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ゴダイゴのネタ書いていくのは久しぶりなのですが「はるかな旅へ」って曲から発売30周年になっているのですね。 発売は昭和54年6月1日でした。 この曲は発売前から地元のOBSラジオでもかかっていたのでリズムレコードとかで買いにいこうかって思ってました。 まだこの当時小学六年のときだったから、まずラジオのエアチェックをしちゃおうって考えたかもしれん。 この「はるかな旅へ」は、当時でも珍しい全詩が英語であってまだ英語なんて読めない私は小学六年生の付録の歌詞カードにふられたカタカタルビを見ながら歌った想い出があります。 英語に興味をもったのはこの時期からだと思う。耳で覚えていたので、英語をならいはじめてばっかの中一の時に、文字と発音が一致しなくてしばらく悪戦苦闘してた。 この「はるかな旅へ」の次のシングル「銀河鉄道999」は7月1日とこの期間は早いですなあ。 映画のテーマ曲とはいえ、この時期のゴダイゴは一番忙しい時期だったのだと思える。 私自身この曲が一番気に入ってる曲の一曲です。英語を勉強するきっかけになった一曲でもあります。
2009年05月31日
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オーラの泉 結構放送回数が減ってきた感じになったこの番組特番扱いになったほうがなんか集中して見るようになってる。 「1996年10月」自分の不倫の関しての取材に関して「不倫は文化」発言についてもはじめてコメントを聞く。不倫は文化っていう見出しをつくったのがマスコミで、本人自身は言ったことはなく、不倫に関してのコメントを出したのみ。ちょうど娘のお受験の時期で、面接官より「石田さん不倫は文化って何ですか?」と質問されて、当時の妻であった松原千明さんが崩れてしまったと。 この「不倫は文化」発言によって仕事を失い、収入0の生活に陥り家の家賃も払えなくなって、ゴルフ等の会員券を売ったとの話。 (父親からのメッセージ)ロマンチストで生きていくには、現実が邪魔をする。結婚には不向きである。 (美輪)石田さんは、ロマンと現実の綱渡りをしているような感じの生活をしている。 (美輪)旅行に関して気になることがひとつだけある。アフリカのほうへいく予定がおありなの?やめたほうがいい!! (石田)驚く!! (美輪)(しつこく念押しする)おやめになってくださいね。 一般的に、どのTV局でも彼に関して紹介する際にはトレンディードラマ俳優っていう見出しで紹介されることが多い。88年の「抱きしめたい」ってドラマで浅野温子さんとの共演でブレイクした。そこからいろいろなトレンディードラマに出演するようになった。彼自身番組のなかで、フジ「抱きしめたい」のドラマ出演が本人最後の俳優の仕事になってた予定であったとのこと。このドラマが終わったらマネージャーになってくれと、事務所から言われていたとのこと。このことについてはじめて知った。 私は、石田純一って俳優は子供の頃から知っていて、80年のNHKのテレビ銀河小説の「太郎の青春」で広岡瞬の大学の同級生役(確か浪人して入ったので同級生という設定だったはず) で出演してた。 まだ彼は天然パーマみたいな髪型で、当時「石田純」って名前で出演してました。 なぜ、彼について覚えていたのかというと広岡瞬っていう俳優の演技よりも彼の威張ってた感じの演技で個人的には彼の演技に注目してました。 彼の不倫ドラマっていうイメージのなかの私の好きな作品っていうのは、TBSの金ドラ「想い出にかわるまで」(1990年)です。 石田純一をめぐって、今井美樹と松下由樹の姉妹の愛のバトル!! ドロドロの愛憎劇ってあの金10って昔からドロドロなドラマが似合ってる時間帯。視聴率はさほど高いものをもてなかったドラマでしょうが、 あの時代のドラマの作品としては、シナリオ的なものも含めてレベルの高いドラマ作品だったと思います。 個人的に好きなドラマのなかのベストテンの一作品であることは確かです。 息子さんの壱成くんもこの時間枠に出演してますが、かれの俳優としてのセンスもこのお父さんの純一さんにも劣らず、いいものをもってます。 いろいろなスキャンダルやらなんやらで、彼の仕事が評価されないのは残念ですが、そろそろ彼にも復活してもらいたいと願っております。
2009年05月31日
