌が壊れるだけでろくなことはない。自然の成り行きに任せるという卦の意味からも、戦争は行なわないと思います。」 そう説明しました。 「事態はそれで収まるのですか」と1年後外務大臣になる井上馨の質問に、高島は答えます。 「成り行きに任せるという卦の意味からして、事態を治めるために清国はロシアの言われるがまま、土地を譲渡するなり、何らかの利益を与えることになるのではないでしょうか。」 「そんなバカな!悪いのはロシアではないですか。納得がいきません!」同席した成瀬柳北(当時の朝日新聞社長)は憤慨します。 そこで、高島は説明します。「この卦の2爻の辞には、「耕やさずして穫、菑[し]せずして畬[よ]」とあります。 「耕やさずして穫」とは、耕さないのに自然の収穫があるという意味です。 「菑」とは、開墾後1年の荒れた畠を意味し、ここでは開墾すること。「畬」とは、開墾後3年の畠を意味しここでは地味が熟すること。つまり、「菑[し]せずして畬[よ]する」とは、開墾せずに地味が熟することを意味します。 本来は、耕やすことで収穫があり、開拓をすることで地味が熟するわけですが、世の中には理屈にあわないことがたくさんあります。耕やさないのに収穫があり、開拓をしないのにで地味が熟するそんなあべこべな状態です。この爻辞(爻のことば)は、そのような理屈に合わないことを、表現しているのです。 ちなみにこの爻辞「不耕穫、不菑畬」は、別の読み方として「耕やしてして穫ず、菑[し]して畬[よ]せず」と読むこともあります。この場合は耕やしたのに収穫がなく、開拓をしたのに地味が熟しないという意味となります。 いずれにしても、理屈に合わない、条理に合わない状態です。 この理屈に合わない災いというものが世の中にはたくさんあって、そのようなことが起るというのは時の勢いなのです。 この卦は、清国が現在、理屈には合わない災いに置かれており、そのような時は、無理に意図した行動を起こすとますますおかしくなるので、成り行きに任せることを教えています。清国も、あえて戦いを起こすことはないでしょう。」 「う~ん。。。」沈痛な面持ちで伊藤博文が話します。彼は若いころ長州藩士としてイギリスに滞在したこともあり、欧州遣欧使節団の一員として、ヨーロッパ各国をとまわり日本との国力の差を皮膚感覚で感じています。 「たしかに、やつらとの戦争だけはいかん」彼はいいます。伊藤の脳裏には、長州藩士としてイギリスに滞在していた時のことが思い浮かびます。 イギリスの宿泊先で新聞を広げたとき、目に飛んできたのが、「イギリス、アメリカ、オランダ、フランスの四か国連合艦隊の下関砲撃」の記事でした。[v]長州藩と欧米列強が戦争を始めるかもしれない、止めさせなければと急ぎ帰国をした伊藤を待っていたのは、無残に連合艦隊に敗北した長州藩の姿でした。 「勢いだけで戦争してもろくなことにはならない。」これが伊藤の基本的な考えです。 「しかし、、、」と伊藤は言葉をつなげます。 「そこまで清国はロシアに譲歩しなければいかんだろうか。1840年のアヘン戦争での無残な敗北の後、清国も軍事組織を立て直す努力を進めてきている。特に1870年代からは、各地の有力者に命じて臨時に軍隊を徴募(郷勇)し、李鴻章に海軍を組織させるなど近代化改革はかなり進んでいると話に聞いている。だから、欧米列強も清国を「眠れる獅子」と恐れているわけだ。そもそもアヘン戦争だって、清国のアヘンの密輸への規制をきっかけとした理不尽な理由から始まったものじゃないか。イギリスに無残な敗北をして、屈辱的な条約を結ばされて、だからこそ軍隊の改革を進めて、成果も収めてきたのに。それでも、まだ屈辱的な態度を取り続けなければならないとは。。。。」 「アジア民族を馬鹿にしているんだ。理屈が通じない相手だから、不条理な態度が許されるとでも思っているんだ」成瀬柳北(当時の朝日新聞社長)は憤慨します。 大隈重信が慰めるように言います。「ただ、成り行きに任せるのが賢明な対応かもしれません。ロシアだってピョートル大帝の侵略主義[vi]によって長いこと財政困難であり、国民への重税でなんとか財政窮乏へ対応しようとしているわけですから。