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民放はサッカーとMステ以外もう何十年と見ていない。Mステも全部聞くミュージシャンはほとんどいなかった。しかし、今回は一組もいなかった。おまけに今活躍しているミュージシャンが気に入っているミュージシャン全員いいとは感じなかった。遂に私の感性が若い人と完全にズレたようだ。もう、Mステを見るのも止めよう。
2022/01/31
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なにやら、ピラミッドの側面にある三角形には高さと底辺の半分との間に黄金比が現れるそうだ。そして、ヘロドトスによると「ピラミッドの高さの2乗は側面の三角形の面積に等しい」らしい。まず、ピラミッドの高さをhとする、そして、三角形の高さをs、底辺の半分をaとする。すると、条件文は「h^2 = s x a」となる。直角三角形TOA(T:ピラミッドの頂点、O:ピラミッドの底辺にある正四角形の中心、A:側面の三角形の底辺の中心)にピタゴラスの定理を当てはめると、s^2 = h^2+a^2, ここで h に最初の式に従って置き換えると s^2 = s x a+a^2 両辺を a^2 で割ると (s/a)^2=(s/a)+1, さらに s/a を x と表せば x^2 = x+1, 右辺を左辺に移行し x^2-x-1=0 これは正に黄金比を表す式である。
2022/01/30
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モンテーニュは「悪事を行うことは、あまりにも容易な、また、あまりにも卑劣なことだ。危険のない所で善事を行うことは普通だが、危険を冒しても善事を行うことは立派な人に相応しい務めだ」と述べた後、「徳は嶮しい茨の道を求める」と結ぶ。全くその通りだ。例えば、地球温暖化に歯止めを掛けようと訴えたグレタさんがどれほど叩かれたことか。確かに、現実問題としてやり方には様々な困難があるだろう。しかし、訴えること自体非難されるべきことではない。ましてや、匿名による誹謗中傷など卑劣の極みだ。
2022/01/24
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論理哲学論考における命題「複合記号『aRb』が、a が b に対して関係 R にあることを語っている。否。そうではなく、「a」が「b」に対してしかじかの関係にあるという事実が、aRbという事実を語っているのである」これを野矢茂樹は「これはあたかも、固有名「a」と「b」だけで、「愛している」という関係語などは不要であると述べているかのように見える」と述べる。これは誤読だろう。実際、「a」と「b」を並べただけでは、それらになんらかの関係性が存在することは確定しない。「aRb」と書き、初めて「R」が「関係性」が帯びるのだ。それは、現実においてもなんらかの項同士がなんらかの関係性を帯びることを写しているのだ。
2022/01/21
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キケローは友人の死に際し自分が悲痛な思いに苦しまないことについてこう述べる。「スキピオーには何の不幸も生じなかった。(略)何かが生じたとすれば、それは私に生じたのだ。しかるに、自分に生じた不都合で苦しむのは、友を愛する者のすることではなく、己を愛する者のすることだ」と。ここにはなにかしら深い真実が含まれているように感じる。友が死んで悲しいのは当然だ。しかし、あまりに嘆き悲しむのは感傷的にすぎるとは言えるだろう。
2022/01/19
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開高健は元禄時代についてこう論じる。「光琳、近松、芭蕉と、それぞれの異才は自身を成就させると同時に知らず知らず同時代の幕をおろしてしまう」と。これは、5、60年代のロックやジャズにも言える。ジミ・ヘンドリクス、ジャニス・ジョプリン、ジム・モリソンという怪物たちがロック界から去りロックの荒々しい熱気は去った。その後、産業ロックが生まれた。それは、ジャズのチャーリー・パーカー、マイルス・デイヴィス、ジョン・コルトレーンにも言える。今は、超絶技巧だがなんの魅力もない優等生のウィントン・マルサリスが活躍する時代だ。
2022/01/14
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「時間はこれを使うことによってしか忘れることができない」これは真実だと感じる。実際、うんざりするような単純作業も、時計を見ず、ひたすらそれに没頭しなければ時は進まない。同様に、嫌なことを忘れるには、何かに集中することが1番の早道だ。その間、嫌なことを忘れるし、徐々に記憶も薄れる。それは、何かに足をぶつけた痛みが徐々に薄れることに似ている。
2022/01/13
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浜美枝が名優マルチェロ・マストロヤンニと写った素晴らしい写真が載っていた。彼女はちやほやされるのが嫌で日本を飛び出した。そして、マストロヤンニが出ている舞台の一週間通しの切符を買った。すると、顔を覚えたもぎりのおばさんが楽屋へ案内してくれた。そこには汗だくのマストロヤンニがいた。彼はこう言った。「この汗を見てごらん。人を喜ばすために、これほど汗をかけるというのは、とても幸せなことなんだ」と。その一言で彼女は女優をする意味がわかり女優を続ける決心をした。
2022/01/11