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大学生の頃に撮ったフォトを見ていたら、たまたまこれ一枚だけ「水城学園」の正面玄関からのフォトを見つけました。 おそらく向かいの歯医者さんだっけ?あそこの横断歩道前から撮影したと思われる。 撮影した年代は、おそらく91年か92年あたりかな? 大学が愛知だったので、新幹線でよく博多で一泊して、翌日大分へにちりんでかえってました。ちょうどこの時期は夏期講習だった模様で「夏を制するものは入試を制する」の看板が堂々としております。 ・・・・しかし、このフォトあったなんて驚きです!!懐かしい予備校の想い出を語るうえでこのフォトかかせませんでした。 大学時代、奥田英二のCMのオートボーイを豊橋のウオッチマンで購入していろんな写真を撮影してました。 アルバイトしてた精分館の仲間なんかともよく藤沢町にあるヨーカドー横にあった、ボーリング場なんかによくいってました。でかいねーちゃんの大橋さん今じゃ中年だけど元気でやってるだろうか? 写真の屋上のネットみたいなのが写ってますが、体育の授業やってたとこかな?あんましあそこにはいかんかったけど・・・。これも今となっては記憶にないです。 同じ長浜寮にいた通称「のび太くん」が、愛媛出身なのになぜかにわか関西弁で「あそこはなあ~、予備校辞めたらホテルにしようって思ってあんな建物にしはったそうな」と聞いた記憶がある。 二枚目のフォトは、中州周辺のフォトかな?たしか、歴史資料館前を撮影したらしい。ここに昔、おもろいラーメン屋台があってよく行ってた。大学時代にもよくいってたと思う。このラーメン屋さん人気あって席が足りなくなったら、屋台につけてあった戸を大胆にはずしちゃって、即席にテーブルをつくっちゃってた。遠くで食べてるお客への替え玉なんかが豪快で、店の中から数メートル先に店員さんがキャッチして「ハイ!替え玉」なんてやってお客さんを喜ばせていた。 この「名物屋台村」うーん、全然覚えてません。行ったことはないと思う。 四枚目のフォトは、完全に親不孝通り沿いにあるお店ですね。この右側のラーメン屋さんにはまったく記憶がないのですが、奥にちょこっと写ってる「タージ」ってカレー屋さんは店知ってます。美味しいって評判だった。まだあるのかなって思ってたら、大川市のほうに移転してました。バブルであのあたりも厳しかったんだなってサイトを見たときに感じました。 数々の有名アーチストを輩出した照和さんです。95年の12月くらいだったと思うんですが、まだインターネットなんて誰も知らない時期に、前勤務してた会社が、ネットをはじめてホームページ制作を請け負う業務をはじめました。まだ当時私もインターネットも知らないんですが、パソコン自体も満足に使えない手探り状態で、飛び込みでこの「照和」さんにここの紹介サイトを作らせて欲しいってお願いしたことがあります。今は、このライブハウスも独自にホームページを持ってるようなのですがおそらくインターネット媒体を使ってここの情報を流したのは私が最初です!!1995年「ウインドウズ95」が発売されたばかりの話である。ここの場所確か西鉄福岡駅の近くにあったっけ?当時ここでライブやってた原君がインターネットに興味をもってもらい上の人の許可をもらい掲載しました。原くん、途中で東京の実家に戻っちゃったんだよな。元気してるだろうか?数年は年賀状やりとりしたんだけどなあ。
2009年05月29日
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トライアル別府店が昨日27日(水)にオープンしました。九州横断道沿いにできたのだが、本日雨降っているにもかかわらず、お客様でにぎわっておりました。 ごらんのとおり、店に入る入り口で商品いろいろ売り込んでいるもんだからなかなか店に入れやしない。 表でバナナ、そして入り口入ったとこにもバナナ。そんなにバナナが売りたいのか?って言いたいくらいしつこくバナナを出してました。「98円」って売ってるのだからどんなもんかなって思って見てみると、バナナはランクの低いデルモンテだった。なんかがっかりしました。 品質っていうよりも、価格に合わせて品物を置く。昔の廃業した寿屋さんをイメージしました。細かな売り場っていうよりか、荒っぽさの目立つもんです。 思ったよりも駐車場が狭いために、10台くらいの渋滞をつくっておりました。 日曜日までオープンセールするらしい。
2009年05月28日
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鉄腕稲尾のビール買った!
2009年05月28日
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今日もまた雨かって思いながら日記書いてます。梅雨直前の長雨から・・・六月初旬に梅雨突入って感じになるのかな?まだまだ雨が不足してるっていうからもっと降って貰わねばならんなあ~~。 別府ゆめタウンの花屋さんにて、白色でくるくるって巻いた感じの新種かな?珍しい紫陽花をみつけたもんでついつい衝動買いしちゃいました。 ホントは、たまたまじっと眺めていたら、きれいなメガネ(←メガネがキレイだったです。)のおねーさんが一生懸命売り込んでくるもんだから、ついつい買ってしまった!! 普段の紫陽花って以下の写真の感じなのだけど、いろんな紫陽花あるもんだ!!