今むやみに戦争を起こしたくはないはずです。今回は、ロシアの言い分を聞くというのも一つの選択肢ではないでしょうか。その間に軍隊の改革も進め欧米から侮られない力をつければいいと思うのですが。。。」 神奈川県令の野村某は「あっ」と間に入ります。「そういえば、上卦の天は龍も意味しますよね。そして龍は想像上の動物であることから、金も金欠と判断することがあると聞きましたが、ロシアの金欠とは、うまくあらわしたものですね。」 「そうですね。そういうところに易の玄妙さがありますね。」高島は微笑み返します。 1年後外務大臣になり欧化政策を進めることになる井上馨は言います。「とにかく、欧米列強から理屈の通じない野蛮人と思われている認識を改めさせなければならない。条約での治外法権や関税自主権がないことも、根本は野蛮人と思われていることにあるのだから」 伊藤博文が加えます。「清国ですら欧米列強の理不尽になすがままなのだから[vii]、日本はさらに危険な状態だ。幸いにも現在は列強に日本に目を付けていないからいいようなものだが。ロシアの膨張主義は清国、朝鮮ののち日本に来ることは時間の問題なのだから日本も軍備は増強しなければならない。」 こうして彼らは明治国家建設の意を強くしながら東京へ戻っていったのでした。 【補足】清国とロシアの国境紛争のその後の展開は、高島のいうとおりとなりました。翌月2月、清国とロシアとの間でイリ条約が締結されます。 清国がザイサン湖周辺地方をロシアに割譲し、賠償金900万ルーブルを支払うこととなります。その代りイリ地方の東側は清国に返還されました。 イリ返還を受けて、清国はイリ地方に新疆省を設置し、中国本土並みの行政が敷かれるようになります。これは中国史上初の事態であり、自治を取り上げられたウイグル人は清国の植民地となりました。 同時に東アジア地域の国境がはじめて確定したこととなります。 実は、伝統的なアジアの国際秩序観では、「国境」という概念があいまいでした。その代り周辺民族は蛮族として、中華からは放っておかれ、朝貢の形式の外交で連絡をとりあっていたにすぎませんでした。 それが国境線を引かれ、政治関係も白黒明確なシステムとなったわけです。 これはウイグル人にとっても不条理な話と言えましょう。 再度、2爻の爻辞を確認します。六二、不耕穫、不菑畬、則利有攸往。六二は、耕やさずして穫、菑[し]せずして畬[よ]するときは、則ち往く攸有るに利ろし。 ウイグル人からすると、まさに耕す努力をせずに収穫を持っていかれ、開拓の努力をせずに土地の豊かさを収奪される、理不尽この上もない話なわけです。 ウイグル人の土地を、清国とロシアが、俺のものだ俺のものだと言っている。 清国にとって、ロシアの出兵は理不尽ですが、清国だって理不尽なことをやっている。 易の卦はそのことを示しているような気がします。さらに、高島易断には引用されていませんでしたが、則利有攸往(則ち往く攸有るに利ろし。)これは新疆自治区設置を示しているのかなとも思いました。 西洋的な国際秩序観で国境を設定し、内政の責任を取る。これは従来の清国の発想にはなかったことで、この曖昧さが明治初期の日本と清国の外交紛争に根底にありました(琉球帰属問題、台湾出兵等)。 曖昧なところが白黒はっきりした国際秩序になっていく、その意味では大きな条理に従ってことであり、時の流れである。 則利有攸往(則ち往く攸有るに利ろし。)とはそのような意味に感じてなりません。 そして実は、朝鮮の宗主権に対するあいまいな態度(宗主国として内政外交ともに責任を持ち、ロシアの脅威から間守る態度をしますかどうか)が、日清戦争の隠れた要因の一つだったわけであります。 次回は、その翌年1882年におこった清国、日本を巻き込んだ朝鮮の政争、壬午事変に関する占いをご紹介します。 【参考文献】「中国」という神話 文春新書 楊海英訳注高島嘉右衛門占例集 鴨書店 竹中利貞高島易断(仁、義、礼、智、信) 八幡書房詳説世界史研究 山川出版社[i] 「中国」という神話 文春新書 楊海英[ii] ウイグル人は昔も今もイスラム教を信仰しています。