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「ヒューマニズムは、自分と関係ない場合にだけ、熱く語られる」これは人間の偽善性を言い当てている。しかし、鷲田清一が挙げた「両親による幼子の痛ましいばかりの虐待に、人は悲嘆の声を上げる。一方で、都内一等地での児童相談所の建設に、街のブランドが損なわれると猛反対する人もいる」の例における前者と後者が同じ人間であるとは限らない。
2022/01/08
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開高健は西鶴を「才覚」の人だと論じた。そもそも、大阪人は東京と違い権力の影で暮らすことができなかった為才覚に生きるしかなかった。それは反骨心も醸成した。そして、京都や東京と違い大阪人に気位は皆無だ。それどころか、猥雑ですらある。後、坂田三吉が初手で角頭の歩をつく暴挙に出て負けるような破滅的なところもある。この辺りは私自身思い当たる節がある。そつのない優等生が苦手で、どこか危うい異端に魅力を感じる。私も根っから大阪人なのだろうか。
2022/01/07
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なんとなく好きだったが相当な苦労人だった。戦争から帰って来た父親は今でいう戦争後遺症で何も出来ず母親が着物の仕立てで家計を支えた。4人兄妹で唯一の女性だった浜美枝は5,6歳から食事を作った。友達のお母さんの「ご飯だよ、帰っておいで」という声を聞くとこらえようもない寂しさがこみあげた。しかし、かまどの炎の中から「がんばろうね」という女の人の声が聞こえた。このエピソードは最早神懸っている。だが、神が降りて来た浜美枝はまだ幸運だったと言えるだろう。
2022/01/06
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また知らない言葉が出てきた。「ハイマートロス」だ。なにやら、ドイツ語で「故郷喪失」や「放浪」の意味で使われるらしい。開高健は「家なき子」の意味で使っていた。開高健は戦争中父親を亡くした。学校に弁当を持ってゆけず水を飲んで空腹を凌いだ。大人になってから映画を見ていると間に挟まれるニュースで、ベトナムかどこかの子供が空腹を凌ぐ為、ベルトをぎゅっと締めている映像を見て感極まりトイレで嗚咽したことがあった。ともあれ、「戦後の一時期焼野原になった大阪市内では地平線に夕日が沈む光景が見えた。」そこには、「すさまじいまでの清浄な大自然があった。」だが、「やがて、あちらこちらのターミナルに闇市があり、焚火がたかれ、人びとはそこでコサックの野営地のように飲み、食べ、なぐりあい、刺しあった。」この辺りの饒舌かつリズミカルな文体はさすがだ。そして、「この焼け跡もいつのまにやらトントンぶきのマッチ箱みたいな家でおおわれて消えてしまう。(中略)地平線も夕陽も見えなくなった。そして、やがてふたたび、あるいは、三たび、四たびの大変貌が起こる。ハイウェーが空とビルのあいだをつらぬき、高層ビルがギッシリたち、郊外では団地アパート、海岸ではコンビナートとなるのである。スモッグがたちこめて海岸の松は枯れてしまい、海はドブとなってしまうのである。」その後、東京へ移り住んだ開高はある時思い立ち10日以上みっちり掛け大阪市内、郊外、和歌山、奈良、京都、神戸をシラミつぶしに少年時代の思い出の場所を探した。だが、それらはものの見事に消えていた。
2022/01/05
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さすが開高健、早速知らない言葉が出て来た。「遁辞」である。なにやら逃げ口上のことをいうらしい。ともあれ、このエッセイを書いていた頃、既に東京に住んでいた。普段東京弁を使っていたが、困った時は大阪弁が顔を出した。編集者に締め切りを伸ばしてほしいと頼む時「ああ、もう、そんな、殺生なこといわんといとくなはれ!」とかますと、敵もさるもの「いや、もう、こっちこそホンマに頼りにしてまんのや。〆切日は二十五日。ギリギリだっせ。よろしおまんな。へ、さようなら」と、森繁の映画辺りで仕込んだ大阪弁で返しさっさと帰って行ったそうな。開高健も形無しである。
2022/01/04
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1年を通して元旦が1番好きだ。通りに面している我がマンションも静かだ。今回は9月に予約しないと売り切れてしまう京都の老舗が作ったお節もあった。中に好物のコノワタとカラスミが入っていてつい酒が進んだ。夜中から起きていたせいもあるだろうが11時までがっつり寝た。一瞬だった。あれほど深い眠りは久々だった。正に黄金の眠りだ。そして、音楽仲間でもある友人が経営する eleven coffee を飲んだ。eleven coffee を11時に飲んだのが面白くて facebook にそう書いてアップしたが、そこは気づいて貰えなかった。
2022/01/02
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野矢茂樹はこう語る。「現実化していない可能性など、現実には何ひとつない。」と。そうだろうか。逆に、私は、頭の中で想像された可能性は無数にあると思う。むしろ、現実化されたのはそのひとつに過ぎない。ともあれ、「可能性」とは「各々の概念の組み合わせの量」であるように思う。ただ、やみくもに組み合わせれば「ヴィトゲンシュタインは2で割り切れるか?」というような無意味な言説がほとんどになるだろう。そこに「文法」が登場する。つまり、「現実化」したのは「文法上意味をなす概念の組み合わせ」のことなのだろう。
2022/01/01
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