2009年05月28日
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しばらく仕事がすごく忙しくなってました。新規出店してきた競合店の迎え撃つ対策を毎晩企画してたらなんか数日すぎたって感じです。 いろいろと本業の仕事で忙しくしてたら、頭のなかで「継続は力なり」って言葉が浮びました。 なんだろう?この言葉どこかでって考えてましたら水城学園の建物に張り付いてた垂れ幕でした。(←確かそんな言葉でなかった?) いろいろと言葉が張り付いてたみたいだけど、この言葉くらいしかおもいつかんなぁ~。 あとは、なんか「okapon2002さん」が思いついてくれるでしょうね。(^.^) 今回、「水城学園」のなかの教室机にカキコされてた落書きについてです。 授業に集中できない遊学浪人生たちが書き込んだ落書きなのだろうか? 以下の内容にもの「浪人業の館」 これって今の学生がこの書き込み見たとしても、古い銭湯の古いロッカーにあった「鍵抜き魔にご注意!」という意味不明な時代を感じる張り紙にしか思えない。 1986年あたりから早稲田出身のデーモン小暮率いる「聖飢魔II」というヘビメタバンドをもじって予備校生の間でこんなことをささやいていた。 余談ですが、あの年「夕やけニャンニャン」ってフジテレビのやってた番組なんかに突然乱入(←乱入っていっても、実質やらせなんだけど)してきて、おニャン子たちを怖がらせてた。 最初は、あの化粧?顔に衝撃的でした。お笑いの江頭(←元オリックスの長谷川投手になんとなく似てる顔)をはじめてTVで見て、引いちゃうのと同じ衝撃を受けましたね。 あの当時「BOØWY」 とか「レベッカ」「バービーボーイズ」やら技巧派のバンドの活躍してた年代でもある。水城は確か木曜休みだったんだけど、休みの朝に部屋の窓を開けっ放しにしてたら上の階からこの「BOØWY」 の「B・BLUE」なんかがガンガンかかってた。 予備校生の時は、音楽でよかったんだけど、思い出すに、大学生に住んでたアパートで隣に住人が毎朝プリプリの「ダイアモンド」を生歌されて困ったことがある。汗 浪人業っていう言葉今じゃつかわんだろうなあ。「貴様を浪人業にしてやろうか?」って・・・汗。
2009年05月27日
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元・水城学園予備校生(1986年生)の 安浦ケイジです。水城学園の想い出を一週間続けて書いてきましたが、なんか当時のフォトなんかあればなんて探してみたがまったくナシ!! 当時カメラなんてもってまへんでした。 なーんかないかなあって探してたら、95年当時に博多にいったときのフォトが数枚残ってました。この当時親不孝の周辺を夜パトロール?した写真のようです。 冒頭の写真は、たぶん中州周辺の屋台を撮影したものだと思います。 1995年当時も、博多の街の屋台の数が減少傾向にあった のですが、それでも今よりはもっと多かったような気もします。 最近は、博多にいってないのでなんとも書きようがないのですが・・・・。 ヲタキッシュさんは、消灯後に長浜へパトロール?に出かけていたようですが、私は、中州の周辺が多かったと思います。夕食時間くらいにちょっと飲んで、自習時間にもどってくること多かったです。私が入寮してた、1986年当時は、確か表のKBCをでて道路向かい一軒目の角に寂しく屋台があったのを覚えてます。 ちょっくら入ろうって入ったけど、値段がさっぱりわからんかったので金ないなかで飲み食いして、散々ぼったくられて頭に来たのを覚えております。 二番目のフォトですが、天神の新天町をでた裏通り周辺のフォトだったと思えます。この辺りの通り、ぶらぶらよくやってました。新天町の周辺に大きなゲーセンがあったのでよく通っておりました。汗 3番目は、親不孝の周辺のフォトです。当時親不孝って焼鳥屋とカラオケが多いイメージあったのですが今なんかどうなんでしょうか? よく通った元祖長浜屋さんです。もう一軒のほうが閉店したってことでよいのでしょうか?あっちが本店でしたよね?このフォトは95年当時のものでしたがこのお店って改装なんかしないのでどの写真も同じでしょうね。汗 替え玉っていうのを、あのパンチくんたちにするのはなんか気の弱い私にはなかなかできなかった。 何回か通っていくと、次第に慣れ、指だけで注文しちゃってました。 親不孝の通りにあった「風林火山」って居酒屋です。今この居酒屋ってあるのかな? ないかもしれん。地元の方詳細情報求む!! 予備校の当時英語の先生だった川崎先生がよく仲間の原田望先生と通ってた居酒屋。講義のなかで、ここの話題が多かった。私はこの居酒屋予備校から近すぎて全く行ってまへん。 このブロック向かいのこのフォトでは空き店舗になっておりますが、確か、おニャン子の関係のショップの「ヒップス???←忘れた!!汗」があったのじゃなかったかな? この居酒屋奥がディスコのマリアクラブだっけ?これも当時の記憶がないので自信ありまへん。(←ごめん_(._.)_) これは余談ですが、92年にロスにいったときの写真です。よく中国人に間違われました。日本人からも英語で話しかけられたりしてこっちが困りました。汗 最後のフォトです。これは大学時代にツーリングにいったときのフォトです。まだ中型の免許とってなかったのでヤマハDTの50CCタイプに乗ってましたね。これ91年のフォトだから18年も前になっちゃうんだな。 とにかくむちゃやったし・・・とにかく若かった。今じゃこのフォトみせても私だとは誰もいわなくなった。汗続く
