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最後に公園に行ってから、どのぐらいの時が経っていますか?わたしは、毎日、月曜日から日曜日まで、祝祭日もなく、曇りでも雨が降らない限り、ほぼ毎日午前と午後二回、息子を公園に連れて行っています。わたしの家のそばには、大きな公園があります。そこに行って子供とすべり台や砂遊び、ボール投げなどして遊ぶたびに、わたしがもし、子供を持たなければ、こうして公園を訪れることなど、もしかして一生なかったんじゃないか、そう思い、今この瞬間が奇跡であるような眩しさを感じます。公園というのは、本当に面白い。朝から晩までなぜか夏でもダウンジャケットを着てたそがれる人もいれば、決まった時間に現れて子供が遊ぶ姿をみて納得してかえっていく人もいる。こそこそと鳩にえさをやって逃げるように帰る人もいますね。(公園は鳩の餌付けが禁止なのです)そのほかには、保育園の先生なんかも面白いです。園庭のない保育園生が先生に連れられて遊んでいるのですが、先生は子供たちを見ることもなく、中心に集まっておしゃべりばかり。帰る時間になっても遊具で遊びたがる保育園生を捕まえて「お前だら、帰るってばいっつもこうだもんなー」の一言。わたしでも自分の子供をお前と呼んだことはないですよ。この前は某小学校が秋の遠足なのか弁当を持参で遊んでました。わたしと息子は滑り台の向かいのベンチに座っていたのですが、そこへ名物おじさんがやってきて小学生に話しかける笑いかける。このおじさんは、ちょっと変わって見えますが、特に害はないです。けれど、その小学校の先生は、その様子が見慣れぬものだったのか、口をあんぐりあけて、気持ち悪そうに去っていきました。話しかけられているのも無視してね。初めて見る人には気持ち悪いおっさんに見えたかもしれません。だってわたしも初めて見たときそう思いましたもん。けれどね、気持ち悪いおっさんだと思ったのなら、生徒の手も引いて移動したらいいのに、と思いました。自分だけ移動して、何もなかったかのように他の遊具で遊ぶ生徒や先生と談笑していたあの女性教師は、もしこれが自分の子供をつれてきていたとしても、同じように自分だけ逃げるんでしょうかね。自分が盾になって、その方と話をして、生徒と触れさせないぐらいの意気込がほしかったですけどね。世の中を大人と子供に分けるなら、わたしは間違いなく大人に分類されます。子供を育てる大人が偉く、立派であると思うのは、ひどく高慢だと気付かされます。教育する立場の仮面の下の悪意にくらべたら、子供の悪さなんてかわいいものです。他のおともだちのおもちゃを勝手に借りたり、ちょっと乱暴を働いたりなんて、かわいくてかわいくてしょうがない。不遜な大人に比べたら、子供は自分の欲求にストレートなだけですもん。そのうちわたしも名物おばさんとして有名になったりして。「あいつはまわりをじろじろみて、にやにやしている」なんていわれ、出来損ないの大人、第一号になったりして。公園に長らくいると、本当におもしろい。
Sep 22, 2009
好きなものより、圧倒的に嫌いなものが多いHです。ずっとこのブログに書こうと思いつつ、なかなか書けなかったのですが、実は24時間テレビが嫌いです。わたしは24時間テレビというものの意義認めています。なかなかボランティアや募金活動に興味をもてない人も、24時間テレビとならば、と思う人も多いと思います。また、普段なかなか接することのない、障害のある人の苦しみや不便さにも気付くことができます。実際、このテレビを目標にがんばっていらっしゃるかたも多数いると思うのです。じゃあ、何がきにいらないのか。と問われると、口をすぼめて応えるしかないのですが、あの「感動をありがとう」という言葉には、ものすごく欺瞞を感じてしまうのです。「感動させるために何かをやっている」という番組の作り方に、大いに疑問を感じてしまいます。あの番組に募金している人、障害を抱える人が、自ら乗り越えようと何かにチャレンジするのは、決して人に感動を与えたいからなのだろうか。感動というのは結果ではないのだろうか。昔、綿矢りささんの小説「夢を与える」というなかで、「夢を与える」という言葉の違和感、高慢さにつて物語が書かれたことがありました。それに近い感情をどうしてもあのテレビをみると感じてしまうのです。出演者が全員泣いている。感動を強要する番組の作り方。どうも、素直に涙は流せない自分がいます。人が生きていく道というのは、決して平坦ではありません。障害のあるなしにかかわらず、その道は時に険しく、どこまでも自分を試すように、難関を用意してくれるものです。ましてや、障害を抱えていたなら、その道はより険しくなるでしょう。人は、それを乗り越えようとする。なぜか。家族のためであったり、子供のためであったり、自分のためであったり。あるいは、それを乗り越えなければ生きてはいけないから。人が極限の状態でがんばれる理由というのは、実はシンプルなものだと思うのです。決してそこに他人を感動させようという奢りも、余裕もないと思うのです。だから人は心を動かされる。人が本当に心を動かされたらどうするか。それは人によっては違うと思うのですが、少なくともわたしなら、わたしの心を動かした人間に対して、「感動をありがとう」とは絶対いえない。むしろ、何もいいません。何も言わず、その場から立ち去ります。受けた感動はわたしのなかで形を変え、色を変え、その人の生き方が、どうのようにして自分の人生に役立たせるか、形は違えど、その人のように生きれるか考えます。感動は、自分の人生に反映されるものだと思うからです。24時間テレビの感動は偽者だというつもりもありません。個人的にどうしてもなじめないのです。もし、わたしが何かをして、誰かに「感動をありがとう」なんていわれたら、卒倒してしまいます。その言葉のために自分はがんばったわけではないと、心で叫ぶでしょう。決してそれは声にはならないけれど。わたしはあの番組が嫌いです。でも必要だとも思います。万人に受けれいれられるものは、わかりやすいに限るという論理も分かるつもりです。できればああいった番組がなくなるぐらい、ボランティアや募金活動が日常生活であたりまえになる社会がくればいいなあと思います。
Sep 6, 2009
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