イスラム教徒は1日5回の礼拝をおこないますが、現在の中国では至る所に「礼拝禁止」の張り紙が張り出されているとのことです。[iii] 当時は易経は、武士たちの教養の一つでした。彼らは皆、易経の卦は理解しています。[iv]雑卦伝に「无妄は災いなり」とあります。[v] 1864年8月の出来事です。きっかけは1863年、将軍家茂が公武合体の考えで前例を土生って上京した際に、朝廷側の攘夷の決行要求に抗しきれず、1864年5月に攘夷決行すると約束をさせられたことがきっかけでした。長州藩ではこれを受け5月10日を期して下関海峡を通る外国船に砲撃を開始したのです。イギリス公使オールコックは初めは自重していましたが、幕府が貿易統制を強化し横浜港の閉鎖も考え始めたため、米仏蘭とともに連合艦隊を組織し、攘夷の不可能を知らしめるために行いました。[vi] ロシアは元々海外植民地を持っておりませんでした。しかし、16世紀後半から当方のシベリア地域の開発に積極的に取り組み、植民を行い始めました。17世紀前半にはオホーツク海に達し、1643年には黒竜江(アムール川)に達します。そこから、ロシアと清国の衝突が頻繁に起こるようになっていました。[vii] 清国(中国)から見ると、中国を中心としたアジアの伝統的国際秩序観は、力を背景にした列強の理不尽な要求により、西洋基準の国際秩序観に変更させられたという意識はあるのかもしれません。それはロジカルで合理的なところもないとは言えないが、普遍的なものでも正当なものでもない。だとすれば、力を中国が持つにいたったらそれに従う理由はない、習近平をはじめとする中国首脳が思っても不思議はないとは感じます。
2018年05月20日
本日は、日清戦争に関する基本的知識をご説明します。政治的、歴史的な理解をベースに占いを見る方が深い理解ができるためです。 明治維新成立の原動力は、日本が欧米列強の植民地となることを避けなければならないという危機感[1]にありました。国内では富国強兵、殖産興業のスローガンのもと国力の充実が図られましたが、仮に日本が独立を維持しえても、対外的に、朝鮮の欧米列強(ロシア)の植民地からの回避をしなければ不十分でした。なぜならば、たとえば、仮に朝鮮をロシアに保有された場合、匕首のように突き出た朝鮮半島が日本進出の前線基地となり、日本列島全領域が国防上重大な脅威にさらされるからです。[2] この危機感を、日本政府としては朝鮮政府にも持ってもらいたかった。しかし、この考え方自体、当時のアジアにおける外交秩序の常識からは外れたものでした。当時のアジア外交の一般的な考え方は、親分である清国に守ってもらえば大丈夫という前提に立っていたためです。そのため当時の朝鮮政府の理解は中々得られませんでした[3]。 清国の国力が全盛であればこの考え方で問題なかったでしょう。しかし、19世紀、清国の国力が衰退をはじめ、欧米諸国が東南アジアを植民地化し、北方でのロシアの進出が始まると、その考えには危険が伴うことになります。 ことに1840年から42年まで続いたアヘン戦争により清が、イギリスに惨敗すると、日本での危機感は沸騰しました。清国自身も朝貢・冊封による従来の儀礼に基づく関係と、条約に基づく西欧基準の外交関係の二つの原理により対外関係を築くようになります。そうすると日本としては、清国のみに頼る朝鮮の姿勢に危なっかしさを感じるようになります。朝鮮も、日本を見習って、独立国として近代化を推し進め、ロシアからの進出に対抗できるようになってほしい、そうでないと危なっかしくってしょうがないと考えるようになるわけです。 とはいえ、小さな国である、日本、朝鮮が、清国から独立して欧米列強と対抗するということは、当時、ある意味夢物語のような印象もありました。アヘン戦争で敗れたとはいえ、清国はアジアの「眠れる獅子」であり、大国であることに変わりないためです。清国すら対抗できない欧米列強を、小国である日本、朝鮮が対抗できるのか?清国も、アヘン戦争敗北後、急速に軍隊の近代化を推し進めていきます。日清戦争発生時のアジアの海軍力を見ても、清国は82、日本は28であり、イギリス18、フランス5、ロシア10、アメリカ4、ドイツ2、イタリア2と清国の海軍力がずば抜けているのです。