2009年05月23日
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長浜寮の消灯は0時。この時間になると、すべての電機がストップされる。だから、完全に消灯になるとコンセントに入れてたラジオが使えなくなるのでいくつかの電池のストックをもっていた。カセットなんか夜中にかけてると電池がきれかけると、「カルロストシキ&1986オメガトライブ」の「スーパチャンス~♪」の澄んだ声もとろんとろん回るカセットのなかで酔っぱらいのおっさん声になってしまう。この完全消灯した数分は、表の廊下でパタパタと足音が聞こえるが0時半くらいになると、ちょっと外が騒がしくなる。毎日じゃないけど、週の中日あたりの夜にはんてんを来て脱走する寮生や、ちょっとオシャレにジャケットなんかを羽織ってKBCの塀を乗り越えていく脱走兵たる寮生を見かけた。どこにいくのだろうって見てました。お風呂場の窓から脱そうする方法を最初はしてる人もいたけれど、意外にも危ない。私が見ていたなかでは五人くらいで脱走しようとしてたうちのひとりが塀から飛び降りた際の着地に失敗してずでんとこけている人を一度だけ見たことがある。脱走方法はいろいろとあったが、二階から出ていって二階へもどっていくひともいれば、一階の勝手口から11時半くらいから出ていって寮生の誰かに決めた時間に勝手口の鍵を開けてもらう方法をとってた人がいた。私は、最初から脱走してて夜の自習の時間もすっぽかして夜の街に繰り出してました。親戚が博多区にすんでいたので外泊の許可をもらったり、知らん顔して外出して、翌日注意を受けたりでした。ひとりで飲み歩くか、もしくは親戚のお兄さんにたかってスナックにいったりしてました。61年当時カラオケみたいな店非常に多かったが、ませてたせいか親戚のおにーさんとカラオケパブみたいな店にいってました。私が行ったのは、水城学園をでて横断歩道を渡っていくと公園があって公園の角地の一階に喫茶店みたいなのがあってその二階に「おんちっこ倶楽部」っていう当時流行っていたおニャン子clubをもじりでそんな店がありました。ちょうどその店のワンブロック行った先の奥にできたばかりの「マリアクラブ」っていうディスコが流行っていてその店の人が「今、マリアクラブにマッチがいるのであとで連れてくるから・・」という呼び込みのおにーさんのだましにひっかかってそんな変な名前の店にいっちゃった。店も単なるガヤガヤしてるだけの店で全然つまんなかった。当時この店この親不孝に二軒あったけど、大学受かって数年先にはまったく存在しなかった。(89年当時)この親不孝の通り沿いに「おニャン子」の関連ショップのヒップスなんたらってブティックがあったが、二年くらいしか持たなかったと思う。この通りって店が変わっていく周期が早いこと早いこと。今、六年ほど博多にいってないのだけどたぶんお上りさん状態になるはず。「マリアクラブ」やらそんな有名な店はいってなかったけど唯一ジーンズでも来店できるディスコに一度だけ親戚のおにーさんにつれてってもらったことがある。今は、ヒップホップ系の曲をDJっていわれるお皿回しのひとが巧みなテクニックでお客さんを乗せていくんだけど、私が最初にいった博多のディスコってDJって「ヘイ!みんな元気ィ!!」って英語化したような昔のマイケル富岡の偽物みたいなまねごとDJがダンスしてる連中を乗せていくようなものだった。当時は、86年だったからか、「チャチャチャ」っていう曲が流行っててDJが「おっきな声でチャチャチャ!!」って無理矢理乗せる状況でした。照明演出なんかは、結構やっててマイケルジャクソンの「今夜もビートイット」だったかエドワードヴァンヘイレンの巧みなギターソロの部分で照明がチカチタしだして・・人の踊っているそれぞれの姿がストップモーションにみえてしまう。私は、ディスコにはじめていったもんで田舎モンだから踊ってる連中みんながそろってストップモーションみたいに踊ってるのかと思い、まあいいや、そんな感じで踊っちゃうかって皆がやってるパントマイムみたいな踊りみたいに、まねしてスローに動かしてたらそのギターソロシーンが終わった瞬間に、照明が元に戻り間抜けなパントマイムしてる俺だけが目立って、皆から指さされて笑われてました。汗親不孝で結構遊びましたね。ビートルズが好きで、九大から来てた教官の山下さんに「キャバンクラブ」っていうビートルズのコピーバンドが見られる店があると聞いて、2千円くらい出して聞きにいってました。山下さんイチオシの、ジョンレノン似のちゃっぴーさんの歌がジョンの声に非常に似てて人気でした。このお店は一時頃までやってたのでドリンクと一点のつまみだけで三~四時間くらいはいました。そのあと、寝床を探しにその筋にあった深夜のポルノ映画館に入って寝てました。五時になったら、いつも起こされて目を擦りながら、寮に帰ってました。この時期一番私が親不孝なことしてたと思います。反省してます。回想しながら汗