だとすれば、清国に従うという今までのアジア外交路線も決して不合理な者とはいえないとも思われます。悩みどころではあるのです。 朝鮮国内政府においても議論はなされました。清国の傘の中で安全保障を守ってもらうという従来の伝統的な立場を守る大院君の保守派と、日本を見習い近代化を推し進め独自に欧米列強に対抗できる国力を充実させる金玉均、朴泳考らの親日派の争いが起こります。そして、その背後には、清国を宗主国とする伝統的立場に利害関係を有する清国と、親日派に利害関係を有する日本が援助を行います。高島嘉右衛門は、この親日派の金玉均らを世話しました。彼らは日本では高島宅に起居し高島の門人として易経を教えてもらっております。朝鮮政界の情報は彼らからも入り、彼らからも悩みを聞いていたでしょうから、自然、高島の占断はどんどんシャープでリアルなものとなっていくわけです。 それでも日本は、清国をあてにはせず、日本独自で近代化を推し進め、独立を目指す方針を基本的には取ります。 外交問題は日本の国内問題にも関連します。軍事力を高めるためには金がかかるためです。江戸時代は石高制で米中心の税制体系でしたので、米の物価リスクを政府が負っておりました。米が安くなると政府の実入りが少なくなり赤字が続く。江戸時代の中期以降、商品経済が浸透していく中で顕在化している問題であり、そのための明治政府は税制改革を実施します(地租改正)。結果として、物価リスクを農家が負うこととなり、政府に対する様々な不満が生じます。今までは米による禄を貰っていた武士の貧困も問題化します。特に、商品経済の発展した東京などの都市部にすむ武士(士族)の貧困はかなり深刻で社会不安が増大します。 したがって、対外戦争を行うというのは、国内の士族の失業対策とセットで論じられました。征韓論などはまさにその議論です。しかし、対外戦争の目的は、あくまで日本の安全保障であって士族の失業対策は本末転倒です。戦争で日本経済が疲弊し、結果として欧米の植民地となるのでは本も子もありません。とはいえ、失業対策を背景にしたプレッシャーの中で、目的を失わない議論をするために政府高官は悩みます。 明治の外交問題のもう一つの大目的に不平等条約撤廃がありました。日本は、伝統的なアジアの外交秩序(中華帝国を中心とした)から西欧型近代型の主権国家同士による条約締結をベースとする外交秩序への移行を選択した以上、国内の法治国家化は必須項目となります。憲法制定、国会設置等の近代化への道のりが必須であることは明治高官も認識していますが、拙速に進めることの危険性も考えておりました。西南戦争後、武士の不満は自由民権運動に結びつき政府への不満へと繋がっていました。これをうまく受け止めつつ、日本の独立を守るために国論を統一し、近代化も漸進させる。このような悩みを抱えながら明治高官は日々の課題に直面しておりました。 その解決策を検討する際の一つのヒントに高島嘉右衛門の易占に相談していたのです。 以上を前提に、次回は日清戦争(1894年~)の13年前1881年(明治14年)の占断からご紹介します。中央アジアのイリ地方で、ロシアと清国との間で発生した国境紛争に関する占いとなります。 【参考文献】易 本田済 朝日選書易学大講座 加藤大岳 紀元書房日清戦争 大谷正著 中公文書 「中国」という神話 文春新書 楊海英 いっきに学びなおす日本史(上下) 東洋経済 安達達郎 日本史A 高村直助ほか 山川出版 詳説世界史研究 山川出版社[1] 中国や北朝鮮、韓国の対日感情と同様、侵略者への危機感が近代国家形成の基礎なのかもしれません。[2] この問題意識は、江戸時代18世紀、ロシアの南下が始まったときから萌芽が芽生えてます(1786年海国兵談を記した林子平等)。明治維新においてロシアは仮想敵国となり、日露戦争で頂点に達します。日露戦争後も、陸軍の仮想敵国はロシア/ソ連であり、ノモンハン事件へと結びついています。[3] アジアの外交秩序は中華帝国(19世紀は清国)を中心とした周辺諸国との朝貢・冊封等の儀礼に基づく関係により成り立っていました。つまり、周辺国の君主が中国皇帝に使節を派遣して臣下となる意志を示すと(朝貢)、これに対して皇帝が官位・爵位を与えて君臣関係を結び(冊封)、中国は宗主国で周辺国は属国となるという関係ですあたかも日米安保条約でアメリカに守ってもらえると日本が考えるようなものですね。
2018年05月05日
ご無沙汰しております。更新が1年ぶりとなり申し訳ありませんでした。 今、占いとして非常にいい経験をさせていただいています。(いつかご紹介させていただきます) さて本日ですが新企画のお知らせです。 不定期ですが、これから明治の占い名人 高島嘉右衛門の日清戦争に関する占いをご紹介していきたいと思います。 高島嘉右衛門は、明治の占いの名人であるとともに、実業家でもありました。(現在の横浜を作り上げた貢献者の一人とされています)http://www.tohatsu.city.yokohama.jp/hamaN/hamaN18.html#toku http://www.city.yokohama.lg.jp/kanagawa/kusei/profile/rekishi/takasima.html 易経の名人であり、伊藤博文はじめ明治の高官が彼の占いを参考したほどの腕前であり、明治の易聖と言われています。国会図書館にそれに関する資料がアップされています。http://www.ndl.go.jp/modern/column/04.html 政治家、あるいは実業家が占いに頼っているというと、「そんなことあってたまるか」と思われる方もいらっしゃるでしょう。 しかし、国家を真剣に慮る人間が、あらんかぎりの知力・努力をし、それでも不安な時のあくまでも参考とするならば、決して責められるべきものではないだろうと思います。 現に伊藤博文は、あくまで参考にしただけで、政治はそんな単純なものではないと言っております。 政府の高官等立場の高い人に決定が求められるとき、既にたくさんの人による下ごしらえが済んでおり一定の方向性を変えることが難しい場合がままあります。しかし、それでも方向性がおかしいと思うときは、勇気を持って「違うんだ!」と別の方向を舵を切るジャッジをする必要がある。勇気のない、判断できない政治家の政治は、状況に流される結果国民がひどい目に合ってしまう。そのジャッジは、十分な論拠なくスピーディーに行う必要がある。あてずっぽうの動物的直観で行うのか、それともそこに占いの結果を加味し、よく考え行うのかで、どっちがいいかわからないともいえます。 判断のできない惰性の政治が、日本を責任者不在の太平洋戦争へ突入させていしまいました。 判断できない惰性の政治しかできない幕府を倒し、新たな政治を目指したのが明治維新です。占う方も占われる方も真剣だった、そんな息吹のようなものを感じていただければと存じます。 明治時代、多くの占い師が日清戦争について占ったかもしれない。しかし、高島嘉右衛門ほど特別な立場にいた人はいませんでした。 なんせ、当時の首相の伊藤博文と仲がよく(娘を彼の養子に嫁がせている)、時の外務大臣陸奥宗光とも昵懇だったためです。そんな彼らから情報を貰い、時には頼まれて占ったものが高島易断に記載されています。しかもそのいくつかは当時の新聞に公開している。今だったら下手すれば機密情報漏えいで問題になりはしないかとも思うのですが。。。。 通常は占いを一つずつ「リストラ戦記」のように紹介していきます。しかし、次回は、彼の易を理解する前提として、歴史的な背景をご説明します。 その後は一つ一つ易断をご紹介する予定です。乞うご期待! 【参考文献】日清戦争 大谷正著 中公文書訳注高島嘉右衛門占例集 鴨書店 竹中利貞高島易断(仁、義、礼、智、信) 八幡書房新訂 蹇蹇録―日清戦争外交秘録 (岩波文庫) 陸奥宗光蹇蹇録の世界 みすず書房 中塚明いっきに学びなおす日本史(上下) 東洋経済 安達達郎日本史A 高村直助ほか 山川出版詳説世界史研究 山川出版社
2018年04月28日
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