2009年05月20日
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私どもは大学に行けない大学浪人生として、長浜寮に住んでいましたが、水城学園って高校へ不合格した生徒も通う、高校コースも存在してた。それは私はあとになってからなのだけど、長浜寮のなかにひとり高校浪人生っていうのがいた。先日のブログに書き込んだ愛媛からきてた「のび太くん」がこの高校浪人と仲がよかった。個人的にこの男小生意気な感じで好きになれなかった。髪型がなんかだらしない感じだったのも気に入らなかったかもしれん。昔のマッチがしてた真ん中分けでだらんっと長い髪。あの当時は16だったから、今は39のええ年したおやじになってるのかな?当時30だったスレンダーボディの事務員のおねーさんだって53才のおばちゃん。年齢を想像しちゃうとどっと笑いになっていく。石田純一のごとく「不倫は文化だ!!」って横着武人に振る舞ってみたいもんである。
2009年05月20日
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結果二年ここの水城学園に通うことになったのだけどチューターの方からすんなり特待生として入れてもらえたのでなぜかほかの予備校を考えなかった。講師陣が充実してたこの予備校も、二年目からどうも講師の待遇が悪くなったせいか前からいたはずの講師のみなさんがいなくなってしまってた。国語の佐藤勝先生が、川崎裕冶先生とか八幡光先生やらを代々木に連れてったというような噂も耳にする。二年目は、夏期講習とかで数回講義してた程度の先生ばかりになってた。あんまりなじめない先生ばっかなので二浪目はほとんど講義にでなかった気がする。昭和61年に博多駅前に代々木ゼミナールが開校したので水城学園のピークがこの年にあったと考える。何年か先に、予備校にはいったことがあるのだけどお世話になったチューターさんはすでに辞めていなかった。
2009年05月19日
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歯磨きくんっていっても昭和61年の長浜寮生にしかわからんこつなのですけど、なぜか彼は昼休みだったと思うけど、しかめっ面で歯磨きしていた。彼は、なぜかうちの私大クラスが集まる階で歯磨きしてた。挨拶するんだけど、最初は無視されるので私も次第に洗面所で遭遇するも会釈程度の挨拶にとどめるようになる。数回遭遇していくうちに、あちらから気さくに話しかけるようになってく。(おそらく、場の空気悪いのに気まずくなったからだろうけど・・・。)個人的に、私は偉そうに振る舞うあいつが好きでもなかったのだけど、まあ向こうが話しかけてくるもんだからついつい話をするようになる。まあ、夕食ともにすることもあったけど・・・。彼はあんまり予備校の講義にでるもんでもなく寮内にいるほうが多かった印象である。多浪人生のアンドレさんみたいな感じだろうか?まあ、彼は寮に下宿してるおじさんのような雰囲気だったが・・・。水城の自習室を利用することもあんましなく、次第に行動をともにするようになったときから彼とよく天神の西鉄グランドホテルの先にある赤坂の中央図書館で自習していた。・・・自習してたっていうか、あそこの一階の談話室にテレビがつけっぱなしになってたもんだから、寮内で昼間っからテレビみることもできんのでよく再放送のドラマやらみてた記憶がある。彼は、二浪してたせいか昨年の安田成美の主演してたTBSドラマ「親にはナイショで!」という柳沢慎吾なんかが一緒にでてるドラマに興味を示していた。彼は最終的にどっかの医大に合格したのだけど、寮をでるときに、「君はどこも受からないだろうって思ってた」なんて言われたときにはショックだった。こんなんだから、寮内でつきあいするべきじゃないなって二浪目からは一年間だれとも口をきかずにひとりで黙々と勉強した記憶がある。
2009年05月19日
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思い返せば、水城学園ってなんか行事が多いこと多いこと。説明会のときに、「餅つき大会」だの「うどん食い大会」だのなんとなくユニークなネーミングのついた行事も多い。「うどん食い大会」っていうもんだからなんか讃岐うどんの食い放題なんだろうかなんて勝手に想像しちゃってたら、長浜の寮に戻ったらひとり一杯うどんを食べてくださいって当時一番頭のてっぺんの髪の毛が薄い寮官の福嶋さんから言われて。ありゃ?なんじゃ・・ただで食わせてくれる日ってこつか?汗あと、運動会っていうのも秋にやってたなあ。どこでやったのか今になったら記憶がないのだけどどっかのグランド借り切って、各チームごとに競技を競うもの。これもどんなことやったのか詳細に覚えてはいないのだけど、各チームの名前がなんか傑作っていうのか、変っていうのか爆笑もの。私のチームは「ヤッちゃんとゆかいな仲間たち」自宅から通ってたヤッちゃんっていうあんまし頭はよくなかったがいつもニコニコしてるいい奴。顔にキズとか入れ墨なんかはないけどね。汗もういっちょ強烈に覚えてるチーム名「チムチムチェリー」!!!このチーム名意味不明だけどなんか強かった!!共通一次入試前だっけ?武田鉄矢さんのお母さんのイクさんが元気一杯の激励に来てくれた。広い教室が満席だったとのこと。私はこのイクさん講演会には参加しなかった。私立の入試前でそれどころでもなかった。寮の部屋で自習。夏休みの夏期講習の時期に確か、「オールナイトマラソン」っていう夜通し講義を受けるってなんか今考えると眠くて疲れてしまっただけの講義。佐藤勝先生の講義を目をこすりながら受けた記憶がある。間に体育の先生と七福神みたいな変なヒゲした私立クラスの男と格闘技強そうなマッチョ君の花火の余興。個人的には、なぜか予備校生のくせにサングラスかけてスキンヘッドの「サンプラザ中野くん」のコンサートのほうがよかった。七福神とマッチョ君も予備校のなかでは異様な存在だったけど、この「サンプラザ中野くん」も変な存在だった。あまり目立ちすぎたためかマッチョ君からボコボコにやられてました。汗いろいろニックネーム勝手につけちゃったけど、自身につけるのなら「無口くん」かもしれん。汗私大のAクラスのなかで背中くらいまであるロングヘアで足の長い私大クラスの女の子。顔は当時ヒットしてたまつもと泉のアニメ「オレンジロード」の鮎川みたいなきりっとした目のおねーちゃん。男どもから注目されておりました。ある日、どっかのアホがラブレターを彼女に渡したら、そのラブレター読まずに本人の目の前でビリビリに破いてました。私は、このおねーちゃんと一度だけ話をしたことがあった。たまたま席が隣で、黒板の字がまったく見えないのでノートみせてもらったことがある。勝手に芸能人に見立ててニックネームつけちゃっていかんいかん。長浜寮にも、俳優の細川俊之さんっぽい渋い男の子もいた。(-。-) ボソッ本日はこんなところで・・・続く
2009年05月13日
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TV持ち込み禁止っていうのを同期の寮生のブログに書かれてたのでアンドレさんは覚えてなかったけど規則を思い出しました。そう、勉強に集中するために寮内でのTV持ち込み禁止でした。だからカセットを持ち込んで隣のKBCラジオなんか聴いてました。中でも勉強しながら聴いてた沢田幸司さんのDJしてた「パォーン僕らラジオ異星人」っていう高校生とかの学生向けにやってた地元ローカル番組を楽しんで聴いてました。この中の水曜日の「超心理学コーナー」の心霊話なんかはヘッドフォンしながら寒気のする話を聞いてました。この番組って0時半まで長々やってて途中別番組たとえば、23時半あたりに菊池桃子さんの「桃子っぽいね」っていう番組挟みながら、0時過ぎあたりから「恋の伝言板」って恋愛の伝言読み上げるコーナー。これがアシスタントのかわいらしい声がマッチしてて好きでした。個人的には、このアシスタントの藤原加代さんがよかったですね。桃子のものまねの上手いアシスタントさんでした。当時沢田幸司さんは30才くらいだったので今50っちょっと過ぎのおっちゃんになってますね。この人の味のあるしゃべりは今だに現役ですね。ラジオいろいろ聴いてましたが、夜の6時半からやってたかわいい声した青木小夜子さんの「FMバラエティー」は食後よく聴いてました。大平透さんの歌謡大作戦って間の番組もおもしろかった。続く
2009年05月12日
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新聞でたまたま説明会あってたまたま聴いたので予備校に行こうと考えたのですけどなんか団体生活に慣れないっていうのと人間関係の気遣い等に時間とって本来の勉強すべきところで集中しきってなかったのかもしれません。単純に考えると、まあ、友達に恵まれなかったってことなのかもしれません。英語がとにかく好きだったので英文学科なんかを目指してましたけど同じように、英語関係の大学に行きたがってた愛媛から来てた、長野くんと食堂かなんかで意気投合してはじめて友達になった。もう何十年間も彼について回想する機会なかった。彼は、相部屋の男から、「のび太」っていつもジャイアン顔でいびられてました。なんで彼がのび太って呼ばれるのかというと、フチの濃いメガネをかけてたからでなんか最初かわいそうだっておもったけど、いつしか何度も彼がそう呼ばれてしまってるのに慣れっこになってしまってた。長浜寮のたいていの人は相部屋だったのだけど私は、申し込むのがほとんどぎりぎりだったので二階の端っこのひとり部屋だった。もともと福岡に出てくる予定でもなかったし、もう少し早く出てきたら寮生の人たちとも早くうち解けていたかもしれなかった。彼は、私大の普通コース最初はCクラスだったけど、秋の模擬試験で延びたのでBクラスになってた。彼そうとうがんばってたのですけど、しかしながら、どの大学にも受からずに滑りどめに受けてた英知とかいう英文学科に入ったみたいだ。最後、両親と挨拶にきたけどなんかこっちもバタバタだったのでなんとなく適当な挨拶になって・・・大学に入ってこういった予備校仲間に年賀送ったけど返事なかった。まあ、つきあい悪かった俺自身が悪かったのだけどね。彼は、のび太なのだけど、見かけによらずいろいろとつきあい広いやつで、西田君って確か国立志望の鈴木ヒロミツみたいなビン底メガネかけてる無口な奴とその相部屋かなんかだった、小さくてどう誰がみても小学生顔の男の子とよく一緒にいたようです。彼は、よくからかわれて泣いてました。それは思い出します。自分も英文学科なんかに行こうって思ってたけど、途中仲良くなった九大医学生の山下さんから「英語じゃ食えないよ!」「英語なら独学でやったほうがいい総合的にやったほうがいい」ってアドバイスされて、当時FM福岡で朝の5時半からやってた「百万人の英語」でハイディ矢野先生とか国弘雅雄先生の英語とかで独学で学んだ。この勉強は、大学でも続けたし、大学四年になるときにアメリカ西海岸をグレイハウンドバスにのって一周した。いい経験だった。大学一年のときに、東京で最初にデートした女がなぜかハーフの女でこれもそんな勉強経験からであろう。結果よかったこんな勉強してて。山下さんのアドバイスに今も感謝する。しかし、彼って色白のほくろが目立つ優しい感じのする男だったからなんでも相談にのってもらえたのかもしれん。笠原さんはなんか厳しい感じの人だったからあのメガネのおにーさんだったら現実的な話しかならんかっただろう。長野くんとはまあ仲いいような悪いような感じでした。中牟田くんっていう佐賀からきてる二浪生からきさくに声かけられたこともあったしばらくこいつと行動ともにしたが、最終的に合わないので途中で無視して、別行動するようになった。なんでこいつが好かなかったのかというと、まず変な奴で食堂のおばさんにみかんがデザートにでてて、「みかんは佐賀の名産です!」って威張ってた。おばさんたちから、佐賀名産だっけ?って首ひねられてた。堅苦しい感じの男だと思ってたが、こんなわけわからんこというとこもあってなんともつきあいきれん感じになってた。二浪ってあの当時寮生に多くってメガネで太ったきさくな物言ってくる熊本からきてた本田さんって浪人の先輩とも仲良くなった。このひとは、私大のクラスで同じだったから途中からよく話すようになった。いやなんかの食堂で一緒に食うようになったかな?まあ、こいつはきさくでいい感じだったので良き相談相手になってもらった。当時、本田さんの高校の同級生の妹がポカリスエットのCMにでるんで応援してやってくれって頼まれたこともあった。あんまり当時テレビって寮の一階のテレビしかなかったのでみることかなったけど、後にこのCMにでてた女の子が森高千里だったとはびっくりした!!しまった、もっと親しくなっておくべきだった。ある方のラーメンねたでふと思い出したけど元祖長浜っていうのが二件あって・・・よくタクシーが止まるラーメン屋さんによくいってたがもう一軒のラーメン屋さんは人が少ないのだけど店のなかに猫がうろうろしてて落ち着かないのでいかなくなってた。確か、長浜将軍っていう名前のラーメン屋さんの通りだったはず。一心亭っていうのもあったけどとんこつラーメン屋さんってやっぱ元祖が一番だって当時考えてた。一風堂さんって当時まだはじめたばかりじゃなかっただろうか?このお店ってあまり記憶に薄かったのだけど、あとで有名になって思い出したのだけどここの店主スープ残したかなんかで・・・店を出たときに感想をいろいろ聞いてきたような想い出があったようなないような・・。確かあそこの店かなって思い出すのだけど。今じゃ上海にまで進出してるって話。元祖以外で屋台のラーメンに一度だけ入ったことあるのだけど、ラーメン何杯か食べたら無料って店に一度だけはいったことがある。六杯くらい食べて路上にはいたのを覚えてる。店の名前する今じゃ記憶してないけど、一杯食べるごとに、つまようじを並べていく店だった。今考えると、1杯ごとの間の時間がえらく長く待たされてたのはありゃテクニックかな?あと、沖縄から来てた饒平名(よへな)くんっていう佐藤勝先生みたいな老けた感じの顔してたひとがいた。彼は、機嫌がいいと佐藤勝先生の物まねしてたな。しかし、相部屋の大牟田からきてたメガネの国立志望の彼は、部屋が臭いって苦情いってた。まあ、相部屋のどこもトラブル多かったみたいでひとりでよかったってつくづくおもってる。
2009年05月12日
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水城学園という予備校は今は廃校になってしまったが、当時福岡の予備校のなかの老舗的な存在でした。今は、同じ博多のなかに大手複数校が進出してましたが、昭和61年当時いまから23年前は、大手といっても、河合塾がRKBの先にあるくらいで、そうそう博多駅前に初進出の代々木ゼミナールがありました。まだまだ、そのくらいだったから英数学館と水城学園をお互い行き来してる感じでした。飲み屋さんよりもお昼休みに公園前にゲーセンあってそこでグラデュウスってシューティングゲームばっかりやってました。パチンコは少しやったけど儲からないのであまりやってません。びっくりしたのは、長浜寮でお昼ご飯食べてたら12時から笑っていいともやってたのにびっくりさせられました。当時、うちの地元っていいともは夕方の4時55分くらいからはじまってたのでリアルにいいとも見たのははじめてでした。夕方になると、17時から「夕焼けニャンニャン」当時この番組みたことなかったので、「ニャンニャン」??なんか女子大生のヤリマン系のおねーさんどもの番組やってるのかって勘違いしてました。汗・・・で、当時この番組にでてる人知らないもんだから日曜日に友達をKBCの裏口あたりで待ってたらニコニコほほえみかけてくる着物を着た女性がいたので愛想いいなって文化教室かなんかの着物の着付けかなんか習っている人だと思ってたら、あとで人から聴いたら「城ノ内早苗さん」でした。ベストテンで、国生さゆりさんと新田恵利さんくらいしか見たことない田舎者だったので何年かあとに知ってびっくりでした。予備校生活って暇があったら、本屋さんで立ち読みばっかりしてました。天神コアの6F紀伊国屋書店・・・まだエレベーターガールが乗ってましたのできれいなおねーさんにでれでれしてました。続く
2009年05月12日
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検索にてたまたまヒットさせた「水城学園」の想い出についてブログで読んで、そういえば、個人的にこの水城学園について書いたことが今だ一度もない!!なぜか、予備校生の時代って振り返ってみると、決して明るい生活だとはいえなかった。大学に入れない不安のなかでの生活だった。86年の3月末に、「水城学園」の近くのKBC裏にあった長浜寮。大橋とか井尻とかあったけど電車で通うのなんて大変だからってここにした。あのころ、まだ長浜寮玄関正面には作りかけのKBCパーキングそして海の上になんか橋のようなものを建設中!!それが、後の百道まで続く都市高速である。ふりかえってみると、家からひとりでて生活するのなんてはじめてでもあったし、なかなか寮生活になれないであった。また、博多のような華やかな街の誘惑にはかなり負けちゃったようである。結果、二浪予備校生活してあと一浪分追加で自宅で浪人生活計三浪して・・なんか受験のために勉強してるようで最後には嫌になった感じです。まあ、勉強しなかったけどいろいろ遊んだのも今となってはいい想い出です。親にはこんなこと書かれちゃ怒られることなのですけど、1986年当時は、元祖長浜屋のラーメンのとんこつラーメンが好きでここにほとんど毎日通ってました。お金がなくなってくると長浜寮のお昼のランチでした。今は値上げされてるのですけど、当時元祖長浜のラーメン一杯250円で替え玉一回50円なのでその辺でランチしても600円とか700円なんてとられちゃうので予備校生にとっては激安ランチだったのである。しかし、長浜の水城学園からラーメン屋までの距離は結構あった。そして、あのネックレスジャラジャラつけたヤクザ風な無愛想な店員さんに注文するのってなんか勇気がいった。支払うときも、店員さんが無言で手出してくるだけで「ありがとうございました」のひとこともなし。二度ときたくないなあって思うけど味は美味しいし安いしなんか当時我慢して通った店です。ちょっと贅沢しちゃおうって思ったときは天神の入り口よりにあった「シェーキーズ」のピザ食べ放題でした。千円くらいだった。夜は、たまに家康にいったりもしてた。天神ショッパーズの向かいにあった樋口にいくこともあったがそこもちょっと高かったですね。勉強もとりあえずやってました。英語が好きでなんか高校生活の勉強は文法、文法で教えてく教育だったのでおもしろくなかったのでほとんど独学でした。水城の先生はそれなりにいい先生に巡りあえたと思います。英語のリスニングなんかを専門にしてた女性の三角先生あの先生の影響で大学にはいっても「百万人の英語」の教科書もとに独学できました。パワフルな教え方をするいろんな職歴をもってた川崎祐二先生この先生はおもしろかったです。一番刺激を受けたのは小野かずお先生でした。いろいろ調べると既に他界されたようです。この先生の授業は、順番に指名されて答えて間違えてたら「バカやロー」なんて怒鳴られます。これがなかなかの刺激なのです。これが嫌いなひとはなるべく指されないように後ろに座ります。私は怒られても刺激にしたかったのでテキストの勉強して前のほうに座ってました。いい先生だったです。ホントに!中国語がペラペラの飯塚先生早稲田の人でしたが、若くてなんかさだまさしのようなしゃべりでしたが、授業中にゲストでスッチーを連れてきたりとハプニングもあった授業。国語は佐藤勝先生をずっと授業受けてました。論述の添削も何度もやって貰いました。自習室で当時は何ができるんだろうって思いながら都市高速の建設を眺めながら勉強してました。鯰越先生ってチューターと相談しながらどこを受験しようかってやってました。この鯰越さんにはいろいろお世話になりました。うーん、美人のチューターさんもいたな当時30くらいの美人の長身の女の人でちょっと胸元のおっきなスタイル抜群の人にあこがれてました。いまはいい年になってるでしょうね。汗続く
2009年05月11日
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